いろ、ふかし東京都内では連日最高気温を更新する七月の下旬。
ここ神奈川県は相模湾に面した閑静な住宅街に、今からおよそ半世紀前に創設された私立陵南高校は、そんな都心部に比べれば海風のおかげで盛夏を向かえても三度ほど低い気温で過ごしやすかった。
(暑いもんは暑いが)
高校進学後の初の公式試合、高校総体県大会をベスト4という結果で終えた仙道彰が所属する陵南高校バスケットボール部は、早朝からの文字通り地獄のような練習を午前中いっぱい耐え抜き部室でだらだらだらと着替えている。二年生を先に上がらせて、一年生だけの部室は気心知れた仲間内のおしゃべりで賑わっていた、が。仙道は、部室内の奥に雑に置いてあるパイプ椅子を跨ぐように逆に座り背もたれに腕をのせてぼんやりとしていた。
『越野遅いなー、もう帰ろうかな…そもそも今日の約束も覚えてるのかあやしいな…向こうから言ってきたくせに』
エアコンなどと上等なものがこの男子更衣室にあるわけもなく、全開にした窓から吹き込む生温い海風に晒されながら、仙道は、待てど暮らせど戻ってこないチームメイト兼クラスメイトに胸の内で文句を付けた。そうしているうちに、とりどめなく続けられていたおしゃべりは6月にシーズンを終えた国内と海外プロリーグの話題になっていた。そうなると自然とお気に入りの選手は誰かという実に健全なバスケ部らしい内容で盛り上がり、プロの選手のみならず実業団のいち推し選手の名も上がる。
皆、自慢したいのだ。
自分の贔屓がどれだけすごいか、どれだけチームに貢献し勝利に導いて、誰からも愛されるプレイヤーである、と。各々がそれぞれ海外や日本人選手の名前を挙げる中、ようやく越野が戻ってきた。
「うぃーす、ておまえらまだいたの」
「あれ、越野こそ今までなにしてたんだ?」
仙道が声をかけるよりも早く入口付近にいた植草が越野の登場に気付いた。
「池上さんの手伝いしてた」
「へー」
「来週の合宿の準備だって」
「あ〜、そうだったな」植草が納得したように頷いた。
手早く帰り支度を済ませる越野に奥の方から声がかかる。
「なー、越野は?」
「誰のバスケが好き?」
「だれの…」 投げられた言葉に一瞬考え込む。
「越野はあれだよな、ヒートの、」
「仙道」
「ん?なに」
越野のお気に入りを知っていたのでつい先に口出ししてしまった仙道に越野が呼び掛けた。
「だから、仙道」
数秒、静まり返った。
そして爆発音のような笑い声が部室内に蔓延した。隣のバレー部がいたらあまりのうるささに怒鳴り込んできたことだろう。
「えっ!?なんでなんで、そういう話じゃねーの?!」
皆の反応に越野は驚いているが仙道だって驚いている。
「いやそういう話だよ」
「合ってる合ってる」
「お前は間違ってない」
「越野は入部した時から仙道一筋だから…」
「植草!」
ほぼ全員に冷やかされるが越野としては真面目に答えたつもりだった。
(だってあんな聞き方されたら誰だって)
思わず縋るような目を向ければ、困ったように笑う仙道と目が合う。
そして、
「帰る!」
真っ赤な顔で出ていった。
「あーもー」
せっかく待っていたというのに。
乱暴に閉められた扉を見て、柄にもなく大きなため息をひとつ吐いた。
「いや〜愛されてるねえセンドークン」
「熱い、離れて」
揶揄うように肩に回された腕をかったるそうに外してやっても相手はケラケラと笑っていた。
「でもなんで仙道なんだろうなあ」
「え」
聞き捨てならん。
「越野ならさ、ほら、牧や藤真とかいるじゃん?」
「神奈川の双璧コンビか」
「そうそう」
ガードなら1度は憧れるであろう、神奈川屈指のポイントガードコンビの牧紳一と藤真健司。決勝リーグ、海南大付属と翔陽の試合を越野が観客席から二人の豪傑がぶつかるところを固唾をのんで見守っていたのを知っていた。
「藤真なんて、たしか中学の先輩だったんじゃないか」
「あー、そうだったそうだった」
「うちに入った時は驚いたもんなー」
「てっきり翔陽に行くもんだと思ってたよな」
「ふうん」
なんとなく面白くない。
福田が渋い表情で言った。
「…それなのに神奈川ぽっと出の男にうつつを抜かすとは…」
「ぽっと出?!」
「ミーハーなんだよ」
植草が訳知り顔で言い切った。
