隣にいる理由「あーーー、早く酒が飲みてえ……」
温泉独特の硫黄の香りと、少し焦げたような井草の香り。体の力が抜けるような穏やかでどこか懐かしい雰囲気を醸し出すこの和室に、濡れた髪を気にもしないブラッドリーが畳まれたままの布団にどさりと倒れ込む。
「おいブラッド、髪くらい乾かせって!」
秋口の、少し厚みの出た浴衣の上からでも分かる、綺麗に筋の入ったブラッドリーの尻を右足で軽く蹴って、使ったまま放りっぱなしの彼のタオルを拾う。
「うおっ……ったく、おっかねえなぁ」
「うるせー、風邪引いても看病なんかしねえからな」
広縁の小さな物干しに拾ったタオルを通しながら、後ろから飛んできた苦情に睨みをきかせる。はだけた浴衣の裾を引きずって気だるそうに洗面所へと向かうブラッドリーの背中を見送ってから、ネロは夜の窓に映る自分を見てため息をひとつついた。
♦︎
幼稚園のプレ入園から始まって、小学校、中学、高校。しまいには大学まで同じのいわゆる腐れ縁。これだけ一緒にいれば、必然と親同士の交流も増えるし、歴代の先生、友達からもニコイチ扱い。修学旅行は必ず同じ班で、友達も同じ。家族ぐるみの旅行だって何度もした。自分よりも少し大きくなった背中を丸めて、自分の肩に体重を乗せて屈託なく笑うあいつに、初めて違う感情を抱いたのはいつだったか。自分の感情がブラッドリーにとって迷惑になりうると考えてから、2人きりの環境は極力避けていたのに。
2人で卒業旅行がしたい。人のまばらな学食でそう言ったブラッドリーのロゼ色の瞳に射抜かれて、思わず頷いたのが約2ヶ月前。
今、件の男はネロの気持ちなど知る由もなく、目の前の豪華な料理に目を奪われている。
「おいネロ、早く食おうぜ。釜飯は20分だってよ」
食前酒を一気に流し込んだブラッドリーは、待ちきれないとでもいうように箸を構えたままこちらをみる。
「はいはい。……いただきます。」
ネロの声に合わせて手を合わせたブラッドリーは、ホクホクとした顔で目の前の料理を平らげていく。
「ゆっくり食えよ、逃げねえんだから」
「冷めちまったら美味くねえだろ」
「あったかくもねえだろ、すでに」
軽口を叩いて取り留めもない話をしながら順調に皿を空けていく。釜飯の火も消えて、おこげのいい匂いが増す頃。
「あー……お前、卒業したら家出ねえのか?」
「家?……職場は遠いけど貯金もねえし、特に何も考えてなかったけど…」
「そんならさ、一緒にルームシェアでもしねえか?」
「は、?」
2人なら家賃もかからないで職場も近くなるというブラッドリーの声を意識の外で聞きながら、ネロはうるさく鼓動する心臓の音を抑えるのに必死だった。
「…って感じでどうだ?……ネロ?」
その声で我に帰ると、目の前の男が心配そうにこちらをのぞいていた。今までの旅行だって、今日だって、明確な期限付きだから耐えられたのだ。毎日こいつと一緒なんて、心臓が何個あっても足りない。無理だ。
「…っあ、いや、うん……その…俺は朝早いと思うし、ブラッドは夜遅くなるかもだし、生活リズムが、合わないん、じゃねえかなー…って…」
「それなら尚更、会える時間が無くなるだろ。……俺は卒業してもお前といたい。…ダメか?」
ネロの渾身の断り文句を逆手にとって、男らしい眉を下げてロゼ色の瞳を不安げに揺らす珍しいその顔に、ネロは今まで勝てたためしがなかった。
「……っあーもう!朝うるさくても知らねえからな!」
一息で言い切って、自分で自分にとどめを差してしまったとだいぶ後悔しながら顔を上げると、幼さと大人っぽさが入り混じるロゼの瞳が見開かれて、キラキラと揺れた。
「ほんとだな?!」
「どうせ飯目当てなんだろ……フライドチキンは月2回までだからな。」
照れ隠しでそう言うと、目の前の男はキョトンとした後、目を細めてこう言った。
「それもあるけど、それだけじゃねえ。…絶対に手に入れたいもんがあるんだ。」
机に肘をついて顔を支えるブラッドリーのロゼが真っ直ぐこちらを見つめていて、その甘さを含んだ声に顔が火照るのを感じる。
「何だよ、それ……ルームシェアに関係あんのかよ……」
「…まあ、そのうちわかるさ。あと、フライドチキンは週1回じゃねえと譲れねえ。」
そう言っていつかの笑顔を見せたブラッドリーを目の前にして、顔を赤くする自分に勘違いするなと心の中で言い聞かせる。
食べ損ねた釜飯は冷え切っている。普段はそれに文句を言うブラッドリーが、鼻歌混じりに食事を再開する。
これからもう一度風呂に入って、隣の布団で寝るというイベントを前にしてすでに張り裂けそうな心臓に勝つ自信など、今のネロには微塵も無かった。
真夜中の客室、月明かりの下無防備な顔ですやすやと寝息を立てるネロの、澄んだ水色の髪をさらりと撫でてキスを落とすブラッドリーの本当の獲物を、ネロはまだ知らない。