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    既刊 緑萌えと同内容

    #アオ主
    Aogami x V-kun

    アオ主ワードパレット1  プリンシピオ

    黎明に誰かの声を聞いた気がした。

    砂塵を巻き上げながら、荒廃した魔界を駆ける。出会った当初は合一に戸惑いを見せていた少年は、驚くほどに適応を見せ、禁じられたナホビノの肉体を余さず活用している。
    倒壊したビルを渡り、かつての栄華と共に崩れた鉄骨を巡り、乾いた砂塵を巻き上げる丘を抜けて、しなやかに生を謳歌する青い蹄のように駆ける。手に冷たく纏う神気の光刃で悪魔を切り裂き、祈るように雷撃を落とす。邪教の館で換装した写せ身の力で、炎や氷や破魔の力を繰る。
    肉体の動きや力の扱いは私がサポートしているが、少年の意思もまた困惑から生存のための闘争へ向いたようだった。
    神造魔人たる私にとって人間である少年は庇護の対象であるはずだが、それ以上に、自らの半身、知恵である彼を得難く思う。
    彼と巡り会えたことを、その奇跡を導いた全ての事象に感謝したいと。
    私の躯体、マガツヒを巡らせる心臓擬きの駆動体がいつか止まる時。
    それが少年の胸で時に穏やかに、時に熱く早鐘を打つ心臓が止まる時と一緒で有ればいい。
    終わりがあるのなら、最後を一緒に見たい。最後に見る景色が、聞こえる声が、嗅ぐ臭いが、触れる温度が、互いのものであれば、それ以上の幸福はない。
    だけどもし、私に願いを叶える力があったのなら。この生命が、ナホビノになることが、少年を永遠にするのなら。
    私はそれを、願ってしまう。

    2  アルプヤルナ

    ビル風に吹かれてチラシが飛んできた。俺のビジュアルはちょっとチラシを顔面キャッチとか許されない方向性だと自負しているのだが、こういうのは大体顔面キャッチして、しかもウケるとかではなくザワザワされる。いっそウケてほしい。敦田あたりは普通に心配してくれる。いいやつだ。でもいっそウケてほしい。なんか逆に辛い。
    「少年、飛来物が」
    「おっとぉ、ザワザワ回避」
    今回は飛んできたチラシはアオガミに華麗にキャッチされた。アオガミだったら多分暴れ牛とか飛んできても華麗にキャッチしてくれる気がする。
    「ザワザワとは?付近のコーヒーショップの販促物である模様」
    「販促物」
    手書きっぽいイラストとフォントで「ティラミスモカドリンク、期間限定」と書かれている。付近を見渡すと、コーヒーショップの窓に女子高生やジャックフロストが張り付いている。うちの学生もいる。
    ジャックフロストが?
    「ティラミスかき氷が飲めるホ?甘いホ?ふわふわだホ?」
    「ふわふわってかジャリジャリじゃないかな」
    「ヒホ?!ふわふわじゃないホ?!そんなのティラミスかき氷じゃないホー!詐欺だホ!」
    「詐欺ではないと思うけど俺も飲んだことないから気にはなるな。すみません、ティラミスモカフローズンドリンク2つください。テイクアウトで」
    なんで俺が奢らされてるんだろう。そう思いつつ財布から札を出す。この飲み物1個でも文庫本が買えそうな値段だな。いつもなら値段を考え出すと飲む気が失せてコーヒーしか飲まないのだが、この日はジャックフロストの熱烈な興味に釣られてつい買ってしまった。ノリで。
    勝手知ったるジャックフロストが物陰のベンチに案内してくれた。
    「いただきますホー」
    「礼儀正しいな、悪魔なのに……いただきます」
    「ホ?!こ、これは…!チーズのまろやかさとコーヒーの深い苦味がふわふわの生クリームに溶け合って…ふわふわで甘いホー!」
    「食レポが堪能だな、悪魔なのに……うわめちゃくちゃ甘い」
    脳を糖分で殴られている感覚がする。味は確かにジャックフロストの述べている通りなのだが、とにかく甘い。
    「磯野上とかっていつもこういうの飲んでたのかな……ヤバいな……」
    「冷たいホー! おいしいホ!」
    「霜の妖精なのに冷たがってる……」
    「ご馳走様だホ!ツケといてやるホ!」
    「奢らされたのにツケとはこれいかに?!ていうか早!」
    「バイバイだホー!」
    俺のドリンクはまだ半分以上残っているのにジャックフロストの持っていたプラスチックカップは空だ。ドリンクが入っていたのか疑うくらい、クリームの跡すら残っていない。何故。
    「悪魔って怖ええな…アオガミ半分飲む?」
    ちょっと吸いにくくなったドリンクのストローを差し出す。
    「私は経口摂取を必要としないが、君は色々なものを分け与えてくれるのだな」
    「うん、なんか色んな味とか、匂いとか、景色とか、そういうのアオガミと共有できたらなって思う。ナホビノとしてだけじゃなくて」
    「そうか。君の考えを、私も好ましいと思う」
    「好いたらしいよなぁ〜」
    「甘い」
    「だよね」
    風が吹いて、雲が晴れて。ティラミスモカドリンクを飲んで、甘いと言い合ったこと。
    そういうことを、ずっと覚えていられたらいいと思った。

    3ヤロ・プペン

    その香りが鼻腔に届き、思わず顔を上げた。
    ミヤズから、かすかに慣れ親しんだ芳香がする。
    「ミヤズ、今日香水付けてる?」
    「い、いえ、香水は苦手で…以前にタオ先輩にいい匂いのする柔軟剤をもらったんです。優しい香りで素敵で…少し使ってみたんですけど、そのせいですかね?」
    「柔軟剤?」
    「はい、輸入物みたいなんですけど、寮の近くの雑貨屋さんに売ってるみたいですよ。興味ありますか?」
    「いや…」
    柔らかな花のような香りとクラスメイトの顔が結びついた。溌剌とした磯野上に清楚な印象を与えて、よく似合っていた。ミヤズが纏うと印象が違うが、ふとダアトに来る前の日常を思い出す。
    磯野上は部活をしていたから、登下校は敦田兄妹とすることが多かった。俺は朝に弱いので、磯野上の起きる時間に起きていることは稀だった。ここ最近、磯野上を交えた4人で下校することが多かった。きっかけは買い物をしていきたいから着いてきてくれとか、コーヒーショップの新作が飲みたいから一緒に行こうとかだった気がする。そういえば磯野上は雑貨屋で色々買っていた。あの中に柔軟剤があったのだろうか。今となっては確かめようもない。あの声も、表情も、香りも、すでに忘れかけていた自分に驚く。
    磯野上の寮の部屋には、今も柔軟剤や、女子らしい小物や、勉強道具や、部活の道具があったのだろうか。
    「ミヤズは磯野上のこと……」
    「……兄から聞きました。悪魔の犠牲になったって」
    俺は敦田と太宰に全てを話したが、ミヤズにはかいつまんで伝えられたようだ。
    「先輩は東京を守るために、友達を助けるために亡くなったと聞きました。私にはそこまで出来なくても、出来ることをしたいんです」
    「だから磯野上のくれた柔軟剤を?」
    「はい、なんだか……応援してもらえているような気がして。自意識過剰ですかね?」
    「いや、磯野上もきっとそう思うと思うよ」
    『彼女は強いな』
    脳裏に響くアオガミの声にうなづく。俺でさえ、与えられた命の重みに、耐えられなくなりそうな時がある。ナホビノでいる時は、この命は自分一人のものではないとわかっていても、なお。
    友人だった磯野上のことを、何も知らなかった。それでも、きっと彼女ならそう言うと感じた。


    4 アコルダール

    足の裏で擦れる砂の音が耳に馴染んで、ざらついたその音が東京でも頭の中を満たして。革靴のソールの裏に伝わるコンクリートの感触が音もなく崩れ去って、あの時みたいに砂に足を取られて。
    そのまま埋もれて朽ちていくような妄想に囚われる。
    鈍くつよく光る空から降ってきた魔人から差し出された手を握った時の、満たされるような、掻き乱されるような、突き落とされるような感覚。あの時俺は俺の人生から投げ出されたのだと思う。もはや俺の身体は俺だけのものではなく、俺の心は俺だけを支配するものではない。ふたりは共にあり、ひとつである。彼は耳朶を介さず脳に語りかけて俺を導く。
    あまりに甘やかで、残酷な声で。

