溢れた愛の拾い方朝一番のくしゃみで飛ばされた中央の国の商店で、ブラッドリーは意図せず希少な酒を見つけた。今日はなんだかついている気がして、こんな日にはネロのご飯で晩酌をするのがいい。あわよくばネロにも呑ませてやろうと、意気揚々と夕食どきの食堂へ向かうと、そこでご飯を作っていたのはカナリアだった。
「ネロはどこにいったのでしょう。今日の任務は日帰りだと聞いていましたが。」
リケの言葉に賢者が、ネロは用事があってご飯を作れないので、今日はカナリアにお願いしました。ネロは忙しいみたいなのでそっとしておきましょう。と答える。それになんの疑問も持たず食事の席につく魔法使いたちを尻目に、ネロの飯がねえなら用事はないとばかりに食堂をでたブラッドリーは、せめてネロの部屋の作り置きでも掻っ払ってやろうとグラスとウイスキー片手に部屋に乗り込んだ。
いつも通り爪先で扉を軽くノックしてネロの返事も聞かずに扉を引くと、中には誰もおらず、少し乱れた布団とコンロの上の鍋が、少し前まで人がいたことを示していた。
てっきり料理の仕込みのために部屋にこもっていると思っていたブラッドリーは拍子抜けするが、今からまた自分の部屋に戻る気にもならなかった。美味しいウイスキーを飲むタイミングを2回も逃されて、引くに引けなくなっていたのである。そこで、もはや勝手知ったるネロのキッチンの物色を始めると、コンロの鍋に手をかけたところで、突然何かが吹き出したような、フシャーという音がした。咄嗟に首をすくめる。何が起きたのかと辺りを見回すと、キッチンの戸棚の影に身を隠し、首から上だけをこちらに向けて毛を逆立てた、部屋の主と同じ青みがかった黄金色の瞳と目があった。こんなのがいるなんて聞いてねえ。
ネロの部屋で見たことがない意外な生き物に興味が湧いたブラッドリーは距離を詰めて猫の首を摘み上げると、猫は恐る恐るといった様子で黄金色の瞳をブラッドリーに向け、目が合った途端にぴくりとしてまた目を逸らした。その様子は、まるであの日中央の城で再開した時のかつての相棒の仕草に似ていた。
「んー?おまえなんかネロに似てるな…」
思わず口からこぼれた言葉だった。
大人しく釣られる猫をよくよく観察してみると、黄金色に海のような青みがかった色が混ざった瞳、スラリとしたシルエット、どこか気だるそうな表情、何よりもその体を覆う空色の美しい毛並みが、その猫がネロであることを示していた。
それにしてもなんで猫なんかに。なんで賢者はこのことを言わなかったなんでネロは自分だっていうことを主張しない。まあ元から自分を主張する奴ではないが。そこまで考えて、ふと、さっき食堂で、いつもは猫の真似だ厄災だと騒がしい西のにいちゃんがやけにおとなしかったことを思い出す。そういえば、今日は西の連中と任務だとかいってたか。おおかた面倒ごとに巻き込まれて、西のにいちゃんに猫にされて、それを賢者に口止めさせて隠れてたってところか。
大雑把なようで、意外と細やかなところまで考えられるのがブラッドリーという男である。
猫もといネロをじっと見つめていると、いたたまれないとでも言いたげな表情をして、されるがままにぷらぷらと揺れていた。
ネロが何を考えていたのかはわからないが、まあこいつのことだからまたマイナスなことでも考えてんだろうと、それ以上は考えないことにして、つまみ探しを再開することにした。そっちがその気なら、こっちも知らないふりをしてやる方が面白い。ネロを離さなかったのは、わかりやすいネロのことだ、何かうまいもののところに手をかければ何かしらの反応を示すだろうと思ってのことだ。まさかあの小さな体を振り回して怒るとは思っておらず、普段とは違う意味でおっかない思いをするとは思わなかったが。ブラッドリーは猫の扱いにはあまりなれていない。暴れたネロが万が一手から落ちて怪我でもしたらと思うと、獲物を諦めてつまみ無しの晩酌をするほうが心中穏やかだと判断したのである。
