hornrose012
PASTAC6プレイ日記3周目。アリーナでもらったごすずんシールをふとももに貼ったり上下にちぎれそうになりながらヘリの大群に対処したり3周分の怒りでスネイルのメガネを粉砕したり。 5hornrose012
PASTAC6プレイ日記。再教育センター(悪徳ドッグスクール)脱走から1周目の終わりでVictorロゴの犬になる621まで。2周目はドッグランでよその犬に飛び付いて挑発しワンプロを始める駄犬 5おみやん
PROGRESS【手描きカービィ Sick Enough to Die】友人のリクエストで作ろうとしているMADのメモ(シーン案や演出案)です
多分長続きしないです
裏切りのマホロア描けないのごめんなさい 11
久音だよ
MAIKING新刊あとがき大会。解説とか実はここ修正したとかそういうの。気が向いたら更新していくスタイルです。
2025.2.7 4枚+7枚追加
2025.2.1 5枚追加
2025.1.29 6枚追加
2025.1.27 3枚追加 32
nekononora
MEMOメモメモメモメモメモカルデアの記憶もある転生現パロ。カルデアと現在の描写を交互にいれる。
一章『忘れられない』現代
幼いバソ。5歳ぐらい。ネグレクトされていたが、パーの記憶を頼りに耐えている。ある日、前世の記憶のある鯖に引き取られる。その鯖は俳優と女優だが、バソを芸能界には近づけさせない。
バソには援助をしてくれるあしながおじさんのような存在がおり、義父母から月に一回、そのあしながおじさんさんから手紙を渡される。
二章『約束』カルデア
世界を救い、退去時の話。
約束を覚えているかと話し、笑って両片想いの状態で別れるパーバソ。
三章『過去』現在
バソ6歳。手紙はパ卿だろうと義父母に質問するが答えてはくれない。
7歳。手紙の消印を頼りに探そうとする。
1032一章『忘れられない』現代
幼いバソ。5歳ぐらい。ネグレクトされていたが、パーの記憶を頼りに耐えている。ある日、前世の記憶のある鯖に引き取られる。その鯖は俳優と女優だが、バソを芸能界には近づけさせない。
バソには援助をしてくれるあしながおじさんのような存在がおり、義父母から月に一回、そのあしながおじさんさんから手紙を渡される。
二章『約束』カルデア
世界を救い、退去時の話。
約束を覚えているかと話し、笑って両片想いの状態で別れるパーバソ。
三章『過去』現在
バソ6歳。手紙はパ卿だろうと義父母に質問するが答えてはくれない。
7歳。手紙の消印を頼りに探そうとする。
いしえ
DONE▼聞仲さまの教育方針=生き様について(ミュ2の話も少しある)(朱聞要素と、途中から飛虎聞とある)▼ミュの飛虎と聞仲について(たぶんCPではない)
後者はCPではないものの、ともにミュに関する色が強いのでまとめました。
封神考察とメモ集2(①朱聞要素と、途中から飛虎聞②たぶんCPではない)▼聞仲さまの教育方針=生き様について(ミュ2の話も少しある)(朱聞要素と、途中から飛虎聞とある)▼
王として生きることは、王として死ぬこと。血族を残し、場合によっては殷のために殉死することで、長期的視野での“殷”全体、即ち殷王国の存続のバトンをつなぐこと。それが王太子の地位に生まれた者の責務である、というのが聞太師の教育でまず刷り込まれることだと考える。
これは朱氏に子=殷の存続を託されたときから無意識に掲げていて、聞仲さまの潜在意識にあったことで、そして、仙道としての生が意識的に冷酷にさせた、個々の人間生へのまなざしだと思う。聞太師に直接託された“新たな殷王”は、朱妃の子個人のみでなく、半永久的に続くべき、“今後のあらゆる殷王という可能性”なのだった。聞仲はそれをじゅうじゅう承知して、次々に代替わりせざるを得ない人間生を、受け入れるしかなかった。
3925王として生きることは、王として死ぬこと。血族を残し、場合によっては殷のために殉死することで、長期的視野での“殷”全体、即ち殷王国の存続のバトンをつなぐこと。それが王太子の地位に生まれた者の責務である、というのが聞太師の教育でまず刷り込まれることだと考える。
これは朱氏に子=殷の存続を託されたときから無意識に掲げていて、聞仲さまの潜在意識にあったことで、そして、仙道としての生が意識的に冷酷にさせた、個々の人間生へのまなざしだと思う。聞太師に直接託された“新たな殷王”は、朱妃の子個人のみでなく、半永久的に続くべき、“今後のあらゆる殷王という可能性”なのだった。聞仲はそれをじゅうじゅう承知して、次々に代替わりせざるを得ない人間生を、受け入れるしかなかった。
inano_san
MEMO過去の考え事メモ。正しい正しさとは 私は少しだけ加害恐怖があって、だから人に迷惑をかけないように、間違えないようにと常にどこかで気を張っているところがあるのだけれど、これは多かれ少なかれ精神を蝕むほどのものである自覚はある。
正しく生きようとすることはいいことなのだけれど、自分のこれは正しくない正しさだ。正しさの為に自分自身をすり減らし、心を傷つけながら生きている。
時には淡白なまでに利益主体で物事を考えるような思考が自分には有効かもしれないと思った。間違えるリスクと自分の精神をすり減らすこと、どちらがより重いのか。すると大抵後者である。
間違えてもいいのだという真実は「正しさ」というものの一部なんじゃないかと思った。人が正しさの為に病んで、精神、心、自分らしさ、生き甲斐、そうした尊いもの諸々全てを含んだ意味での人生というものを犠牲にするなんて間違っている。
393正しく生きようとすることはいいことなのだけれど、自分のこれは正しくない正しさだ。正しさの為に自分自身をすり減らし、心を傷つけながら生きている。
時には淡白なまでに利益主体で物事を考えるような思考が自分には有効かもしれないと思った。間違えるリスクと自分の精神をすり減らすこと、どちらがより重いのか。すると大抵後者である。
間違えてもいいのだという真実は「正しさ」というものの一部なんじゃないかと思った。人が正しさの為に病んで、精神、心、自分らしさ、生き甲斐、そうした尊いもの諸々全てを含んだ意味での人生というものを犠牲にするなんて間違っている。
inano_san
MEMO過去の考え事メモ。愛しく思うものについて 「人を助ける」ことは本当に正しいことなのかを考えてきがくるいそうになっていた。いや、正しい場合は絶対にあると思うけど、正しくない場合もあるなら、「人を助けたい」と思った時にそれをどう判断すればいいのか。正しくない場面でそう思ったとしたらその思いを封じなきゃならないか。正しいことがしたいなら、本当に他者の為について考えるならそうすべきなのかもしれない。
何が悲しいのかって、私が「人を助けたい」思いを愛しているからで。(自分自身にその思いが備わってるとは思わない)
その思いのままに進むのが正しくないということがあると思うと悲しくなる。それはずっと頭の片隅に引っ掛かり続けていたことなんだけど。
正しさにこだわりたいわけじゃなくて、ただ間違いなら悲しいと思う。
746何が悲しいのかって、私が「人を助けたい」思いを愛しているからで。(自分自身にその思いが備わってるとは思わない)
その思いのままに進むのが正しくないということがあると思うと悲しくなる。それはずっと頭の片隅に引っ掛かり続けていたことなんだけど。
正しさにこだわりたいわけじゃなくて、ただ間違いなら悲しいと思う。