二人は空のグラスを満たした ブラックニードルの仄暗い店内を照らす照明は、店の雰囲気に合わせて光源を絞ったピンスポットに近いものを使用している。フロアに点在したテーブル席の真上に設置されたライトが暗がりにポッと席を浮かび上がらせる様は、深海に差し込む淡い光のようにも見えた。
ライトに映り込んだ微かな塵が光の粒になって落ちていくのを、カウンターの中からバーテン姿のクリアはぼんやりと眺めていた。ダンサブルなアレンジのきいたBGMに合わせるでもなく機械的に濡れたグラスをクロスで拭き上げていく。左手が軽くなったことにも気づかず光の粒を目で追うその耳に、甲高い嫌な音が飛び込んできて我に返る。足元へ視線を落として、ああやってしまった、と割れたグラスに眉をひそめた。
「失礼いたしました」
集まる視線とささめく声に謝罪して、その場に屈み砕けたグラスへ右手を伸ばす。途端、ガラス片を摘んだ指先に痛みが走り、慌てて手を引っ込めると、人差し指の腹に一筋の赤い線が刻まれてぷくりと小さな朱玉が膨らんだ。
「大丈夫か?」
タトゥースタジオの施術室のカーテンを捲ってミズキが顔を覗かせる。ビクッと体を跳ねさせたクリアは膝下までの黒い腰巻きエプロンで液体を拭って立ち上がり、背中に手を隠して振り返った。
「すみません、僕の不注意でグラスを落としてしまいました」
俯きがちに眉を下げたクリアの顔と床のグラスをじっと見たミズキは、庇うように不自然に隠されたクリアの右腕に片眉を上げ、「あっ」とクリアが身を引こうとするのを半ば強引に掴むと引っ張り上げる。ふう、と息をついたミズキは手を離して、クリアの少しずれた黒のクロスタイの位置を正すと肩をぽんと軽く叩いた。
「そっか、怪我しなくて良かったわ。危ないからホウキ使えよ」
「はい……」
踵を返すミズキの背に心の中で頭を下げたクリアは、行き場をなくした右手をそっと開いて目を細める。先ほど切った箇所は跡形もなく塞がっていた。親指でなぞると、滑らかな皮膚は最初から何事もなかった顔をして、まるで、クリアの悩みを嘲笑うかのようであった。
失敗を挽回すべく張り切ったからか、帰路を辿るクリアの腰巻きエプロンは心なしかよれ、布面積がさしてない黒のカマーベストですらずっしりとのしかかるようで足取りは重い。いや、本当の理由は分かっていた。クリアの悩みを蒼葉に打ち明けたからだ。
「うぅーん」
クリアは街灯の下で立ち止まり、腕組みして地面の四方へ伸びた影を見下ろしてむむっと眉を寄せ、ハァーっと盛大な溜め息を吐き出す。今度は天を仰げば、人工の明かりの向こうに薄ぼんやりと浮かぶ星空が瞳に入ってきてまた溜め息した。
気が重い正確な原因は、クリアの悩みそのものというよりも、打ち明けた行為自体が引き金らしい。らしい、というのも、実のところクリアにもよく分からなかったからだ。
ミズキに本当の自分を知って欲しいが、言うべきか否か。そう相談したとき、蒼葉は少し考えて「ミズキに話すの、もうちょっと待ってくれねえ?」と申し訳なさそうに上目に見つめられた。クリアは別に急いでいないから、待つ分には何も問題ない。問題なのは、その日から蒼葉の様子がおかしくなったことだ。
「蒼葉さん……元気なかったな」
話しかけても上の空で遠くを眺めていることが多くなった。笑顔になってもらいたくて抱きしめると、困ったような、それでいてどこか寂しげな笑みを浮かべるだけで何も言ってはくれない。
「本当は、僕のこと、知られたくないのかな」
仮にそうであるなら、蒼葉のことだからクリアを思っての判断だ。普段から蒼葉はクリアの意志を尊重してくれていたし、理不尽な理由で行動を制限されることもない。クリアはいつでも受け入れる準備はできていた。そう、蒼葉さえ話してくれれば。
あれ以来、蒼葉がその話題に触れたがらないのを察していたクリアは、自分から話すこともできず、かと言って蒼葉の憂いを含んだ笑みが晴れる気配もなく。行き詰まった末での今日の失敗だ。
「せめて、僕になにかできたら」
