迷い子 深く息を吐く。
己の限界を悟り、それを受け容れた。
ここまでだ。そう思った。
心残りはあれど、これでよいと思った。
幕引きを己で――、己の意思で、決められた。
後は。未来は。
己が何処まで贖えたかは分からない。破壊した世界、滅した民、何処まで報いたのだろうか。
それは未だ分からない。だが、己の力のすべてを託したあの兄弟は次の世の光を掴み取るだろう。
信じている。否、己は知っている。
世界にほんとうの光が生み出されることを。
その世界に己は不要なもの。
ようやく、不要なものになれた。
息ができる。ゆらゆらと揺れる眩い光を見上げる。
遠ざかる光を、ただ、見送る。
祈りを込めて。願いを込めて。ひとしずくの寂寥と圧倒的な多幸感に包まれて、落ちてゆく。
落ちてゆく。耳に風切りの音。
それはやがて子守唄のようにも聞こえ、促されるままに瞼を下ろした。永遠の安息を得られたことが嬉しくて、口の端が緩んだ。
ただひとつの存在の涙の粒だけを、消えゆく心に留めて。
§ §
「ねえ、おしえて?」
子どもの声がした。
独り言のような呟きで、しかし明らかに私に向けられたそれは、聞き慣れない声だった。
何処かで聞いたことはある。だが、誰の声かすぐには分からなかった。
風切り音はいつしか消え、ふわりと体が浮く。空を翔けるのとも違う感覚。
不明瞭なのに透明な空間で、声は同じ言葉を繰り返す。「ねえ」と数度呼びかけられ、それからようやく私は声の方を向いた。
声の主は、足を抱えて座り込む子どもだった。その姿には見覚えがあった。編まれた金の髪、顔に浮かんだそばかす。陽を浴びることが少なかったからか、白い肌。
違うのは、声色とまなざし。何処を見ているのか、何を聞いているのか、どのように物事を感じているのか。かつて私にはまったく理解の及ばないところに在ったその子どもは、すっくと立ち上がるとよく分からない言葉で私を呼ばわり、まっすぐに見つめてきた。
「おしえてよ。ね?」
歩くでもなく、ふわりと漂って子どもは私の傍までやって来た。怯んでしまって後ずさろうとしても地面がない。前後左右も天地の区別も付かない透明な空間には、私と子どもの気配しかなかった。
「そなたは……」
声が震えた。予想もしていなかった邂逅に、心の根が揺れる。その動揺を悟ったのか、子どもは小首を傾げて目を細めると、人差し指を自らの唇に当てた。
「だれかが聞いているかもしれないから、なまえはよばないで?」
子どもは私を見上げて言った。その言葉がなければ、私は子どもの名を口に出してしまっただろう。良いとはいえない感情とともに。
「……そう言われても、此処には私とそなたしかいない」
気配の無さに思わずそう告げると、子どもは嬉しげに笑った。
「分からないよ。ははうえがとびこんでくるかもしれないし、――のたいせつなひとがこの世界をこじあけてくるかも」
――大切。
この子どもからそのような言葉を聞くとは思いもよらなかった。同時に、すぐさま思い出したのは「彼」の泣き濡れた顔。すべてを悟り、すべてを呑み込んで私のことを突き放してくれた、あのとき。彼の全力の優しさと己の傲慢な望みが混ざり合い、誰もいないバルコニーで嗚咽を堪えた、あのとき。理のない命令を受け容れた彼はあの後どうなっただろう。生きてほしい、という私の望みを叶えてくれるだろうか。未来へと向かってくれるだろうか。
「かも、だよ?」
にわかに沈みそうになった思考を子どもが引き上げる。生き生きとした――それでいて生者ではないと分かりうる透明なほどに白い頬を少しばかり膨らませ、子どもは私の右腕にその手を触れさせた。
石化している箇所まで知悉しているような具合に、本当にこの子どもは「あれ」なのだろうと思う。魂の有り様はまるで違うが、やはり。
「痛い?」
「……それほどでもない」
