ホ医薫零進捗② もうすぐ日付けも変わりそうな時間帯、羽鳥と佐倉山を乗せたスポーツカーは、夜の国道を静かに走っている。
車内にさり気なく散らしたフレグランスの香り。重厚なレザーシート。そしてブルーに光るパーツライトが、落ち着いた空間を作り上げていた。助手席に座る零は、膝に手を置いてリラックスした様子で窓の外を眺めている。
(今日……いける感じじゃない?)
そんな落ち着いた車内で、薫の心は逸って仕方がなかった。先ほど頬に触れられた指先の熱が、まだクリアに残っている。久しぶりなのだ。零に触れたい。抑え込んでいた熱い感情が揺さぶられる。家に着いたら、どうしてやろうか。この男はいつもベッドに行く前にシャワーを浴びたいと言う。その前に、彼の細く引き締まった腰に触れて、抱き寄せて、キスをしよう。それから――
「……」
「羽鳥さん? さっきの交差点、右折なんだけど」
「え、あっ……ごめん」
「ぼーっとすんなよ、俺を乗せてんのにさ」
零は薫の方に顔を振り向かせると、含んだ表情で覗き込むように薫の横顔を見つめた。
「羽鳥さん、最近忙しい?」
「忙しくしてるよ、わざと」
「何で?」
「……余計なこと考えないようにする為」
「ふぅん。羽鳥さん、仕事好きなんだな」
「佐倉山さんこそ、そうでしょ。仕事に忙しく追われてる方が、夢中になってそう」
下手したらこの男、自分と会うのも久しぶりだとか、頭にないのではないか――薫はそんな事を考えた。そしてその予想は正解である。零は先まで車窓を眺めながら、羽鳥に最後に会ったのいつだっけな? 等と考えていた。そして、自分がここ数ヶ月、脇目も振らぬほど仕事や家の用事に追われていた事にようやく気付いたのだ。羽鳥に会いたい――そう想う余力すらないほどに。その事に気付きもしないほどに。余りに自分を省みていなかったと、零は己の悪癖に呆れてしまって、ふふと嘲笑った。
「佐倉山さん、好きでそんなに仕事に没頭してるならいいけどさ。大丈夫なの?」
薫はそう言いながら、先程通り過ぎてしまった交差点を目指してハンドルを切る。
「……いや、流石にキツいよ。最近は忙しすぎる」
「息抜きできてる?」
「する、今から」
「そう……」
薫は機微な空気の変化を感じる。零の声色が少し甘えを含んだものになったことも。ああ、これは――早く佐倉山の家に着かねばならない。互いに熱を求めている事が空気で伝わる。薫は黙って、零の自宅を目指しアクセルを踏み直した。
するとそこで、無情にも携帯電話の着信音が車内に響く。無情だと感じたのは、その着信音が佐倉山医師を呼び出す音だったからだ。彼のプライベートの端末ではない、仕事用の端末が鳴っているのだ。
零は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、耳に当てた。はい、と応対する落ち着いた声は、先ほど薫に聞かせたばかりの声色と異なっている。隣に連れがいる事すら察知させないような冷静な態度で、零は二、三、電話越しの相手と会話をする。
「……ああ、分かった。すぐに行く」
そう言って通話を切った。ふぅ、と前を向いて後頭部を座席に擦り付ける。
「羽鳥さん、ごめん」
「いいよ、気にしないで」
「ここで降ろしてくれる?」
「何で、病院まで送るよ」
「タクシー乗るから」
「意味わかんないって」
「……」
零はどこか不服そうな顔をして、再び車窓の方に頭を傾けた。その表情は薫に対してのものか、仕事に呼び出された事に対するものか、どちらだろうか。
*
それからまた、零からの音沙汰がなくなり、三日が経つ。
流石に薫は大人しくしていられなかった。だって、晩餐会の帰りの夜、確かに甘い空気が漂ったのだ。焦がれる感情は一方通行ではない。あの気まぐれで扱いづらい天才外科医様が――己の甘えなど後回しにしてしまう佐倉山”先生”が――あの夜は薫に甘えようと態度に示してくれたのだ。あんな空気のまま強制的に別離させられて、薫の我慢もいよいよ限界だ。
せめて連絡がつけば良かった。
それなのに、零は相変わらず連絡を寄越さない。
晩餐会の夜、病院まで零を送り届けた薫はすぐにメッセージアプリに連絡を入れた。
「今日は話せて嬉しかった。また連絡ちょうだい」と。これまでのやり取りに比べたら精一杯素直になっているし、かなりの成長だ。歩み寄ったつもりだった。