うーんと唸って目をつむり、首を右へ左へ傾げる。ふいに、ご飯を頬張って緩んだ表情を浮かべる蒼葉を思い出し、クリアは目蓋を起こすと星に負けない煌めきを双眸に宿した。組んでいた腕を解いて、両の拳を固めて空へと突き出す。
「おいしいご飯を作ろう!」
そうと決まれば何を作るか考えねば。頭の中のレシピ帳を捲り始めたクリアの足取りは現金にも軽くなる。革靴の踵が軽快なタップを夜道に響かせていた。
月明かりを頼りに玄関口の鍵穴を慣れた手つきで探る。扉をくぐって暗く静まり返った室内に入るのは、最初の頃少しの寂しさを感じたものだ。夜の営業が主な仕事なので、遅番のシフトのときはどうしても蒼葉やタエとの生活リズムがずれてしまう。今では仕方がないと割り切っているものの、小声で「ただいま戻りました」とクリアは日常へ戻るためのまじないを呟いた。
靴からそっと足を抜いて、物音を立てぬよう忍び足で上がる。屈んで靴の踵を揃えていると、背後で何かが蠢く音がして振り向いた。暗闇にじっと目を凝らす。人くらいの大きさの塊が床に転がっているのが見え、壁伝いに立ち上がりながら手探りで電灯のスイッチを見つけて押した。
「蒼葉さんっ!?」
床で横向きに丸くなっている蒼葉が視界に飛び込んできて、思わず発した声の大きさにクリアはハッと口元を押さえる。脱ぎかけのジャケットを手首に引っ掛け、カットソーにズボンという平凡の仕事帰りのまま行き倒れたかのような姿に一瞬焦るが、穏やかな寝息が聞こえてきて内心ほっとした。
「ん……」
吐息と共にぴくりと肩が反応し、駆け寄るクリアに薄目を開けた蒼葉が気づいて僅かに視線が上がる。
「こんなとこで寝たら風邪をひいちゃいますよ」
正座したクリアは蒼葉の体を抱き寄せ、その冷たさに慌てて腕と背中をさすった。腕の中から逃れるでもなく、呻きながらちょうど良い体勢を探しているのかごそごそと体の向きを変えた蒼葉の頭がクリアの腹に押しつけられる。腰に両腕を巻きつけ、膝へ頬を埋め目線だけクリアへ寄越した。
「俺、寝てた?」
目蓋を重そうに見上げてくる瞳の下には薄っすらと隈がある。
「……はい、多分」
クリアは眉尻を下げ、緩く開いた口の隙間から出かけた言葉をぐっと喉奥へと引っ込めて、唇を引き結んだ。手の甲で蒼葉の冷たい頬を撫で下ろすと、くすぐったそうに体を小刻みに震わせて目を細める。少しでも温めたくて手の平で包んで指先で耳の裏や首筋に触れれば、そこもすっかり冷え切っていた。
「蒼葉さん、眠れないのでしたら、僕、歌いましょうか」
指の隙間に入ってきた髪をすくようにして毛先に向けてするすると撫でていく。親指と人差し指で摘んだ毛先に唇を寄せたとき、触れる直前で蒼葉の手がクリアの手を払い除けた。
一瞬、何が起こったのか分からず、クリアは払われた手を呆然と見つめる。それから蒼葉の方へ視線を動かして、息を呑んだ。上体を起こし、今にも涙をこぼしそうに潤んだ瞳を揺らす蒼葉は、苦しげに眉を寄せて自らの肩にかかる髪を握りしめていた。
「痛かった、ですか?」
眉間の皺に許しを乞う口付けをおそるおそる贈る。蒼葉の髪には生まれつき感覚があり、それも最近ではほとんど感じなくなっているということだったが、万が一にも痛い思いをさせてはならないとクリアは細心の注意を払って触れたつもりだった。力の調整に不具合が出ている可能性があるのでは、と己の手の平の表裏を返して閉じたり開いたりする。その手を蒼葉の手がやんわりと包み、首をゆっくりと左右に振った。
「いや、痛くない。うん、もう、痛くないんだ」
どこか、自分に言い聞かせる響きをしていた。
「ごめんな……お前の方が痛かったよな」
伏目がちにクリアの手を握って震える唇は血色が悪く、顔も青白い。クリアはぶんぶんと首を振って目の前の体を抱きしめて「わっ」と驚かれたのも構わず、できる限りの熱を伝えようとした。けれど、それだけでは足りない。蒼葉の向こうにある脱衣所のドアを視界の端に捉えたクリアは勢いよく蒼葉の体を押し戻し、蒼葉のベルトのバックルに手をかけた。
