ハロウィンネタ「オリバーせんせー」
「ん? どうしたの、不破くん」
「これなに?」
「これ?」
何の変哲もない、秋の夜長を肌身で感じられるようになったある夕暮れ時のこと。いつものように甲斐田家では家庭教師兼甲斐田不在中の仮保護者として、オリバーが三人の子供たちの面倒を見ている最中だった。今日の勉強を途中でほっぽり出した後に休憩として少し席を外していた不破が、唐突に何かをオリバーの元へ持ってきたのである。
これ、と称されたものにオリバーが視線を向けると、そこには小学生向けの本が開かれていた。以前、オリバーがいつも勉強を頑張っている不破と加賀美へと幾つか本を見繕って持ってきたことがあったのだが、どうやらその中の一冊であるようだ。桜魔皇国外の国々にしかない珍しいお祭りをかわいらしい絵や写真でまとめたその本の見開きには、とある国で丁度この時期に行われているひとつのイベントについて描かれてあった。
「ああ、これか。これはね、桜魔よりもっと遠いところにある国の祭りだよ。大きなかぼちゃをくり抜いてランタンを作ったり、あとはおばけの格好をしてお菓子を貰ったりするもので……」
「お菓子!? お菓子もらえんの!?」
「そう。不破くんくらいの小さな子供たちが、夜に大人たちにお菓子を貰いに行くんだ。こう、『トリック・オア・トリート』って言って……」
「おれもお菓子ほしい!」
「おっと。……入れ知恵しちゃったかな、これは」
わあっと双眸をきらきら輝かせ始めた不破の表情に、可愛さも相俟ってかオリバーは苦笑を浮かべてぽつりと独り言を零す。うっかりお菓子だなんてこの年齢期の子供が喜びそうな単語を出してしまったせいか、不破は既に机の上のプリントなぞ眼中になくなってしまっていた。こうなった子供はもう大人の話などまともに聞きやしない、自分の欲望に従ういきものになってしまうのだ。特に不破は元気いっぱいのやんちゃな九歳児である。一度やりたいと言い出したら大抵は聞かないのだ。
不破の騒ぎを聞きつけてか、先程まで勉強をしていたはずの加賀美も手を止めて此方をじっと見つめている。その隣の剣持はどうにかして気にしないふりを決め込もうとしているようだが、若干手が止まっていた。どうやら子供たち三人、見事に進捗が進まなくなってしまったようで。
まあ、ここ最近三人とも真面目に勉強していたしなあ、とひとり逡巡したオリバーは、自分の甘さからは目を一旦逸らしてから三人の前でぱんと手を叩いてみせた。
「今日は勉強一旦おやすみにして、僕と買い物に行こう!」
「やったー! 買い物!」
「おりばーせんせえとおかいもの!」
「……良いんですか? 休みにして」
「いいよいいよ、ここ最近ずっと三人とも頑張ってたし。どうせ今日のお夕飯の買い物にも行かなきゃって剣持くん言ってたでしょ。ついでにこれ、やろうよ」
そう言ってオリバーが剣持へと見せたのは、先程不破が持っていた本の見開き。大きく打たれた見出しには。
「……ハロウィン?」
「そう、ハロウィン。甲斐田さんのことびっくりさせるのも、たまには悪くないんじゃない?」
ぱちりと茶目っ気の効いたウインクをしたオリバーに、剣持は心底怪訝そうな表情を浮かべはしたが、既に横では年少二人がうきうきで外行き用の鞄に荷物を詰めている。今更行かないともやらないとも言い出せそうにない雰囲気に、紫の双眸は諦めたように目を閉じて大きく溜息を吐いたのだった。
◇
「ちょっと遅くなっちゃったな、皆お腹空かせてるかも……」
既に夕暮れが空の遠く、紺色の星々の隙間に溶けかけている時刻。仕事を終えた甲斐田は慌ただしく病院を出たところだった。今日はオリバーが子供たちを見てくれている日ということもあり、帰宅が遅くなってしまったことで彼の拘束時間を増やしてしまった申し訳なさと、たくさん集中したことでお腹を空かせているかもしれない子供たちのことを考えると次第に足早へとなっていく。
早歩きで自宅近くの歩道を曲がり、もうすぐそこに家の門が見えるだろうというところで、甲斐田はふいにあれ、と自らの家を横目に見ながら違和感を覚えた。
既に陽はとうに暮れていて、辺りも暗くなりつつある。というのに、自宅の電気がついているようには見えなかったのだ。いつもであれば温かな光が窓から零れているというのに。もしかして夕飯の買い物にでも出掛けてまだ帰ってきていないのかなと甲斐田は自分のスマホを確認するが、特段剣持から連絡は入っていない。そもそも買い物に行った連絡と帰った連絡は既に勤務中にされていたから、こんなタイミングで揃って出かけることなんてないはず。特に、オリバーというしっかりした大人がついているのであれば尚更。
