Dull Sigh鈍色の溜息
ソースはコックにとっての命だ。
一流の料理人ともなれば、自分だけのオリジナルの調理法を確立している。包丁は魂であり、炎は生涯を共にする伴侶だという。とにかく、門外不出のソースの味は師匠と弟子の関係にあったとしても決して教えないという。文献に残すことも、口頭で伝えることもない。
では、歴代の名料理人達が作り上げたソースは、その料理人の死と共に消え失せてしまうのか?
ところが、それらの素晴らしい調理法は今でも数々の伝説と共に確かに伝えられているのである。まるで、川を辿れば全ていつかはひとつの海に注ぐ流れの様に───。
テーブルの上に、置かれた大皿の料理の数々。
モビーディック号は海賊船だ。輸送船でもなければ、海上のレストランでもない。フルコースがタイミングよく前菜、スープ魚料理───等、一品一品供されるわけでもなければ、基本的に作り上げられた料理を大皿から好きなだけ個人の皿に取り分けて好きなように片付ける(言い方はあれだが、食べるとするよりは正しく的確だ)ようになっている。
「………う〜ん…、このソースの酸味は…赤スグリ…じゃないな、色味は似てたけど、もっとまろやかだった気がする…、でもフランボワーズ…じゃないよなぁ…」
「サッチ、何やってんだぁ?」
その巨大な置き場の下、テーブルクロスを捲って中を覗き込むのは黒髪を切り揃えた青年である。ニカっと笑う顔は闊達で、発達した上半身が年若であっても優秀な戦闘員だと証明しているようだった。
ビスタ、19歳───、実際この歳で懸賞金の額が目下鰻登り中の白ひげ海賊団が誇る屈指の剣士である。
マルコがサッチと盃を交わして───それがたとえ、グラスの炭酸水という些か厳格な仁義の儀礼に不似合いなそれだったとしても───とにかく、義兄弟になってから、マルコが当然のようにあちらこちらに自分を連れ回して回るものだから、最初こそサッチも自分の立ち位置は何なのかと気を揉んだのが遥か昔のことのように思われる。
─── おう、皆!新しく弟になったサッチだ、仲良くしてやってくれ。サッチ、ほら挨拶しろよい。
─── え、えーっと…サッチです、どうも…。
─── おいおい、今更じゃねぇか…おまえらどうしたマルコ、サッチ。一年も船に乗っててよォ?
─── 違ぇよい、ブレンハイム。こいつは、おれと盃交わして兄弟分になったんだ。だから、そういう意味でははじめましてだろ。
ドーン!!と自分こそ正論であると胸を張るマルコ。 呆気に取られる周囲の面々に、サッチは弟分であるかどうかは物申したいところだったが、途端に帆まで揺れる様なドッという大笑いが降って来たものだからその背にしがみついた辺り、弟という言葉に都合良く甘んじる点もあっただろう。青空を悠々というカモメがその笑い声達に驚き振り返ったとか、振り返らなかったとか。
─── だーっはっはっ!!ジョズだけじゃ面倒見足りねぇってのか!!おまえ、本当に兄ちゃん気質なんだなぁ、えぇ、マルコ?
─── 使いっ走り要員にしたいんじゃないでしょうね、サッチ。あんた、弟としてあまりこき使われる様だったら言いなさいよ?あたしがマルコを躾直してあげるから。
─── ベイ、冗談に聞こえねぇよい!!