    5 フィエスタ

    浅い水の中に身体を投げ出していた。視界いっぱいに品川と地続きとは思えない明るい空を緑の色彩が縁取る。滝の落ちる音を聞いていると、幻聴のように鼓膜にこびりついた怨嗟も悲鳴も遠くなる。肌が冷たい水に覚える痛みに馴染むほどに、心が、身体が楽になっていく。遠くに聞こえていた妖精王たちと友人の妹の声、そして彼らが手当している、縄印の生徒たちの声も耳に届かなくなり、水と境目を無くした自分だけがここに転がっている。
    ふと合一が解かれた。それだけで、癇癪を起こして泣き喚きたいような、言葉も失うほどどん底に落とされるような、不安と恐怖が胸を埋め尽くしていた。この崩壊した東京で、只の人間である自分は赤子のように無力なのだ。
    合一を解いたアオガミは水の中に無様に転がる肉を、要するに自分の知恵である人間であるところの俺を掬いあげるように抱き上げた。
    『冷たい』
    濡れた頬を拭い、アオガミが呟く。
    そうだろうな、冷やしていたのだから。
    どんなによく効く薬を使っても魔法で癒やしても、痛みと恐怖は拭いきれずに胸の内に降り積もっていき、酷い熱になるのだから。
    『これ以上は低体温により君の生命活動に支障を来たす。速やかな更衣と体温を上げることを推奨』
    「温まりたくなんかないよ」
    『震えている』
    「震えて何が悪いんだよ!」
    ずっと冷たくて痛くて怖くて吐きそうなのに、震えてなにが悪いのか。そんな身勝手な喚きにアオガミは否定も肯定もせず俺を岸へと運ぶ。
    振り返ると、こちらを見ている人間も悪魔もいなかった。
    喚いたつもりで、声も出せないほど俺は冷え切っていた。

    6 トリクル・トリクル

    「はい、ご褒美よ。それから……」
    何度か彼女と宝石とアイテムを交換して、仮面のような顔貌に変化がなくとも、微笑んでいることがわかるようになった。優美な指先で、鷹揚で妖艶な仕草で、少し首を傾げて、表情を変えず彼女は微笑んでいる。
    敵意がないというだけでもダアトにあっては貴重な存在だ。まして便宜を図ってくれて微笑んでくれる相手だ、無碍にはできない。
    そんな彼女が今日は手招きをする。
    「いいものをあげるわ」
    そう言って掌の上に乗せられたのは、煌びやかなガラス細工の蓋付きの小瓶だった。
    「化粧品?」
    「香水よ」
    小瓶の中にはクリームのようなものが詰められていた。匂いを確かめると、華やかな香りが鼻腔を満たす。
    「練り香水か。なんの香りだろう」
    「ピオニーの香りよ」
    ピオニー、つまり紫陽花の香りのする香水だ。千代田区の曇天のような色彩に、鮮やかに華やかに香る。
    「いい香りだけど……女子だったら喜ぶのかな。タオとか」
    守れなかった、自分の命を救ってくれた同級生のことを思う。彼女ならどんな花の香りでも喜んで、綻ぶように笑ってくれる気がした。今となっては詮無い想像だ。傍らの至聖女は彼女と同じつくりの顔の表情を変えず、凪のように佇んでいた。
    「ミヤズにでもあげようか」
    クイーンメイブに別れを告げ、もう1人の妖精の女王のいる集落を目指す。

    「わあ……!綺麗な瓶ですね……!」
    ミヤズは高価な宝石でも渡されたように、両手で恭しく小瓶を受け取った。
    「練り香水だって。女子の方がこういうの似合うのかなって思って。俺あんまり女子の知り合いいないから」
    「香水なんですか?ちょっと嗅いでみてもいいですか?」
    頷いて応えるとミヤズはそっと小瓶の蓋を開け、顔を近づけた。
    「すごく華やかな香りがします……!なんだか大人の女性って感じですね」
    「いる?ミヤズこういうの好きかわかんないけど」
    「ありがとうございます。でも、私はあまり香りの強すぎるものは身につけられないので……先輩が持っていてください」
    「そうか。ごめん」
    「いえ!素敵なものを見せていただいて嬉しかったです!ありがとうございます」
    微笑むミヤズから小瓶を受け取って仕舞い込んだ。

    東京に戻ってから、西武新宿線に乗って紫陽花の名所と言われる公園を訪ねた。
    消えゆくビルの中に、沢山の低木が植えられている公園はひっそりと残っていた。まだ当然花は咲いておらず、瑞々しい緑の葉が茂っている。見るともなくその葉を眺めながら歩いていたが、アオガミが熱心にそちらを見つめているのに気づく。
    「わざわざ季節外れの紫陽花見にきた俺の言うことでもないかもしれないけど、ただの葉っぱなんか見て楽しいの?」
    「記録映像を再生している」
    「記録映像?」
    ポケットのスマホから通知音が鳴る。アオガミから自分のスマホへ連絡が来た時に設定していた音だ。
    添付されていたデータを開くと、現在立っている場所から撮った一面の満開の紫陽花が収められた動画が再生された。
    「うわ……綺麗なんだな……」
    「私も、この光景を好ましく感じる」
    青と薄紅で埋め尽くされた光景に、硝子細工の小瓶に満たされた練り香水の香りが脳内で蘇り、結びつく。
    「紫陽花が咲く頃に、また二人で来れたらいいね」
    それまで生きられたら。
    そう付け加えそうになる唇を引き結んで俯いた。生まれ育った東京は薄皮を剥がされるように消えゆく。選択の時は間近に迫っている。きっと自分達には猶予がない。生き延びたとしても、これからどうなるのか、何もわからない。それでも。
    「私も君と、この花を見たいと思う」
    そうアオガミが応えてくれるなら、それだけで生きる理由になる。


    7 カロケリ

    赤色灯が街を縫っていた。不規則に交わるサイレンの音が耳につく。
    また誰か悪魔に喰われているのか。
    シャカイナグローリーという薄膜が剥がれ落ちていく最中の東京では、悪魔の目撃例が日に日に増えている。ベテルの息の掛かった自衛隊や警察が、犯人不明な通り魔やガス爆発として処理している事件の殆どが悪魔によるものだ。
    日々赤色灯の数は増していき、東京はほつれるように消えていき、人々の間には不穏な空気が燻っている。それでも街は永遠の夕暮れに閉ざされていながら、表面上は平穏を装っている。
    ずたずたに引き裂かれたような東京の街を駆け巡る緊急車両の明滅を、橋の上から眺めていた俺の隣で、アオガミが剣呑に金の双眸を細める。
    『少年、悪魔が』
    アオガミの促しに頷いて、肺からありったけの息を吐き出す。
    指が白くなるほどに欄干を握りしめ、そこから身を躍り出す。落ちていく俺の手の平をアオガミが掴み、そこから1人と1体は1柱へ戻る。
    随分上手く落ちることができるようになった。高揚を加速させて落下する。
    夜を押し戻すように黄昏の下を駆け、封鎖された道路の奥へ。ビルの隙間に蠢く影を見つけ、対峙する。
    ビルの落とす影に潜む悪魔に雷撃で足止めをし、手に纏わせた神気の剣で叩き斬る。耳障りな断末魔を上げながら、悪魔が不可視のマガツヒへ還る。
    『対象となる悪魔の消滅を確認』
    合一が解かれる。返り血のようなマガツヒを浴びて高揚していた意識が急に冷め、内臓を不快に撫でられたような激しい吐き気が込み上げる。酩酊からの宿酔。指先まで鉛に満たされたように身体が重い。
    「君!大丈夫か?!」
    辺りを包囲していたらしい自衛隊員が駆け寄ってきて、怪我がないか確かめてくれる。ゴーグル越しにアオガミを見て微かに目を細める。その姿を見て増した吐き気を押し込めるために、乾いた唾を飲みこむ。
    「大丈夫です。怪我はないですから」
    悪魔との力の差は歴然だった。傷にも入らないような擦り傷程度しか負っていない。
    「後の処理は俺たちに任せて、君はゆっくり休んでくれ」
    手慣れたように辺りの見聞と処理が始まる。隊員の言葉に甘えて俺はその場を後にしようとした。
    ふらふらと歩いていた足がもつれ、転びそうになる。身構えることも出来ず前のめりになった身体が、地面に叩きつけられることなく支えられていた。
    「ありがとう、アオガミ……」
    『少年、君は強い疲労状態にあるようだ。ダアトからの帰還後にもしばしば見られていた状態だが、合一による影響が考えられる。念の為医科学研究所での精査と、充分な休息を推奨』
    「大丈夫、ただのストレスだよ。それに休息なんて……今の東京に取れるとこあるのか?」
    『君がよりよく休息を取れる場所を検索……』
    「やめやめ!検索中断して!寮に帰って寝ればいいんだろ寝れば!」
    ずるずると歩き出したが寮まで帰る気力がなく、仕方なくタクシーを捕まえる。
    「領収書、上で…」
    早く帰ってシャワーを浴びたい。全身にこびりついている気がするのだ。返り血のように、赤く明滅するマガツヒが、まだ。

