Green Sprouting緑の芽吹き
ドドン!!と男は胸を張る。
身長は大して高くもない、中肉中背。髭が威厳があると言えばそうだが、船の主程のインパクトはない。
それでも、サッチは肌でひしひしと感じるその圧倒的な迫力に正座したままの背筋が伸びていくのを感じていた。
モビーディック号、厨房内───
「いいかい、お前さん。おれの名前はイササカ!!このモビーディック号の戦う料理人たぁ…おれのことさ。この厨房では、私が絶対だ。分かるか?おれが白いと言えば、黒いカラスも白になる。その意味が分かるかい?」
何より特徴的なのは、天を向いて聳り立つ細く長いリーゼントスタイルの髪型だった。地毛が未だに黒黒としているのか、中年を少し越えた歳の頃だろうがイササカという名前よりも、サッチの頭の中で"イッカククジラ"の名前が過る。だが、それを口にする馬鹿正直さは不要である。
「は、はい!!」
「よろしい、返事はよろしい…問題なのは使えるかどうかだ。ヤブサカァ!!説明してやんな」
イササカが顎で指し示す先では、靴の踵同士を音立てて合わせる青年が立っていた。サッチよりも、十は離れていないだろうが、明らかに年嵩である。四角いパーツばかりを集めて形作ったような顔が特徴的だ。
「はっ。自分の名前はヤブサカであります!!自分も下っ端も下っ端でありますが、今回の試験は試練と言っても吝かではなく!!受かるか、落ちるかの二択!よろしいでしょうか!!」
「よ…ろしいです」
よろしいか、よろしくないか。実際は全くよろしくない。
あの後、マルコに引っ張られて実際、引き摺られて行ったという表現が最適だ)いった先が何処かと見渡して食堂だというのは理解した。サッチ達、現状として居候の一般人達はそれぞれ自分の力量に合った労働力を提供している。サッチであれば、料理人としての下処理位は任されたが何せ直接口の中に入る物だ。
そもそも、厨房での役割は、料理長が決める。
この船での役割決めがどうなっているのかは、まだサッチは把握していなかったが料理長、副料理長、どうやら部門に分かれた責任者が数人といったところで割り振りさえされていないサッチのような新人は只管野菜の皮を洗うか食器を洗い続けるか───サッチは前者の上に、厨房に入る権限を持ち合わせていなかった。
だからこそ、マルコの"励め"という言葉を何度も繰り返して状況を理解しようと頭をフル回転させているのだ。
「(マジでアイツ、説明も言葉も足りないだろ…!!でも、何のことですかって言える雰囲気じゃねぇんだもんな…!?)」
とはいえ、厨房にまでコック達によって引っ張り込まれてきたのだ。状況を理解していないうえに、明らかに顰め面やら厳しい表情の海賊達に囲まれようと、初めて入れた"聖域"に正直、心は踊る。
そんなサッチの動揺をどう捉えたのか。
ヤブサカと名乗った青年は、両手をわきわきとさせて繰り返す。
「リラ〜ックス、ディープ、リラ〜ック〜ス…、案ずるなかれ。今ならば、島に着いたばかり。降りたとしても、海に落とされたとしても、島で新たな人生を歩むのも吝かではないのであります!!はい、リラーックース!」
「ヤブサカァ!余計なこと言うんじゃねぇ、さっさと説明しちまいな!」
「失礼しました、料理長ーー!!不肖ヤブサカ説明に戻ります!!えー、少年サッチ君!!我らが船長より貴君には課題を課せられております!貴君がこの船に乗り、尚且つ料理人として働きたいとのこと!我々も聞き及んでおりますが!!船長は我ら料理人に、貴君を一任されました!!よって!イササカ料理長の采配のもと、果たして貴君にその素質があるかを試させていただきたい!!」