─── あら、冗談じゃないもの。
すぐに弾ける笑いと共に、巨大な手のひらやら何やらに頭を撫でられ、しっかりしろと頬を引っ張られ、揉みくちゃにされてと懐かしい。
記憶の中の一ページの中で笑いながらもすぐに手袋越しの片手を差し出してくれたのはビスタだった。気さくで、優しく、そして時々突拍子もないことを真顔でしでかす頼れる兄貴分。それは三年経った今でも勿論変わっていない。
「うわ、シーッシッーー!!閉めて閉めて!」
「悪いヤツだな、オヤジの傘下の大海賊が来てくれるって言うのに…サボりか?イササカに告げ口しちまおうか」
「サボりじゃねぇよ!これは研究!配膳ついでに、ちょーっとだけ、オベンキョーしてるだけだってんだよ」
カーテンのように開けられるテーブルクロス、そこから覗き込んでいたビスタに閉めろとは確かに言ったが、まさか自分までテーブルの下に潜り込んでくるのは想定外だった。やたら楽しげに、サッチが極限まで小さく仕上げた鉛筆を走らせるメモを覗き込むのも、少しばかり身構える。
「なんだ摘み食いかと思ったのに。随分と小さい鉛筆使ってんなぁ」
「隠しておくのに便利だからな、いろんな床だとか、壁とかに仕込んであんの」
「持ち歩きゃ良いだろ」
「異物混入になるから、ポケットにも入れられねぇし厨房には持込めねぇもん」
ビスタは「はぁ、なるほどな」と感心して顎を摩るが、子供の隠れん坊のように身を隠したところで、どうもこの船は"覇気"と呼ばれる不思議な能力を使う者が多い。隠れたって見つかる時には見つかるのだが、戦闘には戦闘のプロがいれば良い。
自分は、料理のプロを目指している。方向性は違う。
「イササカとうまくやれてんのか?この間は、鍋を投げられたって話じゃねぇか」
「寸胴鍋の件?…ありゃおれがグズグズして、折角のサファイアブルーオマールエビが台無しになるところだったから、良いの。あの時すぐに重しを乗せりゃ、その分エビ本体から出る美味いエキスを残すことなく…、って流石にバレる!おれ、行くな!」
「忙しねぇなぁ、真面目にやってるとなると摘み食いすんのに気が引ける」
「すぐ飯時だろ。……あ!そうだ、ビスタの剣の師匠だったっけ、好物のエクレア山盛り作ったから期待して良いぜ!じゃな!!」
「あ、おいサッチ…!…行っちまいやがった」
あの時の海老の失態は、と小さなメモ帳を捲りかけて慌ててコックコートのポケットの中に押し込むと、サッチは前言通りに床板の一部を器用に外して鉛筆をしまい込む。エクレアは、確か傘下の海賊団の船長の好物と聞いていた。
サッチが上に向けて高く親指を伸ばすのに、ビスタはクロスをカーテンのように纏めつつやれやれと片手を振って応える。
「……なーんか伝えそびれちまったなぁ…ま、良いか。後で分かるしな」
ついでに皿から美味そうに揚げられたジャガイモのフリッターを摘み上げ、口に放り込みながらその場を後にする。
─── どうせすぐに分かることだ、本当にすぐに。
✳︎
「すいやせーん!!戻りましたァ!!」
「遅ェ!!ノースブルーまで配膳に行ってたんかお前ェは!!簀巻きにして海に放り込んで送り返してやろうか!!」
「それだけは勘弁っす!!皿洗い入ります!!!」
飛んでくるフライ返しも、最近は両手で何とか止められるようになってきた。包丁が魂ならば、他の調理道具もその一環な気がしてならないが、慌ただしい厨房では基本的に調理の音だけでなく飛び交う怒号と何らかの器材はセットなのだ。
勿論、食材が飛び交うことはない、それだけは絶対にない。
「少年!!少年サッチ君!!自分、聞きましたよ、マルコさんのこと!!」
ブーツの踵を直角に合わせ、身を倒さんばかりに寄せてくるヤブサカからの発言に、サッチの手から金属製のボウルがつるっ!と滑ってはシンクで耳障りな大きな音を立てる。
「サッチィィ!!今日の皿にはお前が乗るか!?あぁ!?」
「すいやせーん!!!失礼しましたー!!!」
「自分も今騒音を立てたのであります!!失礼いたしましたァァァ!!!」
「ヤブサカァァ!!テメェのそれが既に騒音だわボケェェ…!!!」