興味深げな子どもの問いに、一拍を置いて答える。痛みをも感じない世界に辿り着いたためか、それとも何か別の原因があるのか、大部分が石になってしまっていた右腕に慣れた痛みと重みを感じない。指摘されて、初めて気が付いた。
「じゃあ、痛かった?」
「そういうときも、あった」
問いに答えてしまった己に、我が事ながら私は驚いた。子どもは私の答自体に少し顔をゆがめると、私の驚きさえ察知するように右腕を指先でトントンと軽く叩いた。
痛くはない。だが、硬い感覚は響いて伝わった。
「痛いってどんな気持ちになるの? 悲しかった? くやしかった?」
「……そなたは何を私に問いたい?」
これではまるで誘導尋問のようだ、と思う。あのときに、この子どもと瓜二つのものが仕掛けた罠。すべてが近しいが決定的に何かは違う目の前の子どもも、「あれ」と同じような答を私に求めるのだろうか。
そうして、またしても真実を突きつけるのだろうか。だが、ようやく――最後の最後に――己自身を受け入れることができた私には、その真実はもはや響かない。それは確かなことだった。
答えないままに子どもを見下ろして問い返す。子どもは「うーん」と小さく唸りながらはにかんだ笑みを見せた。そうして、透明な空間を見渡す。
「まだ、だいじょうぶかな」
「……何がだ?」
両手の指で何を数えているのか、はぐらかす子どもの仕草の意味が掴めない。だが、気にはなったので、諦めて会話に応じた。
それもまた伝わったのか、子どもは満面の笑みを浮かべた。そうしていれば本当に只の子のようにも思えた。愛しいとは思わないが、稚く、可愛いとは思った。
「――とおはなしできる時間はまだすこしあるみたい。うれしいな、ぼくの、ゆめだったの」
「夢?」
訊き返すと、こくりと子どもが頷く。そうして小さく滑らかな手で私の剥き出しの手を握る。ガントレットは何処へやっただろうとどうでもよいことを考えながら、握られるままになった。
子どもを見ていると、どうしても「あれ」を思い出してしまう。だから気分は良いとはいえなかった。だが、最悪でもなかった。……不思議な、何かに包み込まれたような思いがした。
「おはなし、聞きたかったの。――のこと。ぼくの、しらない世界をしっているでしょう?」
「……そなた」
透明な此処は、何なのだろう。そして、この子どもが希う「話」とは。「世界」とは。
……現に生きた私とは違う、幽世とも違うこの場所で、子どもは独りだったのかもしれない。何も知らない、知ることも許されない……そして。
手を握られたまま、私は膝をついた。思わず、といった風情で細い瞳を最大限丸くして子どもは私を見つめた。
視線を、合わせる。
「――?」
「私が知っていて、そなたは知らない世界。……知りたかったか?」
問いかけると、子どもは再度頷いた。すっごく、と呟いて笑う。
「ずっとたのしみにしてた。何があるかな、どんな未来があるのかな、ぼくをいちばんと思ってくれるひとはいるかな、ぼくがだいじだと思える人は――のようにちゃんと出会えるかな」
その時分を思い出したのだろう、子どもは期待に満ちた声色で語った。そうして、唐突にへらりと笑みを変える。
でもね、と子ども。
「ぽーんって、はじきとばされちゃった。ぼくがうかうかのんびりぼんやり待ってるあいだに、ぼくは「なにか」にはじかれた。ころころころってころがったぼくを「なにか」はこの世界にけとばして、そうして「ぼく」になった」
「……」
生を受けたその瞬間にアカシア化した子がいた。アルテマによって弾き飛ばされたのは、この透明な世界にぽつんと座り込んでいた子どもの魂。
「ぼくは、ぼくになれなかった。――を苦しめたかもだけど、やっぱりぼくになりたかった。だから、おしえてほしいの。すこしでもしっておきたいの。ぼくのしらない、世界。ぼくが見たかった、けしき。……だって」
――は、ちゃんと生きたじゃない。
