楽園はそこにありて どこまでも続く海原を一艘の船が駆ける。
潮の匂いが含まれる風を受けながら、ラーハルトは片膝を立てて座りぼんやりと水平線を眺めていた。傍らには寝転んで空を見上げるヒュンケル。
二人の間に会話はないが、重ねられた手の温もりが穏やかな時間を作る。
大きな戦いが終わり、冒険の終わりに姿を消した勇者も帰還し平穏が戻ったこの世界で、ヒュンケルとラーハルトはあてのない旅に出ていた。
当初は人里離れた森の中に家を建て自給自足の生活をしており、慣れない生活に四苦八苦しながらも、唯一無二の存在と苦楽を共にすることはこの上ない充足感を生んだ。
しかし月日が流れ生活も安定すると、幼少より戦いの中で生きてきた二人は穏やかな日常に物足りなさを覚えるのも無理はない。
まだ見ぬ世界に刺激を求め旅立った二人は、段々と家に帰る頻度が長くなっていた。
そんな今回の冒険の舞台がこの海である。詰めるだけ詰んだ物資がなくなるまでどこまで行けるのか、地図も羅針盤もない航海だが、キメラの翼ですぐに戻ることが出来るので
旅慣れた二人にはただの気楽な旅行だ。
風まかせに進み続けてそろそろ物資も底を見せてきたが、海と空しかないこの空間は思いの外二人にとって居心地が良く、どちらも旅の終わりを言い出せずにいた。
ラーハルトが遠くを眺めながら、あと食料は何日持つだろうかと考えていた時、空と海が交わる所に小さな影が見えた。
「ん? あれは……船か?」
目を細めその影を見つめていると、ヒュンケルも起き上がりそれに倣う。
「オレにはまだ見えない」
「まぁそうだろう」
「しかし船ならこの辺に陸地がないか聞くことが出来るな」
この広い海の中で他の船に出会えると思っていなかったヒュンケルの瞳はキラキラと輝いている。
その様子を眩しそうに眺めていたラーハルトが再び影に目を戻すと、陰影はさらにハッキリとしていた。
「あれは……漁船か」
「そこまで見えるのか、オレはやっと影が見えてきたのに」
ヒュンケルにも視認できる距離まで来たということは当然相手方も観測できるということだ。
二人は立ち上がり船に向けて大きく手を振った。漁船ともなれば見張りの一人でもいるだろうと、先手を打って敵意がないことを示す。
さらに近づきヒュンケルが人影を捉えると、そちらも同じように手を振り返していた。
歓迎のムードを感じ取り、二人はその船に接舷させるため舵を取った。
「おーい、あんたら旅の人かい?」
声が届くまで近づけば、見張りと思われる屈強な男の声が聞こえた。
「ああ、この辺りに陸地はあるだろうか」
「少し距離はあるが、北の方に俺達の村があるぞ」
そう言い終え、二人の姿を確認した男はラーハルトを見て少し驚いていたが、ちょっと待ってろと声をかけどこかへと向かっていった。
程なくして男が戻ると、もう一人屈強な男が増えていた。
「おう! アンタらが旅の人か、ちょうど漁も終えて戻るところだから連れてってやるよ!」
顔中に髭を蓄えた男は闊達に笑うと、二人が乗り移れるよう指示を出した。
「すまない、世話になる」
乗り込んだ二人が軽く頭を下げると、男達は軽やかに笑いながら歓迎する。
「いいってことよ、海で困った時はお互い様だろ」
「ここであったのも何かの縁だしな」
「しかし兄ちゃん変わった見た目してんなぁ、外の島にゃアンタみたいな人もいるんだねぇ」
「今回も大漁だったからな! ついでに美味い飯たらふく食わしてやるよ!」
「うちのコックの料理は美味いぞぉ!」
矢継ぎ早に飛ぶ言葉に対応しきれず二人が慌てていると、髭の男が殊更大きく笑った。
「お前ら、客人が困ってるだろう、とっとと持ち場に戻れ! 島に帰るぞ!」
その掛け声に蜘蛛の子を散らしたように戻る面々を見るに、この男が船長なのだろうと二人は思った。
「いやぁスマンな、アイツら外の人間を見ることなんてないから浮かれちまって」
言葉の節々に少し不思議な違和感を覚えるが、ラーハルトの見た目を恐れず接してくれるだけでありがたいもので、二人は恐縮しっぱなしである。