サッチに向かってザルを投げ付けるのが魚料理担当のポワソニエであれば、ヤブサカに木製ベラを投げ付けるのが直火焼き担当のロティシェールだ。サッチは回避できずに後頭部に直撃したそれを悶絶しながらどうにか泡の付いた手で捕まえるが、流石に数年先輩のヤブサカの手には当たることなく捕まえられたヘラが握られている。
このコック達の中にも料理長イササカを始めとして、覇気使いが何人か居るのだ。最近では、白ひげの名を聞くとそれだけで震え上がる海賊もいると言うのだから───全く偉大なる航路というところは、恐ろしい。
「サッチ少年、指に怪我はしておられませんかな…!」
一応は声を潜めているらしい年嵩のコックは気さくなのだが、どうにも読めない男だ。オールバックの髪は一切乱れることなく、それが益々四角を集めて作ったような風貌を強固にしている。
だが、パーソナルスペースのやたら狭い男の勢いに驚いたのではない。ボウルを取り落とすまで手元を狂わせたのは、その口から飛び出て来た義兄弟の名前に対してだ。
「してないしてない、それよりヤブサカ…マルコ、の…何の話…?マルコに、何かあったとか…」
「やや!まだ聞いていないでありますか!先程入って来た知らせですが、マルコさんが勧誘してきた男が仲間入りしたのですよ!えぇ、それだけじゃ珍しくないでしょうが、何と素晴らしく強い魚人だとか何だとか…」
「魚人…」
「魚人であります…そう」
サッチの水を流す指先がぴくりと止まる。たとえ、冬島が近くとも、この船のキッチンでの皿洗いは専ら冷水だ。油汚れ以外に湯は使われない。ヒビやアカギレを起こせば、衛生面から食品には触れさせてもらえもしない。だから、厨房の下っ端が掌の保護については神経質なまでに気を使うのが常だ。
ソースの味は教えてもらえなくとも、秘伝の軟膏だのならばいくらでも押し付けんばかりに教え込まれるのも厨房のなどではある。よって、冷水に晒され続け分厚く鍛え上げられた器用な指先がボウルを取り落とすのも稀有なら、指先を作業中に思わず止めるのも衝撃があまりに大きかったというのがある。
「魚人…ってことは…」
「ということはですぞ…」
「「また新しい"レシピ"が手に入る…かも!!」」
息のあった歓声は、それまでの潜めた声の程度を超えていたが、今度ばかりは咎める料理人はいない。
皆、結局心が浮き立っているのだ。若者二人が泡のついた手を握り合い、歓声を挙げながらダンスをおっ始めたところで気難しいシェフ・ド・キュイジーヌたるイササカでさえ鼻先を鳴らす程度に抑えられるだなんて奇跡、可能性だけで船の料理人達の心を浮き立たせる希望があるからに他ならない。
「いいな!魚人のお仲間いいな〜!!どんなもの食ってたんだろ、どんなもの喜ぶかな?珍しい料理知ってるかな〜!!」
「楽しみでありますね〜!前回、魚人島に行った際に突き詰められなかった、あの味の秘密を知ることができるなら…このヤブサカ!!是非とも何ともお近づきになりたい!!」
「滞在期間短かったもんな〜!!また行きたいぜ、魚人島!!ってことは…仲良くなれば深海の食材とかも採ってきて…もらえたり…!?」
「するかもしれませんなぁ〜!!料理長殿!!昆布を用意しましょう!とりあえずは昆布!!故郷の味、ダシの味!!」
「馬鹿野郎、魚人に昆布ばっかり出してみろ、人魚じゃねぇんだ…きっちり馬鹿騒ぎした分さっさと仕事しやがれ」
サッチとヤブサカの「はーい」という挙手と声が揃う。既に、客人を迎え入れての宴は始まっているだろうが、新入りの歓迎の宴は噂通りならまだ先で良い。
サッチは興奮の後にようやく胸を撫で下ろし、冷水と泡の作る虹色の膜とが大海のように不思議に渦巻く中へと手を突っ込む。
「(あー…マルコに何かあったってんじゃなくてよかった〜…)」
不死鳥マルコ───、白ひげ海賊団戦闘員。
そうだ、もうアイツは見習いでも下っ端でもない。生ゴミの入ったバケツを両手に持ち上げながらサッチは階段を上がっていく。
─── 不死鳥って知ってるか?違ぇよ、本物の話さ!