そんな薫の愛情にせめて一言、返事をくれれば。薫の気持ちも幾分か落ち着いた筈だった。
そして休日。ここは都内の総合病院。
羽鳥薫はホストのスーツを脱ぎ、黒いパンツに白いTシャツというラフな洋服姿で、派手な赤いスポーツカーから降り立った。ラフな姿といえど、華やかな顔立ちと派手な髪色の男だ。人前に姿を現すと自然と視線を集める。
(来てしまった……)
佐倉山総合病院――それはもう、都内で知らぬ者はいないほど有名な大病院だ。病院の建物は視界に入りきらぬほど大きく立派である。無機質にも感じるコンクリートの壁を見上げて、薫はふぅ…と深呼吸する。一週間ほど前、零と最後に別れた場所でもある。
来てしまったのだ、零が勤務する病院に。褒められた行為ではない自覚はある。こんな大きな病院で忙しく勤務する医師だ。会える可能性は少ないだろう。それでも、一瞬でも話ができたらそれでいい。それは薫個人が零に逢いたいという思いも確かにあるが、あの男が心配でもあった。
(佐倉山さん、大丈夫かな)
薫は最後に別れた夜の様子を思い出すたびに、甘えたそうな零の横顔を思い出して胸が痛くなる。あの人は頭が良い。優秀な医師だというのも事実だ。けれど自分のことを省みるのが苦手なのだ。そんな彼のガス抜きの相手をしてやれるのは自分なのだと、薫には自負があった。そういう時に手を広げて受け入れて、抱きしめてやれるのも。どうせこの三日、家にも帰らぬまま職場に入り浸っているに違いない。薫のメッセージに既読すら付かないのだ。直接顔を合わせて、少し言葉を交わすだけでも――
(……なんて、自惚れてるかなぁ)
ここに来るまでの道すがら、何度そう思って引き返しそうになったことか。しかし一応、この病院に用事もある。……人間ドックの申し込みに来た。
院内は薫が毎晩働く夜の街とはまるで雰囲気が違う。周りにいる人々も店に飲みに来る客達とは様相がかなり異なっていた。薫は己の出立ちも場違いな感じがして少々緊張しつつ、周りの視線を浴びながら総合受付の窓口に近付く。すぐに受付の事務員が対応してくれた。
「あの、人間ドックの申し込みに……」
薫は言い慣れない言葉を口にしながら、そっと辺りに視線を走らせた。すぐ側に、『本日の勤務医』と書かれた掲示板があった。多数の医師の名前が並ぶボードに視線を走らせたが、佐倉山の名前は見当たらない。
「こちらの申し込み用紙を健診センターの方へお持ち頂いて‥」
事務員は随分と懇切丁寧に、過剰なほどに時間をかけて対応してくれた。それは薫が端正な顔立ちをした〝イケメン〟だからであるが、そんな女性からの好意も最早薫には慣れたものだ。慣れたどころか、今の薫にとっては目の前の彼女からの好意よりも、頭の中は零のことでいっぱいである。
「健診センターはこちらを真っ直ぐ行って、突き当たりを左へお願いします。そのまま道なりに歩いて頂くと、右手側に案内表示が出てきますので、それに従って下さい」
「はい、分かりました。…………ところで、あの、今日……」
「はい?」
佐倉山医師は――と口にしそうになって、薫は口をつぐんだ。受付で零を探そうと声をかけるなんて、そもそも彼を目当てに病院までやって来るなんて、相当格好悪いことをしているのではないかと思ったからだ。これではまるでストーカーではないか。
(俺……すごい”痛客”になってるのでは……!?)
己の行為が恥ずかしくて、みるみるうちに薫の顔色が青ざめていく。いや、人間ドックを受けたいのも事実なのだが。
「羽鳥さん、人間ドック受けるの?」
「あ、うん、体が資本の仕事だし念の為……って、ッ――!?」
「あら、佐倉山先生」
薫の背後から顔を出した白衣の医師――佐倉山零を見て、受付の女性はにこりと微笑んだ。薫は驚きのあまり呼吸が止まりそうになって、はくはくと唇を戦慄かせる。頬に微かに触れる黒髪の感触を振り切るように後ろを向くと、白衣姿の零が「よぉ」と片手を振って笑顔で立っていた。もう片方の手には買ったばかりらしい冷えたパックジュースを持っている。パッケージをよく見ると、それは果汁ドリンクではなくトマトジュースのようだった。
「佐倉山さん……」
ああ、この男は――どうしてこうも人の心を乱すのか。
薫は飛びついて抱きしめたくなる衝動を堪えて、「健診センターまで案内してくれない?」と言った。
(続きはまた今度)