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    ミヤシロ

    ベイXの短編小説を気まぐれにアップしています。BL要素有なんでも許せる人向けです。

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    ミヤシロ

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    77話予告から思いつきました。時系列的には「一歩ずつ前に」の後のお話です。今まで書いた中でいちばんBL要素を含みます。
    クロムの匂いってどんな匂いなんだ…!?
    ※高層マンションの描写は私的設定です。
    今週金曜エクスとクロムが再会しますね。どんな展開になるのか楽しみです!

    #クロシエ

    木漏れ日に顔を埋めて クロムはシエルを自宅に上げた直後、強く抱きしめた。
     青年の腕に成長途中の少年の体が包まれる。抱擁し少年の髪に顔を埋め数秒、クロムは腕の力はそのままに“はっ”と我に返った。
     目を瞬かせ状況を鑑みれば腕の中でシエルが固まっている。緊張のあまり体を強張らせる少年は、密着した青年の胸に自身の速い鼓動を伝えていた。
    「あの……、クロムさん……」
     蚊の鳴くような声で名を呼ぶ少年にクロムは目を見開く。
    (オレは……何をしてるんだ?)
     彼は何故己が少年を抱いているのか、自分でもわからず頭を真っ白にする。この場面に至るまでの記憶が一瞬飛んだ、その事実に気づいた彼はシエルと同様、全身を硬直させた。

     話は数時間前に遡る。龍宮クロムは午前の仕事を終え、昼食を買いに駒刃寿司に立ち寄った。
    「お前は昼まで寝ていたのか」
     戸をガラリと開け目に飛び込んできた少年の様子に、クロムは開口一番斯くの如き台詞を吐く。クロムの目には正午だというのにパジャマ姿の黒須エクスが、眠気眼でスイーツ寿司を食していた。
    「んむ……、クロム、久しぶりぃ」
     寿司下駄に載せられた寿司を一貫嚥下し、寝ぼけた顔のエクスが目を細める。まだ覚醒しきっていないのか――普段ならば一緒に遊ぼうとはしゃぎ倒すであろうに――彼は好敵手の出現にものほほんとした反応を返すのみだった。ツケ場で暇を持て余していた寿司職人がぽかんと目口をまるくし、直後クロムの来訪に泡を食う。このとき彼等以外は不在であり、店は繁盛する時間帯にもかかわらず静まり返っていた。
    「た、大変じゃ! サイン……」
     頂上ブレーダーの姿を見るなりサインを所望する辺り、寿司谷タイショーは肝が据わっている。もっとも目論見は不運にも潰え、
    「何ということじゃ、色紙を切らしておったー!!」
     職人は頭を抱え悶絶する羽目となった。
    「……。テイクアウトで三人前頼みたいのだが」
     取り乱す老人を遠くを見る目で眺め、クロムはひどく事務的な調子で用件を伝える。青年はあくまで昼食を調達しに訪れたのみであり、この店および店主にさしたる思い入れはなかった。シグルがスイーツ寿司のファンでなければ一生足を踏み入れなかった場所だ。この後チームメイトと会う約束をしている彼は、自分が食事を用意しようと申し出て結果ここにやって来た。
     前髪を飾る龍が店の照明で銀の光を放つ。長く艶やかな金髪を微かに揺らし、彼はよく通る低い声で言った。
    「上寿司二人前とあんこクリーム寿司一人前お願いします」
    「合点承知!」
     クロムがオーダーを口にした直後、
    「ただいま~」
     買い出しに出掛けていたのだろう、風見バードが買い物袋を片手に姿を現す。明るい笑みで帰宅を告げた少年は直後、青年に気づいてその場に立ち尽くした。
    「龍宮、クロム」
     なんでここに、と、驚く彼に“テイクアウトだって~”とエクスが間の抜けた声で口を挟む。少年は意識の半分を夢に浸らせ、ふにゃけた笑みを顔に広げていた。戦友の寝坊助ぶりに羽根頭の少年が目を怒らせる。エクスは昼食時にもかかわらず起床時の格好のままであった。
    「エクス! お前まだ着替えてないのかよ! ていうか仮面、被んなきゃダメだろ!」
