四番目の男 さて、いつものちょっとした余談の…おれの完璧なプライベートな日記を書いておこう。うん、書いてて実感がまだ湧かないが、十三の頃からモビーの母船に乗って、それからもう七年経つって言うから時の流れはまさに矢の如しってやつだ。一生を掛けてオールブルーを探す旅の中で、まだたったの七年といえば確かにそうだが、ペン先が迷っちまうよ、いつだったかな。この日記は未来に向けてのラブレターとか書いた記憶がある。(書いてなかったら、思ってたってだけなんだが)その中に紛れて、本当の意味でのラブレターを紛れ込ませる日が来るだなんてな。
いやもう、恋だの愛だの?
出来ればしたくなかったよ、おれ!
いや、恋も愛もしたかったけれど、もう少しロマンティックな忘れられない良い思い出ってやつが欲しかった。コックって生き物は皆、ロマンティックに決まってる。全員が全員、オールブルーに憧れてるだなんて盲目的なことを言うつもりはないが、それに近い形で憧れる感情ってものが存在している。言い方はあれだが、人生のスパイス。人生に彩りを添えてくれる歌やダンスみたいなものであってほしかった。
いつか、どこかの島で恋をしてみたかった。楽しみにしていたんだ。人間に備わってる感情で、別に珍しくもないって言う、男が女を愛する───とにかく愛してみたかったんだ、おれは。愛するって行為をしてみたかったんだ。娼館で金払ってストレートに女を抱くのも好きだ。健全な男だ、溜まるもんは溜まっちまうし、大体おれは女が好きです、認めます。自分にないものを持ってる存在に心惹かれるし、抱きたいって欲が脳みそ通さず下半身に直結することだってザラにある。もちろん、そういう商売の相手にだけだ。街中で見境なく興奮する様な男じゃないと名誉の為に大きく書いておこう。
ただ、そういう…なんて言うのかな。それは欲であっても恋じゃない。心が伴わないセックスだけじゃなくて、ある意味での自分自身の一番深い所。心の中の一番奥底の柔らかい所って言えば良いのか。身体だけじゃなくてさ、夢を見すぎ?いやいや、夢を大きく持ってなきゃ海を渡ることなんて無理だろ。
現実的に考えて、まぁ難しいってことは分かってる。記録が溜まるまでしか島には滞在しない、謂わばおれ達は渡り鳥。娼館の女達は、大抵優しくて懐が広いが、色恋には繋がらない。それこそ、運命的に雷に打たれたような衝撃で恋に落ちなければ育まれる愛もない、と。それを自由気ままと言えば、それはそれ。おれってヤツはそれでも、恋に恋して焦がれてたんだ。ロマンチストってのは辛い。
いっそおれが惚れっぽかったらと思う。
美人はそりゃ好きだ、セクシーな姉ちゃんも好き。ふわふわした柔らかな身体のかわい子ちゃんには口笛を吹くし、豊かな谷間やスラリと長い脚には振り返ってでも見てしまう。男だから、仕方がない。
もしくは、おれが恋愛なんて全然興味がないヤツだったら。
そんなものより冒険だ!戦闘だ!飯だ、宝だ、海がおれを呼んでいる───。はいはい居ます、居ますとも。正直、そんなヤツば〜〜っかり!ってことは、おれが例外なのかもしれない。けど、そんならこの世の中に愛の歌は溢れ過ぎてるし、恋の物語もちょっと多過ぎる。
で、ある日突然。そりゃもう突然だ。空から鴎の糞が頭に落っこってきた位には唐突に気付いてしまった。あれれ、おれって恋してない?現在進行形で、恋しちゃってない?ってことに。
仲間で、親友で、兄弟で、多分一番問題なのは男同士だってこと。何かの勘違いなら良いんだが、どうにも勘違いしているかいないか確かめる方法がないんだよ。このままじゃ良くない、おれのメンタル的にも良くない、分かってる。
気持ち悪いよな、諦めなくちゃいけない。
こんなのは良くないんだ。……家族だしな。
良くない、絶対に。
こんなこと、おれもアイツも望んでないんだ。
四番目の男
「はぁ……、……迷惑だよな…、分かっててもどうにかなるなら、この世から愛の歌なんてものは生まれてないよな〜〜……、」
「わふん」
「なー、ステファンは好きな子とかいねェの?気になる子とか、」
「わふっ!!」
「うっそ、奥さんいるの!?誰!?え、どこの誰!?」
浅瀬に船を出し、釣竿を垂らす。
季節は初夏だ、陽射しが眩しいくらいに良い天気にゆらゆらと揺れる小舟が自分の動きに合わせて大きく傾くのを、慌てて仰け反って直す。サッチの動揺とは対照的に、釣りの伴を買って出てくれたステファンは落ち着いたものである。流石、大海賊船に乗っていた犬なだけはある。
