癖 □
人混みのなかで、ふいに視界がにじんだ。
疲労というよりは、おそらくこの暑さのせいだろう。
じっとりとまとわりつく空気に呼吸さえ重たくなり、額に滲む汗を拭うことさえ億劫に思える。
暑さに関しては、いつまでたっても好きにはなれなかった。ファーガスで過ごした日々から、もうずいぶんと時が経つ。あの厳しい冬を越えてきたファーガスの記憶が、肌の奥に残っているのだろうか。今は穏やかで温暖な土地に身を置き、季節の移ろいもやわらかく感じるようになったというのに、こと暑さだけは、昔と変わらず身体に馴染まない。むしろ、記憶にある冷たい風や雪の匂いが、恋しくなることさえある。けれど、そんな苦手な暑さのなかでも、こうして隣に彼がいてくれるだけで、心は静かに落ち着いていくから不思議だ。
まとわりつく熱気も、人混みのざわめきも、ベレトの静かな佇まいにふれるだけで、ほんの少し和らいでいく気がする。
ベレトは、ディミトリの調子に合わせるように、わずかに前方をいつもよりゆっくりと歩いていた。何も言わず、背を向けたままではあるが、その歩調のわずかな揺らぎに、彼がこちらの気配を気にかけていることが伝わってくる。
ベレトの気遣いは、いつだってそうだ。大げさな言葉や態度ではなく、ごく自然に、ふとした瞬間にそれは差し出される。そして、そうした好意は、まるで当たり前のこととして、いつも、自分にだけ向けられている。その事実が、自分のなかでどれほどの充足感になっているかを、ベレトはきっと知らないだろう。
気がつけば、彼を目で追ってしまう。その背中を、横顔を、何気ない仕草のひとつひとつを誰よりも深く、細やかに見つめている。
(まるで子供のようだ)
そう内心で自嘲気味に思いながらも、自分の想いはそんな可愛いものではないとわかっていた。それ以上に、彼のさりげない気配りや、自然とこちらに向けてくれる優しさを、誰のものでもなく、自分だけが受け取っているということに、気づかれないほどひそかな優越感さえ覚えていた。
いつだってそうだ。ベレトは、特別な言葉を使わずに、ディミトリを助けようとする。
それは、いつでも、どこでも、何年経っても変わらない。その在り方はまるで、彼のなかに静かに根づいた習慣のようで気負うことなく、あたりまえのように寄り添ってくれる。
けれど、その習慣的な優しさとは別に、彼自身すら気づいていないであろう癖が、ひとつだけある。
何かをしたあと、あるいは、気持ちが揺れたとき。ベレトは、ほんのわずかにまばたきを繰り返す。二度、三度。それから、小さく首を傾けるのだ。
言葉で語ることを避けるようにして、それでも何かを伝えたがっているかのような、控えめで照れたような仕草。
きっと、本人はそんな癖があることすら知らないのだろう。
その仕草が現れるのは、決まって――ベレトが、ディミトリのために何かしてくれたときだけ。だからこそ、見逃すはずがない。見逃せるはずがなかった。
けれど、そのことをあえて言葉にはせず、ただ、気づかないふりをして、いつも静かに目で追ってきた。
そして今日もまたその「癖」を見せる。
雑踏のなかで、ディミトリの手が宙に浮いたとき。ベレトは、ためらうことなく手を取ってくれた。
その横顔が、わずかに揺れる。
まばたきを、二度。三度。
そして、――首が、そっと傾ぐ。
ほんの一瞬、わずかに恥じらうような表情がこぼれた。けれどすぐに、何事もなかったかのように、いつもの静かな顔へと戻る。その一瞬の揺らぎが、たまらなく愛おしく思えた。感情のひだがそっと覗くその横顔が、ふだんの穏やかな輪郭に溶け込んで、胸の奥をやさしくくすぐる。
気づけば、ベレトの横顔を、ただ黙って見つめていた。
じりじりと照りつける陽射しが、アスファルトの上から容赦なく熱を跳ね返す。街の喧騒が耳を撫でるなかで、彼の存在だけが不思議と輪郭を持って浮かび上がる。
