sweet+bitter=?「ちょっとジュンくん、聞いてるのっ?!」
耳をつんざくような声で強制的に意識が引き戻される。その拍子に舌の上で転がしていた飴玉をがり、と噛んでしまったジュンは苦虫を潰したような顔で大声を上げる相方を見遣る。一度嚙み砕いてしまった砂糖の粒は口の中で徐々に形を失っていく。
ここまできたらもう飲み込んでしまうしかない。ジュンはごくりと喉を鳴らしてから、目の前の相方――日和を改めて見据えた。いつもはゆるりとやわらかく緩んでいる目尻が吊り上がり、表情だけでも不満の色が窺えた。
「すみません、聞いてませんでした」
「この子ってば!いつからぼくの話を無視できるくらいえらくなったんだろうね!悪い日和っ」
大げさに嘆いては隣で読書をしている凪砂に抱き着く日和の臍は一度曲がってしまうとなかなか戻らない。ジュンは助けを乞うように凪砂を見た。そんな二人をよそに、凪砂の視線は変わらずその手に持っている文庫本へと注がれていた。
「ナギせんぱぁい……」
「……いまのはジュンが悪いよ。日和くんの話、聞いていなかったでしょう」
至極真っ当な意見を返されてしまい、とうとうジュンは立場を失ってしまった。
「うんうん、やっぱり凪砂くんはよくわかっているね♪」
凪砂が自分の味方であるとわかった日和は、先ほどまでの不機嫌が嘘のように笑顔の花を咲かせる。隣で本を読み続ける凪砂に思い切り抱き着く。読書の邪魔になっていることは確実なのに、凪砂は少しも気にしている様子はない。
「すみませんって……それで、何の話でしたっけ」
「だから、さいきん茨の様子が変じゃない?って話だね。今だって番組スタッフと少し話があるからって出ていったきり、連絡一つ寄こさないし」
「そういえば、出てってからけっこう経つのに……オレらのところはまだしも、ナギ先輩のところに一言もないのは珍しいっすね」
「……仕事の話で盛り上がっているときは、ままあるけれど。もう一時間は経つよね。私から連絡を入れてみる?」
凪砂はそこでやっと読書をいったん中止し、ジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。そろそろ楽屋から出なければならない時間ではあるし、そのことだけでも伝えておくべきではあるだろう。ジュンがお願いしますと言うと、凪砂は既に茨の連絡先を呼び出していたのだろう、すぐに端末を耳元へ宛がった。
「……あれ、おかしいな。出ない。いつもなら2コールくらいですぐに出るのに」
日和もジュンも暫くその様子を黙って見守っていたものの、凪砂が一向に電話口に話しかける様子がないことを思えば、茨が電話に出ないのであろうことは察しがついていた。
「オレ、やっぱりちょっと探してきます。おひいさんとナギ先輩は先に帰っててください」
「あ、ちょっとジュンくん……!」
ジュンは立ち上がり、止める日和の声を振り払って楽屋から出ていく。何か嫌な予感がした。『ジュンくんは野生動物みたいだね』と比喩される自分の直感も、今ばかりは当たらないでくれと願いながら、ジュンは茨がいそうな場所を虱潰しに探し回った。
しかし、どこにも茨の姿はない。建物内を駆けまわっていれば、番組収録で世話になったスタッフがジュンの纏う只ならない様子に気づいて、声をかけてきた。
「漣くん?どうしたの、そんな血相変えて。何かあった?」
「あ、いや……すみません、うちの七種を見ませんでした?」
「茨くん?さっきまで一緒にいたけど」
「本当ですか?!それであの、茨はいまどこに……?」
「そこのミーティングルームで僕と少し話をして、20分くらい前に別れたんだけど……てっきり楽屋に戻ったんだと思ってた。帰ってきてないの?」
「実は連絡がつかなくて。いや、まぁ、この建物内にはいると思うんですけど」
「そう……もし見かけたら漣くんが探してたって伝えておくよ」
「すみません、ありがとうございます」
ジュンはそういうと、気前の良い笑顔を見せるスタッフの男に一礼をしてからその場を離れた。
勢いで楽屋を飛び出してきてしまったものの、建物が広すぎてすれ違っている可能性がある。もう一度、茨に電話をかけてみるが、やはり出ない。闇雲に走り回って、これ以上さきほどのように関係ないスタッフに迷惑をかけるわけにもいかない。途方に暮れていた矢先、ふと視界に入り込んだ赤。思わず三度見くらいしてしまった。
そこには確かに、ジュンが息を切らして探し回っていた茨がいた。しかし、茨がいる場所がジュンへこれまでにない驚きを齎している。ガラス越しにばちりと目が合う。茨が明らかに『まずい』という顔をしていた。ジュンは勢いよく喫煙所の扉を開く。
「茨っ!!あんた今までずっと何してたんですかぁ?!」
「なにって……次の仕事の打ち合わせですよ。今日の番組のプロデューサーに、今度は個人の仕事でお世話になるので、挨拶をふまえて」