     店主が居る手前“お客さんが来るかもしれないだろ!? 実際来てるし!”とまでは流石に言わない。頂上決戦後の数日以外は来客はないに等しいため、店内にて仮面Xの正体が判明する心配はほとんどなかった。眉を吊り上げる少年に対しエクスは“そうだね~”と、欠伸しながら返す。まともに話を聞いていない。たとえ他者がたるみ具合を咎めようとも彼が意に介す気配はなかった。
     バードは緩み過ぎの戦友に怒りを通り越して呆れ、次いで寿司を待っているクロムに視線を遣る。長身の青年はバードを振り返っていて、二人の視線がちょうどかち合った。バードの目にはクロムはエクスの様子に呆気に取られているように映る。少年の無様をかつての所属チームのリーダーに晒すのは、バードにとって居心地が悪かった。
    「た、たまたまだから! エクス、普段はもっと早く起きてるから!」
    「起こさなければ9時まで寝ていたな、いつも」
     少年は慌てて弁明したが、元チームメイトの起床時間を青年は記憶に留めている。生活力が皆無なエクスはまともに自力で起きられず、クロムは運が良ければスマホを介して、通常運転では合鍵を使い少年を起こしに行った。ペンドラゴンのメンバーは銅田産業が手配したブレーダーハウスに居住する決まりになっていて、メンバーは全員同じ高層マンションで暮らしている。クロムがエクスの寝室に足を踏み入れればそこにはベッドで爆睡しているエクスの姿が。ベイバトルがない日は子供はいつもこのザマであった。
    「ついでに言うと体は起きても頭は半分寝ている」
     クロムはバードに断言する。
    「きちんと目を覚ましていたらバトルをせがむからだ」
    「そ、それはそうだな…」
     クロムの率直な発言にバードは頬をひくつかせながら頷く。流石は龍宮クロム、ペンドラゴンのリーダーは元チームメイトをよく理解していた。
    「おふぁえりバード」
    「口に物を入れて喋るなよ……」
     エクスが二人のやりとりを完全に聞き流し、呑気に寿司を食べながら言う。お帰り、と言ったつもりの言葉は寿司を頬張っていて不明瞭に聞こえた。バードはげんなりしたがエクスは相手の心境を知らずまったりとしている。朝食をすっ飛ばし昼食にありつく子供は、口の周りをピンク色の何かで汚していた。
     愛らしい顔が残念な有様になっていた。見苦しい少年にクロムが半眼をもって問うた。
    「何を食べてるんだ…?」
    「期間限定、あぶりイチゴチョコフレーク寿司!」
     今度は言葉を聞き取れたが、クロムの脳はエクスの発言を理解するのを拒絶する。酢飯とイチゴチョコフレークの組み合わせは奇妙過ぎて、とても現実として受容できなかった。脱力しカウンター席に腰を下ろせばクロムの許にイチゴチョコの甘い匂いが漂ってくる。イチゴの甘酸っぱい香を寿司屋で味わう羽目になろうとは。“期間限定”の単語を思い返し、彼は“春だな”などと遠い表情で思った。
    (変わらないな、お前は)
     バードが買い出しの品を収めに店の奥へと引っ込む中、クロムは横目でエクスの様子をうかがう。少年は水色のパジャマをだらしなく着、寝ぐせがついた髪を梳かさずボサボサのままにしていた。眠そうな目は洗顔を済ませていないようだ。口の周りは食べカスにまみれている。エクスの見た目はだらしないの極地だった。
    「――エクス、」
    「エクス、最近だらけ過ぎだぞ?」
     クロムが少年に何かを言い掛けたとき、戻ってきたバードが眉をひそめる。怠惰を極める少年に対し、ペルソナのリーダーたる子供は毅然と発言した。
    「前にマルチが言ってただろ? 最低限のマナーくらいは守れって話。臭い汚い感じ悪いは論外だって!」
    「あ~、言ってたね。どれどれ」
     エクスはへらりと笑いながらバードの首筋に顔を近づける。すんすん、と鼻を鳴らす彼にバードが白目をむいて固まった。
    「何か言ってたね、ってオイ! ってかオレじゃねえっつーの!」
     このときのクロムの顔を、どのように表現すればいいのだろうか。
     顔面に“!?”とでかでかと描いたような、あるいは折角の美形が台無しと評すべきか。一言で言えばクロムはこの瞬間、とんでもない顔をしていた。距離の近すぎる二人に面食らった彼は眼前の光景を一瞬タチの悪い冗談と考える。しかしそれは冗談でも夢でもなく、現実にて大真面目に起きている話だった。クロムにとって凄まじい破壊力だ。石の如く固まる彼の眼前で、少年二人は構わず会話を続けていた。