    8 クーマ

    朧げな青い空に仄白い真昼の月が消え入りそうに浮かんでいた。傾きつつあるが弱まることのない日差しの中を歩いていると、ぬるい汗が顎を伝っていく。
    誘われるようにふらふらとコンビニに入り、アイスキャンディーを購入した。
    元気なランニングおじさん、犬の散歩をするマダム、ジャケットを脱ぎ汗を拭きながら歩くサラリーマン。午後のまばらな人波の中で袋から取り出したアイスキャンディーをかり、と齧る。唇に、糖水が滴る。
    『君が私のことをどう想定しているのか理解しかねるが』
    足音なく隣を歩いていた魔人が俺の唇を指で拭う。
    『私は決して善良な存在ではない』
    機械めいた指が氷菓の解けた糖水に濡れる。
    指先の被覆された金属めいた柔らかな冷たさに、みずからの唇の熱を思い知らされる
    「あなたが思うより、あなたは善意に塗り固められているよ」
    熱に浮く唇から言葉を紡ぐ。間違いなく彼は、魔性のものであるから。
    濡れた指を食んで、舌を絡ませる。仄かに甘く、冷たい。
    アオガミが微かに眉根を寄せるのはいい気分だった。
    この命がいつか枯れ果てる時、隣に彼がいないことだけははっきりと分かる。
    短い影は、1人分伸びている。

    9 メモリア

    万年筆という物を初めて使った。越水の私室を借りたついでに、越水の私物を借りたのだ。
    私室といっても縄印大学医科学研究所の一室だ。越水専用の休憩室らしい。ほとんど使われた形跡のないそこは実際機密情報などもなく、古い専門書が書棚に詰められていた。普段だったら片っ端から読み倒しているだろうが今は食指が動かない。目の前の課題を解決しなければならない。半分も埋まってない便箋を小一時間見つめている。
    せめて集中しようとぬるいを通り越して冷めたインスタントコーヒーを啜ると、舌に不快な後味がこびりつく。鞄を漁って、小さな包みを見つけた。年配の研究所員がくれたバタースコッチキャンディーだった。
    そもそも普段から飴を食べることがあまりない。タオやミヤズがたまにくれるものを食べていたが、食べなかった分が自室にそこそこ溜まっていた気がする。ミヤズはしょっちゅう俺に飴をくれるが、おそらく飴が好きなわけではなく、兄であるユヅルに時々与えられているのだと思う。食べきれないので、どうですかと言われるといらないとも言えず受け取ってしまう。大抵はフルーツキャンディーかハッカ飴だった。女子高生に渡すチョイスではないなと俺でも思う。しかしミヤズが食べきれないこと以外に不満を訴えていたことはない。
    キャンディーの包みを広げて口に含む。コーヒーの苦味にバターの甘さが混じり、上書きされていく。普段使っているシャープペンシルより少し重みのある万年筆を握って、便箋に続きを書こうとした。どうしても書きたかった、伝えたかった言葉があった気がした。だから一人で、静かなところで手紙が書きたいと越水に相談したのだ。
    あらゆる美文、麗文を脳内検索して、無理矢理言葉を敷き詰めた。そうして便箋に向き合ってわかったのは、何万通の手紙を書いてもきっと気持ちを伝えられることはないということだった。それは手紙でも言葉でも伝えられない自分の臆病さでもあるが、胸の奥に巣食う感情にいくら向き合ってもその形を捉えられることがないのだという確信でもあった。
    気づけば舌の上で小さな欠片になった飴を噛み砕く。そうして便箋を、筆跡の残る白紙まで全て破いて捨てた。
    携帯にアオガミのメンテナンス終了を知らせる通知が届く。どんな文字でも言葉でも伝えられない思いを自覚してなお、会いたいと思う感情は毒だった。舌の奥に、苦くこびりついて、上書きはできない。

    10  アーティフィー

    乾燥した空気の少し冷えた流れの中に、乾いた葉の匂いがした。
    散ってなお、名残を惜しむように短い日の光を浴びる落葉たち。自転車を押しながらその上を歩くと、さくさくと鳴る。
    パンクした自転車は動かすなと母に言われていた。タイヤが完全に駄目になって修理費が
    余計に嵩むと。
    それは理解していたが、目的地より若干寮の方が近い。そしてこの辺りは放置自転車がよく取り締られている。
    選択肢は一つ、歩くしかない。
    越水に1日の休暇を告げられて縄印大学医科学研究所を出ると、鰯雲の浮かぶ秋晴れで、寮まで所員に送迎されたはいいがこんな天気で大人しくしていられないと図書館に出向いたのだ。そしてしばらく自転車を漕いでいたはいいが、パンクしていると気づいた。
    ついていない。
    自転車を降り、もうこのまま帰って不貞寝しようかと溜息をついた。とても読みたい本があったのだが、以前に読んだこともあるし諦めがつく。
    『少年』
    「ウォア?!」
    突然声をかけられて妙な声をあげてしまった。隣にアオガミが佇んでいる。
    「アオガミなんでいんの?!」
    『こちらの東京において君の安全を確保する目的で同行している』
    「あっそう……チャリに並走した感じ?」
    『捕捉に困難な速度ではない』
    「あっ……そう……」
    確かに全力で漕いでいたわけではないのだが並走されるような速度だったろうか。少し落ち込む。自分の体力がないわけではなく、アオガミがすごいのだとは思うが、気分的に落ち込む。
    『少年』
    「はい」
    『君の疲労を考慮すると、移動を目的とするのであればタクシーと呼ばれる交通機関の利用を推奨』
    「良いねー、男子高校生のポケットマネーで乗ることが不可能である点を除けばねー」
    『君の身銭を切る必要はない』
    「えっ……?アオガミ、奢ってくれるの?ていうかお金持ってんの?」
    『私ではない。領収書の宛名を、越水長官にすればいい』
    「なんて?」
    『領収書の宛名を、』
    「越水長官に…」
    冒涜的すぎる。現職総理大臣のポケットマネーを使って、図書館にタクシーで?
    「アオガミさあ」
    『なんだろうか』
    「最高ってよく言われない?」
    『言われたのはこの場で君からが初めてだ。感謝する』
    「乗っちゃお、タクシー。自転車のパンクも自転車屋さん呼んで直しちゃお。サイコー」
    領収書を提出された越水の顔を想像するだけでゾクゾクしてしまう。出してはいけないアドレナリンが出ている気がした。
    寮への道すがら、乾いた葉の上を歩いていく。
    少年の足音に、もう1人の足音が重なっている。並んで歩く魔人の姿は、常人には視えない。

    11  ラトレイア

    唐突に、聴覚に認識し得る全てが消え去る。
    露出している頬にじっとりと冷汗が伝う。
    『少年』
    アオガミの声が聞こえて、はっとした。意識に直接語りかけるその声は、狂った耳朶を通さず明瞭な言語として捉えられる。
    『君の聴覚の異常を認識した』
    「俺の?」
    意識も感覚も間違いなく自分のものだが、肉体は生命であるアオガミの領域である。
    そのアオガミが魂である自分の聴覚の異常を指摘しているということは、器質的な耳には異常はないということなのだろう。
    そう判断したところで、無音とダアトの殺風景な無彩色の中に佇むと、気が触れそうなほどの恐怖が湧き上がってくる。
    『少年、君の恐怖を理解する』
    端的に響く、アオガミの声が焦れる脳を宥める。
    『聴覚の欠損をフォローする。君は視覚とマガツヒの流れに注意してくれ』
    「フォローって、どうやって…」
    『2時の方向に2体、7時の方向に3体、10時の方向に2体の悪魔が接近している』
    アオガミの警告に従い、視線を滑らせる。無彩色の中に蠢く悪魔の姿を捉える。
    先陣を切って斬りかかり、仲魔達にも追撃を指示する。前方をクリア、後方からの接近に応戦し、これを退ける。
    音を伴わないまま、肉を切り骨を断つ感覚と、稲妻に撃たせて血を脂を焦がす悪臭にまみれていると、現実味がない悪い夢を見ているような気分になる。
    『少年、周囲の安全を確認した。一度東京へ帰還することを推奨』
    アオガミの声に促されてピラーを使い、龍脈からベテル日本支部へと飛ぶ。