吹き抜ける風はほとんどなく、肌にまとわりつくような湿気がまとわりついていた。それでも、ディミトリは一歩も動かず、視線を逸らさなかった。
陽に透けるような淡い髪、伏せられた睫毛、静けさを宿した頬の輪郭。それはいま、眼前にある。
「どうした? やはり暑さは堪えるか?」
ベレトの声に、はっと我に返る。遠くへ意識が飛んでいたことに気づき、ディミトリは視線を落とした。
「……大丈夫だ。すまない」
ぽつりと呟いたその声は、周囲のざわめきに紛れてかき消されたかもしれない。けれど、ベレトはそれ以上何も言わなかった。ただ、黙って、ディミトリの指を少しだけ強く握り返してくる。言葉のない優しさが、掌のぬくもりを通してまっすぐに伝わってくる。
じりじりとした陽射しの中で、ふたりの影がひとつに寄り添う。ふたりは、それ以上なにも言わなかった。
「少し休もうか」
そう言ったベレトの声は、どこか気遣うようなやわらかさを帯びていて、ディミトリは自然と頷いていた。
照り返す陽射しはまだ強く、道端の影も心許なかったが、それでも彼の隣を歩いているだけで、暑さも、疲れも、不思議と少しだけ和らいでいく気がした。
□
逃げ場のない熱気に追われるように、道すがらにあったカフェへと足を向けた。モダンな外観のその店には入ったことがなかったが、今はただ、空調が効いているという一点だけが決め手だった。
店内はそこそこ賑わっていたが、幸いにもすぐ席へと案内された。ソファに腰を下ろした瞬間、思わず小さくため息が漏れる。涼やかな空気が火照った身体に心地よく、ゆったりとした店内の雰囲気にも背中が預けられていく。けれど、外の熱気はまだ完全には抜けきらず、湿気を帯びた熱が肌にまとわりついている。そのせいか、何かを考えることさえ、少し億劫に感じてしまった。
「今日は、付き合わせて悪かったね」
向かいに座ったベレトが、冷えたおしぼりをそっと差し出した。申し訳なさそうに眉を寄せるその仕草が、なんとも彼らしく、どこかくすぐったい。
「いや、気にするな。ついて行きたいって言ったのは、俺のほうだ。余計な心配かけて、すまない」
そう返しながら、出された水を一気に飲み干す。きんと冷えた水が喉を滑り落ちていく感覚に、ようやく身体がひと息ついた気がした。
ベレトは店員を呼び、アイスコーヒーと自分のキャラメルマキアートを注文した。こちらの好みなど、いまさら確認するまでもないといった様子で、慣れた様子でてきぱきと伝えていく。
その何気ない仕草を眺めながら、自然と目を細めていた。こういうときの彼の振る舞いには、言葉以上のやさしさが宿っていて、気づけば心がほぐれていく。
しばらくじっと見つめていると、ふいにベレトがこちらに目を向けた。
視線が交わる。穏やかな光を宿した瞳が、まっすぐに自分を捉える。
「……どうした?」
その問いに、ほんのわずか戸惑いながらも、ディミトリは首を横に振った。
「いや、なんでもない。ただ…見ていただけだ」
――見惚れていた、なんて。そんなまっすぐな言葉を投げかけるには、まだほんの少しだけ、勇気が足りなかった。
やがて運ばれてきた飲み物は、グラスの内側で氷が涼しげな音を立てて揺れていた。
ひんやりとした見た目と、静かに溶けゆく音が、暑さに火照った身体を冷ましていくようだった。
ベレトはマキアートに口をつけ、ほんの少しだけ目を細めた。
甘いものが好きなのは知っている。
たくさんの選択肢があるにもかかわらず、彼がいつも選ぶのは決まってこれだ。
自分もそうだが、ベレトの好みもずいぶんわかりやすい。…そう思うと、どこか微笑ましい。
「涼しいな」
「うん」
ベレトは短く応じ、ふとこちらに視線を向ける。
そのまなざしに宿る静けさが、不思議なほど心地よい。
そして、あの癖が出る。
まばたきを、二度、三度。
小さく、首が傾いた。