犬の言葉を喋れるわけでも、正確に聞き取ることは出来ないのだが、何となくのニュアンスで大体伝えたいことは分かる様になっていた。サッチの、自分の過去の職業として動物に関わる仕事まで加わってしまって最近は見当を付けるのが地味に難しくなってきているのは余談である。
「そっかぁ〜〜、……可愛い?美人?」
「わふわふっ、わふ!」
「えっ…めちゃくちゃ格好いいこと言うじゃん…!!心に来るわ、その言葉…、」
心なしか後光が差して見えるステファンの姿が眩しく、実際に目を細めてからサッチは緩く息を吐き出す。下顎を突き出して唇を尖らせれば、後ろに流して全て一つに括った髪束から、はらりと落ちてきていた長い髪が前髪の様に揺れる。
ステファン相手に恋愛相談、側から見ればいっそ平和にも思える光景だ。村人と親しくなったとはいえ、あまりにデリケートな話題であればこうして腹を割って話せる相手など限られている。まさか、想いを寄せる相手に恋の自覚を相談出来るほど能天気ではない。とはいえ、誰にも言わずに一人でひっそりと想い続けていてはどうにも"ドツボに嵌り"そうで仕方がない。
「……何が出来るかな、おれ。ここでただ…食って寝て。マルコさんはその日に備えてるってのに…、…いやおれが何を出来るのって話よ?けど…、もしも残るって言うなら、守ってくれるって言ったじゃん?」
「わふん」
間伸びした口調ではあったが、釣竿を握るサッチの手元が腹の前に落ち着く。波のない水面に、ボートの僅かな揺れが静かに波紋を連ねていく。遠くに鳥の囀り以外静かな空間は考え事には向いていた。
「……それじゃ駄目な気がするの、何でだろ」
「……くぅん?」
「すげェ強いって噂じゃん?じゃあ、守られちゃお…ってならないのは、ステファン。なんの矜持なんだろうな、何も覚えてなんかないのにさ」
言われたところでステファンも困るだけだろう。
サッチの手元が魚を誘うでもなく、水面を糸先で混ぜる。青く透き通った空を映す鏡に、自分を映せば当てのない答えは見つかるだろうか。
「おれ、思うんだ。傷だらけだったってことは、裏を返せば…そんな傷を受けるような場でも、死なずに何とか逃げてきたんじゃねェかって」
いつか来るであろう日を、もしも島守として迎え討つつもりでいるのであれば、別にこの気持ちは成就しなくたって良い。どこかに捨ててしまえれば楽だが、いつかは薄れていくものだと希望を持って抱えたままでも良い。受けた恩を返す方法を、ずっと探っていた。
「……そのいつかが来たらさ、足手纏いにはなりたくねェの。皆を逃す為の、おれ、壁くらいにはなれっかなァ…どうよ、ステファン。お前、大海賊の船に乗ってたんだろ?おれも今から鍛えりゃ、少しは……防波堤になれると思う?」
「わふん」
ガブッ
ガジガジガジガジ……、
「わぁ……綺麗な歯並び……って、なに、何ナチュラルに噛んでんの!?血、見ろ、血ィ!!見えるか?赤いの血だよォ!?」
手元でないだけ利口だったが、悩ましげに溜息を吐いていたサッチの腕にまるでオヤツの骨を頬張るが如くステファンは遠慮なくガブリと齧り付いていた。
ピューッ!!と細く噴き出る血の勢いだけは派手で、慌てて待ったを掛けて掌で抑えれば傷自体はそこまで派手ではない。サッチの方が犬の様に吠え返したところで、本来は忠実な番犬であるステファンは実に白けた顔を向けて返すのだ。噛み付いて目を覚まさせるレベルで、今の提案が馬鹿げていると言わんばかりに。
「わふん!わふわふん!!」
「ええっ!?いや、だって……おれ、この島の元からの人間って訳じゃねェし…家族もいなさそうだし、……スフィンクスの皆やマルコさんの為になるなら…惜しい命でも……おごっ…!!み、鳩尾はやめよ…鳩尾はさァ…?」
懲りていないと頭突きの姿勢に入る友を、片手で宥めようとした瞬間である。サッチの顎が崖向こうに向けて弾かれた様に角度を上げる。
「─────────、ステファン、ちょっと待て…、」
「……わふっ…、」
「…………何か…、何だこれ…、」
サッチの眉が徐々に険しく寄せられていく。
一気に周囲の空気が全て入れ替わった様な感覚───、不快ではない。決して、肌から感じる圧にはひりつくものがあったが、気圧される様なものであってもサッチが眉を顰めた理由はそこではない。
ドンッ……!!!