床板に正座していたサッチの瞳が、数回の瞬きの後に一気に見開かれていく。初耳だ、全てが初耳だったが、今目の前に細い糸が垂らされたのだ、しがみついて手繰り寄せない手はない。サッチは床に即座に両手を着くと、前のめりに頭を下げる。
「お願いします!!試験…試練…乗せてもらえる可能性があるなら、おれぁ何だってやります…!!!」
「リラックスですぞ、少年!!リラーックス!たとえ失敗しても、めげず懲りずに挫けない心が人生には必要で…」
「ヤブサカァ!!」
下げられたサッチの頭を、ぽすぽすと掌で叩いて励ましているのか煽っているのかいまいち分からない男だったが、敬愛する料理長からの一言にはすぐに踵を合わせて直立する。
「失礼しました、料理長ーー!!!」
「…で、お、おれは何をしたら良いんで…?試験って、今日これから…?」
若干勢いに飲まれかけていたが、サッチは真っ直ぐにそのまま挙手をする。事の経緯が分かれば、周囲を取り囲むコック達のガタイが例え料理人にしては逞し過ぎようと、見える位置に堅気ではない傷だらけだろうと気になるものか。実際、海賊は海賊である。針のむしろだろうと試してもらえるだけで万々歳である。
「い、芋の早剥きとか、形の整え方とか…?」
最低限、新人に求められることとして浮かんだ、いかにも"試験"らしい作業を口にすれば鼻先で「フン…」と盛大に笑われる。
「そんなものは、続けていきゃあ誰だって出来るようになるだろう、違う、そんなんじゃねぇ…言っただろう?素質だ、つまりは、料理人としてのセンスよ。いいか、それがない奴ァ何をやったって駄目だ。いくら頼まれた料理を完璧に作れようと、そりゃあ料理人じゃあねェ…分かるか?」
全く、分からない。
分からないが、なんとなく言いたいことが少しは伝わった気がして傾げかけた首を何とか上下に強く振る。それに、黒衣の男はとりあえず満足したらしかった。片手を挙げて振れば、無言ながら揃った靴音で料理人達が半歩身体を捌く。
「おれが出す試練はこうだ!この島に滞在している二週間…二週間で、この船の主たる男、エドワード・ニューゲートが喜ぶ料理を作ってみせなァ!!ガキが何だ、下っ端がなんだ、船に乗せてほしいって気持ちが一人前なら…関係ねェ…!!」
さながら割れた海の様な光景のその先に見えた姿に、サッチは再度目を見開く。
「食材も!人材も使えばいいさ!ただし!おれ達の時間と労力を消費するんだ、失敗したらその罰として容赦なく海に放り込んでくれる!」
割られた海の先に、顔馴染みの面々が立っている。
昇る朝日を背に受けて、逆光ではない。後光と共にそれぞれが拳を握り、背を伸ばし、期待と激励の眼差しをもって自分を見つめていることに熱く身が震える様だった。
その真ん中で、腕を組んだガルニが微笑む。
「さぁ、それがおれからの試練だ!!受けて失敗して海に放り込まれるも良し。それともこのまま夢を諦めて、大人しく島へ降りるか!小僧、好きな方を選びな!!」
ドン!!と火蓋が切って落とされる。
サッチの答えなど、とっくに決まっていた。
「どっちでもねぇ…合格して、この船に…おれぁ白ひげ海賊団の料理人になる…!!!絶対だ!!」
✳︎
時を同じくして、ついでに場も同じくして食堂の壁に張り付く姿がひとつ。丸窓から中を覗き込んで、一連の出来事を盗み見していた青色の瞳が二つ。その隣に、氷の様に薄い青の瞳が不意に加わる。
「───……」
「何やってんの、マルコ。お腹空いたの?」
「!!す、空いてねぇ、なんでもない、なんでも…!」
飛び上がる少年に対して、首を傾げるうら若き乙女の名前はホワイティ・ベイ。スラリとした四肢に、勝気な瞳。ふっくらとした唇から落とされる笑みがあまりに美しく整っているがあまりに氷の様に冷たい印象さえ与えがちの船員であるが、口を開けば姉御気質の情の深さに魅了される男達が後を絶たない。
