次代への意思 夜からパラパラと降っていた雨は幸い止んだようだ。ただ、空を見上げるとまだ今にも降り出しそうな曇天が広がっている。天気予報を確認してみたところ残念ながら気温が上がる見込みはなさそうだったから、羽織るものを適当に掴んでから部屋を出た。
普段であれば作業車が行き交い、多種多様な騒音が響く構内も、今日ばかりは式典に向け多くの人が段取りの指示を出し合っている声が聞こえるだけの静かな朝だ。まだ式の開始まではまだ少し余裕があると様子見へと足を進めた船台、その上の紅白幕と信号旗に飾られた艦本体の傍らに主役も見受けられた。しばらく様子を見ていたら気配を感じたのかパッと振り返り、そのまま駆け寄ってきたので抱き止めてやる。どうやら式の用意が整うにつれ緊張してきたらしい。ぎゅう、と腰にしがみついたまま離れようとしない。昨日までは楽しみで仕方なさそうな様子で飾り付けられた艦を飽きることなくきらきらとした眼差しで見つめていたものだが。顔を見ようとして触れた頬が冷たく、ひとます持ってきておいた羽織りをマントのようにして被せてやる。子供用の上着を用意してなかったから不格好ではあるのだが、一時凌ぎには十分だろう。落ち着かせようとトントン、と背を叩きながらどうしようかと思案する。そろそろこの場所には一般客が入る頃合いのはずだ。
「このままこっち居るか?」
試しにそう聞いて見ればこくんと頷いた。それならばと邪魔にならないよう端へと避けておく。しばらくしてざわざわと談笑する賑やかな声と期待に満ちた顔が溢れると、恥ずかしそうにしがみついていた腕をほどいた。温かくてちょうど良かったんだがと少し残念にも思うがそれは置いておこう。
命名の時を待つ傍らの子は周囲の楽しそうな空気にようやく緊張が解けたらしく、よく知っているだろうに背伸びをしてまで見ようとしているので苦笑する。ひょいと抱き上げて肩に乗せてやると嬉しそうに笑う。しっかり掴んでおけよと声を掛け、自身も落とさないよう注意を払う。こうしていると父親みたいに見えるんだろうなぁと広報に来る親子連れの姿を思い返しながら、しっかりと預けられている温かな重さに応える。自分のことを子供好きな方ではないと思っていたが、身内となればどうやら別らしい。
考えごとで進行を聞き逃したが、先程まで下がっていた幕が上がったことで命名されたことを知る。
「ちよだ」
「……ち、よだ?」
書かれている名を読み上げた。それを復唱する、まだ小さくか細い声が耳に届く。名が無い内の空気のようだった存在がゆっくりと根付いていく。肩の重みが増したような気がしてゆっくりと地に下ろし、しゃがみこんで目線を合わせた。
「うん。ちよだ。いい名前貰ったな」
うまく笑い掛けてやれているだろうかと思う。ちよだの築いた多くのものを名前ごと継いでいく存在というのは喜ばしいものだろう。ただ、同じ名が付くのは追い掛けてきた背中が見えなくなることでもあるから。嬉しそうにはしゃぐ子供に気取られないようそっと鼻を啜る。
横須賀でももう報せを受け取っただろうか。こちらからの連絡は呼び慣れるまでの時間を少しだけ置いた、その後で。