圧倒的な力を持つ、"何か"が探っているのは───、
肌が瞬時に粟立つ。
押し寄せる空気には、意思があった。
「……マルコさんを……、探してる…?」
✳︎
気付いたら、サッチの両手は既にオールを掴み漕ぎ始めていた。取り残された釣竿が、水面から小舟が起こした波の狭間に飲まれていく。
「───ッステファン!船を浜に戻す!!着いたらマルコさんに直ぐに教えに走ってくれ!!多分、何かがこの島に近付いてる…、」
「わん!わんわん!!」
「いい、行け!!おれよりお前の方が足速いだろ!!」
高速で寄せた浜辺で一度振り返る犬を急かし、サッチは額に浮かんだ汗を腕で拭う。予め、襲撃すると予告してから略奪に来る海賊は居ないだろう。それならば気配だけでも感じ取れたのは、まだ良かったのではないか───、少しは役に立てたかと胸を撫で下ろし掛け、砂浜の広さと一人きりの状況に我に帰る。
ポツーン───、
「……って、ここに居てもおれ何も役に立たねェじゃん!?ヤバい海賊なら、マジで一瞬で殺される流れだし、一緒に行けば良かった…!!」
既に理解したと、駆けていった犬の姿はない。白ひげの船に乗っていたというのが、どれほど過酷な海を経験してきたかは計り知れないが、サッチより足が速いのは確かだった。
しかも鼻が効く。滝の裏の優しいあの隠れ里で、水車の回るあの家に居ようと、出ていようと迷うことなくステファンなら直ぐに辿り着くだろう。本当に自分より役に立つことにめげないでもなかったが、落ち込む暇すらなかった。
ドンッッ!!
「………ッ、おいおい…なんか怖そうな船が見えて来ちゃったじゃねェの…、……ほらぁ、海賊旗じゃん…!やっぱり……」
その巨大な船体をこの海でどう隠して近付いて来たものか、頭を抱えて動揺していたとはいえサッチの視界に既に割り込んできたに等しい船に、大きく棚引くのはジョリー・ロジャーだ。情けないほどに下がった眉毛は、見事なまでの八の字を描く。今からでも村に戻るか、踏み出し掛けた右脚を留めるのは自分自身の左脚だ。
サッチは口の中に溜まった唾をゴクリと嚥下する。
この島は、パッと見れば滅びた国の廃墟が残るだけの島だ。
かつて、確かに国は存在していたが、天上金を納めることも出来ずに非加盟国としてのレッテルを貼られた時点で運命は決まった様なものである。暴力と略奪が蔓延り、呆気なく国は滅びた。そこで産まれたのがエドワード・ニューゲート、白ひげと呼ばれ恐れられる海賊だ。彼は、生まれ育った故郷をそれでも再建するべく生涯に渡って後悔で得た金銭や物資を定期的に送り続けたという。その結果として出来たのが、滝の裏の洞窟を抜けた先の小さな村だ。
「───、だったら…動けねェよなァ…、」
武者震いではない、膝は恐怖で震えてしまう。それでも、動かない足はサッチの意志だった。動いたらどうなる?ステファンの様に島の抜け道を知り尽くしているでもない自分は、滝の裏を目指すわけにはいかない。自分が道標になってしまう。村民を避難させるのに掛かる時間は?三ヶ月の間、何をしていたのだと自分を叱り付けたい気持ちも全部纏めて膝に力を入れ直す。
見つかるのが時間の問題だとしても、唯一出来そうな役目はここに留まり続けることだった。
ザザァン……、ザザァン…、
見上げる巨大な帆船、その甲板から見下ろす姿が既にいくつか見える。視線を合わせる合わせないの問題では最早ない、中の一人は船縁に片脚を掛けてまでこちらを見下ろしているのだ。
無意識に、サッチの両手が腰を探る。右手で左の、左手で右の。まるで、ベルトに提げられた見えない何かが存在しているかの様に。しかし、先程釣竿を海に落としてしまったきり、サッチはまるっきりの丸腰だ。オールを船に下ろして来てしまったのを悔やむ。
いや、一つある。携帯用のナイフが胸のポケットに───、
それはマルコがくれたナイフだった。
島だけでは賄えない物資は基本的に信頼できる商船が運んできてくれる。かつて、白ひげに恩を受けたという人間は未だに多く、便宜を図ってくれるのだ。時折、この島にかつてマルコが家族と呼んだ元白ひげ海賊団の船員達も立ち寄るらしいがサッチが漂着してからはまだその訪れはない。
だからこそ、魚くらいならば自給自足で補えると提案するサッチだったが、マルコからそれならば持って行けと渡されたフィッシングナイフ。新品ではなかった。好きに使えば良いと手渡されたナイフだったが、驚く程サッチの手に馴染んだ。グリップの形状も、フィンガーガードの形も、デザインも、チタン合金の刃も多少の経年は感じられたが、よく使い込まれているのが分かった。
─── これ、マルコさんの?
