風呂場の壁「また来たのか。無理しなくていいんだぞ」
水木さんはいつもの卓の前に置かれたいつもの椅子に座り、片頬を突いて僕を迎えた。反対側の手で煙草を潰し、火を消す。燃え殻特有の濃いにおいが鼻先を通り過ぎる。ああ、この人のにおいだ。
椅子のそばに突っ立った僕を眺める彼は、黒の制服のボタンを開け、中の肌着を覗かせている。休憩中だったらしい。この人はこの黒の服が似合う。仕事中の隙のない着こなしも、休憩中の隙だらけの様子も、どの姿も味わいがある、などと考えながら視線を動かせば、肌着の隙間から薄くなった傷跡が見えた。反射的に唾をのむ。今日も会えて嬉しい。
「無理なんかしてないです」
「おまえにとっては特別な場所じゃないかもしれないが、だからといって簡単に来れるわけでもないだろ?」
怪我とかしてないか? 席を立ったついでに彼は僕の頬に手をあてた。水木さんの手は大きくて、骨ばっていて、少しひんやりとする。僕の顔に異常がないかを軽く確認し、彼は小屋の奥の方へ移動した。残された僕は数秒前まで自分を見つめていた鈍色の瞳を思い出す。そこに写っていた自分はいつもどおり真顔だった。丸い右目に長い前髪、突き出た小さい鼻と閉じた唇。笑うべきだっただろうか? そうしたら彼も笑ってくれたかもしれない。もしくは苦しそうにしてみせたら、もっと側にいてくれたか。
いやいやそんなことしたって、あの人は仮病なんてすぐ見抜く。子供の時に何度怒られたか。
「鬼太郎、お茶を入れたから座れ」
卓に茶碗を置いた人は部屋の端の椅子を引き寄せ、自分を座らせた。しまった。ぼんやりとしていないで自分で椅子を用意すればよかった。
「今日はチョコレートを持ってきたんです」
「なんでまた?」
本当に分からないらしい水木さんは首をかしげた。この人はこういう何気ない仕草が可愛い。
「地上ではバレンタインデーで」
「ああ……なんか……そういや、そういうのもあったな」
呟いた彼はお茶を啜り、天井を眺めた。なにか都合の悪いことを思い出したらしい。仕事の時は愛想の塊みたいな作り笑いができるのに、僕の前で嘘をつく時はいつも挙動不審だ。今だって窓も何もない右上の隅ばかり眺めている。
「もらったことあるんですか?」
「俺が上にいた頃はまだそんなに普及してなかった行事だから」
「ないんですか?」
「いや、貰わずにちゃんと返したぞ?」
気まずそうにお茶を啜り、空になった茶碗を覗く仕草は落ち着かない猫のようで愛らしかった。たぶん、会社のお姉さんか、客先のお姉さんからもらったことがあるんだろう。自分が小さい時にはときたま、女性から貰ったらしいお菓子や小物を鞄に隠していたものだ。こんなに格好良ければ当然だけど。それでも、結局一度も結婚せずにここにきた。
「じゃあ、僕のチョコが初めてですか?」
「まあ、そうなるな」
卓の上の箱をそっと押し、彼に寄せた。促されるままに彼は箱を受け取り、興味深そうに四方を眺める。「これはどこが蓋なんだ?」おじさんくさい文句を呟きながら、リボンを解いて蓋を開けた。
「チョコって風呂場の壁みたいな形じゃないんだな」
中に並ぶ黒い玉を見るなり彼は嘆息した。
「今はタイルっぽい板チョコよりも、丸い形の方が主流みたいです」
実はこのチョコを買いに行った時、全く同じことをまなと猫娘に告げ、馬鹿にされたのだが黙っていた。チョコレートといえば、風呂場の壁みたいなタイル風の板チョコしかないと思っていた。
二月にチョコレートを買ったことがない、と女子二人の前で口を滑らせたのが購入のきっかけだ。何十年も生きているくせに二月にチョコレートを買ったことがないだなんて勿体無い、時間の無駄だったのでは、と散々詰められたが、水木さんにあげることにすればここ来る口実になると気がついたから、あれは失言じゃない。
まなと一緒に買い物をした話をすれば水木さんは喜ぶだろうか。少し前に親しくする人間の子ができたと伝えたら、この人は凄く満足そうに笑ったのを思い出す。
「地獄じゃ普段チョコレートなんて食べないからな。何が流行ってるかなんて分からないが」
「そうですね」
自分が何をどこまで話すか迷っているうちに彼は黒い玉を摘んだ。
「久しぶりに食べられるのは嬉しいよ」
水木さんは地獄の入口で獄卒の手伝いをしている。苦役ではなく労働だから、ひどい扱いはうけていないが、地獄で手に入るものは限られていて、たまに僕が持ち込むものをいつも喜んでくれた。
「あま……っ……って中に酒入ってるじゃねえか」
口に放り込んだ甘味の感想を大声で言う彼の目は三日月みたいに細く丸く弧を描いていた。気に入ったらしい。
「ぅあ…………っ…………ん」
チョコレートボンボンを口に含みながら漏らす鳴き声は菓子の甘さに感極まるというよりは酒飲みのそれで、しかし唸り声の端々にまろやかな甘さも感じられた。ご満悦というやつだ。楽しんでもらえたなら嬉しい。ここに来るための体裁だけど、喜んでもらうのが一番いい。
しかし、贈り物がうまくいったならうまくいったで、どんな味なのか気になるというものである。
「あっ!」
自分もひとつ味見しようかと手を伸ばしかけたところで、彼は最後の一つを素早い動きで攫い、口に運んでしまった。しまった。食べ物を扱う水木さんは光速だ。
非難めいた自分の大声に、急ブレーキをかけた彼の手は小さく揺れ、唇のところで止まった。食べ終わったチョコのために少し濡れた唇は独特のくすみがあるが、形は生前のように整っている。真っ赤じゃない分、陰があり、昔よりも色気が増した。このままチョコで濡れてほしい、という脳内の声がチラついたが、自分の唇は別の欲望を紡ぎ始めていた。
「僕も食べたいです」
返事はない。小屋は静かで薄暗い。
彼は目を閉じた。そして、チョコを口へと押し込んだ。
自分の希望が聞こえたはずなのに。
呆気にとられた自分の目の前で彼はゆっくりと目蓋を開く。露わになった瞳は今日ここに来た時の鈍色よりももっと陰が濃く、それなのに奥の方が光っている気がする。惑うような不思議な色をした瞳から目を離せずにいると、彼の口がそっと開いた。舌が差し出され、先端で溶けかけのチョコが揺れる。水木さんの瞳がまた陰り、悪戯っぽく光った。
数分前まで普段の水木さんだったのに、急に恋人の顔になるなんて狡い。
この狡さに勝てるわけがない。
彼が促すまま恭しく舌先に口づけ、そこにあるものと一緒に彼の咥内を味わった。
彼は甘く苦く香り高く、そして滑らかで気持ちよかった。