深謀遠慮 店の扉が静かに閉まり、最後の客の気配が遠のいていった。午後の陽ざしが斜めに差し込むブックカフェには、ようやく深い静寂が戻ってくる。
ベレトは、カウンター奥で片づけをしながら小さく息をついた。いつものように、最後まで客の話を聞いていたせいで、座る暇もないまま気づけば営業時間を越えてしまったらしい。
そんなベレトとは対照的に、リンハルトは店の奥のキッチンスペースで、遅めの昼食の準備に取りかかっていた。といっても、冷蔵庫にあった作り置きのサンドイッチを二人分、白い皿に移し替えるだけの、ごく簡単なものだった。それでも食材が乾かないよう、ひとつずつ蝋引き紙で包まれていたため、それを綺麗に剥がして、具が崩れないように慎重に移し替えるのは見た目以上に気を使う作業だった。崩れやすいレタスや、はみ出しかけたチーズには、そっと指先を添えて形を整え、崩れないように静かに支えながら皿へと移していく。
なんとかサンドイッチを皿に並べ終えると、リンハルトは棚の隅にあった小さな焼き菓子の袋を手に取り、何気なく中身をひとつ摘んで口に運んだ。
「ん……悪くない」
口の中でほろほろと崩れていくそれに、満足げな声を漏らすと、リンハルトは「もうひとつだけ」と誰に言い訳するでもなく小さく呟きながら、指を伸ばした。
つまんだ焼き菓子をそのまま口にくわえたまま、片手でポットの準備をする。自分でも少しばかり行儀が悪いとは思ったが、いまさら気にしても仕方がない。
それでも、こんな姿をベレトに見られたら──きっと何かを言われるだろうな、という考えがふと頭をよぎる。からかうようなことは言わないだろうが、それでも少し困ったような声で「もう少し落ち着いて淹れたらどうだ」くらいは言いそうで、思わず想像してしまう自分がいた。
そんな予感もあったが、当の本人は、相変わらずカウンターの奥で黙々と片付けを続けていて、こちらの様子には一向に気づいていないようだった。
今日は、ことのほか忙しかった。
この店を開いたばかりの頃は、客の姿もまばらで、午後にはふたりでたっぷりと午睡の時間をとることもできたし、これは最高の仕事かもしれないと、リンハルトは本気で思っていた。けれど、次第に口コミで噂が広まり、気づけばお昼どきになると、どっと人が押し寄せるようになっていた。簡単な雑用や注文の受け取りなどは、リンハルトも手伝うものの、食事の準備や対応については、ほとんどベレトがひとりで切り盛りしているのが現状だった。
ふたりで営むブックカフェは、“気の向くまま、のんびりと”をコンセプトにしていたはずなのに、人がたくさん訪れるとなれば、話はまったく別である。
のんびりどころの話ではなく、気がつけば息をつく暇もないまま、あっという間に時間が過ぎていく。
それでも、誰一人として追い立てることなく、疲れた顔ひとつ見せずに客をもてなすベレトの背中を見ていると、強制的にやめさせるわけにもいかないし、それ以上に、なぜだか自分のほうが休んでしまって申し訳ない気持ちになった。
(今日は、ちょっと甘めのブレンドにしておこう)
心のなかで小さくそうつぶやきながら、リンハルトは棚から茶葉の筒を取り出し、いつもどおりこ見よう見まねで、手早く紅茶の用意を始めた。蒸らしの時間を多少は気にしつつ湯を注ぐと、ふわりと立ちのぼる香りがキッチンの空気を染めていく。味はともかく、その香りに満足げにひとつ息を吐きながら、カップをふたつ、いつものように並べる。そして、さっきつまんだ焼き菓子も、何気ない顔でちょこんと添えておいた。
そうこうしているうちに、ベレトはすでに片づけを終えていたようで、奥の一席に腰を下ろし、静かに本のページをめくっていた。午後の喧騒がすっかり引いた店内には、紙と木の匂いが穏やかに満ちていて、誰に急かされることもなく、ただ時間だけがゆったりと流れているようだった。
「君の持ってくる茶は、いつも香りがいいな」
リンハルトが声をかけるよりも前に、気配を察したベレトが静かに口をひらいた。
「……まぁ、愛情こめているからかな」