─── いや……、そうじゃねェがもう使わねェやつだ。誰か使ってくれた方が、道具も喜ぶだろ。
テーブルの上に置いたナイフから、ゆっくり離す指先も視線も妙に名残惜しく見えて。
あぁ、持ち主はもうこの世に居ないんだ。
そう思った。持ち主の趣味は良い、そう思うと共に顔も名前も知らない相手に酷く妬ける自分が惨めだった。きっとマルコの大切な人だったのだろう、もしかしたら特別な存在だったのかもしれない。だからこそ、モテないから独り身だなんてあり得ない嘘を吐く男が伴侶も得ずにその歳までなったという方が余程説得力があった。
だからこそ、使うわけにはいかない。
護身の為に使うのも、それがサッチの自己満足だとしても。寂しそうに笑う男が形見を取っておきたいほどに想う相手なら、サッチの面倒で複雑な心境が使うなと叫ぶから。決して頼りたくないだの下らない理由ではない。もっと、個人的で感情的な理由だ。
あの男が想う相手なら、その想いの向きがどんな形のものであれ、並び立てる様な存在だったに違いない。男だろうと、女だろうと。おそらく手のひらの大きさからして男だと推測するにしても、愛用していたナイフを自分の様な人間がろくに扱えない護身のために使って良いはずがない。
マルコが思うよりも、サッチはずっと"面倒"な男だった。
「──────ッ、」
「……驚いたな、」
皮膚がビリビリと電流でも浴びたかの様に痺れる。後退りを忘れたサッチの目の前に、逆光を背負う甲板の男の声はよく通った。なびく黒い外套、そこまでは低くないが底の知れない男の声だった。
赤いうねりを帯びた髪が、潮風に揺れる。
「─── 死人を生き返らせに来たつもりだったんだが、まさか"本物"に会うとは宴の酒がまだ残ってる……そんなことあり得るか?」
問い掛けられたとして答えを聞かれているのは自分ではないだろう。深呼吸を繰り返していなければ、膝から崩れ落ちそうになる威圧感。
先程から船縁に脚を掛けていた男の言葉だ。言っている意味がわからない。死人に会いに来た?本物?なんの話をしている。それでも、吹けば飛ぶ様な頼りなさでも自分で決めた役目だ。サッチが何用かと声を張り上げようとした瞬間である。
───バサッ…!!!