照れたとき、あるいは言葉を呑み込んだときにだけ見せる仕草。
今、いったい何に照れているのだろうか。
そのことが、不思議なくらい気になって、目が離せなかった。
店内には穏やかなピアノの音が流れ、涼しい空気が身体をゆるやかに包んでいた。ベレトはグラスを手にしたまま、静かにその中身を見つめている。
外の喧騒が嘘のように静まり返った空間のなかで、ディミトリはただベレトの姿を見つめていた。その落ち着いた表情を目の前にすると、自然と胸の奥が静かに満たされていく。
――今、お前はなにを考えている。
直接聞けばいいだけのことだ。そう思いながらも、言葉はなかなか出てこなかった。しばらくジッと眺めていたものの、やがて、耐えきれなくなって、そっと声をかけた。
「……先生」
その声に、ベレトは小さく目を見開いた。意外そうな顔を見せたあと、静かにまばたきをひとつ、落とす。
「どうした?飲み物のおかわりが必要か?」
なんとなく話題を変えようとする素振りがうかがえた。
少しだけ焦ったように、ベレトの声がわずかに早口になる。
そんな彼の様子を、ディミトリはじっと見つめていた。何をそんなに焦っているのだろう――そう思いながらも、目を逸らさずに、ゆっくりと口を開く。
「……愛してる」
家でもなければ、ふたりきりの静かな場所でもない。
こうした場で想いを伝えることは、本来ディミトリの得意ではないことだった。
それでも今、湧き上がるこの感情を、どうしても伝えたかった。
だからこそ、ほんの少しだけ勇気を出して、静かに、けれど確かに言葉を紡ぐ。
ベレトは、ぽかんとした顔でこちらを見つめたあと、そっと目を伏せた。
そして、溶けかけた氷が浮かぶマキアートに静かに口をつける。
その仕草には、どこか冷静さを保とうとする気配が見えた。けれど――耳朶がほんのりと赤く染まり、左手で、すでに暑さが和らいだはずの頬を仰ぐように扇いでいる。
平静を装ってはいても、明らかに動揺している。
その様子が、たまらなく愛しい。
そして同時に、より揶揄いたくなる衝動に駆られた。
冷静を装おうとしながら、耳まで赤くしている姿。
飲みかけのマキアートに逃げるように口をつけて、それでもなお落ち着かない指先。
そんなベレトのすべてが、微笑ましくて、可愛くて、つい意地悪な気持ちが顔を覗かせる。
「……顔、赤いぞ?」
わざと無邪気を装った声でそう囁けば、ベレトはカップを持ったまま、ピクリと肩を揺らした。
「……暑いだけだ」
「そっか。俺の言葉が原因じゃないなら、安心だ」
「……」
ベレトは返事をしなかった。ただ、顔を伏せたまま、一度だけまばたきをして、そっと視線を横に向ける。
わかりやすく動揺しているその仕草に、ディミトリは小さく笑った。
きっと、彼はこの先もずっとこうして、愛しさを隠すのが下手なままだろう。その仕草は、照れをやり過ごすようにもおもえてディミトリの胸の奥に、あたたかな疼きが広がる。
グラスの中の氷が、カラン、と静かな音を立てた。
「で、先生はどうなんだ?」
わかりきったことではあったが、たまには直接言われたい。
ベレトはすぐに返答はしなかったけれど、それでも――この沈黙は、心地よかった。
やがて、ベレトが小さく息を吐いた。
それはため息というよりも、胸の奥に灯った温度が静かにこぼれたような、やわらかな吐息だった。
「君は、愛を語るとき、いつも『先生』って呼ぶよね」
不意にそう言った彼の声は、どこか照れたような、けれど穏やかな響きを帯びていた。
「そうか?」
そう返すと、ベレトは少しだけ視線を逸らしながら、微笑む。
「うん。だから……きっと何かいうんだろうなと思ってた」
「そうか。それは気づかなかったな」
「…たぶんね。それはもう、君の癖なんだと思う」
“癖”――その言葉に、ふと考え込む。
ベレトにも癖があるように、自分にもまた、無意識に積み重ねてきた何かがあるのかもしれない。