子どもの沈んだ声色で告げられた真実は、けして私を責めるものではなかった。むしろ、労わるようでもあった。
「苦しかったかもだけど、つらいことも多かったかもだけど……「ぼく」はたくさん――を苦しめたけど、でも」
「……嬉しかったことも、喜ばしかったことも多くあった」
言い募る子どもを遮り、私は口走っていた。そうして、口を曲げる子どもの頬を反対の手で軽く撫でる。己がそんなことをこの子どもにするだなんて、過去の私は考えもしなかった。疎ましかった子どもに膝をつき、視線を合わせ、言葉を聞いて、頬を撫でるなど。
だが、私のなかにも真実はある。大事な思い出と、その思い出に必ず寄り添ってくれた存在。誰よりも――、そう、誰よりも大切で、愛した存在。愛された記憶。その想いで子どもの悔恨を遮った。子どもを妬ましく疎ましく思っていた私の感情をいつも慰撫した彼は、本当はいったいどのように思っていたのだろう。訊くことはもはや叶わないが、彼の真心は確かに私の支えだった。
心に再び灯ったあたたかい光を頼りに、子どもの頬を拙く撫でる。
「たいせつな、ひとといっしょに?」
「――ああ」
頭を傾けた子どもの頬をするりと撫で、私は笑った。
「たくさん、ぼうけんをしたの?」
「そうだな」
「大空をとぶってどんな気持ちになるの?」
「飛ぶだけなら、爽快だ」
「……そうじゃないときもあったんだ?」
全部分かっているのだろう、小声で問う子どもに私は笑んだ。そうして頷いてみせると、子どもは「……そうだよね」と下を向いてしまった。
「まだ時間はあるか?」
「……え?」
子どもの頭に手を乗せて、私は問うた。どうしてそんな思いになったのか、己でも分からない。だが、そうしたかった。
……これもまた、贖罪なのかもしれない。偽善かもしれない。自己満足なのかもしれない。
ぽかん、と口を開けて子どもが顔を上げる。蜂蜜色の髪をかき回すようにくしゃくしゃと撫でてしまうと、子どもは「わあ」と私に抱きついてきた。
「いいの?」
「……ああ。私も少し話をしたい気分になった」
「ほんとうに?」
「惚気話になるかもしれないが、それでもよければ」
苦しかった、辛かった、嬉しかった、楽しかった。そういった思いのすべては彼に繋がる。私が話をするということはつまり、自然とそうなるだろう。
くふ、と子どもが笑う。その背を軽く叩き、私は子どもにもうひとつ問いを放った。
「そなたの名前を呼んでもよいか?」
抱きついたままの子どもが即座に頷く。
「ありがとう、あにうえ」
上下左右天地のない透明な世界。抱きつく子どもをそのままに、己が辿った道行きを私は語り始めた。
§ §
透明な世界で、何処にも行けないのだという子どもに別れを告げた。この場で、「消滅」を待つのだと。
遣る瀬無い気持ちになった私へ、子どもが手を振る。すべてを知っている様子で「あっちだよ」と子どもが指さした方向へ向かった。
そう、私は幽世へ行くのだろう。幽世に身の置き場があればの話だが、無論罪咎を問われ、闇底に沈められるのは間違いない。近い未来に、それでもおそろしさは感じなかった。
子どもに、語ったからだろうか。それで、思い出したからだろうか。
どれほど私が幸福であったか、そのことを。
透明で不明瞭な世界に少しずつ明暗が生まれる。私は、闇を目指して迷いなく一歩を踏み出そうとした。
それなのに、あたたかな光が――。
§ §
そこで意識が途切れた。いや、とディオンは思う。……「あちら」が夢だったのだ。
急に覚醒した頭が、まずは目を開けよと促してくる。その命令に従い、ディオンは目を開けた。
視界に、真っ先に映り込んだのはテランスの横顔だった。
何に気を取られているのか、此方を見てはいない。穏やかな表情で遠くを見ている。いつの間にか、とうに見慣れてしまった風景でも眺めているのだろうか。ベンヌ湖から突き出す遺跡群に、山並み。陽光を受けたそういった景色を。
……景色?
