原稿の進捗②「零くん? いるんでしょ?」
薫は数日ぶりに件のマンションにやって来た。今日は女の子を連れてはいない。素直に零に会うためにやって来た。「会いに来るから」と約束をした。今日がようやくその再会の日に相応しいのだ。
部屋の明かりがついていたから零が中にいるのだろうと踏んでいたのだが、リビングルームに彼の姿は見当たらない。薫が様子を伺うように辺りを見渡していると、背後からひたりと静かに人の足音がした。
「わっ、……びっくりした」
気配に振り向いた薫は咄嗟に息を呑む。そこには零が立っていた。濡れた素肌にバスローブを纏わせ、やおら立ち尽くしている。
「なんだ……シャワー浴びてたの?」
バスローブから覗く零の長い脚や白い胸元は、当然ながら彼の素肌そのものを晒していたが、薫は見てはいけないものを前にしているような気持ちになった。初めて零と会った日もこうしてシャワーを終えた零と対峙したことを思い出す。あの時は動揺のあまりに気付いていなかったが、衣服の下に隠されている彼の素肌はなんと清らかな色気に溢れていることか。まるで誰にも踏み荒らされた事のない、積もりたての真雪のようだ。
零はどこか憂いを帯びた表情をしていた。髪も湿り気を得てしっとりとしている。零が放つ妖艶な空気を前に、奇妙な緊張感が薫を支配した。
「おぬしを待っておった」
零は甚だ淑やかな色香を纏わせて、数歩、薫に近づく。薫は言葉を詰まらせて、目の前に迫る零の顔を見つめた。
「何……?」
すると、薫の唇を塞ぐように零の唇が重なった。そして無遠慮に舌が押し入ってくる。こんな突然の口付け、普通なら拒んでいただろう。しかし薫はそうしなかった。挑発的な唇を受け止めながら、惹きつけられるように自然と零の腰に手を回していく。バスローブ越しに伝わってくる体温は、シャワーを浴びたばかりの熱を含んでいた。
白状すれば、薫はこの朔間零という美しい人間を前に、男だからという問題は最早どうでも良く思えていた。人を狂わせる程の魔性とはこういうのを言うのだろう。薫はぼんやりとそんなことを考えながら、不意に訪れた色っぽい時間を一頻り堪能して、ゆっくりと唇を離す。
「……」
自然と零の顔に手が伸びた。半乾きの黒髪を掬って耳にかけると、赤いルビーのピアスがきらりと光る。その輝きの延長線に零の瞳がある。まるで彼の瞳も宝石のように此方を魅了しているのだ。遊び慣れた薫はこの目付きの意味をよく知っている。しかし敢えて尋ねた。
「急にどうしたの?」
「言わせる気かや。恥を偲んでこんなことまでしておる我輩を……これ以上惨めにさせんでおくれ」
「俺、言ったよね。寝たら困るんだって」
「ああ、言った。なればこそじゃ。おぬしを困らせたいのじゃよ、薫くん」
零はそっと薫の胸に体重を寄せて、薫の背中に手を回し抱き付いた。乱雑に羽織っただけのバスローブがはだけて、隠れていた素肌の面積が広がる。湿り気を帯びた首筋や鎖骨、そこから覗く白い胸元も悩ましい。ついそこに視線を奪われてしまって、薫は現金なものだと己の本能を恥じた。ありがたいことに零はそんな薫の様子に気付いた素振りはなかった。俯き加減で薫の胸に顔を寄せて、どこか思い詰めたような表情をしている。
「……薫くんは、やはり、男の我輩を抱くのは嫌かの」
「……」
もともとそういう趣味はないからね、と言いたかったが、零の切なげな表情を見ていると、今日の薫はそれを言葉に出すことができない。零は顔を上げて薫を見つめた。
「嫌ならせめて、奉仕させてくれぬか。薫くんは、何もせんで良いから」
「そんなの、零くんにとって何の意味があるの?」
「それは、何度も言っておる。我輩、薫くんのファンなのじゃ。一晩だけでいいから……思い出がほしいのじゃよ」
「……」
手を震わせながら何を言っているのだ、この男は。背中に回された零の手から伝わる微かな動揺を感じ取りながらも、薫はまた、敢えて気付かぬふりをする。
「分かった。じゃあ、気持ちよくしてくれる? “レイちゃん”」