冬の朝 師走の忙しさを身をもって経験したジュンと茨は、カウントダウンイベント後すぐに用意していたホテルへと向かった。日和と凪砂はその脚で巴家へ向かった。ライブに出演していたアイドルたちもそれぞれのいるべきところへ帰っていき、こうしてやっと各々の正月を迎えることができた。
茨もジュンも一年の仕事納めのあとはいつも疲労困憊といった感じで、ホテルに着いてからなんとかお互いを鼓舞しあいシャワーを浴びて、言葉を交わす余裕もなく眠りについた。おやすみと言ったかどうかすらも曖昧な年明け。新しい年を迎えた実感もないまま朝を迎えるのが二人の定石だった。
しかし、ルーティンとは恐ろしいもので、眠る前の疲労感とは裏腹にジュンはいつも通りの時間に目が覚めてしまった。ゆっくりと首を捻り、時計の時刻を確認する。ベッドに備え付けられたデジタル時計は6時18分を示していた。アラームは消していたので多少の誤差はあるものの、ジュンがいつも目を覚ます時間と近い。反対側には布団に包まって眠る茨の姿。死んだように眠るを体現したように静かでジュンは一瞬どきりとする。しかし、毛布の下の身体が上下して呼吸をしていることを示していれば、ほっと胸を撫でおろした。
「(……あ、まぁた眉間にしわ寄ってら)」
身体を休めるための行為のはずなのに眠っている最中の茨はよく眉間に力が入っている。ジュンはそれを見つけるたび、指先でそれをほぐそうと試みるが、うまくいった試しはない。一度、茨本人に「なんか嫌な夢でも見たんですか?」と聞いたことがあるが、返ってきたのは「覚えていません」という言葉だけだった。その真偽を確かめる術はないし、本人がそう言った以上は自分に追及する権利がないと悟ったジュンは、こうして茨の意識がない間だけでもと、彼の安眠を願って額に触れている。
しばらくそうしていると、んん、と小さな吐息の音が聞こえてきて、一瞬だけ茨が身じろいだ。起こしてしまったかと咄嗟に手を離したけれど、聞こえてくるのは規則正しい寝息だけ。ふたたびほっと胸を撫でおろしたジュンの先で、茨は先ほどよりも穏やかな寝顔を無防備に晒していた。
ジュンは少しの間、茨の寝顔を見守ってからベッドを抜け出す。疲労は抜けきっていないがそれ以上にこのまま二度寝ができる気もしなかった。服を着替え、ジュンの趣味ともいえるロードワークに出る準備をする。ホテルのルームキーは二枚用意されているから、片方を手に取った。
「……んん、じゅん……?」
「っ茨。すんません、起こしちゃいましたね」
ジュンが上着を羽織った瞬間、背後から声がした。驚いて振り返ると、茨がのそりと身を起こす。自分の物音で起こしてしまったのだと思ったジュンは、慌てて茨のもとへ近づき、肩に触れてベッドへ横たわらせようとした。しかし茨はそれを拒否するようにジュンの腰元へ腕を巻き付ける。寝ぼけているにも関わらずすごい力だ。ジュンは身動きが取れなくなったが、こうして茨が素直に甘えてくるのは極限まで眠たい時や意識が朦朧としているときがほとんどであるため、満更でもない気分になっているのも事実だ。茨がジュンの腹部あたりにうりうりと額をこすりつける。
「きょうくらい、いかなくてもいいじゃないですか」
ジュンの服装を見て外に出ようとしていることを悟った茨は、言いながらジュンをまっすぐに見上げる。寝ぼけ眼でいつもより覇気のない瞳で見つめられると、ジュンの意思も揺らぐ。しかし再び寝付けなさそうなほどに目がさえてしまっているのも事実だ。チェックアウトの時間は遅めに設定してあるし、ロードワークを終えてからシャワーを浴びてもう一度ベッドに潜り込むくらいの余裕はある。ジュンがどう言うべきか迷っていると、茨が腕を解いた。そのままベッドから降り立ち、サイドテーブルに置かれていた眼鏡を手に取る。
「じゃあ、自分も行きます」
「えっ、ええ……?いやいや、茨は寝ててくださいよ。あんた誰よりも疲れてるでしょ」
「このままジュンを見送っても、寝付けなさそうなので」
さっきよりもはっきりとした声で言った茨はそのまま洗面台い向かう。ジュンが何も言う暇もなく、顔を洗ってすっきりした表情の茨が洗面台からひょこりと顔を出す。先ほどの可愛らしさは演技だったのかと思えてしまうほど普段通りの姿になってしまったジュンは内心肩を落とした。
「……置いていったら怒りますからね」
前言撤回。やっぱり茨はどんなときでもかわいい。
*****
陽が昇りきっていない冬の朝の空気は、肌に痛みを感じるほどに冷え込んでいる。しかしそれをゆっくりと肺に取り込むと、先ほどより増して頭がクリアになった。ジュンはこの感覚が好きだった。自分の中に溜まっていた不純物が二酸化炭素と共に吐き出され、まじりけのない綺麗なものが酸素と一緒に体内に入ってくるような。思い込みの力は素晴らしいと、アイドルとして活動していると余計に強く感じるようになった。
「とりあえずホテル周りを一周しましょうか。オレが先導するんで」
「了解です」
軽く準備運動をしてから横に並んで走り出す。息が上がらない程度のスピードまで足を動かす速度を上げていく。茨は見た目や言動で運動が不得意だというイメージをつけられやすいが、実はそこそこ基礎体力がある。本人に聞くと昔に培われたものだそうだが、いまでも隙間時間にトレーニングをしているのをジュンは知っている。プライドだろうか、本人はそういう努力を他人には見せたがらないから、ジュンも知らないふりをしている。