ふと心が騒めいて、ディオンは視線だけを動かした。テランスには気取られぬように。
テランスの向こうに青空が広がっている。
――つまり、此処は。
「あ、起きた」
動揺のあまり身じろぎしたことで気付いたのだろう、テランスが視線をディオンに向ける。表情と同じように、落ち着いた穏やかな声色だった。
「おはよう、ディオン」
笑み含みでゆるりと言ったテランスに、ディオンは何と返してよいものか一瞬迷った。とりあえず「……おはよう」とは小声で返したが、覚醒したはずの頭がうまく回らない。体の所々がほんのりと温かく、揺蕩うような心持ちになっているためか。そもそも、どうして心地良いのだろうか。ひんやりとした風が吹き込むような季節になったというのに。
透き通った青空。かすかな風。それでも、温かい。そして、少しばかり頭痛がする。頭痛の原因は、分かっていた。夢のせいではない、「枕」が固かったからだ。
隠れ家に着いて早々に、腕を組んで待ち受けていたカンタン卿と作戦室で話し込んだ。その後、サロンにいたオットーから「有益か分からんが」と玉石混合なほどに多様な情報が記された帳面を渡された。彼と世間話をしたり、居合わせた石の剣の隊員達と話し込んだりして、それから帳面を読み始めた。「冷えてきたからな」と置かれた薬草茶を飲みながら、弱々しい陽光のもとで情報を頭に叩き入れていたはずなのに――、いったいいつの間に寝こけていたのか。しかも、テランスの膝枕で。
「少し肝が冷えたよ。呼ばれて戻ってきたら、卓に突っ伏しているんだもの」
状況把握がうまくいっていないディオンの様子を察したのか、テランスが言う。誰かのショールだろうか、ふんわりとした布が上体に掛けられていて、その上にテランスの手が置かれている。優しい熱の源泉を知ったディオンは、僅かに目を細めた。
「オットー殿が状況を説明してくださって、デシレーが膝掛けを貸してくれて」
「……起こしてくれて構わぬのに」
逆恨みだとは分かっていても、つい不平を言ってしまう。随分と腑抜けになった、と己のことも叱咤しながらディオンは起き上がった。
「少しね、訳ありで」
「……訳あり? 呼ばれて? それに、状況とは……」
テランスとは別行動をとっていた。数刻前、ハヴェル卿に己とは反対方向へと引っ張られていったテランスの背をディオンは思い出す。テランスを軍事方面の上層部に据え置きたいと「引き抜き」を図ったこともある風の三志士だが、即座にその話をテランスが蹴った後もあれやこれやと「相談」を持ちかけている。テランスは他の適任者をと強く望んでいるが、「代わりが思いつかない」という名のもとに相談役を負わされていた。
今回の訪問も、例によって今のヴァリスゼアをなんとか回している三志士からの「招集」だ。無論、此方としても隠れ家で得られる貴重な情報は有難く受け取っている。地理的に見ても、隠れ家はどの方面にも通じている。情報が集まりやすいのは、協力者が多いためだけではなかろうとディオンは思っていた。
「ハヴェル卿との話は終わったのか?」
問いを繰り出したディオンに、テランスは「ええ、まあ」と曖昧な返事をした。
常ならば、何を話したか概略だけでも伝えてくるのにこれはどうしたことだろう。ディオンは己の眉根が寄るのを感じた。何かはぐらかされている。「あの」テランスが隠し事をしている。……それにしては随分手抜きな隠し方だとは思ったが、それでも愉快な気分にはなれなかった。
「テラ……」
尖ってしまう口ぶりで名を呼ぼうとしたディオンを、テランスは遮った。自分の唇を使って。
「……。……どうし、た?」
触れるだけではあったが唐突な口づけを受けたディオンは、戸惑った。テランスの一連の行動も、己が今置かれている「状況」や「訳あり」とやらも分からない。そういえば、賑やかだったはずのサロンに人の気配がまるでない。石の剣の隊員達も、オットーも、デシレーも、ゴーチェもいない。忙しく立ち回っている隠れ家の住民達のささやかな気配も、ない。「人」ではないネクタールは……と気が逸れたディオンに、ごく間近で見つめていたテランスが軽く溜息をついた。
「テランス?」
その溜息にもディオンは心当たりがなかった。知らぬ間に何か大ごとでもあったのだろうか。何かしただろうか。……何もしていないはずだ、と思う。寝こけてしまったことで周囲を心配させてしまったのかもしれないが、それでも無人になるくらいの大ごとではないだろう。
眠っていた。夢を、見た。……それだけのことなのに。
「まいごの、まいごの」