「変なの。別にあんたくらいの歳の子供は、お腹なんて常に空いてるようなもんでしょ。変な遠慮しないで、何か作ってもらえばいいじゃない、あたしも紅茶淹れてもらおうかなー…」
「ま、待てよベイ!」
ただし、その情の深さと気の良さが時に歳若い少年にとっては複雑だ。何かと気に掛けてくれるのはありがたいが、中に入るのに何が問題なのかとスイングドアを既に推し開いて入室しようとしていたその手首に手を掛けて慌てて引っ張り戻す。
それがまた、何かしらを察知したのか。
手首を取られたことに言及するでもなく、サッと身体を傾けて先程までのマルコのように丸窓から中を覗き込むまでの動作は一連である。マルコが止める隙もなかった。
「ふーん…、あの子って…」
「ちがう」
「違うって何よ」
「ベイが考えてるようなことは全くねぇってこと」
「なーに、何も言ってないわよ?あの子が、厨房に入れてもらったのねって、それだけじゃない。皆知ってるわよ、あんたが投げた馬鈴薯追い掛けて海に飛び込んでしょ?」
くすくすと形の良い唇に笑みが落とされる。
耳を澄ませば聞こえてくる会話は愉快だ。話題の当事者である小柄な少年の「え!?おれ、一日中寝てたの…!?」という間抜けな驚愕には、流石に含みのある微笑が続く。
「あんた説明しないで…あの子をここに引っ張り込んだの?いけない子ね」
「子じゃねぇよい、ガキ扱いすんなっての」
歯を剥き出して遺憾を表明したところで、実際行動としては子供であると言われても仕方がなかった。所在なさげに掌を離し下唇の捲れた皮に歯を立てるマルコに、姉は片手を伸ばしてその額を軽く指先で突っつく。
「……意地っ張り」
「なっ」
「ねぇ、マルコ。あたし今から、オヤジに朝一で報告挙げにいくんだけど、一緒にくる?」
誘っておきながら、こちらの返答を待たずに華奢な背中を向ける姉である。
「…それ、絶対朝イチじゃなくていいやつだろ」
「ケチくさい事言うんじゃないの、あたしの良い一日はオヤジの顔を見ることから始まるんだから」
冬島付近の波のうねりのように、艶やかなセレストブルーの髪を靡かせ颯爽と去っていくヒールの音を少し遅れて追い付いていく。
「……叱らねぇの?」
「何に対して?」
兄弟数多くあれど、姉というのは随分と少ない。
半歩遅れて着いていきながら、朝というのにしっかりと着込んで頭に羽付きの帽子まで揃えるのは父親と慕う男を姉もまた心の底から尊敬しているからだった。分け隔てなく船員たちを子供として愛する偉大な父親だが、なんだかんだで娘に対して時折り頭が上がらないだとか、少しだけ弱腰になる姿勢があった。
例え家族ごっこと言われたところで、マルコにはそれが好ましい。
「おれが投げたせいで、サッチが海に落ちて…皆を動かしちまった」
「そんなに叱られたさそうな顔で見ないでよ、オヤジが何も言わなかったならそれはそれ。オヤジがもう何か言ってたら、死体を蹴るような真似はしたくないしね」
「し、死体…」
「あの子、船に乗りたいんでしょ?今回の件は───少なくとも、機械の一つにはなった。マルコはどうなのよ、あの子を乗せたいの?乗せたくないの?」
そんな権限が、下っ端にないにしてもと前置きした上で視線をよこす姉にマルコは唇を左右に引っ張り何とも言えない顔で口籠る。
「分からねェ、良い奴だ…多分。けど、だからってこの船に乗る限りはおれ達と変わらないだろ?ただの乗組員ってことにはならないだろ」
非戦闘員だろうと、何だろうと。
この船に乗るということは、世間からは白ひげ海賊団の一員として見なされることになる。平穏な暮らしを望むならば、まず選ばない道だ。自分の首にはまだ掛けられていないが、船長をはじめとして賞金首として政府から懸賞金を掛けられているクルーなら大勢いる。
