あとしまつ編③ 指定された場所には覚えがあった。そこは横浜流氓御用達の診療所である。なるほど、医療リソースが増えることはお互いにとってありがたい。医療と看護への適性がある人間は慢性的に不足している。それに、コミジュルの医療スタッフが優秀であることは良く知っていた。
適当に空いているスペースに車を横付けして、建物内に入った。そこは一般住民———とはいっても地元の中国系の住民が殆どだ———も利用する診療所だ。子どもの頃から顔なじみのスタッフと目が合うとすぐにすっ飛んできた。
「久しぶり~元気してた?」
「天佑様、お待ちしておりました。すぐにご案内いたします」
天佑様かぁ……と言葉を噛みしめる。久しぶりの肩書の無い呼ばれ方が心地よい。こういった些細なことで、開放感を得られるのは不思議なことだった。
案内された従業員用通路の奥の扉のさらに先、一旦地下への階段経由で別の建物に移動する。そこが俺達用の病院だ。外科治療がメインで、あとは毒関連の処置に特化している。もちろん保険証は不要。ここではあんな紙切れに何の価値もない。
「こちらです」
と、案内された先は処置室だった。病室ではないことに安心して、黙って着いて行く。
部屋の前に、コミジュルで何度もあった人間が立っている。こちらの案内人と俺の姿に気が付くと、駆け寄ってきた。
「お待ちしておりました、趙総帥。先程はお電話にて失礼いたしました」
彼は深く頭を下げて、そう述べた。
「そんな、助かったよ。ありがとう。それに無事でよかった」
彼とはモニタールームでの顔見知りだ。参謀になってからも偶にふらふらとするハン・ジュンギを回収するのが彼の主な仕事だと思っている。
「まさか、私のことを覚えていただいていたとは。ありがたいことです」
「そりゃあ、あれだけ苦労してたら覚えちゃうよ」
「その節は、うちの参謀が失礼を。では、ご案内いたします」
処置室はカーテンで区切られていて、それぞれのベッドでは各々の処置がされているようだった。当然、横浜流氓の戦闘員もいるので少々視線が煩わしい。案内されるまま、処置室の一番奥のスペースに通される。医療班の彼が静かにカーテンを開けると、ハンくんが気持ちよさそうに熟睡していた。点滴はとうに終わっていて、本当にただ寝ているだけだ。
「ねぇ、これ起こしても大丈夫?」
絶賛お休み中の参謀を指さすと、もちろんと白衣の男は頷いた。
「むしろ起こしていただけると助かります。何度も呼び掛けたのですが、まったく起きる気配がないのです。それで、代わりに電話をお掛けした次第でして」
「まぁ、こいつがこの距離で他人が会話してるのに起きないって相当だね。実は寝たふりしてない?本当は起きてんじゃないの?」
「残念ながら、それはありませんね。電話でもお伝えした通り、神室町から戻ってきてから一睡もしていなかったようなので」
神室町から帰ってきてから、ということはミレニアムタワーでの騒動から寝ていないということになる。馬鹿なのかな。
「馬鹿なのかなこいつ」
「馬鹿ですね」
「とりあえず、起こしてみるか」
ただ普通に寝ている人間を起こすのはそんなに難しく無い。耳元で大声を出すとか、鼻を摘まんで呼吸を止めるとか、そんな危ないことをする必要はない。もっと手っ取り早いのは、まつげを触ることだ。指で上まつげを何度も揺すると、ハンくんの顔がぐずついてきた。まぁ、目元のはっきりした隈から先程の話も本当だと分かるから、少々気の毒だが仕方がない。
ゆっくりとハンくんの目が開いた。2、3回瞬きをしてぼんやりしているところに、すかさず強めに声をかける。
「おはようございます、ハン参謀。趙天佑がお迎えにあがりましたよ~」
俺の一言に治療室がざわつく。悪いが、俺だって足立さんを待たせているのだ。
「は?」
事態が把握できない、ハンくんに向かって両手を振ってアピールする。
「あれ?聞こえなかったかなぁ。おっはようございま~す、ハン・ジュンギ。みんな大好き趙天佑が迎えに来た会えたよ~ん」
ぼーっと俺を見ていた彼の目が一気に見開かれた。ベッドから飛び起きて、俺たちを交互に見た。リアクションは100点満点だ。寝起きドッキリを仕掛ける側の気持ちがよく分かった。
「は?……はぁ!?えっ!!?趙、なんでここに?」
「30分経ったから来ちゃった~」
「まったく、こちらから連絡するって……あれ」
「ほらほら、足立さんが待ってるから起きて起きて!行くぞ~」
頭がまだ鈍っている間に、簡単に身だしなみを整えて履物を探す。
「こちらをどうぞ。ソンヒから着替えを預かっています。履物はこちらを」
用意されたのはいつものタクティカルブーツではなく、クロックスだ。クロックス、それも黒の普通のクロックス。靴下をはかせて、受け取ったパーカーを着せている間もハンくんは何が起こっているのか困惑していてなすがままだ。寝起きの彼は何度も見ているが、ここまで気が抜けているのは初めて見たかもしれない。
医療班の彼から、着替えが入っているというボストンバックを受け取り、ローデスクに置いてあった私物と思われる諸々を詰めて、肩にかけた。ハンくんのスマホは俺のポケットにしまう。
「ハンくん靴履いて!急いで急いで!!ダブル・タイム!!足立教官がお待ちですよ~」
「え?へっ?足立教官って何の話です?」
強めの寝ぐせのままの姿を晒すのはさすがに良くないと判断してパーカーのフードを深めに被せる。ハンくんの手を引いて足早に処置室後にした。出ていくときに振り返って顔なじみの彼に手を振ると深々と頭を下げていた。
まだ半分寝ているハン・ジュンギを車に詰めて、サバイバーに到着した。
「足立さんお待たせ~」
「お待たせしました……?」
ハンくんを見て足立さんが神妙な顔をしている。オーバーサイズの黒パーカーにジャージとクロックス。目の下は青黒い隈がくっきり残っていて髪は寝ぐせのままだ。
「パチンコのモーニング待ちでたまにみかけるホストみてぇだな」
確かに。
「こいつ一回寝かせた方がいいんじゃないか?隈やばいぞ」
「いえ、大丈夫です足立教官」
だめだなこれ。
足立さんの目も、だめだなと俺に訴えていた。