そして、永遠の短さよ 警察庁警備局警備企画課近くの自販機コーナーにて、赤井秀一は降谷零の姿を見かけた。思わず小さく胸が弾む。まるで少年のような自分に人知れず苦笑を零し、赤井は降谷の姿を再び認めた。
彼の手にはメモのような小さな紙が握られており、すぐ近くまで接近していた赤井に気付くことなく、そればかりを注視していた。長きに渡る潜入捜査を熟してきた降谷らしからぬ集中力の有り様である。この距離で気付かれない方が珍しい。
「降谷君」
声を掛けて、ようやく降谷の青い瞳が赤井を見た。きょとんとした表情は、年齢よりも若く見られる彼の顔立ちをより幼く見せる。
ふと気を緩めたのは一瞬だったのだろう。降谷は失態を恥じるような表情を浮かべると、すぐにいつも通りの澄ました顔を取り繕った。
降谷の顔を見たのも随分久しぶりのことのように思える。皺ひとつないスーツを身に纏う彼は、顔色も悪くなく、赤井のよく知る完璧に整えられた降谷零の姿をしていた。
感情の重きや好き嫌いはともかく、気にかけている人間の元気な姿を見れば、誰であれほっと一息吐くものだろう。赤井とてそれは例外ではなかった。
「珍しいですね。こちらまで休憩に来るなんて」
「たまには缶コーヒーの甘さが恋しくなってな」
FBIが間借りしている部屋にもコーヒーメーカーは置かれているが、香り高いそちらよりも甘さのあるとろりとした缶コーヒーが飲みたい気分だったのだ。
〝黒の組織〟と呼ばれる犯罪組織の壊滅から半年。FBIはその捜査と検挙の延長から、現在も警察庁庁舎内に日本での捜査チームの分室を設置していた。外交と諜報の面から問題視されているが、未だ警備局警備企画課と同フロアに分室は置かれている。
二人がたまたま顔を合わせたのは、FBIの分室と警備企画課の間にある自販機コーナーだった。このフロアに自販機はここしかないため、FBI職員と警備企画課の人員が鉢合わせする可能性は極めて高いのだが――
「君の方こそ珍しいんじゃないか? あまりここには来ないだろう」
赤井とて自販機の利用率が高いわけではない。しかし今日のように缶コーヒーを買いに来ることはあり、赤井は一度たりともここで降谷の顔を見たことはなかった。
「僕は別にコーヒーを買いに来たわけではありませんから」
愛想の欠片もなく降谷が言う。いや、受け答えしてくれるだけの愛想はあると見るべきだ。
赤井は、二人が辿ってきた道のりから、会話を熟すだけでも難しいということを十分知っている。以前ならば、赤井が話しかけても降谷の方に会話を続ける気がなく一方的なものになりがちだった。
それが今では、ぎこちないまでも会話のキャッチボールを行うことができる。過去を鑑みれば大きな変化だろう。
「どこかに呼ばれた帰りか?」
降谷が手にしている小さな紙片。ヒントとなるのはそれだろう。かく言う赤井も、胸ポケットに似たような紙片が入っている。それが同じものとは限らないが。
「……貴方には関係ない」
突き放すかのような降谷の態度。時間が経つにつれて薄れていったはずの気難しさを垣間見た気分だ。
「恐らくだが、俺も君と同じものを持っている。休暇届けだ。違うか?」
自論を述べれば、降谷がさも不愉快だというように眉を顰めた。彼は赤井に自分のことを当てられるのをことごとく嫌っている節がある。
この自販機コーナーを訪れる前、赤井は上司であるジェイムズに呼ばれていた。呼び出し理由は休暇日数の少なさについて。他のメンバーは、労働者の当然の権利であるとしてきちんと休暇を取得しているというのに、赤井が自主的に取得した日数はゼロ。このままでは本国の監査に煩く言われる、云々。
信頼する上司は溜息混じりにそう語り、「まずは何もしない、という生活を思い出して見ることだ。大学院生として潜っていたときのようにカレーでも作ってみるといい。ただし時間を掛けて、きちんと野菜に火の通ったものをな」と半ば無理矢理休暇届を握らせたのだった。
「悔しいですが正解です。よく分かりましたね」
時期と降谷の性格を考えれば、同じような話が彼の元にも舞い込み、どこにいるとも知れぬ警備企画課長もしくはさらにその上の人間から休暇届を握らされたのだとしてもおかしくはない。
赤井と降谷は自他共に認めるそれぞれの組織のエースだ。そんな二人を同時期に休ませるというのも、迂闊というか、不安が募るというか、日本式に言うならば「報・連・相が両組織間でできていない」のではないか。自分たちが抜ける合間に何かあったら、と思うことは少々自信過剰と言えるかもしれない。
「上司の手腕にまんまとやられて帰ってきたところですよ。全く、この組織は上層部に妖怪しかいない」