自分では気づけない、けれど彼だけが知っている癖。
それは、きっとふたりが共に過ごした年月の証で。
積み重ねた日々のなかで、自然と生まれ、刻まれてきたものなのだろう。
そして、それらすべてが形になり、愛しさに変わっていくのだと思った。
そんなことを考えていると、ベレトはテーブルの上に置かれたディミトリの手へ、そっと自分の手を重ねてきた。
指先がゆるやかに、愛おしむように絡んでいく。細くて長い指が、掌を包み込み、絡んだ指先がなぞるようにそっと這う。それは、ほどけることのない結び目のようで、わずかに引き寄せられるたび、触れた感触が、胸の奥に静かに沁み込んでいった。
ベレトと触れ合っている、それだけで、どうしようもなく愛しいという想いが込み上げる。
「…そして、自分も君を愛しているよ」
真っ直ぐにディミトリを見つめて囁くベレトの言葉に、気づけば、熱を帯びた気怠さはいつの間にか和らいでいた。けれど、涼しさが戻ったはずの身体の奥には、別の熱がじわりと灯っていた。
彼の手のぬくもり。絡めた指の、柔らかな動き。そして心のこもった言葉。
そのひとつひとつが、静かに、けれど確かに、胸の奥に火をともしていく。
ただ、抱きしめたいと思った。
声にもならない衝動が、胸の奥で密やかに脈を打ち続けている。
その想いが、指先に宿って、ベレトの手をそっと握る。
ベレトは小さく笑い、同じようにディミトリの手を握り返した。
「愛を囁くくらいには元気になってよかったよ」
どこか照れ隠しのような声音だった。
甘やかな雰囲気が気恥ずかしかったのか、ベレトはわざと軽口めいた調子でそう言った。
ディミトリは「おかげさまで」と短く応じ、肩の力を抜くように穏やかに頷いた。
□
冷たい飲み物を飲み終える頃には、火照っていた身体もすっかり落ち着いていた。
内側から静かに涼が広がっていくのを感じながら、ふたりは言葉少なに、穏やかな時間を過ごした。
やがて、頃合いを見計らうようにして席を立ち、ふたりはカフェをあとにする。
精算の際、若い女性スタッフが、少しはにかんだように微笑みながら、そっと「お幸せに」と呟いた。
一瞬、空気がぴたりと静止する。
共に遠慮がちに会話していたが、それでも二人の会話や仕草が、周囲に聞こえていたことは明らかだった。
込み上げてくる恥ずかしさに、ベレトもディミトリも返す言葉を見つけられないまま、どちらからともなく軽く会釈をし、足早に店をあとにした。
外へ出ると、夕方の陽射しが街を斜めに照らしていた。
陽はだいぶ傾いてきたというのに、まだ空気には湿った熱が残っている。けれど、頬に残る赤みと、指先に残るぬくもりのせいで、それすらも悪くないと思えてしまう。
駅までの帰り道、ふたりは細い路地へと足を向けた。
ひとつ道を逸れるだけで、つい先ほどまでの喧騒が嘘のように遠のき、静けさがゆっくりと満ちていく。
言葉は交わさなくとも、並んで歩く歩幅も、呼吸の間合いも、自然と揃っていた。
肩が触れそうなほどの距離。
そのわずかな隙間に滲む熱は、決して夏のせいだけではない。
ディミトリは時折、ベレトの横顔を盗み見る。
伏せられた睫毛の先。わずかに湿った唇の輪郭。
そのどれもが、目に映るたび、胸の奥に静かな熱を灯した。
触れたいと思った。
理由などなかった。ただ、ごく自然に。呼吸のように。
「……ディミトリ」
名を呼ばれ、ふいに足が止まる。
ベレトもまた、歩みを止めた。
そして、ゆっくりと、視線が交わった。
そのまなざしの奥に、言葉よりも確かな熱が宿っていた。
互いに、同じものを求めているとわかるだけで、息がわずかに深くなる。
確認すら、必要なかった。
まっすぐに手を伸ばし、ベレトの頬に触れる。
指先に伝わるぬくもりを確かめると、迷いなく唇を重ねた。