ネロが魔法舎に来てから、何かと理由をつけてネロにつまみを作らせることが多かった。定位置に座ったものの手持ち無沙汰になったブラッドリーは、徐に足元でうずくまるネロを膝に乗せた。最初は驚いてなんとか逃げようと体を捩っていたネロだが、西のパイプのみが西のにいちゃんにやっていた感覚で顎をくすぐってみると、ネロは次第にゴロゴロと鳴き声を出し、4本の足を綺麗に体の下へしまってブラッドリーの膝に収まった。
「ははっ、おまえ、警戒心のかけらもねえな」
おそらく10キロにも満たない重さの猫だが、ブラッドリーはこの膝に乗る元相棒が下っ端のガキで、仲間たちに囲まれながら膝に乗せて宴会をしていた頃を思い出した。
あの頃も、小さな体で仲間の分の酒を運んできて、気まぐれで膝に引っ張り込んだら、顔を真っ赤にして抵抗していたが、口角はしっかり上がっていたのを覚えている。夜寝られないといえば自分の寝床に引き込み、料理を覚えれば少しでもうまい飯が作れるように、良い道具を目利きして揃えさせた。周りの仲間たちもそれが当たり前になる程、ネロには特別に目をかけた自覚がある。しかしそれから大きくなるにつれて、少しずつ体が大きくなってネロより小さな仲間が増えて、背中を預けられる唯一無二の相棒になっていくほどに、ネロがブラッドリーにわがままを言うことは無くなっていった。昔のように甘えろと何が欲しいか聞くたびに、何かを言いかけては、やっぱりいいですと口を閉ざした。
ブラッドリーはそれがどうにも気に入らなくて、ネロが自分にだけわがままを言って擦り寄れば良いと思っていたが、それがネロに思いを寄せているからだと気づいたのは、何もかもを失って獄中での生活を送るようになってからのことだった。
「普段のあいつもこんだけ甘えてくればいいのにな」
ぽろりと口から溢れた言葉に、自分で呆れたような乾いた笑いが漏れた。
奇跡的に賢者の魔法使いとして再会を果たした元相棒は、自分との関係を無かったことにしたいと宣った。囚人の自分と旧知の中であると知られたら、ネロにとって不都合であることはブラッドリーにも分かっていたが、理性では抑えきれない感情が溢れそうになった。共同生活が始まって、なんだかんだとこの曖昧な関係は続いているが、良い酒や食材を献上したり、ネロの今にもボロが出そうな振る舞いをカバーしたりといったブラッドリーのさりげないアピールに、ネロは気づく様子もなかった。
これ以上どうしてやろうか、いっそのこと身体から懐柔してやろうかと考えていた矢先にこの出来事である。ネロが自分にバレていないと思い込んで自分の膝で甘えまくっている状況、これ以上のチャンスは無い。ブラッドリーはチャンスは絶対に逃さない男である。しかし、一気に畳み掛けてネロに警戒されては元も子もない。ここはネロが猫になっていることに気づいていないフリをして、存分にネロを甘やかす方が得策である。ネロはリミッターさえはずして仕舞えば意外と自分の欲求には素直な男だった。猫のネロを甘やかして骨抜きにして、ブラッドリーに甘える快楽を植え付ければ良い。
頭の中でスルスルと組み上がった計画に口角を上げたブラッドリーは、片手に収めたウイスキーグラスをカランと鳴らして、膝の上で気持ちよさそうに丸まるかつての相棒への愛撫を再開したのである。
次の日、昼食の担当がネロであると聞いたブラッドリーは、なんでも無かったかのようにネロが腕を振るう調理場へと侵入した。いつものようにつまみ食いをしようとして、怒っったネロに胡椒で摘み出されて、南の国の野原に飛ばされたブラッドリーは、普段なら機嫌が悪くなるところ、何も知らないちびっ子に声をかけられても何も感じないほどには機嫌が良かった。くしゃみをする直前に見たネロの怒り顔の奥に、赤くなった耳と隠しきれない快楽の跡を見たからである。