「てか電話!!何回もしたんですけど!!」
「えっ?……すみません、電源が切れてます」
「まじかよ……」
慌てた様子でズボンのポケットからスマートフォンを取り出した茨がそれを確認すると、なんとも間抜けな展開に足の力が抜けてしまったジュンはその場にしゃがみこむ。茨は咥えていた煙草を灰皿に押し付けてから、ジュンの前に屈んだ。
「ちょっと、ジュン……大丈夫ですか?」
茨が近づくと余計に煙草特有のくすんだ香りがする。普通の人よりも少しだけ嗅覚が敏感なジュンはそれに眉を顰めた。というか。
「茨、煙草吸うんですねぇ」
「ええ、まぁ。最初は付き合いのそれだったんですがね」
ジュンがさりげなくそのことを突っ込んでみると、茨は視線を逸らしたまま舌打ちをした。嫌悪感を隠さないその態度から、茨にとって触れられたくない話題であることは明白だったが、ジュンは気にせず会話を続けようとする。
「でも匂いとか、ぜんぜんわかりませんでした」
「そりゃあ気づかれないよう徹底的に消臭してましたから。特に閣下は人よりも鼻が利くようですし。……ジュン、申し訳ないんですがこのことは口外無用でお願いします」
煙草の煙が充満しわずかに白む視界を晴らすように茨が片手でその場の空気を切る。ジュンはなぜ隠す必要があるのかと首を傾げた。すると茨は、まるで隠すことが当たり前だとでもいうように呆れて溜息を吐く。
「昨今は得に喫煙者に対する風当たりが強いですし、俗物から離れた印象である『Eden
』というユニットに所属している以上、そのイメージを崩すリスクのあるものは排除しておきたい。あと、シンプルに閣下と殿下からの小言がうるさそうなので」
「最後のが本音っすね……?」
敢えて肯定は示さず肩を竦めて見せる茨に苦笑すると、ジュンは心配していた事態からだいぶかけ離れた事態になっていることを改めて認識しつつ、それでも仲間の安否が明らかになったことでやっと安心できた。茨のことだからトラブルに巻き込まれそうになっても一人でなんとかできるのだろうが。仮に厄介ごとに巻き込まれそうになっているときに、自分たちだけのんきに待っていただけ、なんてことは極力避けたい。それがメンバー総意であることを、茨自身も理解しているはずだ。故に最近は一人で突っ走ることも少なくなったように思う。これは『良い変化』と捉えていいだろう。
茨を見つけたと報告する旨のメッセージを日和へ送ると、すぐに既読がついた。楽屋の退室時間が差し迫っていたので、二人には先に帰ってもらった。
「はぁ……ったく、まさか電源が切れて連絡がつかなくなってるなんて。茨も意外とうっかりなところがありますよねぇ~」
「いつもこうというわけではありませんが……今日ばかりは反論できませんな。結局小言を言われる羽目になってしまいました」
「や、別に煙草の件でとやかく言うつもりはないっすけどね」
ジュンはそう言いながらポケットから手持ちしている最後の飴玉を取り出して包みを剥がし、口内に放り込んだ。今度はさっきみたいにかみ砕いてしまわぬよう、慎重に舌の上で転がす。横から何やら視線を感じてそちらを向くと、茨がなんとも言えないような表情でジュンを見ていた。
「なんですか……?」
「いえ……ジュンがどちらかというと甘党なのは存じていましたが、さっきから飴ばかり食べているので、ちょっと気になってしまって」
「え?そうですか?」
「ここに来てからずっと食べ続けているでしょう。今ので三つ目ですよ。……自分で気づいていないんですか?」
茨の言葉に驚いて、またジュンは口の中で溶け始めている飴を嚙みそうになってしまう。それをぐっと堪えて、隣で煙をくゆらせる茨をじとりと睨みつけた。
「そういう茨だって、さっきからずぅっと煙草吸い続けてますよねぇ?オレ、煙草を吸う人のことはよくわかりませんけど、灰皿いっぱいになってきちゃってるじゃないですか」
ジュンが吸い殻で満たされた灰皿を指さすと、茨は眉間に皺を寄せる。しかし吸うのをやめるという選択肢はないようで、少し短くなったそれを再び口に咥えると、ふうっとジュンの前で煙を吹き付ける。
「うわっ、ちょっと!なにするんですかぁ!」
「いえ、なんかむかついて」
「あまりにもぼんやりした理由!」
可燃式たばこ特有の、肺に直接入り込んでくるような煙たさのなかに、ほんのり鼻腔をかすめる甘ったるい香りが軽く眩暈を引き起こす。ジュンが何度か咳き込んでいる姿を茨はどこか楽し気に眺めていた。
「はは。そんなにですか?ジュンは一生吸えないですね」
「別に吸うつもりもありませんし。どんな百害あって一利もないもの」
「おや、ジュンのくせに難しい言葉を知っていますね。まぁ、それに関しては何も言えませんけど。でも、ジュンの食べてるそれだって適度にしないと、体に毒ですよ」