そっと触れるだけの口づけだったが、それでは足りなかった。求め合うように、息を吸うように、自然と深くなっていく。柔らかな唇の奥へ舌が滑り込み、ゆっくりと絡め合う。
静かな熱が滲む。甘く、くるおしい余韻が、ふたりを溶かしていく。
熱をゆっくりと分け合うように、口づけは次第に濃さを帯びていく。
ベレトの下唇をそっと啄み、わずかに口を開かせると、舌先をゆるやかに差し入れる。
彼は小さく息を呑み、すぐに応えるように、舌を絡めてきた。
柔らかく、濡れた熱が重なり合う。
ゆっくりと、ねっとりと、舌が舌を探り合い、絡み合っていく。
互いの熱が、深く、長く溶け合っていった。
「……んぅ、っ……」
くぐもった吐息が、唇の隙間から零れ落ちる。
ベレトの指が、ディミトリの服の裾をきゅっと掴む。
そのかすかな力に応えるように、さらに唇を押しつけた。
時間がほどけていくような口づけだった。
ふたりの境目が、ゆっくりと、静かに溶けていく。
言葉も、意識も、余計な感情も、すべてが流れ落ち、残ったのは、ただひとつ。目の前の彼の熱だけだった。
ここが外だという意識すら、もう遠く霞んでいた。
壁際へとそっと彼を押しやり、さらに深く唇を重ねる。腕の中で応えるように返される口づけは、舌に、喉元に、そして全身に熱を伝えてくる。彼がそこにいる、それだけで、すべてが満ちていく。
――誰かに見られてもかまわない。
普段なら決してそんなことは思わないはずなのに。
それほどまでに、いま、彼を、どうしようもなく求めていた。
ようやく唇を離すと、ベレトはわずかに肩で息をして、ゆっくりとまばたきをする。
そして、少しだけ首をかしげ、小さく、けれど、この上なく柔らかく微笑んだ。
「昔じゃ、外でこんなことなんて出来なかったのにな。……ずいぶん、気楽な立場になったものだな」
唾液で艶めいた唇を軽くなぞるように舌で拭いながら、ベレトは息を整えるようにして、ぽつりとつぶやいた。
その言葉に、ディミトリはただ、柔らかく微笑むだけで応える。
――あの頃は、互いに背負うものがあり、常に誰かの視線に晒されていた。
望んでも、決して叶わなかった“ささやかな自由”を、こうして何のためらいもなく手にできるようになった今、ようやくふたりは、ありのままで寄り添えるのだと思う。
もう一度、ベレトの頬に手を添え、そっと指先でぬくもりを確かめるように撫でた。そしてそのまま、ゆっくりと唇を寄せると、ベレトはわずかに瞬きをした後、拒むことなど一切せず、その唇を静かに迎えた。二人の唇が触れた途端、ベレトは自ら唇を押し返し、静かなまなざしの奥に、熱が灯った。
吐息を交えるように、ベレトはディミトリの首筋に手を添え引き寄せた。そして、唇の隙間から舌を滑り込ませ、どこか焦れたような熱を帯びて貪ってくる。
甘えるようでいて、ひどく切実な動きだった。焦れるように舌先が絡み、啜るように奥を探ってくる。
その熱に抗うことなどできず、ディミトリは目を伏せながら、腕の中の体をさらに強く抱き寄せた。
唇が離れてもなお、わずかに触れる距離で息を交わしながら、互いを見つめ合う。互いのまなざしの奥にある想いを、静かに受け止めながら、名残惜しくも、熱く抱きしめていた。
彼が、ただただ愛しかった。
その笑みに、何度でも目を奪われた。
ふとした柔らかさに、触れるたび、心がほどけ、熱を宿す。
たまらず、ディミトリはその頬に両手を添え、そっと顔を包み込む。
指先から伝わるぬくもりが、まるで心の奥まで染みわたるようで、愛おしさが胸の奥をいっぱいに満たしていく。
□
午後の名残を微かに残す路地裏の薄闇のなかで、しばらく見つめ合った後、もう一度、そっと唇を重ねた。静寂のなかで、湿った舌がそっと探るように動き、呼吸が交じり合い、やわらかな吐息がふたりのあいだに流れていく。
熱を分け合いながら、すべてを忘れていく。