「……ぅえっ…!?」
「下がってろいサッチ───!!何もされてねェか!!」
視界が、青色に覆われる。
何かを思い出させる、青と金色に燃える焔が目元を包み込む。背後から一気にその熱のない翼に引き寄せられ、力の入ったサッチの身体は呆気なく大差ない身長の"男"の翼に抱き留められていた。
赤い縁の眼鏡の男の、白衣の腕から先は鮮やかに燃える翼へと骨格を変えていた。そこから飛び散る金の火の粉に、瞳が焼き付いて離れない。焔には熱はない、だが触れれば伝わる温度が、人間そのものの体温があった。
「人聞き悪いなァ、マルコ…!!おれが悪者みたいな言い方やめろよな〜!!」
男がへらりと笑うのが、表情は見えなくとも声の調子だけで伝わってくる。向けられた顔の角度で変わる響きもあるが、こちらをジッと見下ろしているのには変わらない。
「今はそう変わらねェよい!連絡ひとつ寄越さねェで、どういうつもりだい」
引っかかりを感じる。
マルコの言葉に怒りやら憤りは確かに感じ取れたが、それよりも焦りの方が強く色に出ていた。まるで、その男がマルコにとっての特別な存在の一人の様で、咄嗟にサッチはマルコが身体で庇う様に包み込んだ燃え上がる焔の翼から、その白衣の背中に掌を乗せていた。
「ま、マルコ…さん、あの、……し、知り合いです…!?」
「───、オメェは黙って引っこんでろ」
赤い眼鏡の縁から覗く青い瞳がこちらに流されるのに安堵するも、舌打ちと共に背中へと再度押しやられる。
「立ち話も何だろう。知らせなかったのは悪ィが、今回はおれ達、じゃあない───、おれの個人的な用事で寄らせてもらったからだ」
船縁から勢い良く踏み出し飛び降りてきた男は、その高さから正気かと瞳を見開くサッチの驚愕とは裏腹に軽く右手でサンダルに跳ねた砂を払う。精悍な顔付きの男だった。左目に、三本通った傷跡が海賊旗の通りなのだから、そんな立場の男が一人で砂浜を一歩一歩踏み締め歩み寄って来る光景は異質でしかない。
「なぁマルコ、そろそろ良いだろう。潮時だ」
背に庇おうとするマルコの筋張った指先が、ピクリとサッチの腕を掴んだまま痙攣に似た動きを見せていた。
「おれが今日欲しいのは、頷くだけでも良いから色の良い返事だけだって分かってるんだろ?」
「だ……、」
「"だ"?」
「誰が頷くかってんだ、このクソガキ……、何だァあの覇気は…、島のスフィンクス達がすっかり怯えちまって、こちとら収集付けんのに一苦労だったんだぞ…、それで良い返事が欲しい?寝言は寝て言いやがれ、いや言わなくて良いからさっさと船に戻って帰れ、今すぐ」
「(ま、ま、マルコさんすんげェ怒ってるゥゥゥゥゥゥ!!)」
独特な髪型をしているおかげで、直に見える後頭部の皮膚には切れてしまうのではないか不安させる青筋がいくつか浮き出ていた。めらり、めらりと蛇の下の様に燃えては揺らめく翼の合間に見える後ろ姿も目が離せないが、怒気を顕にされてたじろぐどころか、
「いやだ。滅多に会えないんだから良いだろ?スフィンクス…あぁ、あの大きな犬みたいな犬じゃないみたいな!いや、それについては確かに悪かった。一頭一頭謝って回るとしよう」
腹の底から地を這う様な、低音の怒声を浴びせられているにも関わらず。寧ろ、返事があったことに嬉々として顔を輝かせる赤髪の男が恐ろしい。クソガキ、ガキには見えない年齢に見えたが、マルコに対して向ける表情は確かに子供の様な無邪気さが滲んでいた。
「するんじゃねェよ、おい聞いてんだろ!!お前らの船長だ、さっさとふんじばって連れて行くなり、引っ張り上げるなりして、さっさと回収しねェか!!」
「回収って…ものじゃねェんだから〜。なァ、それよりさっきから後ろに隠してるヤツなんだが…、」
「(っひ……!!)」
熱がない、熱がない焔だというのにどうしてこんなにも冷や汗が噴き出るのか。翼が燃えているのではなく、最早燃え盛る火焔が辛うじて形を保っている様で、先程ステファンに噛まれたサッチの小さな傷跡は既に跡形もない。サッチがマルコの腰に触れたのは偶然だった。肩を上げて驚いていたせいで置き場所のなかった掌が、視界を覆う光の勢いで下ろす場所に狂いが生じただけだったが、それを怯えと取ったか。
「言って分からねェなら、分からせてやるしかねェな……」
「懐かしいな、血の気が多い昔のお前みたいで…おれは好きだな。久々に、そうした語り合いも良い」
「サッチ、お前は下がってな。あの馬鹿も、流石にそこまで馬鹿な真似はしねェから───、」