それから1週間ほどして、いつも通りの1日を過ごしたなんてことない日の夜、控えめに自室の扉を叩く音に、ソファに座り込んで魔道具の手入れに勤しんでいたブラッドリーは自身の口角が上がって、気分が高揚するのを感じた。それを気取られない様に魔道具と共にしまい込んで扉を開けると、案の定空色の毛並みに気だるげな黄金色の瞳を持つスラリとした猫が扉とブラッドリーの隙間をぬって自室に入り込んだ。心なしか気だるげに歩く猫を追って革のソファに沈み込むと、猫は短く鳴いてブラッドリーのそばに丸くなった。こちらに尻を向けて無防備に寝転がるネロを、ブラッドリーは徐に抱き上げて膝の上に転がした。
ネロは一瞬ぴくりと反応したものの、首筋を筋ばった指でくすぐられるとすぐにゴロゴロと喉を鳴らしてブラッドリーに身体を預けた。
その反応を見たブラッドリーは、次に背中をすーっと撫でた。首の付け根から尻尾の付け根まで丁寧に余すところなく撫で付けていく。
ネロ本人(本猫?)はなんてことないように寝そべっているが、無意識にぴるぴると震える耳が愛らしい。少しずつ後ろに向かって撫でていき、ブラッドリーは悪戯にネロの尻尾の付け根をトンと叩いた。その瞬間、びくりと反応したネロが、触るなとでも言うようにこちらに鋭い目を向けた。ブラッドリーはそれでも止める様子もなくまたトントンとソコを叩き、さらにすりすりと尻尾を撫でた。猫の弱点とも言える場所への刺激に、小さくミッ、ミッと声を上げるネロに、普段の姿の顔を想像したブラッドリーは身体中の血液が集まる感覚がしたが、ピンポイントでその原因が寝そべっているのだから、理性を総動員して鎮めるほかない。ネロはネロで、もはや抵抗する気力もないのか、ブラッドリーの足に顔を埋め、懸命に快感を逃がそうとしていた。次第に耳がぺたんと垂れ、尻尾が快楽を与える先へ絡みつく。それがさらに快感を拾うことにも気がつかないほどに、ネロは与えられるものに溺れるしかなかった。
そんなネロの様子を見たブラッドリーは、内心少し後悔していた。少しの悪戯心で猫の姿のネロを弄んだが、こんなにも情欲をそそられるとは思ってもみなかった。ブラッドリーの手が止まったところで、隙を見たネロがヨタヨタとブラッドリーの部屋から逃げていく。それを見守りながら、次はどう仕掛けてやろうかと、氷の溶け切ったウイスキーグラスを傾けた。
好機は次の日にやってきた。一夜明けたネロの反応を見ようと意気揚々とキッチンへと潜り込んだブラッドリーは、なぜか今は西の街にいた。朝食作りに没頭するネロの肩に手をおいた途端、振り向きざまに胡椒が降ってきたのだ。まったく、おっかねえなあと1人で呟いて辺りを見ると、歓楽街の路地裏にたむろする猫を見た。その途端、ブラッドリーは名案を思いついた。これから見られるだろうネロの反応を想像してニヤリと不敵に笑ったブラッドリーは、人間たちが往来にいるのも構わず魔法舎に向かって箒を飛ばしたのだった。
昼下りの魔法舎の一室。猫は黒とシルバーのツートンカラーの毛並み、鼻の頭の特徴的な傷、幼くも鋭い目元はロゼの瞳を持ち、大きな身体でなあんと鳴いた。
自室のショーケースに映る自分を見て、ブラッドリーはまた不敵な笑みを浮かべた。自室の扉を器用に開けて、はやる足を押さえるように3階の目的地へと歩みを進める。
もはや自室と同じくらい通い詰めた扉の前に立ち、爪を研ぐように扉を引っ掻く。部屋の中からカタンという音がして、ゆっくりと扉が開く。その隙間を縫って入り込んだブラッドリーは、困惑した顔を浮かべるネロを眺めてなぁんと鳴いた。
