ひろいもの それは仕事からの帰り道。
なぁんとなく気分を変えたくて、いつも通る道ではなく、その道沿いにある公園を歩いていた時のこと。
時刻は黄昏。夕陽が姿を隠し、残り火のような赤色が夜の蒼に侵食され、もう少しすれば星も瞬くであろう、そんな時間。
それは、茂みの中に隠れるように置いてあった。空の蒼よりもなお暗い影の中から、僅かにはみ出る見慣れた薄茶色。どこぞの商品名が大きく印刷されたそれは、薄汚れたダンボールだった。
だから何だ、と言ってしまえばそれまでだが。見過ごせなかったのは、印刷の上から主張する「拾ってください」の文字。
今日日捨て犬捨て猫なんて珍しくもなく、犯罪だと知らずに放置する愚か者ども。隠すように置いたのは罪悪感からか、中の動物がどうなってもいいと考えてのことか。
自らを落ち着けるようにひとつ、ため息を吐くと、紫草はダンボールを覗き込んだ。運が良ければ中に居るかもしれない。飼うことは出来ないが、里親探しくらいはしてやりたい。生きていれば、の話だが。
意を決して覗き込んだ中には、柴犬より若干小さな動物が蹲っていた。薄らと見える腹部は上下していて、生きていることが窺える。
猫にしては大きく、犬にしては小さい。なんとも微妙な大きさの動物の毛色は灰褐色で、大きな耳は白く縁取られている。尾は短く心持ち太い。ふわふわに見えるそれは灰褐色と黒色の縞模様。
紫草はその動物に見覚えがあった。恐らく、ではあるが。この子はアライグマではなかろうか。
今日日捨て犬捨て猫は珍しくないが、捨てアライグマとは……何より奇妙なのは、そのアライグマには灰褐色の長い体毛があり、三つ編みに結ばれていることである。アライグマと思われる動物は己の尻尾と三つ編みに包まって、すやすやと寝ていた。
これは本当にアライグマなのだろうか?
紫草の頭に疑問が過ぎる。
自分の知る限り、アライグマにこんな長い体毛はなく、しかも三つ編みにされているなんて……お陰で愛しい人の面影が重なってしまう。
「……ラスカル」
思わず小声で呟けば、白く縁取られた黒い耳がピクりと動き、緩慢な動作で顔を上げた。
黒い体毛に覆われた双眸が紫草を捉える。瞳からは何も読み取れず、ただ気だるそうに紫草を見ては、首を傾げた。
怯えている訳でもなく、怖がってもいない。欠伸をひとつして、再び三つ編みと尻尾に埋もれた。
アライグマの生態なんてよく知らぬ。故に放っておけたらどんなに楽だったろうか。
しかし、紫草には出来なかった。
気だるげな態度。
やる気のない瞳。
緩慢な動作。
長い三つ編み。
どれもが紫草の恋焦がれる彼女を想起させる。
ーーーーーラスカル・スミス。
そんなはずはない。分かっていながら、放っておけなかった。
汚れるのも構わず、紫草はダンボールを持ち上げると、家路を急いだ。
帰宅するとまずは手を洗い、ダンボールの下にチラシやら何やらを敷いて、置いた。その間もアライグマは目覚めることはなく。時折寝返りを打っては、自分の境遇など無頓着にすやすやと寝息をたてるばかりであった。
騒がれるよりマシ、か。
考えながらバスタオルをかけてやると、紫草はスマートフォンでアライグマの飼い方を検索した。
どうやらアライグマはペットとして飼うことが出来ないらしい。ではこの子はどうすべきか。そもそもこの子はアライグマなのか?特徴はアライグマそのものである。長い三つ編みだけが、異端だ。アライグマに似た何かかもしれないが、紫草の知る限り三つ編みを持った動物は人間くらいしか思い浮かばなかった。
ぼんやりと考えているうちに、どうやら起きたらしいアライグマが、これまたぼんやりと紫草を見ていた。
とりあえず餌、だろうか。急いで調べる。雑食性のアライグマは恐ろしく色々なものを食べるらしい。最早何をあげても食べるのではなかろうか。だが、おいそれと変なものは食べさせたくない。
何かないか、とキッチンを見渡して、ダイニングテーブルにバナナを見つけた。これならば、と一本もぎって皮を剥いて、アライグマにそっと近づいていく。アライグマは逃げることも隠れることもせず、紫草の手のバナナを見つめていた。
これは大丈夫そうだ。そう思って差し出すと、控えめな腕を伸ばして小さな手で掴んだ。そして、紫草を見て首を傾げる。
「お食べ。それともお腹が減ってないのかい?」
通じるわけもない言葉に首を傾げたまま、アライグマはクルクルとバナナの欠片を弄ぶ。お水はどこ?とでも言いたげに。
紫草は苦笑しながら、大きめのボールに水を張って、ダンボールの前に置いてやった。すると、アライグマはのっそりとダンボールから出てきて、バナナの欠片を洗いはじめた。
床に伸びる長い三つ編みが愛し子を思い出させ、まるで彼女がバナナを洗っているようで。もちゃもちゃと音を立ててバナナを食べる姿に愛おしさが増す。
食べ終わると、もっと欲しい、とねだるように手を伸ばしてきた。同じように一口サイズにちぎって与えると、小さな手で受け取り、水の中でクルクルと回し、もちゃもちゃと食べる。
一本分は食べただろうか。少食な彼女にしてはよく食べた方だ、なんて。思わず浮かんだ考えに苦笑いを禁じ得ない。
再び眠ろうとダンボールに入ろうとするアライグマの背中を、紫草は撫でた。アライグマは驚きもせず、なぁに?とでも言いたげに振り返る。
触れた体毛はごわごわしていた。野良犬や野良猫のそれと同じ感触。