─── 恐ろしく強いらしい。賞金額が既に三億超えだってよ、命知らずで有名らしいな。
─── 最近白ひげのところで、幻獣種の若造が頭角を現して来たって話じゃないか。ハ〜ハハハマママッ!珍しくても人間は人間だからねぇ…惜しいが。
─── あの脚で蹴り飛ばされて、海賊団の頭が吹っ飛んじまったんだと。言葉通り、頭を吹っ飛ばされてな!!
「(…まー、なんつうか、義兄弟って言ったところで本当に凄い存在になっちまったよなァ…、)」
サッチもこの船に乗って四年だ。十七歳になるまでの成長痛は、夜眠っていて骨の軋む音が聞こえるのではないかとも思う強さで進行しており、何となく将来はこのまま伸び続けたら2メートルは遥かに超えてしまう気がする。とはいえ、流石にそこらへんが限度で船長であり父と慕う白ひげまで大きくなれはしないだろう。
「(厨房に入れなくなるから、それは良いんだけど…、……何かなぁ……)……あれ?」
生ゴミは海に捨てるのが基本だ。
海に還るものしか戻さないのは勿論、魚や海獣、時々は海王類の餌になる。一日に出る量を纏めて捨てては、それだけでひと仕事になってしまうので、区切りを見付けてはバケツごと担いで既に行くのがサッチに染みついたルーティンになっていた。
だが、今日は船縁に佇む姿に何事かと首を傾ける。今日の宴に居なくてはならない存在が、こんな船の後尾で何をしているのか。
「おでんさん…何やってんすか、こんなところで」
「……時を待っている。ややっ、お前は確か…幸の助!!」
「サッチっすよ、サッチ。の助はいらないですけど…、それ網でしょ。おれ今から生ゴミ捨てようと思ってたんで、時間改めた方が良いなら戻りますけど…」
大抵の海賊が持つ、ドン!!という迫力ではなく、この男にはベベン!!という粋な音が似合う。
てっきり、甲板で行われている宴会に真っ先に顔を出しているかと思いきや、船縁に腰を下ろし両手に網を持つ姿を見付けてはサッチも両腕に抱えるバケツを下ろして良いやら、それともと彷徨わせる視線に「あいやそれには及ばねぇ」とワノ国混じりの制止が入った。
光月おでん───この男の出自はその独特な風貌に輪をかけてかなり特殊だ。
偶然、本当に偶然にワの国を訪れることになった白ひげ海賊団の、しかもいくら自発的に迎え討ったとしても船長たる男に斬りかかっての開口一番が「船に乗せてくれ」だ。
ワノ国では国王ではなく、将軍という位に就く"侍"が国を治めるという。次期将軍たる男が、海に出ることを法律で禁じられた国を飛び出ようというのだから特殊も特殊、信じられない事を現在進行形でしでかしている男である。
「ふふ…おでんさんったら、お客人に出す"おでんの具"を仕上げるまで、宴に出ないって言うの」
その側で船縁に背中を預けるようにする華奢な姿は、微笑めば軽やかに動く唇が赤い可憐な花弁のようである。大男との体格差で忘れそうにはなるが、サッチからしてみればまだ見上げるべき存在の二人だった。
「普通だろ、今は流れを見てんだ。今日の流れなら、絶対に美味いイワシが手に入る!!それ撒いていいぞ、餌だと思って来た所を…ツミレにしておでんに入れたら最高だ…おまえなら分かるだろう、幸の助?」
「そりゃそうですけどね、今日の宴にあんたがいなきゃ始まらないでしょ。ウワサの侍見たさに来てるってのもあるんでしょうし、オヤジも紹介してくれようって気もあるからでしょうし」
「ぐぐっ…間違いのねェ正論を…!!正論を言う奴は時に苦手だぜ……!!」
「ガキですか、あんた」
呆れ顔で畳み掛けられる正論に、たじろぐおでんの顔が面白かったのか、それともわざわざ二人して並ぶ辺りに理由があるのか楽しげにトキは笑う。おでんはワノ国から半ば無理やり乗船したが、サッチも船に乗る為に我を張った経歴があるので何も言えない。