    「うん、今日もギリギリセーフ」
    「またギリギリなの!?」
    「うん臭くないよ。バードスメルってカンジ」
    「だからバードスメルって何!?」
     二人は以前も同様の言葉を交わしたが、バードスメルなる単語のインパクトは絶大だ。羽根頭の少年は涙目になり、ひどい評に素っ頓狂な声を上げた。彼は相変わらずマイペースなエクスに振り回されている。チームペルソナが結成されて一年以上が経過したが、二人の関係は最初から現在に至るまでこの様子だった。クロムを放置したまま二人は下らぬやり取りをなおも続ける。もしこの場にマルチが居たならば烈火の如く怒り狂ったに違いなかった。
     ちなみにマルチは冥殿と一緒にベイカフェに出向いている。ペルソナのストッパーの不在が少年達にとって幸運だったのか不運だったのかは不明だ。クロムが唖然としているうちに寿司は出来上がり、職人がふう、っと一息つく。上寿司二人前とあんこクリーム寿司一人前――シグルの好物は未だにクロムの理解の範囲外だった。
    「へいお待ち!」
    「ありがとうございます」
     寿司を受け取りクロムは会計を済ます。どうしようもない会話をバードと共に繰り広げていたエクスは、青年が店を後にする今になって眠気から醒めつつあった。
     寝坊助のとろんとした瞳がわずかに翳る。
    「クロム、もう行っちゃうの?」
    「仕事がある」
     ペンドラゴンの特集記事に合わせ、クロム達三人は午後二時から雑誌に掲載するための写真を撮影する。青年は午前中は別の仕事で出掛けていて、このあとシグルとシエルと撮影スタジオで合流する予定だった。一ヶ月の休養を経て復帰した彼は忙しい日々を送っている。もっとも頂上決戦での卒倒を考慮し、戯画谷専務もマネージャーもスケジューリングは慎重に行っていた。
     三人分の寿司の入ったビニール袋を受け取り、クロムはエクスに向き直る。頂上決戦のあの日青年は凄まじい執念を少年に見せたが、今となっては当時の妄執は消え失せていた。元チームリーダーとして、一人のプロブレーダーとして彼は子供に忠告する。エメラルド色の双眸には誠実な光が宿っていた。
    「エクス、もう少し身だしなみに気を遣え」
    「ん~?」
    「ん~? じゃないだろ! ――ありがとうございました!」
     チームメイトの態度を叱り、客であり至極真っ当な意見を言ってくれたペンドラゴンのリーダーにバードは感謝の意を示す。クロムは微かに笑って踵を返した。彼は龍の髪飾りを失ったあの日、まるで憑き物が落ちたようにエクスへの執着を失った。今は新たな髪飾りを身に着け一歩ずつ前に進んでいる。彼はまだエクスに出会う以前――高潔で道を追い求めるかつての彼を取り戻しつつあった。
    戸の向こうに消えた青年の姿にエクスは、
    (――あ)
     と、目口をまるくする。
    (ペンホルダー、渡すの忘れた)
     クロムが倒れた際ペンホルダーは落下し壊れてしまった。破損したそれを拾い保管したものの、少年は持ち主と対面していながら返却をど忘れしていた。クロムの前髪にはエクスが所持するのと同じ形状の髪飾りがつけられていて、銀色の龍が美しい光沢を放っていた。
    (クロム、新しいの買ったんだ)
     彼は気づかなかったが飾りに付せられた石の色が緑色だった。エクスは心の中でぽつりと呟き、数秒後何事もなかったかのように寿司を口に放り込んだ。
    「美味しい~」
     イチゴの酸味有る甘さと酢飯の調和が素晴らしい。寿司を堪能する彼は満面の笑みで幸せに浸り、その日の昼食を平らげた。
     エクスが自由気ままに過ごすその頃、クロムは撮影スタジオへと向かう途中先程のやり取りを思い出す。目を疑う光景を目の当たりにしながらも、彼の胸には過去のチームメイトに対する親愛の情のみがあった。
    (エクスの奴、相変わらずだったな)
     まだ病んでいた頃の彼ならば二人を直視出来なかったであろうし、バードに対し激しい嫉妬を覚えもしただろう。己と向き合いシエルとの関係を修復した現在、彼は少年の元気な姿を素直に喜べた。じゃれつくエクスに慌てるバード、後者の焦った様子が微笑ましい。主張の強い髪型と鉢巻と、まだ成長段階にある身長――口元に微笑を乗せるクロムの脳裏に、
    “ちょっ、クロムさんっ!?”