「さすがに、この時間は人通りもありませんね」
「年明けですし、余計にでしょう」
中心部からは少し離れた場所であるためか、先ほどから人とすれ違うことがほとんどない。今は特に返送もしていないのでその方が都合が良いことは確かだが。先ほど一人だけ、犬を連れて歩いている老夫婦を見かけた程度で、やはり年が明けて間もないからだろうか、人の気配がしない街は増して寒々しい。
けれどそれは、一人でいればの話だ。今は違う。歩幅とペースを合わせて走る茨の横顔を、ジュンはこっそりと盗み見た。茨はこんなときでも、ジュンが口を出さなければよそ見ひとつしない。姿勢を正し、進行方向だけを真っ直ぐに見つめている。性格だなぁ、なんてぼんやりと考えながら、ジュンも無意識に背を正した。
二人分の呼吸が重なり合ったり交互になったりし始めたころ、遠くから電車が走る音が聞こえてきた。始発の時間になったのだろう。街に少しずつ生活音が増え始めて、一日の始まりを告げているようだった。
「そういえば、ジュンは実家に帰省したりは、しないんですか?」
走り出した頃より息が上がった茨が、言葉を切りながら問いかける。ジュンは遠くへ飛ばしていた意識を引き戻し、あ~……と意味のない声を発してから苦笑した。
「うちの親たち、二人とも風邪でダウンしちまってて。帰ってきてもなんの用意もないし、風邪を移しちゃってもあれだから、寧ろ帰ってくるなって言われちまったんですよ」
「おや……それは新年早々、大変ですな」
「まぁ、いま流行ってますしねぇ。落ち着いたら一度、顔出しに帰るつもりでは、いますけど……」
「ぜひ、そうしてください。強制するつもりはありませんが、誰かが待ってくれている場所に帰れるというのは、とても有難いことですから」
「……茨は、」
どうするんですか、と言いかけ、ジュンは咄嗟に口を噤んだ。ジュンは茨の出生や過去について詳しく知らない。ときどきそれらしい話を口にすることはあるが、なんだかうやむやにはぐらかされて終わるから、あまり深く突っ込んで聞いてほしくない話題なのだろう。それに、まとまった休みが取れたところで茨がどこかに帰省するなんてこと、今までに一度もなかった。本人はいまのうちに溜まった事務を片付けたいから、と言っていた(それ自体も嘘ではないのだろう)が、それだけではないことはいくら鈍感なジュンであっても何となく察していた。色んな想像を巡らせ、思案し、ジュンは足を止めた。
「ジュン?」
それまではジュンと会話をするにでも前だけを見ていた茨が立ち止まり、後ろを振り返った。自分でも茨を振り向かせることができるのだと、思い込みがジュンの背を押す。
「茨、うちに来ませんか」
ジュンの端的な言葉では意図を汲み取りかねたのだろう、茨が眉をひそめる。
「は?自分が、ジュンの家に?なぜ?」
「いや、まぁあの……茨のこと、紹介したいですし」
「ジュン、わかっていると思いますが自分たちの関係は、」
「公言しない。わかってます、それが付き合うときの条件でしたから。そうじゃなくて普通に、メンバーとして……尊敬する仲間として、紹介したいんすよ」
これも嘘ではなかった。ジュンが茨と共にEdenとして活動を始めて数年が経つ。元・アイドルであるジュンの父は特に、息子がどんなメンバーと共に活動をしているのか興味津々だった。連れてこいとはっきり言葉いされたことはなかったが、電話越しに質問責めに合うことも少なくはなかった。
それに、いまはただの仲間や友人として紹介するが、二人の関係性を一生、隠したままにしておくわけにもいかない。それは茨も理解しているはずだ。しかるべきタイミングで、信頼する人物だけにでも話をする必要が、いつか必ず、やってくる。
「……はぁ、まったく。何を言い出すのかと思えば。突拍子のなさが殿下に似てきましたね」
「う……返す言葉もねえ」
呆れたようにため息を吐かれ、ジュンはすっかり勢いを失い肩を落とす。茨は道路の横を流れる小川を見つめながら「いつですか」と言った。ジュンがぱっと顔を上げる。言葉の意味がわからず、ジュンが呆けていると、茨は改めてジュンと向き合った。
「だから、いつ実家に帰るんですか」
「えっと……あの人らの体調が戻り次第にはなりますけど、たぶん来週あたり、」
「……わかりました。予定を空けておきます」
「へ、」
予想していたこととは全く違う方向へ話が進んでいき、ジュンはもはや言葉を発することさえ忘れて驚く。茨はそれ以降は何も言わず、再びジュンに背を向けて走り出した。どんどん離れていく距離に、慌ててジュンもその背を追いかける。
「茨、いばら、」
「……なに、」
「いばら~」
「っ、なんだよ」
少し荒い口調になった茨が視線だけジュンの方を向く。ジュンは堪えきれず口角をゆるゆると持ち上げて、茨の隣に並んだ。
「茨、顔まっかですねえ」
「寒いせいです」
「もう結構走って身体あったまってるでしょ」
「じゃあ朝日のせい」
「素直じゃねえ~」
ジュンがからかってやると、茨は肘でジュンの脇を強めに何度かつついた。鍛え上げられたジュンの身体はビクともしなくて、茨は舌打ちをしながら走るペースを上げる。ジュンもそれを追いかけた。
ジュンは茨と歩幅を合わせながら、色の変わった空を見上げた。ホテルを出る時にはうっすらかかっていた雲は遠くに流れていったようで、青く染まり始めた空が、二人の新しい一日を祝しているようだった。