時間も、場所も、現実のざわめきも。
ただ、いまここにあるぬくもりと愛情だけが、確かに存在していた。
やがて、名残惜しさを滲ませながら唇を離すと、ベレトはそっと俯いた。
伏せられた睫毛が影を落とし、ほてった頬に静かな風が触れる。
「君がいてくれてよかった」
ぽつりと落とされたベレトの言葉は、ごく控えめだったが、まるで自分を責めるような声音で、ディミトリは、またどうでもいいことを考えているのだろうと思った。
「何を考えているかわからなくもないが、ここにいると決めたのは俺の意志であって、お前が考え込むことではないと――あと何回言えばいいんだ?」
苦笑まじりに告げると、ベレトは小さく目を伏せ、わずかに視線を逸らした。その横顔がほんのり赤らんでいて、ずいぶんわかりやすくなったものだとしみじみ思う。
ベレトは、それについて何も言わず、ゆっくりとこちらを見上げた。そのまなざしに宿る光が、言葉よりもずっと深く、静かに想いを語っていた。
――罪悪感なんて必要ない。
いくらそう伝えても、きっとこの問答は、これからも何度となく繰り返されるのだろう。けれどそのたびに、何度でも言葉を尽くして伝えるつもりだ。「お前と共に在りたいから、ここにいるのだ」と。
西陽に照らされたベレトの横顔は、どこか幻想的だった。白緑の髪が夕暮れの光を透かして、ふわりと揺れる。風にそよいだ一房が頬にかかっても、気にする様子もなく、彼は何度か瞬きをしてから、そっと首を傾け、はにかむように微笑んだ。
(ああ、好きだ)
彼と、これからも共に生きていける。
そう思えることが、ただただ、ありがたかった。
胸の奥が、じんわりとあたたかなもので満たされていく。
込み上げる想いに突き動かされるように、そっと、ベレトの頬に自分の頬を寄せた。
触れたぬくもりを静かに感じながら、唇を耳元へと滑らせ、耳朶にやさしく口づける。
その柔らかな感触を、軽く吸い取るようにはむと、ベレトの体がわずかに震えた。
くすぐったさと、くるおしさが混ざったような、ひそやかな吐息が、そっと零れ落ちた。 そのまま、ディミトリはベレトの耳元へ唇を寄せる。吐息が触れる距離で、そっと囁いた。
「……早く、家に帰ろう。続きはあとで」
言葉に宿る熱は、あまりにあからさまで。それでも、ベレトは逃げることなく、小さく肩を揺らし、ふっと笑みをこぼした。
「さすがに……ここで続けるわけにはいかないからな」
その声は穏やかで、落ち着いているようではあったが、さきほど交わした深い口づけの余韻が、まだ胸の奥に燻るような熱を帯びていた。笑みの奥に滲む抑えきれない色香が、どこか危ういほど甘やかだった。
その仕草ひとつで、ディミトリの奥底に眠る欲が、音もなく目を覚ます。けれど、それを力で押しつけるのではなく、やさしく、そっと触れるように彼の手に指を伸ばした。触れ合った指先が、自然と絡んでいく。
ゆっくりと、指の間を通して伝わるぬくもりに、心がゆるやかに溶けていくようだった。
路地を抜けるころ、そっと彼の肩に顔を寄せた。
さらりとした髪が頬に触れ、そのまま、そっと唇を押し当てる。
ベレトは、何も言わなかった。
けれど、繋いだ手の指先が、かすかにきゅっと力を込める。
その静かな応えが、何よりも雄弁だった。
ベレトが顔を上げた。ジっとディミトリを見つめたあと、何度か、まばたきをした。そして、いつもの癖のように、そっと首が傾ぐ。そして、照れ隠しのように、少しだけ曖昧に笑った。
ディミトリは、それを見て、やわらかく微笑んだ。
言葉よりも、ずっと深く、心に沁み入る仕草。
どれほど見慣れた癖でも、それを愛おしく思える気持ちは、色褪せることがない。
言葉はない。ただ、愛しさが、呼吸のように滲む。
季節はまだ、夏の盛りにある。
けれど、ふたりの足元を照らす影は、やさしく寄り添い、夕暮れの風のなかで、ゆっくりと長く伸びていた。