白ひげの今となっては弟分である侍にサッチも敬意を払っているが、と空にしたバケツを引き寄せながら振り返る。
「イゾウが噴火する前に戻ってやって下さいね〜、イワシかぁ…美味いなぁ、イワシ。マリネが良いかなぁ…オイルサーディンやアンチョビにすりゃしばらく保つし、余ったら下さいよ」
「あ……ねぇ、サッチ。さっき聞いたんだけれど、マルコってあなたの義兄弟なのね。全然知らなかったわ」
相変わらず小鳥が囀るような耳障りの良い声色だったが、既に日も落ちかける甲板では宴の声が徐々に大きく聞こえ始めている。モビーディックを母船とするように従う船もあって、何処かの村の祭りの様に吊るされた灯りが海を華やかに照らし出すのだ。追加の料理のために戻らなくてはならないし、主役たる男達も戻らなくてはならないだろう。
「……と、そりゃ随分と突拍子もない…」
だからこそ、何のことかと首を傾げたのは事実に対してではなく今ここで選ばれた話題が何故それなのか、だ。
「お、そうだった。マルコが帰ってくるんだろ、確か一ヶ月くらいだったか?何だ水臭えじゃねぇか、盃交わした仲は海の上でも随分な意味を持つんだろ。教えてくれりゃよかったのに」
「あー…なるほど…。って言っても、おれがもっとガキの頃に、あいつが気を利かせてくれただけっすよ?」
万事ソツがないイゾウ辺りがきっと、主君のいない場をうまく回していることだろう。ミンク族は珍しいから、イヌマムシやネコアラシまでいれば慌てて呼び戻すクルーもいない。それに、主君大事の二人がそもそもここに居ない時点で、トキとおでんと二人きりの時間を邪魔する野暮にはなりたくなかった。
「そりゃねぇだろ、そんな簡単に義兄弟ってのは結ばねェ。おれだって、白吉っちゃんとは義兄弟の盃を交わした仲だ、そんくらい国が違えど分からぁなァ!」
「そーっすか、いやそれは別にマジもんの…なんて言うかなぁ…、」
自分の口から出た相槌が、思っている以上に苛立ちを含んでいたことにサッチは頭を掻きむしる。面倒だった、慮るような麗しい眼差しも、訳ありかとひん剥かれる目ん玉も。いつもならば、大切な仲間として受け入れられるものが、もしも"反抗期"だの何だのいうなら、真っ盛りと言って良い。
いつもなら、もっと自分は容量良くやれる。分かっているだけに、深呼吸をしてサッチは言葉を選び直す。
「あのですね、えぇと、聞いて欲しいんすけど…ほら、マルコって良いやつでしょ?だから、この船におれも無理やり乗ったから、居場所を作ってくれたんすよ。…義兄弟ってことで───」
優しい奴なのは分かっている。
だから、あの夜の次の朝、さっさと洗い場に持って行ってしまおうとシーツを抱えるマルコに心の底からホッとして、それで今後は弟だなんて言い張るなら弟分に甘んじてやろうかと思って───。
─── まぁ、その気持ちは結局、打ち砕かれた訳だ。
✳︎
唇に唇を重ねるのがキスならば、自分はマルコとキスをした。朦朧としていて、どうしてそんなことになったのかはよく覚えていないけれど、やたら気持ちが良くてそれが少し恐ろしくて、でも同じ感覚にマルコも陥っているならば恐怖すら受け入れられる気がした。
キス、してきたのはマルコからだった。驚いたし、最初何が起きているのか分からなかったし、分かった後も意味までは分からなくて、でもマルコなら何でも知っていると思っていたから何かしらの理由がある筈だった。まさか、後で知ったが俗に言う"抜きあい"だなんて行為に作法があるとは思わなかったし、それでもファーストキスだの何だの持ちうる限りの知識でどうこう騒がなかったのは、マルコが家族で仲間で兄弟分だったからだ。
─── なぁサッチ、お前さんよぉ、マルコと何か喧嘩したか?ん?