なんとなく、降谷が休暇を取得させられた経緯が見えるような気がする。上司から日頃の労を労われ、休みも十分取れていないのではないかと心配される。はあ、などと相槌を打っているうちに、あれこれと畳み掛けられ、「休暇の取得は早速今日からで構わない」などと休暇届を握らされた。そんな流れが想像に容易い。
「俺もジェイムズに似たようなことをやられた帰りだ。おかげで午後からの予定が白紙になってしまった」
本当ならば、今日は午後から組織が使用していた火器の出処を探るチームに参加する予定だった。ライとして組織に潜入していた時分は、使い慣れた愛銃を持参していたが、他のメンバーも同様だったとは限らない。仕事道具にこだわりを持っていそうな上位構成員はともかく、下位構成員などは組織から銃器を支給されていた者の方が多い。武器の動きは金そのものの動きともいえる。そのための捜査だった。
「僕は貴方とは違って率いる部下がいますので、彼らに指示を出さないと……午前の残りは指示出しで終わりそうです」
「そうか……同じ予定の者同士、君の都合さえ良ければ一緒に昼食でも、と誘いたいところなんだが……」
赤井はちょっと困ったようなかのような面持ちを作り、降谷を昼食に誘った。あえて弱った表情を浮かべたのは、向こうの事情――多忙さや赤井との関係を踏まえた心中――を承知の上での誘いだというポーズである。
食事に行きたいのは本心からだが、こちらの下心を察せられても困る。赤井が降谷を気にかけているのは、過去の因縁だけが原因ではない。惚れているからだ。彼の魂の在り方、姿形、その全てに惚れている。
勿論この想いは赤井の一方的なものである。告げるつもりもないというのは綺麗な嘘に過ぎるが、独りよがりに押し付けるつもりもなかった。今のようにちょっとした言葉を交わせる、友人のような関係に落ち着いただけ僥倖というものだろう。
降谷からしてみれば、過保護ともいえる赤井の行動は度々癪に障るものらしい。親友の死を隠蔽され、その心が傷つかないようにと庇護されてきたのは、当の本人からすれば怒りを通り越し相当堪えるものだったようだ。
赤井が取った行動は、憎しみによって降谷を喪失の傷から遠ざけるためのものだった。狙いは全て当たった。だが、失ってしまった信頼や一度得てしまった不信感といったものはそうやすやすと挽回できるものではない。だから現状で満足すべきなのだ。欲しがりすぎては今度こそ全てを失いかねない。
降谷が何か思うことがあるかのように一旦目を伏せた。もう一度その眼差しが赤井に向けられたとき、青の中には読み取り切れない感情が含まれていた。
「――家に遊びに来ますか」
「……なんだって?」
言われたことはきちんと聞き取れている。ただ、その内容があまりにも俄には信じられないものだっただけで。
「予定がなければ、僕の家に来ますか、と訊いたんです。昼食くらい振る舞いますよ」
赤井が余程信じられないといった顔をしていたのだろう。降谷は目を細めると、こちらに言い聞かせるために一節一節区切るようにして口を開いた。
赤井は二度目にしてようやく意味を飲み込んだ。信じられない気持ちは残っているが、降谷の家に誘われていることは十分理解した。いや、これは決して誘いではない。来るかどうかのイエスかノーを訊ねているだけで、「来ませんか?」という誘いの形を取ってはいないのだから。
赤井の本心としては四の五の言わず頷いてしまいたい。だが、降谷が告げた言葉はどこか不自然に過ぎた。人を自宅に招くのに、誘いの形を取っていないというのは奇妙にも程がある。
「誘いは嬉しい……だが、理由を訊いても?」
「そんなに奇妙なことですか」
「誘いと言ったが、先程の言葉は自宅への招待と受け取っていいんだな? 言葉遣いが、その、少し妙だと思ってな」
「妙、ですか」
赤井の言葉を受けて尚、降谷が動じる様子を見せることはなかった。かといって赤井の物言いを真っ向から否定し馬鹿にするようなこともなく、受け止めるだけ受け止めその都度疑問を口にしている。
「……友人を。友人と呼べるような人間を誘うのは久し振りなもので。妙な言葉遣いになっていたとしたら謝ります。上司や部下、接触対象でもない人間とどう話すべきか無意識のうちに戸惑った結果でしょう」
ゆうじん、と赤井は鸚鵡返しすることしかできなかった。まさか降谷が自分のことを友人と認識してくれているとは。良くて、頻繁に言葉を交わす同業者だと思っていた。
ぶわりと全身が膨らむような心地がした。友人。少しでも好意的に思われたいと思っている――けれどもそれは難しいことだと十分承知している――相手から、友人と認識されていた。嬉しい。うれしい。これを歓びと言わずして何と言おうか。
「い、や。こちらこそ詰問するような妙なことを言ってしまって申し訳なかった。友人……友人か。嬉しいよ、君と友人になれて」