    医科学研究所のターミナルへ辿り着き、合一を解いても、やはり聴覚は断絶していた。
    アオガミが気遣わしげな表情でこちらの顔を覗き込む。
    『 』
    唇が確かに動いたのに、その空気の振動は耳へと届かない。
    「アオガミ、声、聞こえない」
    『 』
    太宰が身をすくませる。
    「声、どうして、ダアトでは聞こえてたのに」
    『 』
    敦田と越水が眉を顰める。
    「アオガミ、」
    確かに発しているはずの自分の声さえ聞こえず、どうやって声を出していたのかもわからなくなる。全ての感覚が混線して、その場に崩れ落ちて絶叫しようとした。
    声が出ているのか出ていないのかもわからない。床に転がって喚き、駆け寄ってきた職員達に取り押さえられる。
    『 !』
    アオガミが俺に呼びかけているのを理解した。肌を震わすほどの振動があったから。
    「アオガミ」
    もはや自分でも上手く発語出来ているのかわからなくても、その名を呼びたかった。その手に触れて、頭の中をかつて呼びかけてくれたその声で満たして、意識が落ちる。

    結局3日ほど医科学研究所で静養し、聴覚は徐々に回復していった。多分気休めの薬、多分気休めの点滴、多分気休めの診察。
    それで俺には充分だった。身体が、精神が拒絶しても、もはや戦場より他に行き場などないのだから。
    アオガミも最初はメンテナンスを受けていたが、それ以降は静かに俺のそばに佇んでいた。
    『──』
    『──少年』
    聴覚が戻って初めて聞いた声がアオガミのものであったことに安堵し、意味もなく涙を流してしまった。潤む目元を機械めいた白の指が拭う。いまは耳朶を直接震わせるその声が、無音の世界でさえ俺を導いてくれていた。
    「ありがとうアオガミ、そばにいてくれて」
    そう口にしたが、足りなかった。
    もはや俺の身体は、アオガミという生命と合一していなければ、不具であり、不完全であり、気の持ちようすらままならない、不自由な肉であった。

    12 アプラウズ

    「たしかに迷惑」
    自分の命を救った恩人に告げても、溜飲など降りなかった。
    アオガミはそれでも俺の力になろうという。
    それは、ベテルに組み込まれたプログラムなのか、知恵に焦がれる悪魔の本能なのか。
    どちらでもよかった。本当に、どうでもよかった。
    俺は悪魔が嫌いだ。ダアトが嫌いだ。東京は好きだ。森の中に木を隠すように、俺という人間を人波に完全に隠してくれる。
    俺は、人間も嫌いだ。俺自身も
    安寧を覚えていたはずの都市は偽りの栄華だった。本当のものなんてなにも好きじゃない。嘘だけが俺に優しい。作り物だけが俺を受け止めてくれる。真実なんて鋭利で過剰で冷酷で、人間である俺の柔く脆い肉を、その肉に詰まった電気信号であるところの精神を、ズタズタに割いて無価値な集合体に戻していくだけだった。
    「一度ベテルに報告に戻っていいかな」
    「了解、君の休息も兼ねるといい」
    「そうするか」

    帰寮時間はとっくに過ぎていて、おそらく終電の時間も怪しい。
    (駅まで走れば間に合うかな)
    駅までの距離を想像して少しグロッキーになった。体育の長距離走の後は大抵心臓が破裂しそうになる。
    目の前に黒い車が停まった。
    「夜間の移動に伴うリスクを考慮し、ベテル職員に送迎を依頼した」
    余計なことをするなと怒鳴りそうになる口をつぐんだ。ナホビノの肉体疲労は蓄積しないとはいえ、散々ダアトを駆け回った後にさらに駅までのランニングで心臓を破裂させたくない。
    「コンビニに寄ってもらってもいいですか」
    シートベルトを締めながら、ベテル日本支部の職員に告げた。運転席に座った職員は、いつものゴーグル越しではわからない、人好きのする笑みを浮かべていた。

    コンビニでカップ麺とペットボトルのお茶を買い(奢るというベテル職員の申し出を断るのが大変だった)、帰寮した。寮の管理人には医科学研究所経由で連絡が入っている、ということになっている。実際は縄印にも越水の息がかかっているのだろう。その割にはこの学生寮は雰囲気最悪でボロいな、と心中悪態をついた。
    1人と1柱で門をくぐる。

    冷えた廊下が上靴越しにも足先の温度を奪う。自室の空気も冷えていた。
    ケトルのスイッチを入れようとして、ランプが点かないことに気づいた。何度か置き直してみたが反応がない。
    しばらく呆けていたがやはり空腹に耐えかね、共同キッチンに降りる。
    私物の鍋を取り出して湯を沸かした。カップ麺のついでに、インスタントコーヒーを2人分淹れる。
    「はい、アオガミの」
    アオガミが飲食を必要としないことは以前に聞いていた。まして嗜好品などなんの意味もないのだろう。これはただの自己満足だった。
    「…ありがとう」
    アオガミは恭しくカップを受け取り、キッチンのテーブルに備え付けられたこころもちベタつく古い椅子に座る。
    その向かいの古い椅子に座り、カップ麺が出来上がるのを待った。
    アオガミは表情を変えず、一定のペースでコーヒーを啜る。それを眺めながら、自分もインスタントコーヒーを飲む。美味いとは思わない。苦い。
    スマホで設定していたキッチンタイマーが鳴る。出来上がったラーメンを啜る。
    冷え切った床に靴を脱ぎ捨てて素足を投げ出し、1人と1柱で、面と向かって食う飯は、不味い。
    アオガミと食べる食事は不味かった。それでもダアトから帰るようになって、こちらで食べる食事はかならずアオガミと摂っている。
    一度アオガミのメンテナンス中に1人で食事を摂ったことがあった。味が、しなかった。美味いも不味いもなく、香りも味もない粘土と砂を食わされてるようだった。半分も食べることが出来ず、後で吐き戻した。
    アオガミと食べる食事は不味かったが、吐くことはなかった。吐く気が起きなかった。何故かはわからない。考えたくもなかった。
    ただ苦痛の大小でより少ない苦痛を選んでいるだけだ。
    カップ麺の空き容器を捨て、空いたカップを洗い、自室に戻った。
    アオガミは、眠る。人間の睡眠とは違うのかもしれないが、彼の電子の脳は休息を、停止する時間を必要とする。
    神造魔人のA Iも夢を見るのだろうか。
    「俺もどうせ夢を見るならアオガミの夢を見たい」
    実際に眠って見ていた夢は、もう一つの東京の夢。怒号と怨嗟と悲鳴に塗れた戦いと、傷の痛みと、流れ出るマガツヒへの恐れ。
    そんな夢ももう見なくなった。泥のように、意識が闇に沈んでいくだけだ。
    心地よいとは思わない。苦しい。
    「俺はアオガミのこと、嫌いだけどね」
    アオガミにとって、俺は守るべき人間であり知恵であり、庇護すべき対象だから。
    俺は、誰よりも俺が大嫌いだ。