「すんの?」
フッ、と蒼葉の含み笑いに首を傾げたクリアは、一拍遅れて弾かれたようにベルトから手を離して顔を真っ赤に染める。
「っ!ち、ちち違いますっ、体が冷えてるのでお風呂に入った方が良いと思いまして」
けしてやましい気持ちはないのだ、と両手を挙げてわたわたとさせ、耳まで熱くした顔を覆った。少しして胸に重みがあって指の隙間から下を覗けば、寄りかかって頭を預けた蒼葉と視線がかち合う。
「なあ、一緒に入ろっか。お前の体、久々にちゃんと明るいとこで見たい」
ベストのボタンを人差し指で引っ掻かれ、クリアはただ頷くしかできなかった。
翌朝の食卓はいつになく気合の入った献立で、寝ぼけ眼の蒼葉の意識がタエに叱られる前にはっきりとするほどだった。菜の花のおひたしを摘んでは「うまい」と頬を緩め、トマトの炊き込みご飯を物珍しそうに眺めて口に運んでは褒めちぎる。
「これ、肉団子?スープも透き通ってて綺麗だな」
椀を持ち上げて瞳を輝かせる様子を向かいの席で見守っていたクリアは、誇らしげにクラゲ柄のエプロンの胸を張って、握りしめた両の拳を可愛らしく顔の横に添えた。
「魚のすり身で作ったツミレです。スープの出汁も同じ魚からとったんですよ!」
「へぇ、朝からすげえ凝ってんだなあ」
ツミレを箸で摘んで眺める蒼葉の足元で、座っていた蓮がおもむろに立ち上がり前足でズボンの裾にちょんと触れる。
『蒼葉、あと五分で家を出る時間だ』
蒼葉は「やべっ」とツミレを口に放り、スープを飲む。流し込むようにして一気に掻き込むと、テーブルに椀を戻して膨らんだ頬のまま椅子の背に引っ掛けていたジャケットを手に立ち上がる。袖に腕を通しながら咀嚼し、パンッと手を合わせた。
「うまかった!ごちそうさま!」
シンクに重ねた食器を入れてダイニングから出て行く蒼葉の背に声をかける。
「お弁当はいつもの時間にお届けしますね」
後ろ手に手を振って去って行くのを蓮が追いかけ、部屋の外から「あっ」と声がしたかと思うと顔だけドアの向こうから覗かせた。
「クリア、今夜、店行くから」
それだけ言って微笑み、今度こそ出て行く。手を振り返して見送ったクリアはタエの溜め息に気づいてそちらへ体を向けた。
「誰かさんのおかげで、少しはマシな顔になったみたいだね」
湯呑みに手を添えて緑茶をすするその表情は硬いものだったが、水面を眺める眼差しには安堵の色が滲んでいる。
昨夜のことを思い出したクリアは胸の前で指をもぞつかせて落ち着きなく目を泳がせるも、ちらと寄越されたタエの視線とぶつかり、うっと息を詰めた。無言の視線にあらたまった空気を察して、膝に手を添え姿勢を正す。
「蒼葉の様子がおかしいのは気づいていたね?」
「……はい」
悲しげに肩を落として俯いたクリアの顔を、タエの二度目の溜め息が上げさせた。
「あの子にはもう話したが、お前さんにも言っておかなきゃならないだろう」
クリアは膝の上の手を握りしめ、一音一音をよく言って聞かせるようにゆっくりと話す声に耳を傾ける。しばし沈黙があって、その間も視線は交わったまま。クリアの瞳の中にタエの口が再び開かれるのが映る。湯呑みがテーブルに置かれる音がいやにはっきりと聞こえた。
「あの子の出生についてだ」
店が開店して間もなく、まだ客足が少ない頃に蒼葉はやってきた。ちょうどミズキが施術の予約リストを確認しに奥へと引っ込んでいたので、クリアが呼ぼうとすると「あぁ、いいって」とクリアの向かいのカウンター席に座って脚を組む。カウンターに両肘をついて、編んだ指に顎を預けて小首を傾げ、クリアをひたと見つめてから顔を綻ばせた。
「バーテンさん、オススメのやつね」
「ふふ、お任せください」
昨日までの影が消えていて、クリアは素直に笑みを返す。背後の棚からカクテルグラスと数種類のボトルを取り出し、順にシェイカーに注いだ。氷を半分ほど入れてストレイナーを被せて蓋をすると、胸の前に両手で構えて振る。振りながら、タエの言葉を思い出していた。