「変な人ですね。わざわざそんなことを伝えるなんて。僕と友人になることにそんなにメリットがあるんですか?」
「利益の有無ではない。君のような男と、対等になれたようで嬉しいんだ」
「対等……ですか」
降谷の顔が急に曇った。何やらこちらの発言に引っかかりを覚えたようだが、赤井自身は何が問題だったのか分からない。問い質すのもまた問題があるだろうと思い、あえて深く追求することなく会話を続ける。
「お言葉に甘えて招かれてもいいだろうか。君の作る食事は美味いと評判だったな」
できるだけ柔らかい表情になるよう努める。これで対応を間違って降谷の機嫌を損ね、折角の誘いが無に帰してしまっては堪ったものではない。
「あまり期待されても困ります。人に振る舞える程度の腕はあると自負していますが……貴方好みの味とも限りませんしね」
肩を竦めて降谷が軽い調子で言う。まるで友人同士の軽口の延長。ちょっとだけ織り込まれた毒がまた実に降谷らしい。
「僕の車は分かりますよね? 荷物を纏めたら駐車場集合でどうですか。家まで案内します」
「分かった。よろしく」
こうして、急にできた午後の空白は、想いを寄せる友人の自宅へと訪れる予定で埋まったのだった。
降谷の自宅は、警察庁から車で40分ほど走ったところにある住宅地にあった。街は高層マンションを中心に発展したようであり、戸建の住宅からマンションへ遷移していくにつれ、賑わいある風景となっていった。
白のRX‐7が入っていったのは、そんな中心部にあるとある高層マンションだった。潜入捜査をしていたとはいえ、本来の彼は日本警察の将来を担うキャリア官僚である。こういった場所に居を構えるのも納得できるような気がした。
車を降り、案内された一室はまるでモデルルームのようだった。ごみ箱に掛けられたゴミ袋やビニル袋が唯一生活の形跡を感じさせる。
「……随分綺麗にしているんだな」
「汚すほど帰ってくる暇がないだけです。帰ってきても、やることといえば寝ることくらいで」
「俺も同じようなものだ」
もっとも、赤井の場合就寝だけではなく飲酒と喫煙も加わる。転がるボトルと灰皿から溢れそうになる煙草の吸殻――人としてどうかと思われるのは確実だが、生活感としては十分なものだった。
「適当に腰かけててください。今から作りますので」
「ああ……」
頷いたものの、赤井は降谷から目を離さなかった。理由は彼が胸に抱くものにある。
「……なんですか?」
「いや……その花をどこに活けるつもりなのかと思ってな」
降谷の腕の中――大輪の向日葵の花束。
ここに来るまでの道すがら、昼食の材料を買うために立ち寄ったショッピングセンター。買い物を終えた後、降谷が突然「花屋に寄ってもいいですか」と訊いてきたのである。
今は夏ではない。だが、一歩花屋に踏み入れば季節というものは関係なくなる。夏を象徴するその花を、降谷は花束用にと注文した。
季節外れの向日葵の花束――赤井にとってあまりいい思い出の残るものではない。ましてやそれを持っているのが降谷ともなると。
話は二人がまだ組織に潜入していた頃まで遡る。
スリーマンセルとして組んでいた男/スコッチ。彼が自ら拠点としているアパートに、突然向日葵の花を飾り、更に黒猫を連れ込むという、何がどうしてそうなったのか分からない奇行に走ったのである。
彼の態度そのものは平生通りだったが、三人での仕事の打合せの際には、更に一匹が加わり、殺伐とした話し合いの中にごろごろにゃあにゃあという鳴き声が混じったのである。
「少し訊いても?」
「何か?」
「猫は……いるか?」
神妙な顔で赤井が訊ねると、降谷は堪らずといった様子でぶはっと吹出した。
「見ろよ、バーボン、ライ。かっわいいだろー? なーう、ねこだぞ、ねこ」
髭面の男は、実にデレデレとした面持ちで
、誰がどう見ても見間違いようのない黒猫を抱きながら説明した。
「ねこ」
「そうだぞ、バーボン、ねこだ。かわいいだろ」
いつ
半休を取って午後の昼下がり
場所 降谷の家
誰が
降谷と赤井が
どうした・どうする
途中で買ってきた向日葵を相手に思い出話をする
「桜の下には死体が埋まっていると言いますが」
そう言って彼は手にしていた向日葵を窓際の花瓶に活けた。
「読んだことあります? 桜の樹の下には。シャーロキアンだからといって、ホームズばかり読んでいるわけでもないでしょう」
組織時代、スコッチがアジトとしていたアパートメントに向日葵と黒猫を連れ込んだ。
バーボンはスコッチに惚れていた
愛や恋云々
降谷が買ってきたのは造花の向日葵
オチ
「向日葵の花瓶にぴったりなものってなんだと思います?」
赤井は半分ほどスコッチが残った瓶を差し出す
桜の下には死体が埋まっている
向日葵の下には、愛と恋が腐って置き去りにされているのだ
「僕の思いで、この綺麗に咲いてくれないかな」