その後も、流石に適切な処理の仕方を覚えたサッチにマルコが何かを口に出すことはなかった。お互いに口にも出さずいつも通りに過ごす日々の中で、サッチは時々思い返しては何かしら秘密めいていた一連の出来事を思い返すようになっていたし、自分で自分を慰める際に兄弟分がどう自分の下肢をまさぐっていたかを思い出すのは、経験として極々自然なことだと思っていただけに、青天の霹靂であった。
クルーの一人が、本当に何かのついでか通路で一度すれ違ったサッチに声を掛けたのだ。
─── え…?なんで?
─── 何でって、いやおれもお前たち位の歳には、やたら刺々しい時期があったから分かるというかだな?喧嘩したなら、早めに解決しちまった方が良いんだぜ、殴り合っても良い。拳で分かり合えりゃそれでよぉ。
元から、早合点しがちなクルーだったが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をするサッチの肩に腕を回し、自分の経験談を熱く語ってくれたものだから反論の機会が中々回って来ない。
─── 喧嘩でもなきゃ、あんだけ仲の良いお前らが部屋替えになんかなる訳ないだろ!マルコもあれだな、あいつもまだまだガキなところがあるからよ、おまえも大人にならなきゃならねぇ時もあるってことだ。
─── 部屋替え…って、
何の話だと、もう一度繰り返しかけた口を引き結んでからサッチは眉根を寄せて不服そうに肩を竦めてみせた。
何も言わない、何も言ってはいない。
だから、それをサッチもマルコと何かしらの仲違いをしていると認めたことになると───見做したのは、完璧にクルーがサッチのミスリードに乗せられたに過ぎない。
人生の先輩として、益々説教に熱が入ればその分口は軽くなる。
─── マルコがどうせ言ったんだろ、酷いヤツだってんだよ!腹が立ってるのは、おれも同じだってのに。
─── まぁまぁ、おれも申請を見て驚いたけどな?そこまで拗れるようなら周りの仲介も挟めよ。おれも聞くし、他の奴らも聞くし、オヤジだって耳を傾けてくれらぁ。おれ達、家族じゃねぇか。
恩を着せるでもなく、困ったら頼ってくれと力強く何度も頷いて見せる姿に申し訳なさも確かにあったが、それを上回る衝撃に、何とうまく誤魔化してその場を後にしたかも定かではない。
「(マルコが、おれと同じ部屋じゃ嫌だって?本当に、そう言ったのか…?まさか…!!)」
誤解だと思いたかった。
親友で、家族で、兄弟分で、マルコは本当に大切な家族だと思っていた。白ひげをオヤジと呼べるようになったのは間違いなくマルコの心配りのおかげだったし、志は高くとも海賊船での戦闘や冒険、危険な時に大体サッチはマルコの腰にしがみついて乗り切ったようなものである。
─── ぎぃやぁぁぁぁぁ!!!無理、むりむり!!海の底なんて無理〜〜!!シャボン割れる!!絶対に割れちゃうって〜〜!!魚人島辿り着く前に死んじゃう〜〜!
─── うるせぇ、割れねぇし、死なねーよい!!!
─── だって、キャーーーー!?アレ何アレ何アレ何て魚ァァァァ!?
─── おまえの大好きな魚だろうが!!
─── だよな、だよなぁ!!なぁ、このシャボンってどこまで突き抜けられる!?深海でしか手に入らない超レア食材だ…、く〜〜〜!!煮付けかな、あ!あれは鍋にしても美味そうだ。マルコ、なぁマルコ、絶対美味いって…!!