    13 クレークル

    冷水のピッチャーが汗をかいていた。
    檸檬とオレンジとの薄切りと氷が入った、さわやかな飲用水だった。
    日差しの強い日だった。正午を下り、葉擦れが遠く聞こえる室内にいてなお、熱気がにじり寄ってくる。まばらな樹木の影が、窓の外の三角コーンにも落ちていた。
    柑橘の香る冷水を、身体は喜んで欲した。乾いた喉を潤す、その動きをアオガミは見つめている。嚥下に合わせて鳴る喉と、喉を伝う汗を。
    「君がインスタント及びレトルト食品以外の食物を経口摂取したのは、こちらの時間で三日ぶりだ」
    そうだったか。十一時までのモーニングにぎりぎり滑り込み、チーズトーストを漫然と口に運んだ。皿はとうに下げられていて、俺が食事を摂った形跡は消えている。コーヒーのおかわりと水だけで、傍目にはひとりで居座っている俺は相当嫌な客だと思う。
    めまいがするほど、何もない。
    今もどこかで悪魔が出没して、ベテルの息がかかった警察官や自衛隊が対応しているのかもしれない。デビルサマナーや、もしかしたら敦田や太宰が出動してるかもしれない。
    ここは、あまりに静かだ。ダイナーを模した色彩の多い店内は、間違いなく人の営みの中にあって、普段の俺なら喧騒を感じていたほどなのに。
    ずっとここにいたいと思った。身体など失って、ドロドロに溶けて、自我さえ無くなって構わないと。
    「俺に飯食ってほしいなら、俺と二度と合一しないでくれよ」
    全部投げ出してしまえるのならそうする。今から、偽りの東京の裏側で魍魎跋扈する魔界に行くことから逃げられるのなら。
    合一し、ベテルの勢力として戦いに身を投じることをやめられるなら。
    「少年、」
    何故泣いているのか。そう半身に聞かれても答えられなかった。頬をぬるい水が伝っていく。俺はこんなにも現実を受け入れがたく思っているのに、もしも誰かが代わりにアオガミと合一して戦うことで俺が全てから逃げられるとしたら、そんな選択肢があるとすれば、その時点で狂って死んでしまうのではとさえ思えた。
    アオガミと離れていることが苦痛だ。手を伸ばせば触れる位置にいて尚、遠すぎる。
    「あつい」
    胸の奥が熱い。冷たい。溶けた鉄と氷塊とを同時に飲み込んだように苦しい。回らない脳が涙腺に異常な指示を送り続ける。
    「水を」
    グラスを差し出してくる、半身がいる。
    俺の命の意味は今、それだけだ。

    14  マタル

    「ミマンが大事なものを落とすって言ってたけど、俺の大事なものも落ちてないかな」
    まだ花も咲くはずのない蓮の生い茂る池のほとりで、少年は視線を彷徨わせている。
    「こちらの東京には重要なアイテムは検知されない」
    「まあ香とか拾っても湿気って使いようがなさそうだしな…」
    「君はかつて大切なものを落とした」
    まばたきする、少年の指に自らの指を絡めて、外さないように、落ちていかないように手を繋いでいる。
    もう片方の手を、指を胸の上に沿わす。
    薄い皮と肉の下、かつて穿たれ、動きを止めた心の臓の上に。
    「私もその時に一度は大切なものを失った」
    戒める指の強さが少し強くなる。ふたりが離れていかない、さりとてひとつにもなれない程度の力で。
    「それは、知恵のこと?生命のこと?」
    わずかに池の方に歩こうとして、少年はたたらを踏む。側から見れば少年が1人でふらふらしているように見えるだろう。
    アオガミがわずかに首を振る。
    「君のことを知恵として大切だと思っているのは、事実だ。だが、」
    「そう。よかったね」
    ところでアオガミ、デートしてこうか。
    少年が指を指す方には、スワンボートの看板がある。

    「ほらアオガミ、もりもり漕いで」
    少年がはしゃいで全力で櫂を漕ぐ。
    それに応えるように、アオガミも櫂を漕いだ。滑るように、ボートが岸から離れていく。
    ふと、少年がボートの上に立ち上がり、表情の抜け落ちた顔で水面を見つめていた。
    作り物めいたその表情に一瞬怯み、手を伸ばす。振り向いて微かに笑った少年が、水面に身を躍らせる。
    「少年!」
    アオガミは血相を変えて少年の腕を引いた。
    少年の制服が水を含んでずっしりと重たくなる。その重さに、連れていかれてしまうのだという思いがよぎる。
    どこへ?
    水の、冷たく暗く深いところへ。
    ボートに引き上げられた少年はむせ込んで、ついでケラケラと笑った。
    「こんなところに俺の命なんて落ちてるはずないだろ。ここに、あるんだから」
    少年は、アオガミの胸の赤いラインに手を添わす。
    マガツヒに満ちた心臓の紛い物が蠢き、脈動に合わせて赤色が光る。
    ボートの上、ずぶ濡れのまま狂ったように一人で笑い転ける少年に、遠くからいくつかの視線が刺さる。
    きったねぇ水!といいながら少年は着衣から水を滴らせている。
    まだ春の気配が去らない頃。
    震えている、細い手足が温度を失わずにまだ目の前にあることに、アオガミは安堵していた。

    15 ノイヤール

    妖精の銀のゴブレットを渡された。小さな器の、曇りなく磨かれた銀の表面の彫刻が、朝の澄み渡った光に照らされて柔らかく光る。中には冷たく喉を潤す清水が満たされている。
    小さな輝石の嵌められた細工物の盆には、瑞々しい色とりどりの果物と種実類が盛られていた。
    「1日の計は朝食にありです。どうぞ召し上がってください」
    「これおいしいよ!いっぱい食べて」
    ジャックフロストやジャックランタン、ピクシーたち好意的な妖精たちが取っ替え引っ替え小さな盆を持ち寄ってくる。救護を受けた縄印の生徒達も、おそるおそる輪に加わっていたが、妖精達の気の置けない対応と美味しい物が用意された和やかな雰囲気に、徐々に緊張を解いていった。
    シルキーが卵を焼いている。
    「オイラオムレツがいいな!シルキーの姉ちゃん、オムレツ作ってくれよ」
    「もちろん。オムレツ、スクランブルエッグ、サニーサイドアップ、どれでも作ってあげるわ」
    仲魔のアイトワラスが勝手にリクエストをしていて慌てたが、気分を害することはなかったようだ。他の仲魔たちも気立ての良い者たちはストックから出て、食事を摂っている。
    ティターニアが芳しい香りのする籠を持ってきた。
    「材料が余りなくて、少ししか焼けなかったのだけど。パンをどうぞ」
    「オイラが生地を冷やして寝かせたホ!」
    「オイラが火を入れて焼いたホー!」
    ジャック達が自慢げにティターニアのまわりをくるくる回っている
    人間も悪魔も目を輝かせていた。
    「ニンゲン、ご飯食べないと死んじゃうんだホ?」
    「ニンゲン食べなよ!アタシたちは王様と女王様がマガツヒくれるもの」
    妖精達が口々にパンを人間に勧める。
    「じゃあ、ピクシーちゃん、私と半分こしよう?」
    「えー?!いいの?!」
    「うん、私、パン以外もいろいろちょっとずつ食べてみたいから」
    「やったー!いただき!」
    物怖じしない縄印の女子生徒がピクシーとパンを分け合ったことを皮切りに、そこここで人間と悪魔がパンを分け合う光景が繰り広げられた。
    「ふわふわでおいしい!」
    「サクサクでおいしいホー!」
    「香ばしくておいしい!」
    「おいしく食べてもらって本望だわ」
    ティターニアもオベロンも微笑んでいる。
    穏やかな光景だ。
    「ナホビノの兄ちゃん!これめちゃくちゃうまいぜ!半分やるよ!さっきそこでパンももらったんだ!」
    アイトワラスが器用に半分にしたオムレツと、バターが塗られた一切れのパンを渡してくれた。
    黄金に輝く卵の甘さと絶妙な塩胡椒、バターの香りととろりとした濃厚な舌触りの美味しいオムレツと、温かく湯気を立てる味わい深い柔らかなパンだった。ナホビノの姿で人間の食べ物をこんなに食べたのは初めてだという気がする。
    銀の器で水を飲もうとする。不意に、合一が解かれた。アオガミが器を額に当ててなんらかの祝詞を挙げ、水を煽る。
    「ちょ、ちょっと、喉乾いてたの?アオガミ」
    『三度』
    「はい?」
    『三度、この水を飲んでくれ。私の分を残して』
    「……はいぃ?!」
    それはもしかして、アオガミはもしかして、三々九度をやろうとしていないだろうか。
    「いや……これ盃じゃないし……中身水だし……」
    『君は成人ではあるが飲酒が可能な年齢に満たないことを考慮した』
    「なんで?っていうかこういうのはちゃんと神社とかでやるものじゃないの?」
    『不完全な模倣だと理解している。だが私は君と共食をしたい』
    「神様と人として?」
    『……無二の、生命と知恵として』
    絶句した。そんなとてつもない破壊力のプロポーズをされて齢18歳の男子高校生が勝てるわけない。
    「……ッ、飲んだらぁ!いくらでも飲んだらぁ!」
    『三度でいい』
    「ウィッス」
    アオガミから渡された銀のゴブレットから水を3口、飲む。
    (これ、神霊水だ……?!)
    飲んで大丈夫なやつだが、逆に飲んで大丈夫なのか不安になる。水を飲んだはずなのに喉がカラッカラになった気がする。
    アオガミに器を渡すと、残りの水を3口、静々と飲んだ。
    気がつくと周りにいた妖精達がおおーとどよめき、まばらに拍手する。
    一部の手持ち無沙汰そうな縄印生も多分よくわかってないが拍手している。
    恥ずかしすぎる。
    「こんなことしなくても俺の知恵はアオガミだけだからね」
    『……承知した。不完全だと理解しながら、形が欲しいと思ってしまった。非合理な思考プロセスであると認識』
    「でもなんか、嬉しかったよ」
    嬉しかった。
    盃で水を酌み交わす、その意味が別れなのだと、アオガミが知らなかったことが。