どれほどの時間、放置されていたのか分からない。しかも茂みの中で。もしかしたら虫が付いてしまっているかもしれない。そうでなくても土埃で汚れているのは確実だろう。
調べれば、水が苦手というわけではないらしい。もちろん個体差もあるだろうが。
「ぼくはもう寝るよ」
そんな言葉が聞こえそうなゆるい動きでダンボールに入ったアライグマを、先程のバスタオルで包むと、紫草はバスルームへと向かった。腕の中のアライグマは大人しい。
「なにをするんだぃ?」
彼女なら怪訝な顔でそう言うだろう。
あぁ、でも。
この子は彼女ではない。長く垂れる三つ編みを優しく解きながら、紫草はバスルームの扉を開けた。
シャワー中もアライグマは大人しかった。それどころか、洗面器に張ったぬるま湯に浸かってリラックスした表情さえ浮かべていた。
無添加の石鹸で体を洗ってやると気持ちよさそうにぷすん、と鼻を鳴らす。折角なので長い体毛も洗ってやれば、流す頃には艶々のアライグマの完成だ。
浴室から出て、バスタオルで存分に体を拭いてやる。ドライヤーの弱い風で優しく乾かせば、見違えるほどに艶々ふわふわになった。これはもう犬や猫と言っても過言でもないのでは、等と考えてしまう。
が、長い体毛が鬱陶しいらしく、小さな手で払い除けるようにぐしゃぐしゃといじっている。
紫草は再度、アライグマを抱き抱えると、ソファに座った。
この家にテレビは無い。あるのは古い蓄音機と、最新のスピーカーと、パソコンだけ。
紫草はお気に入りのジャズを蓄音機にセットすると、レコードを回した。軽快な音楽が流れる中、ソファに座ってフルーツジュースを飲むのが至福の時間だ。だが、今日はフルーツジュースの代わりに、アライグマ。
長い体毛を丁寧にブラッシングしてやり、少しだけ乱雑に体毛を編み込んでいく。こちらも丁寧にやっても良かったのだが、いや、本当は丁寧にやりたいのだが。
どうしても拭えない面影が紫草の手つきを雑にする。
ゆるめに編まれた三つ編み。満足したのか、アライグマが甘えるように紫草の足の上でダラリと伸びる。まるで紫草をベッドにしているようだった。
無防備に晒されたお腹。野生では見ることが出来ないその姿に、この子は外では生きていけないなぁと思う。
そっと撫でればふわふわとした感触。お肉はぷにぷにと柔らかく。
「ラスカル……ラスカル・スミス」
名を呼べば、つぶらな瞳が紫草を見上げた。曇りなき眼とはこのことか、と感動すら覚える透明な瞳。無垢であり純心。いつも紫草を見る時とは異なる瞳。それでも、何故だか拭えない面影は、最早三つ編みのせいだけではないだろう。
「愛してるよ、愛しい子」
背中を丸めてアライグマの額に唇を落とす。
何をされたか分かっていないアライグマは変わらず無垢な瞳で紫草を見ていた。自分と同じ香りが鼻腔をくすぐる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
翌朝、聞き覚えのある絶叫で目が覚めた。何事かと声の方を見れば、寝室の隅の方でラスカル・スミスが蹲っていた。
「なななななんできみがここに!?」
「何でって、ここが私の寝室だからさ」
背伸びをしながら答える。中々に良い目覚めだ。
「そういうことを聞いてるんじゃあない!きみ、ぼくになにをしたんだ!?」
朝から元気だなぁと思いつつ、ゆっくりとラスカルに近づく紫草。
視線を合わせるように跪けば、昏い瞳には困惑と不安、恐怖の色が浮かんでいた。いつもの瞳に何故かホッとした。
「君、昨日のことは覚えてないのかい?」
「きのう?昨日は確か……お昼にカリンちゃん特製かぼちゃスープを食べて、そらから、……それから、」
うんうんと唸るラスカルから離れ、紫草はキッチンへと向かう。あの様子では昼頃からの記憶はなく、その後のことも覚えていないのだろう。
「君、朝食は食べれそうかい?」
「いいいいいい要らないよ!早く家へ帰しておくれ!!一刻も一秒でも早く!!!ヘリだ!自家用ジェットだ!!」
「つれないことを言うなよ。独り身の寂しい朝に少しだけ付き合ってくれても良いだろう?それに、」
「……なんだよ」
「ヘリも自家用ジェットも無い。玄関は向こうだが、帰る前に少し落ち着いた方が良い。今の君を一人で帰すには心許ないな」
紫草がそう言いながら寝室を覗くと、ラスカルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「気持ち悪いぜ、きみ」
「心配くらいさせてくれたって良いだろう?」
はぁぁぁぁぁぁぁ!っと大きなため息。頬をぐにぐにと揉むと、キッと紫草を睨んだ。
「朝ごはんはいらないよ。食べない主義なんだ。でも、」
「でも?」
「……オレンジジュースなら、考えてやらんこともないぜ?」
不敵に笑うラスカル。いつもの彼女を取り戻しつつあるようだ。
「仰せのままに。果汁100%のとびっきりのオレンジジュースさ」
「変なものは混ぜないでくれよ」
「お望みとあらば」
「……君のことが嫌いになりそうだぜ」
「おや、今は好きでいてくれてるのかな?」
「信用ならないだけだよ」
寝室を出て、ソファにどかりと座るラスカル。ローテーブルにオレンジジュースが入ったコップを置くと、小さく「ありがと」と返ってきた。
「どういたしまして。ゆっくりするといい」
離れる際にサラリとラスカルの髪を撫でる。ふわりと漂う石鹸の香りが紫草と同じものであることを、ラスカルは知る由もないだろう。