その言葉は、冗談のように聞こえたが、決して嘘ではなかった。むしろ、限りなく本音に近いものだった。二人だけの時間を過ごすとき、リンハルトはいつも、ことわりなく一番高級な茶葉を選ぶことにしている。中でも、かつての主君の名を冠した特別なブレンドは、熟成された香り高さで知られており、それは一度口にすれば忘れられないほどの風味をもっていた。
当然のことながら、茶に精通しているベレトがそれに気づかないはずがない。けれど、彼は何ひとつ触れず、あえてそういった言葉を口にすることもなく、ただ静かに、共に過ごすこの午後を受け入れてくれる。たぶん、彼もまた、この時間を案外気に入っているのだろう。そう思えることが、リンハルトには何より嬉しかった。
この店では、客が読み終えた本を自ら棚に戻すことはさせていない。代わりに、閉店後にふたりで一冊ずつ丁寧に元の場所へ戻すようにしている。乱雑に扱われるのを防ぐためでもあり、また、ごく稀にではあるが本の紛失が起こるのを未然に防ぐためでもある。
そうした習慣のなかで、ベレトが今手にしているのは、客のひとりが読み残していったと思しき『戦局兵書』という古い書物で、内容の堅さに比例するように装丁も古風で地味なものだったが、ベレトはその表紙を開いたまま、熱心に眼を落としていた。
その様子を少し離れたところから見ていたリンハルトは、ふっと口元に笑みを浮かべる。戦術や兵法、そういった分野への興味は、士官学校の頃から彼の変わらぬ一面だった。懐かしさにも似た想いが胸に灯り、軽口のように言葉を投げかけさせた。
「その面白くなさそうな本……面白いですか?」
その問いに、ベレトは一瞬だけページを繰る手を止めたが、顔を上げることはせず、静かに応える。
「……それなりには」
相変わらず言葉少なく控えめな調子だったが、ページから視線を外そうとしないところを見るに、なるほど、それなりどころか、かなり夢中になっているのだろう。真面目というより、真剣すぎるその横顔に、リンハルトは笑みを深くした。
静かな時が、ゆるやかに流れていた。今となっては、ふたりのあいだに遠慮というものはすっかり消え去っていたので、リンハルトは何ひとつことわる素振りもなく、当然のようにベレトの隣の席に腰を下ろすと、そのまま軽く寄りかかるように身を預け、持ってきたばかりのサンドイッチをひと口かじった。
ベレトは紅茶をひと口含んだものの、パンにはまだ手を伸ばさなかった。おそらく、きりのいいところまで読み終えてから昼食にするつもりなのだろう。本に深く集中しているその姿には、昔から変わらない、穏やかで落ち着いた気配があった。
なにかひとつに心を傾けると、ほかのものにはまるで目もくれない。そんなところは、ベレトもリンハルトもよく似ていて、だからこそ、いまこの時間を邪魔しようとは思わなかった。
リンハルトは言葉を挟むこともせず、ただ静かに身を傾け、ゆったりとした姿勢のまま、そっとベレトの肩に頭を預け、すこしだけ甘える仕草で、頭をすり寄せた。こうすることで、ベレトの体温が静かに伝わり、ただ寄り添っているだけにも関わらず、とても心地よくて心が満たされていく。
すると、ベレトは一瞬だけ本から目を離し、こちらに視線を向けたかと思うと、空いていた片手を静かに上げ、リンハルトの髪を撫でた。
掌の温もりが、ゆっくりと滑らかな髪をなぞっていくたびに、心の奥がほどけていくようで、リンハルトは思わず目を細めた。
──ああ、もうすっかり猫になった気分だ。
気ままに動いて、甘えたくなったときだけそばに寄り、それでも嫌な顔ひとつされることなく、当たり前のように受け入れてもらえる。そんな距離感が、他の何よりも心地よく、そしてたまらなく愛おしい。
もし本当に猫だったなら、今ごろは喉を鳴らして甘えていたかもしれない。けれど、いまはただ、静かにそのぬくもりを感じることしかできなくて、リンハルトはそっと目を閉じた。
「……その本、面白いです?どういう内容ですか?」