「だから、危ない橋をわざわざ渡らせたくねぇって…今はそう思うのが…半分」
「半分?」
「もう半分は…、おれが…結構…、……気に入っちまったからよ…一緒に船に乗れたら、楽しい…んじゃないかと思っちまって…今困ってる……」
「やーだ!分かってるんじゃない、そうよね。あの子、あんたと丁度同い年くらいでしょ」
唇を曲げて、視線を逸らして。
初めて、もしかしたら同い年の家族ではなくて純粋な友達が出来るかもしれない、と額に汗すらうっすら浮かべながら呟く弟に唇が釣り上がる。そのついでに、背中を強めに数回叩いてやればマルコの唇から「いってぇ!!」と大袈裟でもない声が上がっていく。
「そーよね、一度この海で別れたらいくら仲良くなれても、再度会うのは…至難の業よねぇ…」
「いて!…ベイ!力任せに叩くなよい!」
「手加減してやったわよ、あんたが細いのが悪いの。……あたしより細いんじゃない?ムカつくわ〜」
「ンなわけあるか!!それに、おれは今成長期なんだよ、将来はオヤジくらいにデカくなるからな!」
「それって頑張りでどうにかなる問題?」
冷ややかな眼差しを向けられ、ぐうの音も出ない。
そもそも、女性のベイに対して身長も足らなければ今だって歩幅を合わせてもらってようやく廊下を共に出来るのである。そんな自分と比べて、少し小柄な少年の威勢がいくら良いとはいえ不安になるものはなるのだ。
行き交う仲間達と朝の挨拶を交わしていれば、既に目的地に辿り着いたベイが明るく華やかな声を上げる。
「オヤジ、おはよう!あたしよ、昨日の報告書を上げに来たの。入っても良い?」
白ひげの身長はその中身に似つかわしく巨大だ。
よって、船長室の扉も内装も部屋の主人に相応しくマルコからしてみれば、室内で羽ばたかなければ視線を同じ位置まで持っていけないだろう。
そんな扉の向こうから簡潔に「入れ」とだけ返されれば、ベイは胸元のクラバットを指先で整える。
まめなことだと無言で見上げる少年の眼差しに何を勘違いしたか。白魚の様な指先が伸びて、マルコの額に掛かる毛束やら、乱れた襟元などを正してくれるものだから左右に余計な視線がないかそわそわと確認するのも慣れたものだった。
姉であり、もしもこれが母だと少しでも自分の甘ったれた意識の中にあるならば、先日聞いたばかりのサッチの過去が一層重たさを持ってマルコの胸に響くのだ。
「おはよう、オヤジ!素敵な朝ね、気候も落ち着いててしばらくは波も穏やかそうよ」
「おはよう、ベイ。マルコもじゃねぇか、どうした揃いも揃って」
「おれも朝の挨拶だよい!今日の朝飯は…ちょっと遅くなるかもだけど」
シャツの袖元を丁度止め終わったばかりの白ひげに、軽やかに朝を告げるベイが朝の小鳥達の声ならば、その賑やかさに彩りを加えるのがマルコだ。
何もない床から、どこかへ飛び込むように腰を一度落として地を蹴ればマルコが翼を広げる空間がここにはある。両方の腕を翼に変えれば、脚だった部位は鉤爪の着いた鳥のそれへと変わる。
タンッ!と小さな音を立てて、今日の止まり木は本棚の上だ。勿論、オーク素材の板面に爪痕を付けるような"ヘマ"はしない。
「朝食が遅れる?…あぁ、起きたか、あのボウズが」
「……よい。おれが食堂に連れて行って、イササカ達に任せたから…なぁオヤジ、オヤジがイササカに指示したのかい?試練ってのは…、」
「まぁ待てマルコ、お前の話も大切だが、ベイの報告の方が先だ。順番ってもんがあらぁな」
船長室は何もかもが規格外だ。
白ひげの為に造られた家具はマルコを時々、小人か何かになった気分を与えてくれる。勿論、木棚に収められている本の類は誰か個人の為に作られたものでなければ大きさは一般的なものだが、それらですらしっかりと収まるように誂えられているのだ。親父の為に造られた、その明確な意思で造られたテーブルに椅子、寝台。細々とした雑貨の類は決して豪奢ではない分、丈夫で頑強だ。ひどく、居心地が良い。