コツン、と額を合わせ、テランスが突然わらべ歌を口ずさんだ。懐かしいが、とディオンが不審に思うよりも早く、わらべ歌のなかにある問いをテランスが突き付けた。
「あなたのおうちはどこですか」
眠っていた。夢を、見た。……覚えている。
「……此処、だ」
合わせたままの額を少しだけ離し、ディオンはテランスに軽く頭突きをした。「痛いよ、ディオン」と言いながら、せわしなく瞬きを繰り返した彼の胸元を指先で突き、ディオンは分からないなりに笑んだ。
「いつでも私の心はお前の傍に在る。迷うことはもうない。……何か思うところがあるようだが?」
こうして探っていても仕方がない。単刀直入に訊いたほうが良いだろう。
そう判じたディオンは、何処か安堵した様子のテランスに凭れかかった。
§ §
初めに気付いたのは、オットー殿だったようです。テランスは何故か敬語でそう話し始めた。
卓に突っ伏して眠っているディオンに、珍しい、とオットーは思いながら近寄った。既に季節は晩秋を越して初冬ともいえるこの季節、屋外で寝てしまうのは体に良くないだろう。そう思って、オットーはディオンを起こしにかかった。
普通の足音でオットーが近寄っても、ディオンは目を覚まさなかった。気配に敏いはずの元軍人でも気付かないとは、余程深い眠りに落ちているのか、とオットーは不思議に思ったらしい。隠れ家に着いて早々に忙しく「密談」やら「情報収集」やらに追われていたようだったから、仕方がないのかもしれない。あるいは、昨夜に何かしらがあったのか。まあ、どう過ごしたかなんて、それはどうでもよいのだが。
オットーはディオンを起こしにかかった。『ルサージュ卿、風邪をひきますよ』と肩を揺らして声をかけても、ディオンは眠りの世界から帰ってこない。むにゃむにゃと寝言を言っている様子と、両腕に乗せた横顔がほんの少し険しい表情をしていたことで、ディオンが何らかの夢を見ていることを告げていた。
寝言は、断片的にしか聞こえなかった。誰かと話している様子だったが、よく分からなかったのだという。
いずれにせよ、このままにしておくわけにもいかない。やはり、風邪をひいてしまう。いつの間にか集まっていた周囲の視線を散らし、オットーがディオンの頬をあくまで軽く叩こうとしたとき。
眠ったままのディオンが、とある名を呼んだ。
§ §
「オリヴィエ、と私は呼んだのだな?」
夢だったのに仔細まで妙に覚えている。そのために、テランスの説明の先を行くのは容易かった。
複雑な心境を表に出して、テランスが頷く。
「……ええ。オットー殿はその名とディオン様……ディオンの関係を知っていましたから、驚いたようです。夢魔か何かと思い、ゴーチェを私のもとへ走らせ、人払いをなさった。タルヤ先生やハルポクラテス先生へ相談する前に「まずは」と思ってくださったそうですが、息せき切ってやって来たゴーチェに単語だけで状況を伝えられたときには血の気が引く思いでした」
肝が冷えた、先程のテランスの言葉をディオンは思い出した。確かに、あの名は己にとって未だ禁忌に近しかった。それを知る彼だからこそ、ハヴェル卿との話を打ち切ってでもやって来たのだろう。
しかし、テランスがやって来ても状況は何も変わっていなかった。眠りのなかで寝言を言っている様子のディオンを目の当たりにし、テランスは衝撃と動揺を同時に感じたらしい。
「このまま貴方が……、君が夢の世界へ行ってしまったならどうしようと。また切り離されるのか、と」
肩にテランスの手が乗せられる。きゅ、と軽く抱き寄せられ、ディオンは目を細めた。
「タルヤ先生を呼びました。デシレーから膝掛けを借りて、寝違えたら大変だからベンチに横たわらせて」
膝枕だったのはそういう経緯かとディオンは納得した。気遣いは有難かったが、頭が未だ少し痛い。寝違えた、まではいかないが。
しかし、本題ではないので膝枕のことは心に秘め、ディオンはテランスに先を促した。
「タルヤ曰く?」
「ただの居眠りだということでした。相当呆れ顔で……僕の顔を見て溜息をついて、『呼吸も確かだし、いびきもしていない。表情も穏やかで苦痛はなさそう。放っておいてもそのうち起きる。心配性も程々に』と」
タルヤの溜息と「程々に」という言葉が含む意味合いに、ディオンは苦笑した。四方八方は何か誤解しているようだが、昨夜は「何もしていない」。より正確に言えば、「仕掛けたが、躱された」といったところだろうか。
「……夢を見ていた。未だはっきりと思い出せる」
テランスのあたたかな熱を享受しながら、ディオンは回想した。夢というものは、普通はすぐに霧散するはずなのに。
何かを告げたかったのだろうか。誰が、誰に?