しばらく続いた沈黙をやぶるように、リンハルトがぽつりと口を開いた。音もなくページを繰っていたベレトは、本から視線を上げることなく、小さくうなずいて応える。
「面白いというより…興味深いかな。古代の戦術論を体系的にまとめたものでね。特に補給線と地形戦の重要性について、かなり実践的な考察がされている。同時代の記録と比べても、戦局の変化をどう読むか、その“思考の順序”に重きを置いていて…前から一度、ちゃんと読んでみたかった本なんだ」
言葉の端々に、静かではあるが確かな熱が感じられる。正直なところ、リンハルトにはまったく興味の持てない内容ではあったが、それでも、好きなものについて語るベレトの様子は、それはそれで新鮮に映った。とくに声を上げて話すでもなく、ただ淡々と、けれど確かな情熱をにじませながら語るその姿は、どこか心地よくて、あたたかさを含んでいた。
真剣な横顔をちらりと見やりながら、リンハルトは小さく目を瞬かせた。そんな視線に気づいたのか、それとも最初から気づいていたのか、ベレトはふいに口元に笑みを浮かべ、ほんの少しだけ間を置いてから、軽く肩の力を抜くような調子で言葉を続けた。
「…君が寝るにはちょうどいい本かもしれないね」
「……事実ではあるけど、それでも失礼ですね」
軽く抗議するような口調だったが、その声にとげはない。ベレトは紅茶のカップを置きながら、ほんの少しだけ目を細めた。
「だって、君は興味のない本には一切手を伸ばさないだろう?こういう戦略的で、理論的な書物なんて、どうせ最初の数行で飽きてしまうと思っていたんだけど」
それはあまりにも真っ直ぐな物言いで、まるでリンハルトが難しいことにまるで関心のない男だと決めつけているようにも聞こえた。たしかにそうだ。ただ、飽きるというよりも、単に──面白くない本に、貴重な時間を費やしたくないだけの話だ。
リンハルトは小さく息を吐くと、ベレトの手元からそっと本を取り上げ、長椅子の縁に置いた。
「とりあえず、昼食を食べてください。僕がせっかく用意したんだから」
言葉はぶっきらぼう、拗ねるようであっても、その仕草にはどこか甘えるような響きがあって、ベレトの目元には自然と笑みが浮かんでいた。ベレトがようやくサンドイッチに手を伸ばし、ひと口ふた口と静かに咀嚼しているあいだ、リンハルトは代わりに長椅子の端に置いた先ほどの本を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていた。指先で紙をなぞりながら、眉をひそめるようにして漏らす。
「……ほんと、びっくりするほど興味ない本だ」
「だからそういっただろう」
ベレトはくすりと笑い、紅茶をひと口含む。
その穏やかな声音には、それでもどこか嬉しそうな色さえ滲んでいた。
「リンハルトに戦略的な話は向いていない」
淡々としたその評価に、リンハルトはやや不満げに唇を尖らせると、すぐに反論のような言葉を口にした。
「僕だって、戦略的思考をもって行動したこと、ありますよ?」
ベレトが、その言葉にふと横目をやると、珍しくリンハルトが真っ直ぐこちらを見ていた。その眼差しはいつになく真剣な色を帯びている。
「……それは興味深いな」
ベレトの目がわずかに変わり、そこに好奇の色が差すのを見て、リンハルトは口元に小さな笑みを浮かべた。そして、ほんの少しだけ声の調子を落とし、ゆっくりとした口調で静かに尋ねる。
「昔の話をしてもいいですか?」
その静かな問いに、ベレトは少しだけ眉を上げうなずいたあと、姿勢を正した。リンハルトが自ら過去の話題を持ち出すことなど、そう多くあることではない。それだけに、ベレトの中には確かな興味と、ほんの少しの期待が芽生えていた。
「士官学校のころ。僕、貴方に何度も意味のない質問をしていたでしょう?紋章のことや、教団の制度の矛盾とか、どうでもいい皮肉とか」
その言葉に、ベレトはほんの少し目を細め、懐かしむように微笑んだ。
「……覚えてるよ。しょっちゅう居眠りしていたのに、なぜか的を射たことばかり言っていた」