鳥の習性まで悪魔の実で移る訳ではないだろうが、この鉤爪は地面を歩く様には出来ていない。何かを掴んで留まっている方が安定するのだ。白ひげからの言葉はもっとも、と言葉を一旦引き取る弟にホワイティ・ベイは片手に持っていた書類を規格外の机上に置いて片目を瞑る。
「いいのよ、オヤジ。あたしの報告は緊急じゃない限り、寝起きのオヤジを見てやる気を出そうって口実だもの」
何のやる気だか、知りたいようで知りたくない。
「お姉ちゃんの厚意は受け取っておきなさい、マルコ。いいのよお礼は、別に。あたし新しいネイルオイルが欲しいのよねー、この島で補充しようと思ってたけど」
良い女は、泣いた顔まで美人だと物知り顔で酔ったラクヨウが言っていた。それに対して、いや笑顔が最高だの、怒った顔が色っぽいのが至高であるだのくだらない酔っ払い達の論争が始まったものだが、酒がまだ飲めないマルコですら思う。
良い女は、何か企んでる時の顔が、多分一番美人だ。
胸元のクラバットから、華やかな残香さえ残し部屋から去っていく姉の為に耳慣れない代物を買いに出る必要は出そうだったが、ここは甘んじておくことにした。
「おめぇ、マルコ…高くついたな?」
「よいよい、ネイルオイルってのがまず…なに?」
「そりゃ、ネイル…なんだから爪に…油をこう、手入れの品じゃねぇか。あいつの爪は綺麗だからな」
「オヤジの方がよく分かってるよなァ」
「グララララ!そりゃそうだ、まだ十年ちょっとしか生きてねェ小僧より、物知りじゃなきゃ困るだろうよ」
大きな掌がマルコの頭に伸ばされる。
わしわしと特徴的な髪を乱し、雑に混ぜっ返すように撫でられては普段ジョズの前では兄貴風を吹かせるマルコの頬にも屈託ない笑みが浮かぶのだった。
「へへへ…あ、そうじゃねぇ!そうじゃなかった、オヤジ!」
「あぁ?」
「確かに言われた通り…何でもするって言ったから、アイツを…サッチを、おれ食堂に放り込んだんだ。そうしたら、イササカがこの船に乗せるかどうか、アイツを試すって言うんだ」
白ひげは戻した掌で自分の顎をなぞりながら、鷹揚に頷く。
「あぁ、そりゃあおれが言った」
「オヤジが?」
「そうだ、おれは…マルコ、おまえさえ問題がねェなら乗せてやっても構わねぇと思ってたからな。根性があるだろ、何回だ…、あのまま放っておいたら百回だって頼み込みにきてただろ」
それはそうだ、マルコも頷く。
妨害していたのは自分だが、いい加減しつこいと苛立つ程に根性はあった。雨垂れが岩を穿つなら、無駄なことなど何もない。その前に、船が到着してしまっただけである。
「与えられた仕事をサボるでもねぇ、そういうガキなら夢は何にせよ目的がなんだろうと、置いてやってもいい」
「けど…それじゃやっぱり…」
翼を羽ばたかせ、マルコは天井高く作られた部屋の天井付近から一気に降下すると、靴で踏み抜く様な間抜けはせずに出窓へふわりと腰を掛ける。ボボボッ、と燃える音を立てて人の脚へと変わっていくこの炎に、焔としての効果はない。指先を落ち着かなく膝の上で遊ばせる。
「…おれが意地張ってたから、かい。落とし所見つけるために、オヤジの言葉を借りちまった、そうだろ?」
見習いがいくら嫌だと言っても、本来ならばそんな権限は欠片もない。船長に向かってそんなことを口にする馬鹿こそ、世の中を渡っていけないだろう。
この船が特殊なのだ、自分達のような世間という闇の中で孤独な爪弾き者達を導いてくれるモビー・ディック号。その船長だからこそ、どんな小さな言葉も大きさではなく重さとして受け止めてくれる。