もうジュンの前で遠慮するつもりがないのか、茨は変わらず煙草を指に挟んだまま、今度はちゃんと換気口に向けて煙を吐き出した。
「わかってるんですけど、もはや無意識なんですよねぇ」
「なおさらやばいじゃないですか。そういうことなら意識的に自制してください。健康診断とかちゃんと受けてるんですよね?」
「それは毎年かかさず。いまのところはなんともありません。というかそれに関してはまじで茨に言われたくないっす」
このままの生活を続けていれば、いつか必ずどこかでボロが出始める。お互いそれを自覚しながらも、じゃあすぐに今の生活を変えられるほど簡単な話ではなかった。無意識で行われる行為ほど恐ろしいものはない。それだけ自分の日常に根付いてしまっているということなのだから。
「そもそも、なぜジュンはそんなに飴を常備するようになったんですか。昔からこうだったわけではないですよね」
「えっ、……あ~、確かに昔からってわけではないですねぇ。かといって、いつからこうなのかって明確な時期を覚えているわけでもないですけど」
「ジュンを今のようにさせた『何か』があったんです?」
「いや、別に……わかりやすい理由を挙げるとするなら、『口寂しいから』ですかねぇ」
ジュン自身もこの癖がいつから、どのようにして始まったのか覚えていない。そこに明確な理由がなかったことだけが明白で、茨のそれとは比較できないくらい、ぼんやりとしたきっかけだったように思う。
他人に指摘されなければ自覚できないほど癖になっていた自分を省みる。明日から……いや、今日この部屋を出た後から、飴に代わるものを探そう。ジュンは心の中で決心すると、再び視線を挙げた。こちらをじっと見つめる濃紺の瞳をばっちり目が合う。びっくりして思わず肩が跳ねた。
「今度はなんですか……?」
「……いえ。ジュンから『口寂しい』なんて言葉が出てくるなんて、意外だなと思いまして」
「いいでしょ、別に。てかそこはあんまり深く突っ込まないでくださいよ……ガキみたいで恥ずかしい」
「あっはっは☆口寂しさを紛らわせるために選んだのが飴というところは、如何にもジュンらしいですね」
それが皮肉であることは、幾ら言葉の応酬に疎いジュンでも理解できた。思わずむっとしてしまうジュンを余所に、茨は楽しそうに笑っている。どこかあどけなさの残る笑顔が、遠く離れた青い春を彷彿とさせて、胸が痛む。
ジュンは昔、茨に告白をして一度盛大に振られている。高校を卒業して、すこし経った頃だった。振られた理由は、自分たちはアイドルだからとか、世間体があるとか、そんなところだった。予想していた通りの断り文句だったので、ジュンは食い下がることなく、自分の気持ち自体をなかったことにしていた。
「(でも、そんな簡単に諦められてたら、そもそも告白なんてしてないっつう話ですよ)」
我ながら諦めが悪いと思う。けれどジュンは自分の思いが通じるよりも、茨とともに笑っていられる未来を選んだのだ。きっと、これが正解だったと今では納得している。
「ジューン?拗ねちゃったんですか?」
過去の思い出へと意識を飛ばしていたジュンの頬を茨がつつく。すっかり調子づかせてしまったようだ。ジュンは茨の指先を軽く払おうとした。が、次に目が合った茨は笑っていなくて、何かを訴えるように、あまりにもまっすぐジュンを見つめていた。ただならぬ雰囲気に、記憶に引きずられて高鳴る心臓の音が身体に響く。
「茨、」
「っ、ジュン……?ん、」
いつもと違うジュンの様子に気圧された茨が引っ込める手を、ジュンが掴み直す。引き寄せてさらに距離を詰めては、噛みつくように唇を重ねた。くぐもった声を漏らして驚く茨を敢えて無視して、ジュンは唇のあわいに舌を這わせ、ゆっくりと口内にそれを忍ばせていく。
茨は抵抗しなかった。部屋の隅で縮こまって、何をしているのだろう。いつ人が来るともわからないのに。濡れたリップ音が頭の奥に響いて、まともだったはずの思考回路を狂わせる。
遠くから近づいてくる複数人の話し声にどちらからともなく顔を離した。
「にが」
「あま」
異なる意味を持つ二つの声が同時に重なる。互いに顔を見合わせて、思わず吹き出してしまった。そうして二人で笑いあっていると、スタッフらしき数人の男性が喫煙所に入ってきたため、それと入れ違うようにしてその場を離れた。
それにしたって勢いであんなことをしてしまった自分が恥ずかしい。もうあのころのような眩さに憧れる年齢でもないというのに。出来ることも、嗜めるものを増えたのに、二人して『悪い大人』にはなりきれていない。
「ジュン」
「なんですか」
「……俺も『口寂しい』ので、たまにならさっきみたいに付き合ってやってもいいですよ」
ずんずんと建物の出口に進んでいく茨がジュンの腕を掴んで耳元へ唇を寄せる。そうして囁かれた言葉にジュンの理解が追いつくまでに時間がかかり置いてけぼりになったのは、また別の話だ。