ベレトの返答に、リンハルトは目を伏せるように笑ったあと、どこか柔らかい調子で言葉を続けた。
「…あれ、全部、布石だったんです」
ベレトは思わず何度かまばたきをしてから、首をかしげるようにして問い返した。
「……何の?」
「貴方の記憶に残るための、ですよ」
さらりとした口調だったが、その声音には、冗談とも本気ともつかない──けれど決して嘘ではない、確かな熱が宿っていた。
「僕の存在が、心のどこかに引っかかるように。忘れられないように。…あの頃から、ずっと、それだけを考えていたんです」
まっすぐに告げられたその言葉に、ベレトは思わず視線を落とし、息をひとつ静かに吐いた。
「つまりは……?」
問い返す声は、どこかかすかに掠れていた。
「気づいたら、そんな布石を置かなくても、貴方はちゃんと僕の方を見てくれるようになっていた。つまり、貴方は戦略的思考をもって行動できないとおもっている男の戦略に、まんまと嵌って、今、ここに居るんです」
うっとりとした眼差しでベレトを見つめながら、リンハルトはほんのわずかに身体を前へと傾けた。その仕草は気まぐれな猫のように見えて、けれど一切迷いはなく、確信めいた色がその瞳の奥には宿らせていた。ベレトは言葉を失い、ただ黙ってその視線を見返した。
そんなベレトのわずかに染まった耳の赤みに気づいたリンハルトは、ふと唇の端を上げ、満足そうに笑った。
「僕だけのものになってくれて…ありがとうございます」
その言葉は、囁くようにやさしく、けれど間違いなく胸の奥に落ちる重みを持っていて、ベレトが応えるよりも早く、リンハルトはそっと身を寄せ、迷いのない動きでその唇を重ねた。
触れるだけの軽いものではなかった。いつになく積極的で、想いの深さをそのままぶつけるような、熱を帯びた口づけだった。
ベレトは、息を吸う暇もないほど唐突に迫ったその動きに、わずかに目を見開いたものの、逃れることも、抗うこともせず、ただされるがままに唇を受け入れた。
リンハルトの指がそっと頬に添えられ、唇が、あたたかな熱を帯びて何度も重ねられる。
思考が追いつくよりも早く、感覚のほうが先にとろけていくのを、ベレトはただ感じていた。
不意打ちだったはずの口づけは、気づけばごく自然に、息と心を溶かし合うような、甘く静かな熱をふたりのあいだに生んでいた。
こんなふうに、積極的に求められることに慣れていないはずなのに嫌ではなかった。むしろ、胸の奥がやさしく満たされていくようで、ベレトは自然と目を閉じた。
唇が離れたあとも、ベレトはしばらく何も言わず、リンハルトを見つめていた。
その瞳の奥には少しの戸惑いと、けれど、それを上回るようなやさしい光が宿っていて、やがて、困ったような笑みを浮かべたまま、低く言葉を落とした。
「……さっきの言葉は訂正するよ。君はたいした戦略家だ」
その一言に、リンハルトは得意げに眉を上げ、少し肩をすくめながら応える。
「まぁ、こんな面倒なことするのは貴方に対してだけですけどね。でも、ちゃんと成果が出たので…僕はとても満足してます」
そう言って、指先でそっとベレトの艶やかに濡れた唇をなぞるように拭い、一度だけ名残惜しそうに見つめながら、口元にやわらかな笑みを浮かべた。
「とはいえ、戦略だけじゃなくて…貴方自身が、僕のことを大切に思ってくれたから、今ここにいられるんだって、信じていますけどね」
「それはもちろんそうだ」
そうつぶやいたあと、ベレトはふっと小さく息を吐き、口元に深みのある笑みを宿してながら、さらに言葉を返す。
「それじゃあ……これからは自分の番だね。君の記憶に残るように、毎日、布石を打たせてもらおうか」
その声には、どこかくすぐったいような響きがあって、リンハルトは思わず目を細めた。
「それは楽しみですね。戦略家ならではの、綿密で精巧な布石を…しっかり受け取らせていただきます」
冗談めかした言葉の裏には、隠しきれないほどの愛しさがそっとにじんでいた。うっとりとした表情をそのままに、リンハルトはそっと両腕を伸ばし、ベレトをやさしく抱きしめた。