    16  カナフ

    砂に覆われて消えかけた白線の上を歩いている。品川区の赤黒い光に照らされた、道端のビルの窓ガラスが割れて、中に色褪せた写真が散らばっているのが見えた。
    ふと目をやって、吸い込まれるようにビルの一室に潜り込む。色褪せた1枚の写真は、おそらくは抜けるような青い空と海を撮っていたのだろう。じっと写真を見つめ、他の写真も拾い集めて、満足し、指先に炎を集め、燃やす。
    『少年、屋内で炎を扱うべきではない』
    「どうして。どうせスプリンクラーは壊れてるのに」
    「だからこそ、延焼すれば君に危険が及ぶ」
    燃えないのだ。
    炎を繰る指先には熱さも痛みもなく、写せ身を用いた身体は焼かれても燃えることなく、耐えうる。
    ナホビノの身である自分の肉体の靭さに驕りはある。それが何故いけないのか、この脳では理解し得ない。
    白い灰が静かに落ちる。
    きっと次に邪教の館を訪れた時に、炎を繰る術を捨てるだろう。
    灰を踏み締めて、外へと歩き出す。

    17 カルディアー

    待ちきれなかった、そう離れていたわけではないのに。最初にアオガミを連れ帰った時の大規模な修復以降は、メンテナンスも大掛かりなものはあまりなかった。予定時刻を告げられればその間研究所内で待機していた。それでもすぐそばにアオガミがいないことに焦れるようになった。
    数時間で終わったメンテナンスが終わり帰寮して、食事と入浴を済ませた。窓から細く欠けた月の、ささやかな光が落ちる。
    今、吐息が聞こえるほどアオガミがそばにいる。触れるように口付ける。目を閉じても瞼の裏に金色の瞳がかがやくさまが浮かぶ。唇を重ねてもアオガミは目を閉じることはないのだろう。それでもいい。
    身体の中が鼓動に満たされたようだった。アオガミに触れている面から、早鐘のように打つ心臓の音を悟られてしまうのが怖かった。
    『少年』
    唇を離したアオガミが俺を呼ぶ。
    『君は性愛を含む感情を私に持っているのか』
    「そうだよ」
    アオガミがわずかに目を瞠る。言葉を紡ごうとする唇はかすかに熱を持ち、痺れている気がした。
    「俺はアオガミが好きで、嫌いで、慕っていて、軽蔑していて、欲しくて、手放したくて、ずっとそばにいたくて、そんなことできないのはわかってて、全部、全部ある。わけわかんないくらい全部……」
    アオガミの目をまともに見ていられない。視覚全てを捧げたくなるほどの、世界で一番美しく恐ろしく、愛おしい金色なのに。
    「俺は、どうすればいいの……」
    俯いて呟く。目の奥が熱くなる。今すぐアオガミを突き飛ばして何処かに逃げ出したいのに、触れていたい。触れてほしい。
    突然、アオガミに強く抱きしめられる。
    『少年、私は君を壊してしまうのかもしれない。何度メンテナンスをしても、君に生命として本能以上の好意を感じるように思う。今、君の言葉を聞いて、私は……嬉しいと……それに類似する感情を覚えた』
    強く俺を抱きしめる、アオガミを抱きしめ返す。
    「俺も……。俺の知恵はアオガミ、あなただけだよ。だからアオガミも、俺だけの生命でいて」
    永遠に。その言葉は飲み込んだ。

    18 ザクースカ

    千切れた女の下半身が目の前に飛んできた。仲魔が破魔の光を浴びせたマナナンガルの臓物めいた腹から下が、上半身を失って蠢いている。跳ね回る硬質の肉塊に光刃を突き刺し、トドメを刺した。
    悪魔の死体はマガツヒに還るが、どことなく鉄錆びた内臓の匂いが鼻にこびりついているような気がして、眉を顰める。
    「ナホビノくん踊ってるみたいだったホー」
    仲魔の妖精が呑気に告げる。溶かしてやろうかと思うが面倒さが勝る。
    何が悲しくて倒壊したビルの合間で、悪魔が蠢き吠える音をBGMに跳ね回る悪魔の肉片とダンスを踊らなければいけないのだ。
    「ダンスはレディーと踊るもんだろ」
    チロンヌプが茶々を入れる。
    「レディーではあったな。半分だったけど」
    物理的に。そう冗談を言うとチロンヌプとフロストがゲラゲラと笑う。そんなにウケると思っていなかったのでちょっと引いた。
    体育の授業でダンスがあった気がするのだがいかんせん体育の授業全般の記憶が薄い。辛い記憶に無意識に蓋をしているのだろう。ただただ苦痛のイメージばかり残っている。
    「オイラも赤い靴とドレスを着たレディーと踊るホ!」
    「その頭身でどうやって踊るんだよ!まあ野心は大きくいた方がいいか!」
    「チロンヌプ話がわかるやつホー」
    脚元を見る。青と白に彩られた黒い装甲。
    ドレスなど着ていない。だけどこの青い髪は着飾るよりきっと美しい。それは自負でもあり、悪魔達との会話で褒められることが多く実感した客観的事実でもある。
    女子と踊りたいと思ったことはなかった。むしろ踊らなくて済むならそれに越したことはないと思っていた。体育の授業もクラスの男子と適当に組んだ。身長は相手の方が大きかったが、手段を選ばずごねて男役をやった。
    踊りたいと思ったことはなかった。
    だがナホビノになってから、唯の人であるよりずっと自由な、強大な肉体を得て、確かに喜びを感じていた。
    ビルを駆け上がる。陰に潜む悪魔達を誘い出しながら。
    魔界の歪な赤い光が降り注ぐ、ビルの天辺で。
    悪魔達と対峙する。光刃を閃かせ、光と炎と雷を操り、ステップを踏む。旋回する。
    合一した神が喜びに踊る。魔性と神性の、1人と1柱の、舞踊だった。


    19 リーヴァ
     
    恭しく頭を垂れる、その額をじっと見つめていた。汗の流れることのない額。時々潜められる額が、皺が寄ることもなく、なめらかに晒されている。
    その額に、示指を押し当てる。
    伏せられた瞼が薄く開かれる。
    「さらって」
    唇を動かす。言葉は声にならないが、アオガミは理解する。理解して、首を横に振る。
    その白い額を、もしも打ち抜いたとしたら。
    そのあと庇護を失った俺はあっという間に死ぬんだろうか。合一できる生命を失った俺は役割のない知恵として満たされることのない半身に焦がれて泣くのだろうか。アオガミは、俺に殺されることを、俺に自らを殺させることを、是とするのだろうか。
    示指をほどき、手のひらを、優しく、強く、握る。繋いだ手首には癒えない瘡蓋がある。見えない瘡蓋が。俺の、必要性のない接続部が。そして胸には、未だに塞がらない穴がある。アオガミの胸にも。
    「少年、」
    アオガミが瞼を開き、爛とした瞳で俺を捉える。
    「海での散策を提案する。行こう、海へ」
    魅惑的な誘いだった。でも、残酷な誘いだった。アオガミは俺と共に行こうとは言うが、俺を攫うとは言ってくれない。アオガミは、俺の為に生きてくれるが、俺と共に生きてはくれない。アオガミは、泣かない。
    まばらな星が光る夜空の下の、黒くうねる水が、遠くの街灯に白波を浮かび上がらせている。適当に履いてきた履き古したスニーカーに容赦なく海水が染み込む。ぬるい水が足を不快さで覆う。それでも俺は、楽しかった。
    足元に転がるボロボロの貝殻を拾って耳に当てようとする。
    「少年、毒性を持つ生物が生息している可能性がある。安全ではない」
    手のひらの貝殻を見つめて、おもむろに顔を上げ、振りかぶって海に投げた。
    水面が貝殻を飲み込む音を、波が岸辺に寄せる音がかき消した。
    「アオガミ、屈んで」
    姿勢を低くしたアオガミの耳に、耳を当てる。
    海の音はしなかった。
    静かなモーターに似た駆動音が低く、やさしく、耳の奥に響いた。
    アオガミの胸に、耳を当てる。
    生命を模した、マガツヒの循環の音が、アオガミの魂の駆動体の音が、波の音にかき消されることなく、鼓膜を満たした。
    俺という人間が帰るべき海は、そこだけだった。

