そうして彼女は、覚悟を決めた。静かな境内で、ずっと変わらない常桜を眺める。
それからそっと私の頬を撫でた花びらを目で追いかけ、もう透けることの無い手を伸ばした。
ただ、触れることを、そして存在することを、許された気になりたくて。
けれどそれは叶うことなく、気まぐれに吹いた風によって私の指の隙間をすり抜け、代わりに酷く戸惑った声を運んだ。
「ゆ、の……?」
ハッとして声の方を振り返る。そうすればそこにはよく知っている、けれど願わくば今最も会いたくはなかった人──侑李君の姿があった。
ぱちりと目が合う。
透けた布面に覆われた怯えた赤い目と、信じられないものを見るかのように見開かれた青い目が。
その瞬間、まるで時が止まってしまったかのように私は動くことが出来なかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
あの時、彼を──何に変えても守りたかった「弟」を殺してしまった時から、私は侑李君の目をどうしても見られなかった。
だって私は誰よりも知っていたのだ。2人がどれ程仲良いかも、どれ程信じ合っているのかも。
なのに、全て私が奪ってしまった。
けれど侑李君は決して私を恨まない。
優しくて、明るくて、そして弟を覚えていない彼は、私を恨むことなんて出来ない。
恨んでくれれば、どれ程救われていたことか。
罵倒、侮辱、軽蔑、なんでもいい。なんでもいいから、私を恨んで許さないで欲しかった。だって何も覚えていない彼に許されてしまえば、それは私の罪と共に弟の存在まで消えてしまうと同義なのだから。
──お願い。私を許さないで。
願って、泣いて、泣いて、泣いて。
それでもいつも侑李君は、優しく私の心配をした。罪悪感で目を合わせすらしない私にいつものように外の話を聞かせた。弱音を吐いても良いと、一緒に背負うと、そう言ってくれた。
その度に私は、どうしようもなく「早く消えてしまいたい」と願ってしまった。
もしも弟の言葉が、「また会おうぜ」と軽く笑ってくれた最期の言葉が無ければ、霊のように半透明で実体を持たない私の体……そして、このまま何者にもならずすり減らし続ければ近い未来、存在ごと誰の記憶からも消えてしまうと言われた魂は、とっくに耐えきれなくなっていただろう。
けれどそれでも、とてもじゃないがその言葉だけで確固たる存在と体を得るという生きる道を選び、あるかも分からない転生なんて夢物語を信じて弟の帰りを待ち続けるだなんて選択は、心の弱い私には出来なかった。だからせめて、この透けた体と欠けた魂が消えるまでのあと少しを耐えて、そしてやっと──
「大丈夫だ。絶対に居るからな」
不意に、いつものように黙ったまま俯く私に侑李君はハッキリとそう言って、思わず肩が跳ねる。
今、侑李君は一体誰の話をしたのだろう。
脈略が無かった。私が寂しがっていると思っての励ましならあまりにも見当違いだけれど、そんなこと分かっているはずだ。かと言って傍に居るという意味でも今更すぎるし、どちらかと言えば「俺は存在している」とでも言いたげに聞こえた。勿論どうして今急にそんなことを言ったのかは分からないけれど、でも、まさか。
沸いた不安と期待を押し殺し、そっと顔を上げる。けれど目が合うことは無かった。それどころか侑李君はこちらに気づかないまま口に手を添え驚いた顔をしながら必死に考え込んでいる。まるで、無意識に出た自分の言葉に戸惑うように。
「約束…、……誰かと約束して…」
小さく、ポツリと声が零れる。
その時初めて、私の中の天秤は僅かに生に傾いた。
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あれから私は、この和の国で妖になる道を選んだ。
侑李君は確かに欠片だけでも弟を、この手で彼の存在を消した私以外はもう誰も覚えていないはずの弟を、覚えている。なら、そんな奇跡があるのなら、本当にいつか弟は帰ってきてくれるかもしれないと、信じて。
それでも出来ればどこか別の世界で何か方法を探して元と変わらず人間か、せめてもっと短命な種族になりたかったけれど、そこまでの時間が私に残っているかも分からないし早くしなければ決意が揺らいでしまいそうだったから、これは罰だと自分に言い聞かせて密かに小さな決め事をしていた。
彼にまた会える日までは生きること。
決してもう二度と自分の手で自分を殺そうとはしないこと。
もし死ぬのなら、誰かを守ることに命を費やすこと。
あまりにも酷い誓いだ。
死にたくて死にたくて仕方ない自分を咎めつつも、中途半端な覚悟だけをして必死に抜け道を探している。本当に、酷い姉だと思った。
(ハフズは私のこと、許さないでね)
貴方は私を恨んだりしないって言ったけれど、もしまた会えたら。
今度こそ貴方の辛さも恨みも悲しみも、全部全部私が背負ってゆくから、きっと幸せになってね。
そう願ったのは、弟の為なのか、私の為なのか。
少なくともそうやって迷う時点で姉失格だろうなと思いながら、私は夢見草の氏神様と契約を結び妖となる儀式に挑んだ。
そして皮肉にも他人の「感情」が視える力を持っていた弟と似た、他人の「心」が視える種族──覚となった。
「もっと戦闘向きの種族が良かったのに……」
儀式の後、立会人を務めてくれた柊さんに何故か「人前で外すんじゃないよ」とだけ言って付けられた立会人用の薄布の黒面を付けたまま、気を逸らすように境内で1人呟いた。