「おれ、聞いてて…アイツの過去の話、途中まで珍しくもねぇって思ったんだ。アイツの身に起きたのが意外ってだけで…、戦争を経験してきた奴等はいくらでもいるし、産みの親がいねェのは…おれも同じだ」
指先同士が合わさって、掌の間で伸ばされたり引き寄せられたり落ち着かない仕草だったが、感情を言葉にして整列させるにはそういうイメージにあった仕草が自然と出てくるものだ。
「それでも、アイツが料理ってものに拘ってるのはわかる。一番拘って、一番追い求めて、一番…拠り所にしている魂がそれだってんなら…、それが原因で家族を失ったら、おれだったら…"生きていたくなくなる"って、そう思ったら…、絶対にそれだけはしねぇって決めてたのに、アイツのために…涙が止まらなくなった」
取り止めのない、口にしてしまえば陳腐な響きを伴う言葉だったが真実だった。半端な同情に感じるのは怒りだ。勝手に理解したという顔で、辛かっただろうと涙を流されることほど不快なものは、ない。少なくともマルコにとって、それは数分後には忘れているような偽善でしかない。
「アイツの苦しみなんか分からねぇのに、…おれの涙なんかで傷が癒える訳でもねぇのに…」
「なるほどな、だから真っ赤に腫れた目ェしてんのか?」
「え!?まだ、そんなに!?」
肩を飛び上がらせて、マルコは顔が映る物を探す。出窓の四角い枠に顔を寄せても、うっすらと驚いたままの自分が映り込むだけで、違いが分からない。
「グラララ…冗談だ」
「お、オヤジィ…!!」
ガックリと、それこそ醜態を晒したかと赤くなって声を張り上げる息子に白ひげは寝台にどっかりと下ろしていた腰を上げる。
「別におまえの為だけじゃねぇぞ、アイツの為だ。それに…どういう試し方をイササカがするかは分からねぇが、おれに皿ごとアイツを寄越したのは、イササカのやつだ」
「イササカが…!」
「お前が勘違いして、突っかかっていったのは聞いたが…小僧が夢の為にこの船に乗るってんなら、少なくとも管轄はコック共だからな」
ポカン、と呆気に取られるマルコの口が開く。
「そ、それじゃあ…試験の内容の、オヤジが喜ぶ飯を作れ…てのは?」
「………あー、あれか……あれだ、…そんなこと言ってたか?」
「初耳だって顔に書いてあるよい!!」
逆に、そっちの方が初耳だったらしい。
答えずとも、自分が引き合いに出されると思っていなかったのか、一瞬で何とも形容し難い表情になる父親に思わずマルコが掌を垂直に振り上げた瞬間、部屋の扉が軽快に鳴らされる。明らかに下方の小さくとも浮き立ったそのノック音に、父と子とで顔を見合わせる。
「誰だ?」
「おれです!船長さん、サッチです…!!朝早くからすんません、どうしてもおれ…あんたに礼を言いたくて…!!」
マルコが咄嗟に鳥の姿に身を変えて、天井のシャンデリアまでバネのように飛び上がろうとするのを、一枚上手の掌が包み込んで阻む。
「お、オヤジ…!?」
「入って良いぜ、とっくに起きてらァ」
「えへへへぇ…、すみません本当…、今、ここの料理長さんに色々と教えてもらって…船長さんが試してくれるっていうのが、おれ嬉し…、」
「……………」
「……………」
頭を掻きながら、嬉しくて仕方がないのだと頬を染めにやつきながらトコトコ部屋の中に入ってきたサッチの緑の瞳が、掌の中でにっちもさっちもいかなくなった鳥の青の瞳とバッチリかち合う。
「……マルコ?」
「ち、ちがうよい」
「ま、マルコだーー!!おまえ絶対マルコじゃん!!」
ズビシッ!!と音を立ててサッチの人差し指がマルコの眼前に迫る。
「人違いだよい!!」
「うそつけェ!お前みたいな変な語尾の、しかも喋る鳥がいたら世界広すぎだろー!!…あれ、狭い?…広い?どっちだ…?」
「へ、へ、変な語尾ってなんだ、変な語尾って!!」