─── ったく、おまえってやつは…。
光の届かない深海の中でさえも、恐怖で鳴り喚く小心者の心臓が、希望と期待と興奮に打ち震えるようになったのは傍でドン!と構えてくれる兄弟分の呆れたような笑顔があったからだ。
何かの勘違いであってほしい。その願いは、結局その日のうちに荷物を纏め始めるマルコの口から直接告げられることになった。
─── まぁ部屋替えってのは、よくあることだからな。今まで、なかったのが珍しい位だよい。
背を向けて、荷物をトランクの中に詰め込む背中が繋げる言葉が妙に言い訳がましくて腹が立って仕方がなかった。別に、珍しくないことなら言い訳も何も必要なくて、誤魔化す必要もなくて、心の中をドロドロとした嫌な感情が渦巻いて。別に部屋が変わろうと何だろうと、サッチは構わなかったのだ。同じ部屋でなきゃ眠れないだなんて不気味なことは思わないし、そもそも同じ時間帯におやすみと言葉を交わし合う機会なんて週の中に一、二回あるかどうかで。
部屋が変わったとしても大したことではなく、いつまでも親友でいられる自信があったと気付いた時に、何となくそういうことかと悟った。
マルコが悪いことなんて、ひとつもない。
自分が何か、マルコを失望させるか嫌悪させるかをやらかしたに違いない。
─── まぁ、部屋が変わってもサッチ、おれとおまえとは、兄弟分なことに替わりはねぇからよ。寂しく思うなよ?
そう言ってようやく振り返ったマルコの拳は自分に向かって真っ直ぐに伸びていて。そんな嘘まで吐かせた自分に、下がっていく眉のままへらりと笑ってサッチは拳を突き合わせていた。
─── 急な話だけどな、お前こそおれが同室じゃなくなったからって泣くなよ?
─── ……バーカ、そんなんで泣くかよい!あぁ、でも…試作品食えなくなるのは無念っちゃ無念か…?
─── ははっ!!試作品くらいなら、いつでも食わせてやるよ。…いくらでもな。
結局、その後サッチがマルコの新しい部屋に試作品を持って行くこともなかったし、マルコがサッチの残された部屋に声をかけに来ることもなかった。
そういうことだと、悟ったからには
納得するしかなかった。
✳︎
「ってなわけで、すげぇ良いヤツだし、今となっちゃ賞金額も同年代の中でも破格でしょ?おれ、ただのコックだし、アイツとは違うんですよ色々と。マジで感謝してますけどね〜」
へらへらと笑うのは得意だ。そう、別に仲違いをしているわけではない。今だってすれ違えば軽い挨拶に世間話くらいはする。その程度の距離感になっただけで、だからこそワノ国とその近海で出会ったおでんにもトキにも分からなくて当然と言えば当然だった。
「(…そういや、ワノ国に"登る"時から、マルコにしがみつかなくても済むようになったもんなァ……)」
「なーんか引っかかんなァ…?」
「はいはい、おれもう行きますよ。引っ掛けるのはイワシだけで充分なんで…、」
「おっ!上手いな?」
「上手いついでに、美味いイワシなら本当にちょっと分けてくださいよ」
「むむ、こやつ出来る…!!」
流石に事の経緯を話はしないが、兄弟分と言っても義理堅いマルコが保護のつもりでそうしてくれたのだと、その説明を果たして納得してくれたのかは分からないが、今度こそサッチはバケツを両手に担いで段飛ばしに階段を降りて行く。
宴にそのうちコック達も顔を出すだろう。自分もそうだ、変に胸の中を掻き混ぜられたこんな日は、酒でも浴びて眠ってしまうのが良い。料理に使うことにしか理解が及ばなかった酒を、そして諸々の大人の世界をすっかりサッチも嗜む年頃になっていた。
「(あぁ…次の島に着いたら、姐さん達に癒してもらいたいなぁ〜、落ち着いてて、強気で、けどどことなく品があって良い女って感じのに…優しく抱きしめてもらいたいよなァ……)」
単純なもので、そんな雑念を思い浮かべていけば心の中がどんどん窮屈になる代わりに稀薄になって薄くなっていく。叶えたい夢のことと、煩悩で満たしてしまえば良い。
「…おまえはマジで凄いやつだけどよ、くれぐれも生き急ぐなよ、マルコ…───誰だって死ぬ時は……簡単に死んじまうんだからな…、」
明々と照らし出される華やかな宴の船上。
見上げれば名も知らない星達が、いつもより途方もなく遥か遠くに感じて。
サッチは確かな理由もなく伸ばし掛けた掌を、そっと握って引っ込めた。
TO BE CONTINUED_