……それは、きっと双方で。
何処か別の場所へ辿り着きたいと思っていた。闇底こそが相応しいと、目指した。
……今は、彼の腕の内こそが着地点だと分かっているけれども、未だあのときは。
「透明で不明瞭な世界で、会ったのだ。弾き飛ばされた、あの魂に」
「魂……」
繰り返したテランスに、ディオンは頷いた。
「そう。「あれ」――オリヴィエになるはずだった魂だ。本来の性格なのか、私の思い違いだったのか、人懐こい性格をしていた」
「俄かには……信じ難いですが、君がそう言うなら」
己と同等、あるいはそれ以上に、テランスはオリヴィエに――母親の操り人形としか見えなかった子どもに良い感情を持ち得ていないだろう。事実はどうであれ、アルテマの企みの贄になった子は彼の最愛を――つまりは己のことを――傷つけたのだから。
口籠るテランスに、ディオンは微笑んだ。
「子どもの魂は言っていた。やはり「自分」になりたかったと。知らない世界、見たかった景色。そうしたものを感じ取りたかったのだと」
「……」
ディオンは少し顔を上げると、険しい顔つきのテランスを見つめた。子どもにそうしたように頬を撫で、ゆるりと笑う。
「苦しいことも、辛いことも多くあっただろうが、【兄上】はちゃんと生きたじゃない。そうも言っていた」
「ディオン……、それは」
頬を撫でるディオンの手をテランスがしっかりと掴む。何か思い違いをしているテランスが愛しく、切なかった。
所詮は夢だ。それもかなり都合の良い。
だが、燻っていた想いがその夢で昇華されたのは本当のことで。
「喜びも多くあった、私はそう答えた。そうして……幾つかの問いの後に、名を呼んで話をした」
オットーが気色ばんだのも無理はないだろう、ディオンはそう思った。後で軽く説明し、何か奢ろうと思う。
「その先で何を話したか……そこだけは実は定かではない」
ディオンが正直にそう告げると、何故かテランスは盛大な溜息をついた。
「僕が君の寝言を聞いたのは、そこから」
「なに?」
溜息の意味が分からない。思わず、返したディオンにテランスが説明する。
「タルヤ先生が診終わる頃に君の寝言が具体化し始めて、そのどれもが本当に僕のことばかりで」
思い出したのか、テランスの頬が赤らむ。
「タルヤ先生は「あらあら」って呆れ顔のままで医務室に戻ってしまうし、君は嬉しそうに眠っているし……。必ず起きるのなら、と思って君の惚気話を聞くことにしたんだ。……話し相手には問題があったけど」
付け添えられた言葉には取り合わず、しかし、ディオンは羞恥に震えた。確かに、あの子どもには言った。「惚気話になるぞ」とは。
だが、実際に何を言ったかは覚えていない。
「私は……何を言っていた?」
そろりとディオンが訊ねると、テランスは頬を朱に染めたままにっこりと笑って「秘密」と言った。
「……秘密事が増えていないか?」
「そうだね」
不服げなディオンの問いにあっけらかんと答え、しかし、テランスは急に真剣な顔つきになった。掴んでいたディオンの手を離し、そうして両腕でディオンを自らの内に囲った。
突然の抱擁に、ほんの一瞬だけディオンは固まった。だが、すぐさま力が抜ける。
「帰って来てくれて、ありがとう。僕のことを想っていてくれて、本当にありがとう」
「……言っただろう。今ではお前こそが私の居場所なのだと」
テランスの背を撫で、ディオンはテランスが口ずさんだわらべ歌を思い出す。まいごの、まいごの……。
――そう、此処が。願う闇底を打ち払った、あのあたたかな光こそが、私の。
消滅を待つあの子どもにも届くように、ディオンは心の内で呟いた。