    20 ト・パレルトン

    白い何かがよぎっていくのを視界の端に捉えて、窓の外に目を向けた。紙飛行機が、ふわふわと階下の地面に吸い寄せられていく。
    午前授業が終わった校舎には、部活の為に残る生徒が部室や校庭にちらほらいるだけで、教室には忘れ物を取りに来た自分しかいなかった。
    抜けるような青空に白い絵の具を塗りたくったような雲がこびりついていて、そこから切り取ったような白い紙飛行機が植え込みから少し外れた敷石の上に落ちていた。
    荷物を持って階段を降りると、さらに上から駆け降りてきた男子生徒とぶつかる。
    「うわっ」
    「っ、すみません先輩!」
    階段を踏み外しそうになってなんとか手すりに捕まってこらえた、ように見える。背中をしっかりと受け止めた魔人の姿が見えない人間には。
    「いや、悪い。急いでたんだろ」
    「あ、その……」
    「紙飛行機、飛ばした?」
    「あ……はい……」
    男子生徒が落胆したように俯く。
    「その……先輩、アレ捨てといてもらえませんか?」
    「面倒だな……」
    「ええ……そういうこといいます…?まあ気が向いたらでいいんで」
    なんでだよ投げたなら自分で拾えよ美化委員の顧問うるせえだろと思っていたが、名前も知らない後輩が肩を落としてる姿に1ミリくらいの同情を覚え、つい曖昧にうなづいてしまった。
    どうせあとは寮に帰るだけなのだ。少しくらいの寄り道をしても構わない。
    男子生徒に元気出せよ、と適当に声をかけて階段を降り、昇降口を出る。校舎の窓の下へと歩いて行って、紙飛行機を拾う。そして当然、折り目を開く。
    「うーん、ベタだな」
    『ベタとは?』
    「ありふれたことっていうことだよ」
    『紙飛行機を用いて遊ぶことがだろうか』
    「いや……あーでも俺も小テストよく紙飛行機にするな。どうせ無くすし」
    紙飛行機の中身は古典的なラブレターだった。随分情熱的に、俺の知らない女子生徒への告白が綴られている。それをあの男子生徒が持っていたということは、出さなかったのか、はたまたつき返されたのか。
    しわくちゃな恋文を丁寧に破いて、帰り際にゴミ箱に捨てた。焼却炉に持って行くほどの義理なく、そもそも単純に面倒だった。
    「俺、毎日紙飛行機飛ばせるな」
    『少年、君は紙飛行機で遊ぶことを好むのか?』
    「好きではないけどさ」
    『? 君は難解なことを言う』
    古典的な、ベタな、恋文ならいくらでも、何万通でも書ける。きっと誰よりも美しい文章でだって書ける。届けることだけは、出来ない。

    21 クラン・ドゥイユ

    檸檬の季節とは秋なのだという。檸檬とは晩秋の季語なのだそうだ。
    だとしたら俺達の犯行は季節外れだ。
    日も落ちた頃。寮に爆弾を仕掛けたいと告げた時、アオガミは当然表情を強張らせて制止したが、凶器はこれだとわざわざ青果店で購入した黄色の鮮やかな檸檬を見せると、なんのことか理解できず処理落ちしたようでしばらく押し黙って固まっていた。
    『検索結果、梶井基次郎の小説に該当の描写』
    「あ、ググってたんだ」
    『檸檬を爆弾と見立て放置する行為』
    「放置」
    『危険性のない行為と判断』
    聴覚ユニットに指を当てて馬鹿真面目に答えるアオガミに情緒など端から求めていない。アオガミにとって大切なのは僕や周囲に危害が及ばないかどうかだ。
    どうせこの東京に生きる命など、そもそもこの東京自体が精巧な紛い物に過ぎないのに。
    「ここは丸善じゃないけどね」
    『最寄りの丸善を検索、』
    「しなくていいんだよ!ここで犯行に及ぶことに意味があるんだから」
    この雰囲気最悪の陰気で根暗な寮に陰気で根暗な手口でカーンと冴え渡る鮮やかな色彩の爆弾を仕掛けることに意味がある。いや、意味などない。既にかけがえのない意味のある日常など陰惨な現実に侵され尽くしている。一度はやってみたかった檸檬爆弾を今更実行したところで、救われる人間なんてどこにもいない。俺を含めて。
    それでも犯行に至るのは、「ナホビノ」という神の禁じた罪に至ったたった1人──1柱?の共犯者と罪を重ねてみたいと思ったのだ。
    たった一度、選び取ったその手が自分を死と絶望から掬い上げた。その代わりに常に新たな恐怖と向き合い続けることになった。
    作り替えられた身体を呪い、闘争に高揚する本能に恐怖し、一度は失った鼓動の焼け付く痛みに涙を流すことさえ忘れても、深くひかる、双つの金の色彩が、いま此処に在る自分という存在の意味になっている。

    シトロンの月影に照らされた屋上に、「爆弾」を設置する1人分の影だけが落ちている。
    もしも霊的存在を視認しうる人間がいれば、少年に手を添える、偉丈夫の姿が見えた筈だ。
    夜半の屋上には、ふたりの他に誰もいなかった。
    瑞々しく冴え渡る、檸檬の他には。

    22 トラオム

    目覚めると四肢がなかった。上も下もわからない暗闇の中で、芋虫のように身体を動かす。物音はなく静謐で、声を上げようとしても舌もなかった。身体は痙攣し、嘔気が込み上げる。意識が悲鳴をあげる。
    凹凸のある腕の断面に触れるものがある。慣れ親しんだ、人のものではない指。
    (さわるな)
    声を上げたくても喉から低く嗚咽が溢れるばかりだった。
    (合一してしまう)
    指が触れる感覚はわかるのに、その持ち主はわからない。肉体すべての苦痛の中で、触覚だけが正気に繋がる。
    髪に、瞼に、頬に、頸に。
    肩に、胸に、腹に、腰に。
    外界と自分を隔てる肌の形をアオガミの指がなぞる。それに歓喜し喉を鳴らしてしまう、
    (さわらないで)
    もしもこの姿で合一したとしたら、不完全な肉体のナホビノになるかもしれない。それ以上に、二度とはナホビノになれずに、ミマンに成り果てるのかもしれない。
    根堅洲国を治める滄海の王。
    死と停滞のダアトにあって、その姿に「戻れる」ことが喜びだった。
    その姿を失ってしまうことは、恐怖だった。
    『少年』
    耳朶を介さず、アオガミの声が脳に届く。
    どんな時も意識を掬い上げ、宥め、奮わせる声。
    『私のすべてを、君に』
    そう言って掌を心臓の上に置く。何かが溶け込むような、快楽とも苦痛ともない、ただ満ち足りるような感覚があった。なにか取り返しのつかないことが起きていることだけはわかる。
    瞬きすると視界があった。薄暗い夜半の自室。身を起こす。十全な手足がある。目の前に手を翳すと、その腕は機械めいた白く固く柔軟な装甲に覆われ、赤と青のラインが走り。
    絶叫する。声が出ない。

    自分の唸り声で目覚めた。アオガミが心配そうにこちらの表情を窺っている。
    間違いなく自分のものである手足は強張っていた。軽く握り込むように動かし、感覚を馴染ませる。
    アオガミの頬に手を伸ばした。決して涙に濡れることのない人工皮膚と強固な装甲。対して自分の頬は濡れている。それは、悲しみだったのか、喜びだったのか。
    夢の中の不具の身体は、生命を失った知恵のありようそのものだった。歪に魔人と一つになった身体は、あるいは一心異体であればよかったという、胸の奥底の欲求なのかもしれない。
    「夢の中の方がよかったな」
    冷えた床に捨て台詞を吐いて足を下ろす。医科学研究所に向かわなければならない。