あの怒声はどこに行ってしまったのか、耳元に落とされるのは優しい声色だった。外からの風が煩い夜のベッドで、母親が寝かしつける為に子供の頬を撫で囁くような。
「マ……、」
「大丈夫だ、心配すんな」
頭に掌と温度のある柔らかな言葉を残し、手首の関節をパキッと鳴らすマルコと、右腰に佩いた刀を楽しげに右手で鞘より抜き取る赤髪の男と。サッチは掌を握り込む。恐怖なんてものはない、ただもどかしさが胸の中で淀んで苦しかった。
向かい合った二人の空間に、自分が立ち入る隙など何処にも───、
ヒュルルルル───、
「……へ?」
「い〜〜〜い加減にしてくれ、お頭ァァ!!」
「おっ!ホンゴウ!なぁお前からもマルコを説……、ブフッ!!!」
さっとマルコがサッチを担ぎ上げ、尚且つもう片方の腕に追いついたとばかりに尾を振っていた白犬を抱き上げると同時に。
帆船のデッキから飛び降りてきた男の"棒"が、赤髪の男の頭に星を飛ばして炸裂していた。
✳︎
スフィンクス、マルコの家の一室───、
「や〜〜本当に悪い!いや、悪気がねェんだよ、だから余計にタチ悪くって……、なんて言うかな。あんたの前だと全力の五歳児になっちまうんだ、もうおれ達じゃどうしようもねェ」
パンッと両手が合わせられる。
右目にこれまた縫い傷のある強面の男からの謝罪の言葉は若干後半は頼りないものであったが、それに対してソファで脚を組んだまま、マルコは一貫してにべもない態度を貫いていた。
「確かに……返しても返しきれねェ借りと恩ってもんはあるがな、それとこれとは話が全く別だ。何百回言われようと、おれの答えは"乗らねェ"以外はないってことを、もう一遍……強めに叩き込んでやってくれ」
「言って止まるかよ、うちの副船長がそれなりに止めても無駄だったんだぜ?出来ることと言ったら、かかる迷惑が最小限に済む様に尻拭いすることだけだな」
「諦めんじゃねェよ、子守りは家族が責任取ってしやがれ。他人に世話を押し付けんな」
「返す言葉がねェよ、とりあえず……よく言っとくけど期待しないでくれ、あんたも海賊なら分かるだろ?ほら、とりあえず学会の新しい論文!恩を売るつもりはねェが、情報仕入れとく位は良いだろ…?」
「……知り合いってのは間違いないみたいだな、ステファン……、あ、吠えなくて良い、吠えなくて。バレたらマルコさん、うるせェから」
ソファに座って向かい合う男達を、扉の明かり取りの小窓から器用に覗き込んでいた頭をサッチは引っ込める。腕に抱き上げた白犬がせがむものだから、一緒に四つの瞳をきょろきょろと動かしていた訳だが、奥に引っ込んでいろと言われたからには気付かれれば───、どうなるのか。
「( 敵じゃない……けど、よく分からねェな、説明してくれないもんなァ……、おれ、完璧蚊帳の外。…待てよ、確か……、)」
そっと抱えたままの犬に人差し指を立てて静かにと示すと、サッチは裏口を目指す。あの時、しっかりと確認は出来なかったが"あの男"の目元に刻まれた傷跡と、ジョリー・ロジャーの傷跡は一致していた。赤髪の男が率いる海賊団、それならばいくら何でも聞き覚えがある。流石にもう回収されたのだろうか、無碍に扱って良い存在だったのか。
「( 普通に考えりゃ結び付く、あれは赤髪…赤髪のシャンクスか───!!ってことは、)………ッわ」
「うん?……あぁ、シーッ……騒ぐな、騒ぐな。別に敵じゃねェよ、怪しいもんでもない。参ったな、玄関から入ったら叩き出されそうだから裏に回ったんだが……、」
扉を開けた瞬間、全く同じ様に扉に手を掛けていた男とバッタリ出会してしまった。悪びれないその顔に、反射的に上がりかけた声を塞いだのは男の手のひらである。
「もがっ…もがもが…もごご……!!」
「なぁステファン、おれがマルコの敵じゃないことも分かってるよな。約束するよ、絶対にこの男を無事に帰す……だから、ちょっとだけ二人で話す機会をくれないか?」
「…………、わふん」
「感謝する。さぁ、バレちまう前に移動するぞ!暴れると、舌を噛むから勧めはしない。うちの優秀な船医はマルコと話し中だからな」
「(ステファン〜〜〜!?)もが〜〜〜!?」
片腕に担ぎ上げられ暴れようとするサッチを、意に介さず赤髪の男は笑顔で既に外套を翻す。
扉に一匹残されたステファンは、その姿を視線で最後まで追いこそすれ引き止めはしなかった。
TO BE CONTINUED_