「じゃあ来年富中の流川がうちに入ったら越野のイチバンも変わっちゃうかもな」
「落ち込むなよ仙道、しょせんファンなんてそんなもんだ」
仙道は小さく鼻を鳴らすとわははと笑うチームメイトたちを軽く小突いて席を立った。
なおも部室でのんびりしている部員たちを残して先に出ると、先に出ていった越野が汗を拭いながら正門前で待っていた。
「おせーよ」
「帰ったかと思った」
というより遅かったのはお前だ。
ムッとしたので屈んで顔を覗きこめば、越野はバツが悪そうに俯いた。
「忘れてたわけじゃねーんだぞ、でも頼まれちゃったから…先輩だし」
ごめんとしょんぼりする顔を見て、仙道の眦が下がる。
「うちで観るっていってたDVD、貸してやるから今日はもう帰れば?」
学校指定のドラムバックから取り出したお目当ての物を出してみるが、越野は勢いよく首を振った。
「ひとりで観たってつまんねーもん」
「そうかぁ?」
「そうなの!」
「えー」
(本当はもう帰ってひと眠りしてぇんだけどな〜)
自然と大きなあくびが出てしまうが、そんなにでかい口あけてると蝉が飛び込んでくるぞと越野が脅すので眠気も吹っ飛んでしまった。
「先、入って」
「おじゃましまーす」
玄関を開け先に越野を部屋に通す。勝手知ったると言った具合にキッチンからフロアを仕切るドアを開け、そしてなぜか立ち尽くしていた。
「どうした?」
「俺…どこに座ればいいの」
部屋一面が、ベッドに侵食されていた。文字通り足の踏み場もないとはこのことだった。
「ベッド買い替えたから」
なんて事ないように言うがどうみても生活には支障が出るサイズだった。
「前よりでかくね?」
「でかいよ」
「部屋に見合ったサイズにしろ!」
2メートルの巨体を誇る魚住でも寝れそうなこのキングサイズ以上のファミリーサイズ。少なくとも六畳一間の物件に置いていい物ではない。
「仕方ないだろまた伸びちまったんだから」
「まだ伸びてるのかよ…」
「バッシュ買いに行ったら店長さんが測ってくれて1センチ伸びてた」
「うそだろ〜」
「寝る子は育つんだ」
「言ってろ!」
自分はようやく170に到達したと言うのに。
越野は悔し紛れにベッドにダイブしてやった。
「すげっ」
「今の良かったな」
「よく走ってたなー」
15インチのノートパソコンから大歓声が響き渡る。興奮気味な会場アナウンサーが同点シュートを決めた選手の名を叫んだ。派手なダンクシュートでもなく、美技極まるスリーでもなく、ただただ基本に忠実な手本のようなレイアップ。敵も味方も2メートル前後の選手がひしめくコートの中で、小柄なその選手は相手ディフェンスの厳しいマークを掻い潜り、味方からの絶妙なパスを受け取りシュートを決めた。
「俺けっこうこのひと好きかも」
越野はすっかりこの選手に魅入っているようだ。
「…こないだ言ってたやつと違うけど」
「あん時はあん時!今は今!」
『越野はミーハーだから』
先ほどの植草の言葉がよみがえる。
「今日だって、プロならプロって言えよ」
「ん?」
「帰りの部室で!聞かれたじゃん、つーかあの聞き方!紛らわしい!」
「あー」
「もう俺めちゃくちゃ恥ずかしかったんだからな」
思い出すだけで顔から火が出るようだ。
「うーん」
「なんだよ」
「まあ将来的にはそうなるし」
「え」
「だから越野は間違ってない」
仙道はあまり先の話をしないので越野は素直に驚いた。
「自信、あるんだ」
「あるよ」
普段からその高校生離れした実力をひけらかさないから余計だ。明日の予定のようにさらっと言う。発言に裏付けられた実力。でも、才能だけじゃないことはすでにチームの誰もが知っている。
誰よりもバスケに対しストイックなのだ。本当は。
何となく悔しいので憎まれ口を叩いてやった。
「でも海南の牧にはまだまだじゃん」
すると仙道が黙って越野をじっと見据えた。
少し焦る。
「な、なんだよ」
怒ったのかな。
「俺と牧さんどっちが好き?」
「は?」
思いも寄らないことを言われた。
「そりゃおまえだろ…」
「…じゃあ藤真さんだったら?」
「はぁぁ?」
藤真は中学の先輩だ。
「さっきからなにいってんの」怪訝な顔を向けるが仙道は一向に態度を崩さない。
そして、ふと、気が付いた。
(好きってそういうことか…)
今更ながら思い至る。