    23 ビリキナータ

    少年の柔らかくまろい頬が少し痩けたように見える。残是ない輪郭に指を添わすと、何?と僅かに顔を顰める。
    身じろぐ少年の脇に手を入れ、抱き上げる
    「何何何?!マジで何?!バグった?!おろして?!」
    『少年、君の質量が減っている』
    「そんな体重測定アリ?!」
    『摂取エネルギーを上回る消費エネルギーの増加と複合的なストレッサーを原因と推定』
    床に降ろされた少年が息を吐く。
    「そりゃ殺伐ダアトライフでストレス無縁でいろっていう方が無理だけど…」
    「成長期の著しい体重減少は健康に悪影響を及ぼす可能性がある。君の健康を害することは避けたい」
    「俺だってガリガリになりたいわけじゃないけど……まあ飯を多めに食ってればそのうち戻るだろ」
    「君の食事摂取量は平均的な男性のものと比べて多いわけではない。この頃は欠食も増えている」
    「ダアトに行くと疲れて食えなくなるだけだよ。今度からちゃんと三食食うようにするって」
    そう言いつつも少年はスラックスと腹の間のゆとりを気にしている。心当たりがないわけではないらしい。

    『それで、わざわざ私に連絡を?』
    「少年の健康を害することはベテルにとっても損失の筈だ。それに……」
    『それに?』
    「少年に健やかであってほしいと思う。これは知恵に対する生命の本能なのだろうか?」
    『彼がお前にとっての無二であることは事実だろうからな。付随する感情があってもおかしくはあるまい』
    「私が少年の力になれることはあるだろうか」
    『情勢が情勢だが確かに彼の年齢で働き詰めになってもらっているのは申し訳ないな。休息の時間を確保しよう。それと──」

    「どういうこと……」
    歴史ある風情の、どう考えても私服の男子高校生に縁があるはずのない料亭の前で俺は立ち尽くしていた。
    日付が変わる前に突然越水から連絡があり、一日だけだが休みを取ってくれと告げられてよし惰眠を貪るぞ、と横になって目を閉じ。気がついたら夕方だった。流石に空腹を覚えたが買い置きのカップ麺もないことを思い出し、起き上がる気力もなくダラダラとスマホなど見ていたところ、アオガミが珍しく
    「少年、出かけたい場所がある。着替えてくれ」
    などというものだから、その辺に干していた服を適当に身に纏って薄い財布とスマホだけポケットに突っ込んで寮を出た。
    「だる……お腹空いた……」
    「それなら丁度いい。君に食事を摂ってもらいたかった」
    「は?」
    「ここから長官の手配した車に乗る」
    「は?」
    目の前には黒塗りのリムジン……ということこそないが明らかに高級そうな車。
    「わあ国産車。意識たかーい……」
    柔和な笑みを浮かべた初老の運転手が降りてきて、ドアを開けて中へと促す。
    「ど、土禁ですか……?」
    「いいえ。お靴のままどうぞ」
    そこから記憶がない。気がついたら料亭の前に立っていた。

    どう考えても一般の男子高校生には広すぎる料亭の個室に1人座らせられる。
    テレビで見たことある。こういうところでマナー通りに食事が取れるかってやつ。ああいうの芸能人がやるんだと思ってた。なんで俺が「長官の手配で他に人はいない。気を張らずに食事を摂ってくれ」「貸切ィー?!」
    思考を遮るアオガミの言葉にびっくりしすぎて声が裏返ってしまった。周囲にアオガミ以外に誰もいなくてよかった。ていうか長官は何をしているんだ?
    控えめな足音がして、仲居さんが食事を配膳してくれる。
    「味、わからない……」
    緊張でちょっと泣きそうになる。
    淡い彩りの前菜が美しい小皿に盛り付けられている。おそらく手の込んだ料理なのだろうが味わうどころではない。
    「嗜好に合わないのか?」
    向かいに座っているアオガミが尋ねてくる。せめてアオガミも一緒に食べてくれればと思う。ひとりで食べているところを一方的に見られていい気分ではない。
    「いや、好きとか嫌いとかじゃなくて……ちょっと、もう食べれそうにない……」
    作ってくれた人には申し訳ないが、提供された料理を半分ほど、これ以上食べられそうになかった。
    「少年、空腹ではなかったのか」
    「いや、これ以上無理……美味しいんだろうって、分かるんだけど……」
    「……承知した。君の力になれなかったようだ」
    アオガミは表情を変えなかったがああこれは落ち込んでいるんだな、と言うことがわかった。
    「いや、アオガミが越水さんに言ってくれたんだろ。後で越水さんにもお礼言わないとな」
    「美味しいと、思える物を食べてもらいたかった」
    「そっか。ありがとう」
    実際ここまで緊張していなくても、食べられる量はそんなに変わらなかった気がする。
    最近はずっと胸がつかえて、食欲が落ちていた。もともとそれほど興味がなかった食事が苦痛だった。
    「美味しいもの、食べたいな」
    もうずっと、食べた物の味など分からなかった。

    疲労感が強く、寮に帰って着替えもそこそこにまた眠った。しかし一日中寝ていたからか眠りが浅く、夜中に目を覚ました。
    ふと。
    「……?」
    いいにおいがする。炊き立ての米。
    「誰だこんな時間に米炊いてるの……」
    「私だ」
    「わっ?!」
    神造魔人が、俺の命の恩人で生命そのもののアオガミがしゃもじを持っている。
    「似合わないにも程があるな……」
    「軽食を作ることを試みた」
    「軽食?」
    しゃもじも似合わなければ軽食という言葉も似合わない。そもそもアオガミは戦闘を想定して製造されているのだから、日常のあらゆるシーンが似合うはずがない。
    そんなアオガミが皿を持ってきた。少し不恰好な、おにぎりが並んでいる。
    「俺、神造魔人におにぎり作らせちゃったのかぁ……」
    「具はない。すまない」
    「塩むすびかぁ」
    切実ではないが確かに空腹感がある。アオガミの作ったおにぎりの一つに手を伸ばした。
    「おいしい」
    米が少し固いしみちみちに握られていて質量がすごい。それでも料亭で食べた料理の何倍もおいしく感じる。
    「俺、腹減ってたんだなぁ」
    残ったおにぎりに手を伸ばそうとして、ふと思い立つ。
    「ちょっと待って」
    共用スペースからアルミホイルを持ってきて、残りのおにぎりを包む。
    「アオガミ、出かけたい場所があるんだけど」
    「了承しかねる。夜間の外出は推奨されない」
    「危ないから?守ってくれるだろ?」
    「健康に悪影響」
    「昼間眠ってたから眠くないんだよ。寝るのにも中途半端な時間だし。ちょっとそこまでだからさ、お願い」
    手を合わせて頼んでみる。
    「クエストとして、」
    「登録しなくていいからね?」
    「……了解」

    薄い財布とスマホと鍵、それからおにぎりと、インスタントの味噌汁を作って、近所の公園まで持っていく。
    さすがにこの時間には誰もいない。貸切だけど、なんだか清々しい。
    少し温い味噌汁を啜って、おにぎりを食べる。胸のつかえが溶けるように、自然に飲み込める。
    おいしい。
    「やっぱ俺、腹減ってるみたいだ」
    時刻は5時を回り、暗く聳えるビルの隙間に、朝焼けが引っかかっている。
    「アオガミ」
    「どうした、少年」
    「またおにぎり、作ってほしい。今度はシャケ」
    「了解した」
    表情を変えずにアオガミは了承した。
    神造魔人は鮭を焼くのだろうか。
    米はやっぱり、少し固いのだろうか。
    またこうして、2人で話をしながら、食事を摂れるのだろうか。
    なにもわからないまま、朝が来る。

    24  マル・ダムール

    手を伸ばすまでもなく、半身たる生命に触れた。
    指先から焼け付くように熱く、痺れていく。
    触れた膚の下、心臓を模した駆動体は規則的に、だが活発にマガツヒを巡らせている。
    「俺のこと、好きにしてね」
    アオガミの眼差しに獰猛さが宿る。それを触れるほどの距離で見つめているのが堪らない。
    二つの身体だから、交わる。一つにはなれない。でもそれ以上に、重なる。正しくなくていい。
    触れる唇の熱さに歓喜する。
    「まだ、あけてないよ」
    夜を、もう少しだけ味わっていたい。
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    🍼💕💕💕
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