髪を梳く「阿絮、ここへ座って。久し振りに私が髪を整えてやろう」
そう言って温客行はいそいそと鏡を用意し、目覚めたばかりの周子舒をその前に座らせた。
毛先から、一本たりとも絡まぬように、損なわぬようにと櫛を通す。あまりに優しく梳くものだから、何だかこそばゆくて思わず子舒は笑った。
「どこぞの公主か?俺は」
それでも元々こうして他人の手で身支度を調えられてもおかしくはない身分だったのだ。〝表の顔〟では、使用人に任せていただろう。身を委ねる子舒は自然で、緊張や戸惑いなども見られない。ほんの少しだけ、温客行は悋気を覚えた。
「適当でいいぞ。……さては楽しんでいるな?」
「こうして丁寧に梳いていれば髪に艶が出て、本当に公主のように美しくなる」
「俺の髪が美しくなったところで、お前が喜ぶだけだ」
「なら十分だ。……美しくなった阿絮を堪能するのは私だけでいい」
今度は別の意味でこそばゆくなった子舒は、鏡の中の自分と目を合わせた。
(なんて顔をしているんだ)
今のところ、髪を梳くのに夢中になっている温客行は気付いていない。
いや、もしかしたら気付いていて、見て見ぬ振りをしてくれているのかも知れない。
ほんのりと、紅差す頬が朝の会話を途切れさせた。
窓の隙間から日の光が細い線を描き、今日は暑くなりそうだと子舒は自らの胸の内を誤魔化した。
簪を手ずから挿して満足したように温客行が離れていく。
「老温」
思わず呼び止めたが言うべき言葉が浮かばない子舒は咄嗟に「腹が減ったな」と口にして温客行を呆れさせるやら笑わせるやらで、結果元通りの日常に戻ったことで安堵することになった。
食事の席で成嶺が、「師父、新しい簪ですね。良くお似合いです」などと言うまでは。