リシェ
キミドリ
DOODLE七月蜂起を起こしたとして、カーメネフとトロツキーを逮捕した臨時政府!臨時政府の不支持を堂々と宣言するボリシェヴィキの主要幹部を逮捕してほくほくの彼らであったが…
次回「コルニーロフの反乱」お楽しみに!!!
キミドリ
MEMOレーニン死後のボリシェヴィキ内の派閥スターリンの「一国社会主義論」
ブハーリンの「農業優先論」
VS
トロツキーの「世界革命論」
舞台は1925年。十月革命からわずか8年、そしてレーニン死後から1年たたずの時期に、かつてのボリシェヴィキからここまで党内情勢が変わったんですね…
1917当時の人間はトロツキーが赤軍リーダーを解任される事やスターリンがいずれ絶大な権力を手に入れるなんて想像もつかなかったでしょうね
キミドリ
DOODLEトロツキーとレーニンににらまれる可哀想なケレンスキー。ケレンスキー政府が良い政府だったかどうか私にはわかりませんが、かといってボリシェヴィキによる一党独裁がケレンスキーより優秀だったかと言えば…言葉に詰まります。
ボリシェヴィキが自分たちの生活を豊かにしてくれる、と信じた国民、特に農民は裏切られた思いだったでしょうね。都市労働者に配給するための穀物が足りず、レーニンらは農村に余剰穀物の輸出を命令します。(戦時共産主義)でも、作ったら作っただけ全部国に略奪される状況じゃやる気もでないので、どんどん穀物生産量は低下していきました。労働に対する対価が支払われていない訳です。対価なんか払う必要がないですから。(マルクスの『共産党宣言』に多分この辺の考え方が詳しく載っています)
穀物の量が減っても輸出は強制されるので、飢饉が広がります。
耐えられなくなった農民たちがアレクサンドル・アントーノフという男に率いられて「タンボフの農民反乱」を起こします。が、この反乱は毒ガスによって鎮圧されました。
亡命先から祖国ロシアの姿を見ていたケレンスキーがいたたまれないです。
キミドリ
TRAININGケレンスキーとトロツキーで練習。ケレンスキーって男前ですよね(唐突)
髪型が素敵。
色々サイトとか見てると、「芝居がかった、でも不思議と聞く人間を魅了する演説をする人物。でも政治的な能力は無い」というのがケレンスキーのだいたいの総評。ケレンスキーは優秀な弁護士でしたが、優秀な政治家とはみなされなかったみたいですね。世知辛い。
臨時政府を運営していた時はWW1の真っ最中、国民は終戦を望んでいたのに「戦争継続」を政府が決定した上、「ケレンスキー攻勢」も上手くいきませんでした。国民の不満は爆発寸前です。
そんな時に『平和に関する布告』を掲げたのがボリシェヴィキのレーニンでした。「無賠償、無併合、民族自決」のアレです。ボリシェヴィキ党の意見と言えないのは、ボリシェヴィキの中でも戦争継続の意見が大多数だったからです。なので、「革命のためになら戦争に負けても構わない」ととられかねないレーニンの意見はものすごい反発を招きました。トロツキーは賛成してくれたみたいですが、ブハーリンなんかは革命戦争を推していました 2
キミドリ
DOODLE1903(レーニン、トロツキーのイスクラ編集時代)と1917(二月革命後のソヴィエトと臨時政府の二重権力状態の時)ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルというのは政党名です。
1917年ケレンスキー内閣時代の所属状況
ボリシェヴィキ所属→レーニン、トロツキー
メンシェビキ所属→マルトフ、プレハーノフ
エスエル所属→ケレンスキー
(二月革命直後はトロツキーはボリシェビキには所属していません。メジライオンツィというグループを率いていました。) 2
キミドリ
DOODLEカーメネフとジノヴィエフ。仲良し。二人ともボリシェヴィキかつレーニンの右腕として動いていましたが、十月革命に関しては意見の相違があったようです。
レーニン死後も、スターリンとトロイカ(三人組)体制をとってトロツキーに対立しました。
その後、スターリンが権力を握ります。二人は次第にスターリンと対立するようになり、ありもしない有罪判決が下され処刑されてしまいました。
辞世。
DOODLEマサキ「ヤダヤダ!ごはんもダイゴくんが作ってくんなきゃヤダ!」ダイゴ「俺よりシェフが作ったほうがうまいだろ」
マ「やだぁあああダイゴくんのごはんが食べたい!」
ダ「……」
マ「おやすみのちゅうしてよ!!!!」
ダ(小学生にキスするのはまずいのでは……)
マ「さびしくて寝れないよぉ」
ダ「あわわ……」
※この二人がメインのタイトルは当サークル中
一番人が死ぬしグロ描写もあるホラーです。