海南大付属の牧、翔陽の藤真。
そして陵南の仙道。
仙道だけが、無冠のままだ。
「…たしかにお前は、今はまだ神奈川ナンバーワンプレイヤー…じゃないけど」
「…」
「…ナンバーツー…でもないけど…」
「……」
「えっと…」
越野が指折り数え始めると仙道は渋い顔で慌てて止めた。
「でも」
越野はまっすぐに仙道を見る。
「俺にとっては、おまえがナンバーワンなんだよ」
他の誰よりも、おまえだけ。
「こしの、」
「おれは、」
仙道の胸倉を引き寄せて、越野は静かに言葉をつづけた。
「全国のやつらに自慢したいんだ、陵南の仙道はこーんなにすげーやつなんだって」
言葉が、出なかった。
こんなにまっすぐな感情、向けられたことは初めてだった。
「…だから来年は絶対」
「…うん」
「高校ナンバーワン、なろうぜ」
鼻と鼻が触れそうな距離で、意志の強そうな瞳が仙道を見上げている。
(吸い込まれそうだ)
仙道の手が越野の後頭部に回る。形の良い小ぶりな頭、サラサラの黒髪が指と指の間を滑り抜ける。その手がするりと頬を撫で上げると、越野は我に返ったかのように仰け反った。
「いてっ」
すぐ後ろにある壁にぶつかり軽く仙道を睨み上げた。
「もー!狭い!」
他人の部屋に来ておいて勝手なことを言うが何となく顔が赤い。
「ほんと圧迫感半端ない」
「俺はやっと大の字で寝れるんだがな」
「寝ること以外は完全に放棄してる部屋じゃん!」
「ははは」
先程までの雰囲気など微塵も感じさせないやり取りに仙道も笑うしか無かった。
「テレビもねえし」
「実家でもたいして観てなかったからな」
「バスケもパソコンで観れるもんなー」
「NBAだけはこうして親に頼むしかないけど」
笑えるくらいバスケ馬鹿の会話だった。
越野は改めて部屋を見渡した。
部屋の隅に転がったボールとバッシュと、乱雑に積み上げられているバスケ雑誌が、この部屋の主を表しているようで。
「こんなんじゃ彼女呼べないじゃん」
「彼女は呼べなくても越野は呼べる」
「そういうもんかよ」
「そういうもんだよ」
変な会話。
互いの顔を見合わせて笑ってしまった。
なんだか、悪いことしてないのに、悪いことしてる気持ちになる。終始ベッドの上にいるからだろうか。
「あー、そろそろ帰るか」
「え、泊まってかねーの」
「なにも持ってきてねえもん」
「そういう流れだったじゃん」
「どういう流れだよ!」
ちぇー、と口を尖らせている仙道を脇目に置いて、越野はさっさと帰り支度をした。
「明日は遅れるなよ」
「起こしに来てよ」
「やだよ!うち長谷なんだぞめちゃくちゃ遠回りじゃん!」
「えー」
「起きたら鬼電してやるから」
「電話くらいじゃ目が覚めない」
「ピンポンしたって起きねえだろ!」
「鍵いる?」
「いらねえ!」
「ああ言えばこう言う〜」
「こっちのセリフだ!!」
じっと睨み合って、また笑った。
「じゃあな!」バカ仙道!
今度こそ出ていった。
「あー越野おもしれー」
部室を出ていった時と同じように乱暴に閉じられた扉を眺め、うーんと両腕を伸ばしてそのまま寝心地最高のマットレスに身を沈めた。
こんな部屋に女は呼べないだと?
呼べないわけないだろう。ひとり暮らしの部屋に馬鹿でかいベッドさえあればやることはひとつしかない。ついこないだまで中坊だったとしても、越野はこの手の雰囲気に大変疎い。ひとえに苦手なだけかもしれないが。仮に泊まることになっていたとしても、普通に仙道の隣でぐうすか朝まで眠りこけるに違いない。でかいベッド、やっぱいいな〜とか、ひどくのんきな顔を仙道に向けて、持ち主よりも先にこの馬鹿でかいベッドに大の字になるのだ。
『ナンバーワン、なろうぜ』
「ナンバーワンか…」
仙道が日本一の高校生になるということは、すなわち、陵南が全国制覇を成した時。
「でけーこと言うなぁ…」
ちびのくせに。
言うと怒るけど。
あ、170にはなったんだっけ。
陵南が大好きな越野の夢
ミーハーな越野が好きな、日本一の高校生
「とりあえず全国きめたらやらせてくれるかなぁ」
なんてなー、ははは
越野のつるりとした頬を撫ぜた掌を翳し、その感触を思い出す。
「──ちょっとやばいかも」
図体ばかりが大きい子どもには少し持て余し気味な感情が、夏の宵へと沈んでいった。
end