銀色の片道切符はふたり分 棺の中で眠る彼を見て、初めて湧いた感覚は既視感だった。仲間として迷宮へ潜っていた際、何度も見た死の姿。
しかしよく観察していると、乾きはじめている頬や唇、昔は無かったであろう目元の笑い皺が視界に次々と映り込んで、ああ彼は本当にいなくなってしまったんだとそう思う。太く短くでもいいと自身の生き方を語っていた彼を思い出す。しかしながら近年は「もうちっと足掻いてみるか」と優しく笑っていたことも。それが他ならぬ自分のための言葉だと人の心に鈍い自身でも気づいていた。
老後はゆっくりしたいと零しながらも結局晩年まで同族のためにせわしなく動いていた。そういう人間だった。
「ライオスさん、私たちは一旦これで」
言葉少ないながらも気を遣ってくれたのだろう、メイジャックの申し出はありがたかった。まだもう少し彼とここにいたいと思っていたから。
そっと頬を撫でると、いつもとはまた別のカサついた感触がした。数えきれないほど重ねた唇、普段は触れることを特段に嫌がっていた大きな耳にも指を這わせる。冷たい温度だ。彼が好奇心のままに触れるといつもは飛んでくるはずの怒号が今日は鳴りを顰めており、なんだか可笑しいような変な心地がした。
「チルチャック」
名前を呼んでも、返事はない。自分の名前を呼ぶ声の記憶を思い返す。甘い言葉が苦手な彼だったからこそとびきり優しい声で名前を呼ばれるのが好きだった。自身の名前を好きか嫌いかなどとは考えたことがなかったが、特別大切に呼ばれる名前はすごく良いもののように思えた。
彼はそうして俺を作り変えることが得意な人だった。チルチャックと過ごした十数年で俺は沢山の心を作り変えられてしまったのだと思う。
はたりと温い水分が頬を伝った。目頭が熱い。視界が歪んで、手元が見えない。泣いているのだと気づいた時には呼吸が苦しいほどの嗚咽が小さな部屋に響いていた。
形見だと渡された品を手の中で握りしめる。遺産の分配も形見の仕分けも全てきちんと手筈が整っていた。処分するものも随分少なくて済むのだとフラートムが困ったように笑っていた。全くパパらしいです、と。
「チル、チルチャック」
名前を呼ぶ。縋り付くようなみっともない声だ。昔の彼なら脹脛を蹴飛ばされていたかもしれなかった。
彼が居なくなる時間に向けて確実に時が進んでいたのだと思うと、胸がただひたすらに痛かった。過ぎたことをいつまでもとやかく言うのは彼が嫌うことだったはずだ。そうわかっているのに思考が巡って止まない。目を閉じると思い出す。怒られたこと、甘やかされたこと、それから愛してくれたこと。
何か自分にできることがあったんじゃないか。
そう思うことが彼への敬意に欠けることだったとしても過ぎた警告が今更心の中で鳴り響く。
もっと二人の時間を増やせなかっただろうか。
もっと言葉で気持ちを表現できなかっただろうか。
もっと彼を大切にすることができたのではないだろうか。
そこまで考えて、はたと目を開いた。背中を懐かしい力で蹴飛ばされた気がしたからだった。
「……チルチャック?」
相変わらず小さな部屋には静寂だけが横たわっている。しかし、双眼から零れて仕方のなかった涙は驚きと共に止まっていた。
もう一度、永遠の眠りについたチルチャックを見つめる。穏やかな表情だった。心なしか満足そうにさえ見える。
「君ってやつは……そうだよな」
すとんと胸のつかえが無くなった心地がした。いや、無くなったと言うよりも適切な場所に収まったと言う方が近い気がする。
手のひらをそっと解く。体温で温められた鉄の小さな輪が、きらりと輝きを放っていた。首に下げた彼のものより一回り大きな銀色に、それを並べて通す。
「これは少しだけ俺が預かっておくよ」
そう声を掛けて椅子から立ち上がった。揃った二つの金属が僅かに異なる音を立てる。冷たいはずの音がとても柔らかく耳を撫でた。ドアノブを握って振り返った。一度だけ。
君と過ごした時間は俺にとっての全てではないけれど。俺にとっての永遠だ。
パタンと扉を閉める。ぐうと満を持したように胃袋が鳴った。炒めたきのこの香りがキッチンから流れてきている。深呼吸をして、もう一度二つの銀色に触れる。リビングから賑やかな声が響いていた。強い人たちだと、そう思った。
香りに呼ばれるようにみんながいる食卓へ向かう。きっともうすぐ昼食になるだろう。