「ただ、客人と言っても船の上だ、ある程度は手伝ってもらうから覚悟しろよ」
男は悪者の様な笑顔を見せるが、和やかな船の雰囲気の前ではイタズラっ子の笑みにしか見えない。
二人もすっかり肩の力を抜き、快諾の笑みを見せた。
予想に違わず、ほぼもてなしを受けるだけの船上は、二人旅の時とはまた違う快適な時間を過ごさせてもらった。
そうして一日ほど経った所で、船は港へとたどり着いた。
そこは小さな漁村だった。
帰ってきた男達を温かく出迎える村人達は皆嬉しそうで、よそ者の二人も見ていて穏やかな気持ちになる。
一段落すると、髭の男に連れられ一件の民家へと足を踏み入れた。
「おうい、帰ったぞ。 なんと今日は客人連れだ!」
男が家の中に呼びかけると、キッチンでなにやら作業をしていた女性は驚いて振り返った。
「おかえりなさいあんた、お客さんなんて珍しいこともあるもんだね」
ふくよかな女性はラーハルトを見つめさらに驚いたが、すぐに笑顔を見せた。
「こんな男前が二人も来るなんて照れちゃうねぇ。 こりゃ張り切って料理を作らないとね!」
男から漁で得た魚を受け取ると、浮かれた様子で女は再び料理に戻った。
「カミさんの料理は絶品だぞ、さぁ座った座った」
船の中からこの男のペースに飲まれっぱなしの二人は言われるがままにテーブルに着く。
「さぁ、どんどん食べておくれ」
女が出来た料理からテーブルに並べると、あっという間に埋め尽くされる。
「しかし、急に来てこんなにご馳走になって良いのだろうか」
ヒュンケルがどことなく心配の表情を見せるが、男は相も変わらず楽しそうに笑う。
「気にしなさんな、いつ帰ってくるか分からない息子達の為に食材は豊富に用意してあるのさ」
いつの間に酒に手をつけたのか、男はジョッキを片手に上機嫌だ。
そういうことなら、と若干遠慮がちに二人は料理に手をつけるが、その味に一瞬で虜になり次々と料理に腕を伸ばした。
「ははは、いい食べっぷりだ、やっぱり男の子だねぇ」
女は空いた皿を片付け、入れ違いに新しい料理を置いて忙しなく動き回る。
「すみません、もてなしてもらってばかりで」
「いいんだよ、こうやって美味しく食べてくれるのが一番嬉しいんだから」
「えぇ、とても美味しいです」
「そりゃなによりだよ」
いっぱいお食べ、と柔らかく微笑む彼女を見た二人は、思わず食事の手を止めてしまった。
「ん? どうかしたかい?」
そのままの表情で首を傾げる女に、ラーハルトは無言で軽く首を振り食事に戻る。
代わりに口を開いたのはヒュンケルだ。
「いえ……母親というのはこういうものなのかと思って」
ヒュンケルの言葉に夫婦は不思議そうに首を傾げる。
「オレは母を知らずに育って来たので、こういう食卓は初めてで」
戸惑ったように呟くヒュンケルを、女はどこか潤んだ瞳で見つめた。
「そうだったのかい、ここにいる間は自分の家だと思ってゆっくり過ごしていいからね」
優しく肩に触れる手の温もりを感じながら、ヒュンケルは穏やかに笑みを返した。
その間黙々と料理を食べ進むラーハルトを見つめていた男も、その眉間に寄るシワを見て何かを察したのか酒を煽りながら瞳だけで笑みを見せた。
ラーハルトはどこか気まずそうに目を逸らしながらも、料理を食べる手は止まらなかった。
お袋の味というものをすっかり堪能し、今日は泊まっていけと用意してもらった二階の息子の部屋で、後は眠るだけという時刻。
二人は窓辺に佇ま、どちらともなく寄りかかり合い、寄せては返す波の音だけが響き渡る砂浜を眺めていた。
「不覚にも泣きそうになったぞ」
不意にラーハルトが呟く。
不貞腐れた子供のような物言いに、ヒュンケルは声なく笑う。
「母親を思い出したか」
「見た目はまるで違うが、母という存在はそう変わらないものなのだな」
グリグリと甘えるように頭を擦り付けられ、宥めるようにその頭を撫でる。