     雷の目の少年がよぎった。
    「――え?」
     クロムの足が無意識に停止した。
     片手にビニール袋を持ったまま彼は立ち尽くす。彼の脳内には真っ赤な顔をしたシエルが、しどろもどろになりながら己を見上げる妄想が広がっていた。上目遣いの瞳が愛おしく、時間を忘れて見つめていたい。紅潮した頬に唇を寄せたくなる。あるいは彼の首筋に顔を埋め、その匂いを嗅ぎたいと思う。
    “バードスメルってカンジ”
    “だからバードスメルって何!?”
     二人の会話が反響を伴ってクロムの意識に蘇った。
    「シエルスメル……」
     ぼそりと呟き、直後、
    (何を考えてるんだオレは!?)
     己の思考に愕然とし慌てて振り払う。馬鹿げた妄想に愚かな己を叱咤して、
    「仕事仕事!」
     大股かつ早足で歩行を再開する。精神を大いに乱した彼にとって、寿司が崩れぬよう配慮しつつ目的地に向かうのは困難だった。

     その後彼はスタジオに着きチームメイトと合流する。撮影所の控室、シエルが上寿司に目を輝かせシグルがあんこクリーム寿司に笑みを浮かべる中、クロムは心ここにあらずといった様子で箸を進めていた。食事を終え仕事に入るも雑念は彼を精神をいたずらに乱し、彼は普段より注意散漫な様子で撮影に臨む。もっとも仕事人間の彼は隙があろうと他者には気づかせず、傍目から見れば普段通りだ。彼は外行きの顔を作り、カメラマンの指示通りのポーズを取り表情を作る。彼の撮影はスムーズに終わり、被写体はシグル、次いでシエルへと移り変わる。己の役目を終えたクロムは続く二人を見守りながらも、その実シエルの方ばかり凝視していた。
    「お疲れ様でしたー!」 
     はっと息を詰めて声のした方に顔を向ければ、現場監督がにこやかに笑って撮影終了を告げている。クロムはシエルばかりを見つめていて、状況をまるで把握していなかった。スタッフに労われる彼はぎこちなく笑みを返す。彼は外見上は何の問題もなく、この日もそつなく仕事を片づけた。
     この場に居合わせた人間の中で彼の内面を察した者は誰が居ただろうか……精々シグルが無感動な目を瞬かせるだけで、監督もスタッフも、シエルでさえ青年の異変に勘づきはしなかった。三人は挨拶を終えタクシーでブレーダーハウスに帰る。二時から始まった撮影はそれなりに時間が掛かり、自宅に着いた頃には太陽は高層ビルの狭間に降下していた。
     空に茜色が広がり、上空には群青が暗い色を垂らす時刻、
    「じゃ、また明日ね」
    「ああ」
    「また明日ッス!」
     住まう階にエレベーターが止まり、三人はそれぞれ言葉を交わす。明日は銅田産業に赴き三人でスパーリングを行う予定だった。頂上決戦以来ベイブレードは更なる進化を遂げ、プロブレーダーのレベルがかつてないスピードで上昇している。いかに頂上と言えど技を磨かねばたちまち脅かされる状況だ。あくまで噂だがクロムはスラッシュタワーとソリダスタワー、二つのタワーの頂上がエキシビションマッチを行うという話を耳にしている。異なるタワーの頂上を彼は今まで意識しなかったが戯画谷専務が乗り気らしく、クロムは面倒な話だ、と心の中で苦虫を噛み潰した。
     高層マンションで同じ階に住居を置く三人は、シグルがエレベーターを降りて左方の角部屋で男性二人は右側の部屋だ。シグルと別れ男二人は、自然とシエルがクロムの後をついていく形となった。廊下を歩いていく途中、
    「シエル。今夜……いいか?」
     クロムが振り返り、穏やかでありつつ期待がこもる微笑を浮かべる。二人は関係を修復させた現在、時折互いの部屋に宿泊した。シエルは顔を赤らめ小さく頷く。恥じらいはあるもののそれを上回る幸福感がシエルの中にあった。
     クロム宅の扉が開く。青年が微笑んで迎え入れるのを、少年が無垢なる笑みで応えた。
    「お邪魔しますッス」