それから30分は経っただろうか。一通りネロとの追いかけっこを楽しんだブラッドリーは、ネロの膝でのんびりとくつろいでいた。
ブラッドリーに翻弄されて疲れ切ったネロは、恐る恐る手を伸ばす。その手に擦り寄ったブラッドリーは、滅多に触れることのないネロの温もりに浸っていた。なるほど、確かに良い。猫の良さに取り憑かれたネロの気持ちがわかった気がした。
「おまえ、甘えてんの」
「なあん」
たまにはいいだろう
「可愛いとこあんのな」
かわいこぶってやってんだよ
「俺も最近、こうやって甘やかしてもらってんだ。何百年ぶりに。」
暖かな陽気につられたのか、ネロがポツリポツリと話し出す。話の内容からして、自分のことで間違いないだろう。ブラッドリーはこの時を待っていたのだ。素直じゃないところがあるネロは、言葉の通じない猫になら本音を言うだろうと踏んだのだ。ネロがブラッドリーに気づくかは賭けだったが、気づく様子もない。
「そいつもおまえと同じように赤い目をしてて、態度はでかいし、命知らずで危ねえことしかしねえやつなんだけどさ。」
散々な言われようだが、そんな生き方しかできないのがブラッドリーという男だ。
盗賊団にいた頃も、何度も無茶をするなとキレられたが、ついぞ治らなかった。
「そいつに拾ってもらって、訳あって離れて、また一緒になって、何百年経ってもあいつは変わらなくて、一緒にいたら心臓もたねえってわかってるのに」
ネロはブラッドリーの背中を撫でながら、目を伏せる。その手に感情はなく、心ここに在らずといった様子で、ブラッドリーは普段は聞くことのない相棒の本音に注意深く耳を寄せた。
「どうしようもなく好きで、一緒にいたいって、思っちまうんだよなあ…」
言った。数百年の思いが重なった瞬間、ブラッドリーは全身がブワリと沸き立つ感覚を覚えた。今すぐここで返信を解いてもいいほどだ。
そんなことを思っているうちに、レモンジャムの紅茶を一口啜ったネロが、また口を開く。その頃にはすでにブラッドリー^_^撫でる手は止まっていた。
「でも、俺じゃダメなんだ。多分。俺じゃあいつの隣には立てない。せいぜい背中側に立って付き従うのが精一杯で、隣に立って愛だの恋だのっていうのは、おこがましい。
変な勘違いとかしちまわないうちに、諦めなきゃいけないってわかってるんだけどさあ…」
そう言ったネロはブラッドリーの額に手を寄せる。しかしブラッドリーは、ついさっきまで感じていた幸福をかき消すほどの怒りと呆れに震えていた。まだわかっていないのか。あれだけこいつを特別に扱って、甘やかして、自分にはネロが必要だと言い聞かせたはずなのに。どこまで鈍感なんだ。どこまで自己肯定感が低いんだ。どうしたらわかる。
ブラッドリーは、自身が猫になっていることも忘れて、ネロの唇へ噛みついた。もう実力行使に出るしかないと思った。
くすぐったいと笑うネロをよそに、ネロの柔らかな頬に吸い付き、黄金色に輝く瞳、高くはないがスウっと通った鼻に、一つ一つ刻み込むように口付ける。一通り余すところなく口付けたら、唇に吸い付く。流石に猫の姿で口内を奪うのは気が引けたので、ネロの薄くピンクがかった唇をぺろぺろと舐め回す。初キスはレモンの味だとか、前に賢者が言っていた気がするが、ネロの唇もほんのりレモンの味がした。
ひとしきり満足するまで堪能したブラッドリーは、またもやお菓子目当てだと勘違いしてクッキーを取り出すの膝からひらりと飛び降りた。
ネロの本音は聞けた。ただもうこの男には直球でいくしかない。猫になっている場合ではないのだ。
(次こそ人間のてめえをもらうから覚悟しておけよ)
ブラッドリーは扉の前でなあんと鳴いて、部屋を後にする。ついに聞けたネロからの愛を噛み締めながら、次にネロの訪ねてくるだろう日を数えて、確実に獲物を仕留める算段を建てるのだった。