「って言うか、普通にさっき見たじゃん。なぁなぁ、マルコさぁ…!おれ、そういやお前にもちゃんと礼を伝えきれてなかったんだよ!」
あくまでマイペースを貫くサッチが、ズカズカと歩み寄ると掌の中でジタバタ足掻くマルコと視線を合わせに行く。
「れ、礼…?」
「そうだよ、まず助けてもらったろー?それに、船長さんもお前も、おれにチャンスをくれた。あとさ、あと…ほら、この指見てくれよ!」
人差し指を曲げ伸ばしして、サッチは浮かべる笑みをさらに朗らかに深めた。
「この傷!数時間って言ったけど、もう跡が分からないくらいになってさぁ…!」
「そ、そうかよ、そりゃ思ったより確かに速かったけど…たかが指のちょっとした怪我じゃねェか」
「いーや、そんなことないっての。本当は、料理人は手首から先は絶対に怪我しちゃならねぇんだ」
たかが、小さな怪我だと嘴の中で口籠るマルコに対してサッチは表情を引き締めると、それは違うとキッパリ強く言い放つ。
「衛生面的な問題で、どんなに酷い怪我をしようと治るまでは厨房で手作業は出来ねぇ。けど、下っ端には切り傷も火傷も付き物だからさぁ…、マルコの炎、熱くねぇのにあったかい理由が分かったよ、おまえ優しいんだな」
呟くような言葉が、最後にはあまりの穏やかさと朗らかさを持ってしみじみと告げられるのにマルコは思わず目を眇める。
「いや、ねぇよ…おれの炎は温度は持ってないって…まぁ、血の巡りはよくなるだろうから、ただそれだけの…」
「だとしても!一番最初に、おれをこっちの船に乗せてくれた時も、その力使ってくれただろ!覚えてるんだ、全部温かくって、こう…」
「お」
「お?』
「ちょっと黙っててくれ、頼むから……、オヤジが見てんだろ……」
あ、という顔をしてようやくサッチの回り続けていた口が止まる。マルコの背けられた顔の表情は窺い知れないが、訪れておいて確かに"これ"はない。
キリリ、と眉が上がる。
「すみませんでした!船長さんの喜ぶ飯が二週間後…作れれば乗せてもらえるんすよね、おれ…素質がどういうところで評価されるのかまだ分からないっすけど…チャンスをもらえたからには、全力を尽くすんで!」
「そうか、そりゃあ楽しみだ」
マルコは内心ぼそりと呟く。
─── さっき聞いたって顔して、よく言うよい…。
「で、マルコ!」
「はぁ……?」
「島に色々と見に行って良いって言うんだ、─── だから一緒に行こうぜ!今すぐにじゃなくてさ、呼びに来るから!」
「………はぁぁ?」
キラッキラと瞳を輝かせて、興奮のままにサッチがマルコの両手を握り込む。正確には、白ひげの掌の中という覆いの中に収められたマルコの両翼だ。
「だって、おれこの島のことよくわかんねぇもん、イササカさんに聞いたらこの二週間好きに動いて良いっていうしさ。こんなチャンス、この先もねぇと思うし!食材、見に行きたいし!お前に聞きたいことも色々あるし!」
「ばっ…おれだって色々とヒマじゃねぇよ!下っ端ってのは、下っ端なりの仕事があるんだ、ヒマだと思ったら…、」
「おれは構わねぇぞ、マルコ。この坊主の一時預かり人はおまえだからな」
さらりと白ひげが口にした衝撃の言葉に、鳥型のままマルコの顔が引き攣る。
「うわ〜イヤそうな顔…、じゃ、また後でなー。お邪魔しました!」
「ちょ…おい!!」
片手を立てて、船長である男にはピシリと直角に頭を下げた少年が足取りも軽く去っていく姿が、その後ろ姿が扉の向こうに消えてしまってからマルコは無言で抗議の眼差しを白ひげへと送る。
サッチが入室してから、退室するまで潰されこそしないものの、逃げるという選択肢をなくしてくれた掌へ物申す眼差しだったが、逃げておいて何か進んだか。
「……オヤジ、預かり人…って何をすりゃいいんだ?」
その答えは自分でも、とっくに分かっている。
TO BE CONTINUED_