一瞬、何かあったのかもと過ぎらせた甲斐田は神妙な面持ちで自宅へと近付き、そうっと玄関を開けに掛かる。鍵は掛かっていない扉はいとも簡単に開き、揃えられた玄関の靴はいつも通り、子供靴が三つと大人用の革靴が一つ置いてある。家には明らかにいるはずだというのに、やけに静かだった。
「ただいまー……皆ー……?」
一応、と声をかけながら扉を後ろ手に締め、家へと上がる。億が一何かあって、不審者や魔でも入り込んでいたとしたら。最悪の状況ばかりが脳裏を掠め、そろりと慎重に廊下を歩く。護身用の戦闘札の在処をジャケットの内ポケットに確認しつつ、リビングの扉をがちゃりと開けた、その時だった。
「ばあっ」
「わあああああああああああああっ!? ……お、わ、あああびっくりしたあ……! 何してんの湊ぉ!」
「にゃははは、どっきり大成功~!」
扉の死角、すぐ隣から突然現れた小さな影に思わず後ずさりながら札を構えかけた甲斐田だったが、その姿が見慣れたシルバーだと気付いた瞬間どうにかその動作を思いとどまり、その代わりか派手に尻もちをついてしまった。目の前には甲斐田がいつも病院で着ている白衣のスペアを着て、その余りまくった両袖を甲斐田に突き出して楽しそうに笑う不破の姿があった。勿論その後ろにはこれまた楽しそうにきゃらきゃらと笑う、シーツを頭から被った加賀美と、どこか呆れた表情で魔法使いを彷彿とさせる黒いつば付きの帽子を被っている剣持、そして苦笑いを浮かべたグレーのレースがあしらわれている布を肩にかけたオリバーが佇んでいた。
どうやら驚かせたかったらしいと気付いた甲斐田は、先程までの心配はすべて吹っ飛ばして、もー、とどこか膨れっ面を浮かべながら立ち上がる。かわいい悪戯程度、まあ許してやるかと手を伸ばしてぱちんと電気をつけた甲斐田の眼前には、彼が思っている以上に凝った造りの飾りつけが部屋の至るところで華やいでいた。
「え、何これどうしたの? 今日クリスマス?」
「クリスマスにこの装飾はちょっとおどろおどろしすぎないかな、流石に」
「はるせんせ、とりっく・おあ・とりーと! ですよ!」
「とり……? あ、ああ! なるほど、ハロウィンか! びっくりしたよ、もう」
「なんだ、晴も知ってるんだ。知らなかったら揶揄おうと思ってたのに」
「既にもう散々揶揄ったでしょ、今びっくりさせたのでさあ」
聞き慣れない言葉に一瞬首を傾げた甲斐田だったが、以前小児病棟で他国からの子供の患者を受け入れた時に、親御さんが他国文化を色々と話してくれていたのを思い出したのだ。
とはいえ、きらきらと瞳を輝かせている加賀美の問いかけを甲斐田だって忘れたわけじゃない。『お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ』なんて、基本的に大人しく聞き分けの良い加賀美がする悪戯など想像も出来やしなかった。むしろ甲斐田はそちらの方に興味があるのだけれども。
「隼人、悪戯って何するの?」
「え!? ん、うー……ん……いたずら、いたずら……」
「はやとお、考えてなかった?」
「なかった、です……」
「じゃあおれが代わりにいたずらする!」
「ちょっとそれは辞めて欲しいかも!」
「湊の悪戯、ろくなことにならない」
「僕もちょっとこの家が散々になるのは見たくないかも」
流石に不破の悪戯は洒落にならない可能性があったので、満場一致で却下することとした。やんちゃでわんぱく盛りの悪戯なぞ、考えたくもなかったからだ。
「お菓子、お菓子ねー……あ、そういえば今日、患者さんの御父母から菓子折り貰ってたや。中身まだ見てないけど、それでもいい?」
「……! はいっ! みなと、おかしですよ!」
「わーい! おっかし、おっかし!」
「ふふっ、無事悪戯回避出来ましたね」
「……もしやオリバーさんの入れ知恵ですか?」
「さて、どうだか」
お菓子で浮かれ喜ぶ年少組、そして怪訝な顔にはぐらかす大人たち。何ともいつも通りで、けれど今日はいつもとは違う雰囲気で。
まあ、偶にはこんなのもいいか。なんて、大人びた年長は肩を竦めつつそう思うのだった。
「ほら、夕飯にするから手伝って!」
「「はーい!」」