今まで何かに触れることも何かを感じることも出来なかったからか、やけに体が重く感じる。そして、内心では妖になったことを少し後悔している程に気も重かった。
(侑李君、許してくれるかな)
弟の件は勿論、許さなくて良い。許さないで欲しい。
けど、それ以外……弟を死に追いやった私が生を選んだことを、そして全てを知っていながら未だ傍に居ようとすることを、許してくれるだろうか。
もしかしたら私は、あのまま何もせず存在ごと消えるべきだったのではないかと、考えずにはいられなかった。
当然私は自分を許す気なんて無いし、私の生として幸せになろうとも思わない。あくまでも弟の為だ。それに侑李君は私を恨めるほどまだ思い出してはいないようだから、少なくとも今はまだいつもと何も変わらないのだろうと頭の片隅では分かっていた。
けれど不安は心にこびりついて、思考を暗く曇らせていく。
そんな時に頬を撫でてくれた桜の花びらも、呆気なく私の指の隙間をすり抜けて、そして──
「ぁ……」
目を見張る侑李君を前に、何かを言いたかった喉からは不明瞭な音しか出ない。そんな状況、もういっそ逃げ出してしまいたいとさえ思った。湧き上がった不安が、今の私には必要になってしまった息を上手く吸えなくさせる。
そこへまるで追い打ちを掛けるかのように、視界に文字が現れ頭の中に流れ込んでは声となった。
『透けて……な、い?』
「…!」
瞬間、その言葉が侑李君の「心の声」そのものであることも、覚の力が制御出来ず私の意思に反して発動してしまっていることも理解し、ヒュッとか細く息を呑む。
分かっている、ちゃんと分かっている。
私は責められて然るべきで、だからどんな心の声も受け入れなければならない。私を見つけて、何度も救ってくれた、大好きな友達からの──存在否定でも。
そう分かっているのに。
それでもどうしようも無い程、私は弱く幼くて。
(嫌っ…!)
見たくない。聞きたくない。知りたくない!
生きていてくれてありがとうと言ってくれた貴方からの拒絶なんて……!
心の悲鳴は声にならない。
目を覆いたい手も、逃げ出したい足も、動かない。
そうしているうちに、侑李君はまるで何かに弾かれたように突然私の方に駆け寄って、私は思わずギュッと目を閉じた。……けれど。
── むに
痛みも衝撃も何も無く、ただ柔らかな感触と温かさだけが両頬に伝わる。
その事に驚いて恐る恐る瞼を上げれば、目の前には何故だか泣きそうな顔をして必死に何度も何かを確かめるかのように私の頬に触れる、侑李君がいた。
「ゆぅ、り……くん?」
ようやく出た声は震えて上擦って歪む。
けれど侑李君は私の声にハッとしたように動きを止め、慌てて手を下ろしては少しだけ身を引いた。
「あ…ごめ……、でもなんで…?」
戸惑った声に、何を聞かれているかは分かっている。
……本当は、このまま逃げたかった。でも、さっき触れた優しい温かさはまだ微かに残っていて。
「あ、あや…かしに……なったん、です」
なんとか声を絞り出す。怖くない訳は、無い。
それでもどうにか覚悟しようとすれば、侑李君は。
「そう、か……それで…」
そう呟いてから、躊躇いなく私を抱きしめた。
「本当に良かっ…た」
「……え?」
突然の行動も、心底安心した声の意味も、分からない。
何も分からなすぎて、何かを勘繰りたくもなった。
けれど、不意に視界に現れる文字はそれを許してくれない。
『ゆのが消えなくて、良かった……』
(……!)
どうして、どうして侑李君がそのことを。
私が消える運命にあったことは、私にそれを教えてくれたあの少女しか知らないはずだ。はずなのに。
(まさ、か……)
きっと、この状況を解決する答えは1つだけ。
だって私以外に彼女に会える可能性があるのは弟だけなのだ。だから、弟が聞き出して、それを侑李君に伝えた。それしか、有り得ない。
でもどうして?どうしてそれを聞き出して、そして侑李君に伝えたの?それに侑李君が覚えているべきは弟の事であって、こんなどうでも良い私の事なんかじゃ──
『もう、大丈夫……なんだよな。なんでかずっと不安だったけど…でも、これでもうゆのは、どこにも行かない…よな』
不意に視えた言葉に、息が詰まった。
こんな言葉、信じられる訳が、無い。都合のいい妄想にしか、思えない。
けれど力強く抱きしめてくれる腕が、包み込んでくれる温かさが、現実だと…信じても良いのだと言ってくれている、気がして。
(私、存在して良いの……?)
侑李君は今、弟のことを覚えていないから安心してくれただけかもしれない。いつか、全てを思い出したら私を恨むかもしれない。
それでももし、何故か弟が居なくなってから頻繁に会いに来てくれるようになったのが、弟が居なくなった穴を無意識に埋めようとしていたのではなく、私の為だったのなら。その為に、こんなどうでもいいはずのことを覚えてくれていたのなら。生きて贖罪することを許して貰えるのなら。ここに貴方達を本当に愛していたんだという気持ちを残して良いのなら。
どうか、今だけは。
今だけは私を許して下さい。
そっと、震えた手を伸ばす。
そっと、私よりも小さな体を抱きしめる。
そうしてやっと知れた温もりに、もう涙は止まらなかった。
そして私は、心の中でそっと呟く。
──今度こそ、守ってみせるからね。