     玄関に足を踏み入れた少年を青年は強く抱きしめる。
     鍛え上げられた両腕はたくましく、内に捕らえた少年を決して離すまいとしていた。

     鍵を開けシエルに入室を促した瞬間、ふわりと柔らかな匂いが漂った。
     基本的に自分しか居ない空間に異なる人間が足を踏み入れ、普段と違う空気を発散する。花のような芳香があるわけでもないが心地よい匂いに、青年は弾かれたように少年との距離を詰めた。無意識のうちに抱きしめ少年の髪に己の顔を埋める。発展途上の少年の匂いを吸い込み、クロムは双眸を閉じてうっとりした。
    (シエルの匂い…)
     ペルソナの二人がじゃれ合う姿が、ふわりとした匂いを嗅ぎ取った直後意識にのぼる。仲睦まじい二人が羨ましかった。バードにシエルを重ね妄想した、あのときは理性が勝ったがこの時は違った。対象を前にして何とも思わないわけはない。クロムは己の衝動のままに距離をゼロにし、シエルを両腕に閉じ込めた。
     直後正気に返り、息を呑んで状況を顧みる。彼は抱擁する力を保っていたが、頭の方は冷静にやらかしを自覚していた。数度瞬きすれば腕の中でシエルが体を固くしている。過度の緊張で体を石のようにする子供は、服越しに自身の高い心拍数を教えていた。
     密着ゆえ脈だけでなく、彼の高い体温もまた伝わってくる。シエルは――クロムからは見えないが――真っ赤な顔で、聞き取るのがやっとの声量で言った。
    「あの……、クロムさん……」
     小さな声はそれでもクロムに届き、愕然とする彼に現状のまずさを突きつける。
    (オレは……何をしてるんだ?)
     自分でも意識せぬうちにシエルを抱き、彼の体臭を味わっていた。己の行為にシエルより遥かに驚いた彼は、真っ白になった頭で失態に至る経緯を振り返った。仕事中は理性を動員し本能的欲求を抑えていたが、ほんの一瞬の隙を突いて本能は理性の壁を突破した。そして現在、彼は衝動的な行為に及んでいる。その現実を意識した彼はシエルと同様全身を石さながらにしていた。
     二人は既に決して浅くない関係だった。
     歪な関係を止め対等に向き合うようになって月日が流れ、二人は定期的に互いの部屋に泊まっていた。そのため青年が少年を抱きしめようと今更特に問題にはならなかった。もっとも彼が性急に事を進めるのはかつてなく、シエルは瞠目している。少年の顔は今や茹蛸のように、あるいは風邪で高熱を出したかのように真っ赤だった。
    「あの…、その…」
     腕の中で呟くシエルに、クロムは慌てて体を離す。上気した顔にシエルの驚きと羞恥を察し、クロムは途端に申し訳ない気持ちになった。関係を深めたからと言って同意もなく抱きしめるのは問題だ――クロムは恥じ入る。顔を伏せ視線を彷徨わせるシエルに、クロムは心からの謝罪を口にした。
    「すまない。
     びっくりしただろう……軽率だった」
    「いえ……」
     詫びを受け入れながらもシエルの目はクロムを直視出来ず、しばらくの時間二人の間に気まずい空気が流れる。昔に対する贖罪だろうか、クロムは関係を改めて以降シエルに対しては少しずつ、ゆっくりと仲を深めていった。無理強いせず、シエルの様子を見ながら二人の距離は縮まった――ゆえにシエルは驚き、しばしの間うつむいていた。
     シエルは一度深呼吸し、鼓動を落ち着けておもてを上げる。彼の顔色はなおも赤みを帯びていたが、先程に比べて強くはなかった。
    「もう大丈夫ッス」
     強張った体を弛緩させ、微笑を幼さの残る顔に滲ませる。双眸には青年への思慕と敬愛が宿っていて、彼の瞳の明るさは先刻の行為から完全に立ち直ったのを示していた。純朴な瞳と笑顔に魅せられ、クロムは己の体温が上昇するのを認識する。彼もまた深い呼吸を一つ、目に熱を孕ませ再度の抱擁を乞うた。
    「もう一度、抱きしめていいか」
    「……。はい」
