おぼろ夜「あなたには以前助けられたし、感謝している。けれど俺に近付く目的は何だ?」
一度顔を上げただけで江澄はすぐに書簡に目を戻した。
多分、そう返された相手は少し眉を下げた困り顔をしているだろう。それをわかって敢えて突き放すのは、これはもう性質と言っていい。
……実際、江澄自身も戸惑っているのだ。
宗主、という立場は暇ではない。いや、もしかしたら彼には不在の間に門弟を任せられる人間がいるのかもしれないが(心当たりはありすぎる)、それにしてもわざわざ蓮花塢に訪れる程の用向きがあるとは思えなかった。
「大事な弟君を奪われた文句なら受け付けていないぞ。奴のことは破門して随分経つ」
「……文句などありません」
「それなら何だ?他にあなたが俺に言いたいことなど思い当たらないのだが」
パタンッと、わざとらしく音を立て書簡を閉じると目の前に立ったままの藍家宗主・藍曦臣を睨み上げた。
二人だけで話がしたい、と藍曦臣が訪ねて来て一刻。書簡に目を通し終えるまで待ってくれと席を用意したが座ることなく、彼は黙ってそこに佇んでいた。その様子はあの日……悪が暴かれた日の彼の姿と重なった。
それは江澄にひとつの後悔を思い起こさせる。
彼に助けられた恩をあの時返すべきだったと。
義兄弟の絆を失い放心した彼を支えるなんて到底無理ではあったろう。けれど、同じ傷ではなくともやはり痛みを知る者として寄り添うことは出来たのだ。しかし、出来なかった。誰に責められることもない、あの時江澄にも余裕はなかったのだから。
それでも、と。
「……酒、は飲まないのだったな。茶を用意しよう。言いたいことがあるならさっさと言ってもらえると助かる」
深い溜息と共に吐き出せばやっと藍曦臣の表情が和らいだ。
「ただ、あなたのことが心配で。……否、心配というのは失礼ですね。あなたは立派に宗主を務めている。私と違って」
ああ、そうか。
と。
江澄は腑に落ちた。
相変わらず落ち着いた柔和な佇まいだが閉関していた間の分もと気を張っているのだ。弱音を吐き出す相手もいないのだろう。彼の叔父や弟に余計な負担をかけまいと。
それが、もし。
自分になら曝け出せると言うのなら。
傷の舐め合いならばそれでもいい。
張り詰めた糸はいつか切れる。
休息は誰しにも必要だ。
──俺にも。
「蓮の実の時季ではないが蜜漬けがある。口に合うかはわからないが」
滅多に人には出さないのだと口の端を吊り上げれば、藍曦臣は素直に「いただきます」と微笑む。
古い友人のように向かい合わせに座りお互いの立場は一旦脇に置き、朧月が照らすその夜は更けた。