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    温泉の話

    温泉天国 いくらなんでもあんまりだろう、と言いたくなるようなことは山のようにあって、けれど今日ほど強くそう思ったことはないだろうと大倶利伽羅は人の身を得てから今までのことを振り返る。
    「公衆浴場に彫り物があるやつは入れないなんて俺、知らなかったからなあ。きみと温泉に入れるって思ってわくわくしていたのに、前回、あれだっただろ。きみは気にしていないようだったが、俺は残念だったんだよ。だからなあ、ちょいと、主に頼み込んだんだ。うまいこと、きみと温泉に入れるようにできないかって」
     それでこれとは。本当に、本当に、本当にあんまりである。
     はたして、これで温泉に入っていると言えるのだろうか。いや、言えないだろう。
     ぷかぷかと、浮かんでいる。指で突かれる。くつくつと声を殺して笑う声が聞こえる。
    「いやあ、どんなまじないを使ったのやら。主はすごいなあ。生まれる時代が違えば大物になれたかもしれんな」
     自分の主でなかったのなら斬り殺していたかもしれない。今はここにいない主のことを、大倶利伽羅は心の底から恨んだし、ひとりにこにことご機嫌に笑っているこの男のことが腹立たしくて仕方がない。
    「そう怒るなよ。アヒルなきみも格好良いぜ」
     そんなことないだろうと大倶利伽羅は言いたかったが、残念ながら言葉にならなかった。
     遠征中の出来事である。
     遠征先は温泉で有名な観光地だった。任務であるから温泉付きの個室の予約を取るなど当然考えてはいなかったし、そうしたくとも観光地なだけあって安宿が辛うじて予約できた程度である。以前もふたりで同じような場所へ遠征に出た際、鶴丸が温泉へ行こうと誘ってくれたが、入り口に置いてあった立て札には彫り物がある者の入場を禁止する旨の記載があった。内心では大倶利伽羅としても温泉に多少は興味があったのだが、決まりとあれば仕方がない。自分も遠慮するという鶴丸だけを無理矢理温泉へと送り出し、大倶利伽羅は簡素なシャワーで身を清めた。それが、一年ほど前のことだっただろうか。正直、忘れていた。鶴丸はあの出来事を随分と引きずっていたらしい。こんな暴挙に出るくらいなら、忘れていてくれたほうがよかった。
     今回も温泉へ行きたがる鶴丸に背を向けて、ひとり安宿の固い布団で横になり鶴丸の帰りを待つつもりだったのだ。目が覚めたとき、大倶利伽羅はアヒルになっていた。
     そう、アヒルになっていた。
     驚いただろうと鶴丸は笑ったが、驚いたなんてものではなかった。この男は大倶利伽羅に安寧というものを与えてくれはしないらしい。
     鶴丸の手のひらに載る程度の小さなアヒルになった大倶利伽羅を連れて、鶴丸はいくつもの温泉を渡り歩いた。いつもは白い肌が、赤らんでいる。
     性格に難はあるが顔立ちが整っているだけあって、ひとりで歩いていると何度か鶴丸は声を掛けられた。命知らずな女性たちである。今目の前にいる男は、無害な仲間をアヒルに変えた男だぞ。珍しく大倶利伽羅は自分から積極的に警告したくなったが、悲しきかな、アヒルな大倶利伽羅のクチバシからは声が出ないのだ。
    「すまんなあ。俺はこの子とデートだからな」
     大倶利伽羅(アヒルの姿)を掲げて笑う鶴丸に、冗談だと思ったのだろう、声を掛けてきた者は誘いを断られても不快には思っていないようだった。
    「嘘じゃないぜ。本当さ」
     大倶利伽羅はデートという単語を辞書で引きたくなったが、残念ながらここに辞書はないし、あったとしても、大倶利伽羅には開くことすらできない。
     大倶利伽羅がアヒルの姿から解放されたのは結局それから一日経ってからで、元の姿に戻った大倶利伽羅が鶴丸に怒りをぶつけたのは言うまでもない。

     白ではなく黄色なのだなというのが、最初の大倶利伽羅の感想だった。
     本丸の裏山に温泉ができた。大倶利伽羅の知らないところでどうやら誰かが温泉の採掘作業を進めていたらしい。大倶利伽羅が長期遠征から帰ってきた際に、光忠が興奮した様子で本丸に温泉ができたことを教えてくれたのだった。
    「これで伽羅ちゃんも温泉に入れるね」
     そうだな、と曖昧に大倶利伽羅は返事をした。初めての温泉体験は大倶利伽羅にとってトラウマである。しかしトラウマを抱え続けるのは癪だし、精神衛生上よろしくない。そんなわけで大倶利伽羅は主にひとつの頼み事をしたのだった。
     どことなく文句を言っていそうな黄色いアヒルを大倶利伽羅は指で突く。
     いくつかある温泉のうち、大倶利伽羅が今入っているものにはほかに誰もいなかった。大倶利伽羅と、アヒル一匹。
     満天の星に、浮かぶ月。はあ、と大倶利伽羅は肩まで湯に浸かった。
     なるほど、温泉というものはなかなかいいものかもしれない。
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