     今度は先程と違い、青年は優しく、親鳥が雛を包むよう少年の背に腕を回す。一度少年の髪に埋めた顔は、このときは別の位置に移した。クロムは己の鼻を少年の首筋に寄せる。すう、と息を吸うと何処か懐かしい匂いがする。言語化するのは難しい、だが嫌いではない匂いだった。
     心が落ち着く感じがして、クロムはおのずと双眸を閉じる。何の匂いだろうか、ぼんやりと思考を巡らせると彼の頭がふと木漏れ日を連想した。温かく慕わしい匂いだ。可憐な花の香が混ざっている気もする。結局のところ上手くまとまらないが、好ましい匂いだとクロムは思った。
    「シエルはいい匂いがする」
    「に、匂い!?」
     青年に抱かれうっとりと目を伏せていた少年は、予想だにしない単語に瞠目する。腕の中で混乱をきたし、シエルは抱擁から逃れようと身をよじらせた。そうはさせまいとクロムは両腕に力を込めて制止する。幸せな匂いを放つ子供を離す気はなかった。
     青年の意志を薄っすらと察し、シエルは恥ずかしいながらも青年の好きにさせる。己の体臭をこうも意識する機会を、彼は日々の中で持たなかった。愛しい人に指摘され穴があったら入りたい心境になる。意識すると余計気になってしまって、彼はおずおずと口を開いた。
    「オレ、どんな匂いなんスか…? その、変な匂いだったら、オレ、」
    「問題ない」
     首筋に青年の顔が触れたのを感じ、シエルは恍惚を味わいつつ羞恥によって身を竦ませる。まさか玄関先で触れ合うとは思わず、彼は徐々にだが意識が遠ざかっていくのを自覚した。理性に霞みがかかり、自分が自分ではない感覚がする。彼が“ふっ”と息を零すのを耳にし、クロムが目を嬉しそうに細めた。
    「落ち着く匂いだ。心配しなくていい」
    「は、はい……」
     青年の感想に安堵する子供は、相手の体温を感じるうちにあどけない顔に幸福感を広げていく。彼は頬を赤く染めて、自分でもわからぬうちに言葉を発していた。
    「クロムさんも、いい匂いがします」
    「そうか」
     青年に香水をつける習慣はなく、香がするならばそれはボディソープかシャンプーか……シエルを味わう彼は“なんの匂いだろうな”と頭の片隅で考えながら、意識のほぼすべてをシエルに注いだ。青年の発した耳に心地良い声を聞き、シエルは今になって発言に“はっ”と目を見開く。彼は己の失言に冷や汗をかき、上ずった声で早口に詫びた。
    「わっ、オレ、何言って……! 忘れてくださいクロムさん、オレ、なんてコト……!」
     狼狽するシエルにそれ以上何も言わせなくなくて、クロムは相手の顔を自身の胸に埋めさせる。体格差ゆえにクロムの目論見は容易く成功して、シエルの顔はクロムの胸部に収まった。クロムは一方の腕をシエルの背に、もう一方を橙色の後頭部に回す。シエルの――青年ほどではないが――鍛えられた背中と橙の跳ねた髪の感触が、クロムの掌に心地良さを感じさせた。
     クロムの掌にシエルもまた安らぎを覚え、彼は乱れた精神を一度鎮め、大切な人の名を小さな声で呼んだ。
    「クロムさん……」
    「気にしなくていい。大丈夫だ」
    「はい……」
     敬愛する人に宥められた子供は赤面しながらも頷き、青年の胸の中で大人しくする。青年の胸筋は服越しであっても伝わり、シエルは鼓動を少しずつ速くしていった。静穏と高揚、相反する要素を同時に抱き、シエルは青年の胸の中で双眸を伏せる。たとえ目を開こうとも目の前は青年の胸に閉ざされて真っ暗だ。安息の暗闇の中、シエルは愛する人に包まれて口元に笑みを乗せた。
    「もう少し……こうしていたい」
    「クロムさんがそうしたいなら」
     青年の望むがままに身を任せる少年に、クロムは“ありがとう”と感謝を述べる。
     口元に柔らかな笑みを乗せて。クロムは長い時間シエルを腕の中に収めていた。
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