己の前ではずいぶんと素直に感情を露わにするその姿に、愛しさが増すのをヒュンケルは感じた。
「良い人達だ。 この村も穏やかでとても良い」
「魔物もおらず、水も森も生き物も尽きることなく長い時間を平穏に暮らしてきたと言っていたな」
「あぁ、奇跡のような島だ」
「奇跡、か……」
再び無言が訪れる。海上とは違う波音は二人の耳に馴染まない。
「ヒュンケル」
囁くような声と共にラーハルトが動く。
合わせるように目を閉じたヒュンケルの唇に温かいものが触れる。
触れるだけの口付けは数秒にも見たなかったが、お互いの思いを伝えるには充分だった。
「寝るか」
「あぁ」
開け放っていた窓を閉めれば、波の音は遠ざかる。
寝床に潜り込んだ二人はおやすみ、と小さく言い合い眠りについた。
階下からの物音に誘われるようにラーハルトは目を覚ました。
規則正しく物をきざむような音は料理の音だろうか、と起き抜けの頭で考えていると、ラーハルトが起き上がったはずみでヒュンケルもうっすらと目を開けた。
「おはよう」
いつものようにラーハルトが声をかけるも、珍しくヒュンケルの反応が鈍い。
緩慢に瞬きを繰り返すヒュンケルはまだ眠りの世界から戻りきっていないのか、掠れるような声で挨拶を返す。
「大丈夫か?」
体調が悪そうな様子には見えないが、今にも寝てしまいそうな姿に少し心配になる。
「……もう一度寝てしまいそうだ」
うにゃうにゃと喋るヒュンケルの目は半分落ちており、余程惰眠を貪りたいと見えた。
「まだ寝てもいいんだぞ?」
「いや、起きる」
のそりと起き上がりながら目を擦る姿はどこか幼く見え、ラーハルトは愛おしげに手櫛で髪を整える。
くすぐったそうに笑うヒュンケルは目が覚めてきたのか、しっかりとした眼差しでラーハルトを見つめた。
「おはよう」
改めてヒュンケルが返せば、ラーハルトも同じ言葉を返しながら笑った。
じゃれあいもそこそこに、着替えを終え階下に降りれば、朝食の準備をする母親という構図が飛び込み、二人はまたも胸を詰まらせた。
「おや、おはよう。 起こしてしまったかい?」
二人は挨拶を返しながら首を振る。
「そうかい、早起きだねぇ。 朝ご飯までもう少しかかるから先に顔を洗ってきなさいな」
促されるままに外の井戸で身支度を整え、家の中に戻ると、先程は見かけなかった父親がテーブルにかけていた。
「おう、おはようさん! ゆっくり眠れたか?」
朝から元気の溢れる声に苦笑しながら挨拶を返し、昨日と同じ位置に座る。
ちょうど良いタイミングで朝食が並べられ、二人はありがたく頂戴した。
「それで、今日はどうするんだい?」
朝食も食べ終わろうかと言う時、女に尋ねられ、ヒュンケルとラーハルトはどちらからともなく顔を合わせる。
「一度家に帰ろうかと」
「せっかく良くしていただいたのに急に申し訳ない」
二人は申し訳なさそうに頭を下げるが、夫婦は気にした様子もなく朗らかに笑った。
「やっぱり我が家が一番だものねぇ」
「なに、オレは漁でいないことも多いがまたいつでも来てくれ、歓迎するぞ」
どこまでも温かい夫婦に見送られ、二人はキメラの翼を放り投げ我が家へ向かった。
見慣れた大地に降り立てば、目の前には慣れ親しんだ二人の家が変わらずそこにあった。
人気のないこの場所は、葉ずれの音と鳥や獣の鳴き声が鳴り響く。
二人は無意識にため息を吐いたが、お互いにその音を聞きつけ苦笑する。
ラーハルトが先行してドアの鍵を開け中に入った。
ヒュンケルも後に続いて入ろうとしたが、ラーハルトが立ち止まることで阻まれる。
ラーハルトは振り返り手を広げると、柔らかく微笑みながら言った。
「おかえり、ヒュンケル」
と。
ヒュンケルは堪らずその腕の中に飛び込み、掠れる声で、ただいま、と囁いた。
しばらくラーハルトの肩に顔を埋めていたヒュンケルだが、ゆっくりと顔を上げ目を合わせる。
「ラーハルト、おかえり」
「ああ、ただいま」
二人は愛しさのままに唇を合わせ、やがてそれは深いものへと変わっていった。