蒼葉の髪のこと、クリア達のオリジナルであったセイのこと。それを聞いてようやく、蒼葉が昨夜呟いていた"もう、痛くない"の真意に触れた気がした。けれど、どう言葉をかければいいのか分からない。ただ、クリアに言える確かなことは一つだけだった。
「僕の好きな色です」
シェイカーからグラスに細い帯状になって注がれた液体は、透き通った鮮やかなコバルトブルーの色をしている。目の前に現れたそれに蒼葉は目を丸くして瞬き、「ふはっ」と吹き出して手を伸ばした。グラスの脚を指先で摘んで揺れる水面に目を細め、一口含んで口の端を持ち上げると、頬を色付かせてクリアを見上げる。
「俺の髪のこと、婆ちゃんから聞いた?」
思いの外、軽い口調だった。クリアは少し考え、その不自然な間がほぼ肯定であるのに気づいて頷く。
「……そっか」
視線を落とした蒼葉はもう、訊く前から答えを知っていたようで、特に驚いた素振りもなくグラスの脚を指でいじった。
「ごめん」
ぽつりと漏れ出た声は昨夜と同じトーンをしていた。昨日はどうして謝られるのかクリアには分からなかったが、今なら分かる。だからこそ謝らないでほしかった。蒼葉はなにも悪くないと伝えたくて口を開いたとき、向けられた視線に制されて口ごもる。それを見届けた蒼葉は残りの酒を一気に呷ってまた俯いた。
「お前が自分自身のことを誰かに知ってもらいたいって言ってくれたの、嬉しかった」
空になったグラスの表面を見つめる蒼葉は目尻を下げて微笑んでいる。なのに、無くなった中身を惜しむみたいにグラスを揺らす仕草は寂しげだった。
「けど、すぐに背中を押してやれなかった。俺は俺のこと言えないのに、って」
カウンターにグラスを戻した蒼葉の手は震えていた。クリアはその手に自分の手を重ねて、何も言わずに双眸に蒼葉を映し、震えが治るのを待つ。息を吐き、脚を組み替えた蒼葉が正面を向いたとき、その顔に一切の迷いはなく、もう、ほとんど震えはなかった。
「俺さ、髪の感覚がなくなってくのがこわかったんだ。セイと……兄さんとの繋がりがなかったことになるみたいで」
「そんなことっ」
身を乗り出したクリアの手の下から蒼葉のものがするりと抜け出す。手を払われたときのことが頭に浮かんで泣きそうに顔を歪めて追い縋る指に、蒼葉の方から指を絡めてきてギュッと握りしめられた。クリアは「え?」と落ち着きなく蒼葉の顔と手とを交互に見て、前のめりだった体を戻して蒼葉に視線で先を促す。
「うん、そんなことない。お前の体を見て、思い出したんだ」
「僕の……体?」
蒼葉の指の力が緩み、クリアの手の甲や指の股を確かめるみたいにゆるゆると行き来して、またぎゅうっと握られた。何かに想いを馳せて目を伏せた蒼葉の睫毛の影が微かに揺れている。クリアは薄闇に溶けてしまいそうな雰囲気に、知らず蒼葉の手を強く握り返していた。それに後押しされてか、蒼葉の口から吐息と共にぽつりぽつりと言葉が零れ落ちる。
「お前の体は以前のものじゃない。でも、クリアはクリアだ。俺や婆ちゃん、蓮、クリアのおじいさん、クリアが関わってきた人とか思い出とか、ぜんぶ、ぜんぶ、なくなってなんかいない」
「蒼葉さん……」
クリアは躊躇いがちに右手を伸ばして蒼葉の頬へ触れた。目蓋を起こした蒼葉の視線がクリアのものと交錯する。手の平で包んだ頬を少し熱いと感じたのはアルコールのせいだけではないだろう。皮膚を通じて蒼葉の鼓動と気持ちの昂りが手に取るように分かった。目を逸らさずに指先で輪郭をなぞり、肩にかかる髪を一束するりと辿り毛先を撫でる。蒼葉は嫌がらなかった。
「僕の気持ち、伝わりますか?」
目を合わせたまま背を屈め、ありったけの想いを唇に込めて髪に触れた。蒼葉がどう変わろうと、蒼葉の生きた証はずっとここにあり続ける。蒼葉が変わらずありのままのクリアを愛してくれたように、クリアもそうありたい。
「……じゅーぶん」
はにかんで俯いた蒼葉から、ぽたりと雫が降る。涙をまぜたグラスは、満ち足りた二人の姿を映して煌めいていた。
END