一歩ずつ前に 龍宮クロムの復帰後第一戦となるタイトルマッチは、彼の圧勝をもって終わった。
頂上決戦でのバトルから一ヶ月後、彼は無事ペンドラゴンに復帰した。卒倒の際体を強打した彼は幸い後遺症もなく、休養を経てコンディションを元に戻す。彼が空白期間を置くきっかけたる決戦での振る舞いは放送事故とも呼べるものだったが、人の記憶はあっという間に薄れるもので一ヶ月後には誰も問題にしなかった。彼はチャンピオンチームのリーダーとして多忙な毎日を送っている。もっともマネージャーも専務も少しはあの日を気にしていて、スケジューリングには細心の注意を払っていた。
――クロム選手、チームクリタシアズに三連勝! 流石チャンピオン、圧倒的な実力を見せつけた!
勝ち抜き戦を制したのはチームペンドラゴン! 素晴らしいバトルをサンキューな!
実況AIが興奮気味にまくしたてる中、クロムは対戦チームの最後の相手を見据える。Xタワー88階に籍を置くチームクリタシアズはクロム独りに三人とも瞬殺され、その三人目が珠羅レックスだった。野獣の如き男が目を怒らせ悔しさを露わにした表情でクロムを睨みつける。青年は男を氷の双眸で見据え、
「予測不能のベイ――ティラノビート、か。
自分でも操れないベイで勝てるほど、頂上は甘くない」
冷ややかな声で言い捨てた。
拳を震わせるレックスに容赦ない言葉を告げ、クロムはチームメンバーの待機スペースへと足を進める。そこにはシエルとシグルが立っていて、前者は活発な笑顔で、後者は普段の無表情でリーダーを迎え入れた。先鋒として戦いを勝ち抜いた彼に二人が思い思いの言葉を口にする。青年が精神に異常をきたした頃彼等の関係は歪であったが、今となっては過去の話だった。
「クロムさん! 流石っス!」
「やっぱり、クロムは強いね」
「リーダーとして務めを果たしたまでだ」
青年は殊勝な言葉を伝え、微かに口元をほころばせる。ふっ、と笑った彼の目はプロになりたての頃のまっすぐな光が灯っていた。
「オレを信じファーストブレーダーを任せてくれたこと、感謝する」
シエルとシグルは病み上がりの男にバトルを託し、勝利を信じ見守っていた。二人の心意気を彼は心から有難く思う。本心から発言する男に二人は信頼に満ちた視線を送る。頼もしい視線に応えるよう 青年はチームメイトを連れて舞台に戻り、声援を送る観客に手を振った。頂上のアクションに観客が歓声を一際大きくする。歓喜に沸く声を耳にしながらクロムはいつぶりだろう、穏やかな気持ちで受け止めた。
試合が終わり廊下を歩いていくペンドラゴンの前に、体格の優れた中年男が現れた。
「――戯画谷専務」
スポンサー企業・銅田産業の専務である。クロムの声に男は満面の笑みを顔に乗せ、三連勝を果たした青年に歩み寄った。
「流石はクロム君! 立派に復帰戦を果たしてくれたね!」
ペンドラゴンは常勝無敗がスローガンであり、クロムの敗北に専務は一時期機嫌を悪くしていた。しかし調子のいい男はチームの大勝利に気を良くし、これまでの苛立ちを綺麗さっぱり消し去った。クロムは内心冷ややかだったが立場上穏便に済ませる。プロデビュー前から優等生だった男は相変わらず大人の対応を見せるのだった――青年の胸中を知らず専務はいよいよご機嫌となる。
「今後もこの調子で頼むよ!」
ボディービルのポーズを取り、専務は大笑しながら来た道を戻る。スポンサーの態度にシエルはクロム以上に思うところがあったが口は出さず、男の背中に顔をしかめつつも耐えてみせた。一方シグルはいつもと変わらぬ無表情で専務の後ろ姿を凝視するのみだ。彼女が感情を顔に出すなど滅多になかった。ペンドラゴンとスポンサー企業の関係は、内実はともかく表面上は上手くいっていた。
「ああ、そうだ、クロム君」
そのまま去っていくと思われた専務が不意にペンドラゴンを振り返る。シエルは慌てて顔面の不機嫌を引っ込め、唐突な男の出方をうかがった。専務はクロムを見つつ首を傾げる。
「ペンホルダーはどうしたんだね?」
クロムが髪につけていたペンホルダーは頂上決戦を境に失われた。クロムの心臓がどきりと不自然に脈打ったが、彼は端的に“失くしました”と、つとめて平静を装って答えた。
「倒れたときに落としてしまったようです」
運営から遺失物の連絡はなく、ペンホルダーは結局見つからなかった。実はエクスが破損したそれを拾っていたがクロムが知る由もない。専務は手を口元にふうむ、と思案顔をする。スポンサー企業にとって自社商品を身に着けてもらうのは商品宣伝の点から重要だ。
「それは困るな。我が社の商品をアピールしてもらわねば」
「……」
青年の表情が、男にはわからない程度に翳った。
彼の精神は確かに乱れたが、決して専務には悟らせず相手の好きなように言わせる。頂上決戦で暴言に等しい言葉を吐きその後倒れた彼は少なくない迷惑をスポンサーに掛けている。必要以上にスポンサーとの関係を悪化させるのを厭い、従って彼が取れる対応は沈黙のみであった。無神経な男に苛立ちを覚えるがさりとて不穏な反応を示せば角が立つ。クロムはまだ年若いながらそのあたりはひどく成熟していた――彼の胸中が相手に知られるなど有り得なかった。
(あれはスポンサーの宣伝のためにつけたんじゃない)
彼は心の中で唇を噛む。
(エクスがつけてくれたものだ)
たとえ大切な人からの品を商品の一つと見なされようと、彼に抗議出来ようはずもなかった。
「そうだ、これを機に新しい商品をつけるのもいいかもしれないね! どうだろう、カタログを持ってこようか」
「ははは…」
クロムは愛想笑いしてはぐらかす。
「まあ、それについては後ほど」
勝手に話を進める男にやんわりと返し、クロムは話をそこで打ち切る。彼はさっさと終われと心中苛立っていたが、端正な顔が怒りを滲ませはしなかった。ただ青年を案じる者が見れば彼の笑顔は取り繕った印象が強く、シエルは青年の内面を推察する。最年少のブレーダーの顔が露骨に歪む、もっとも専務は気づかず彼等の精神を掻き乱した末に去っていった。
面倒事が去り、その場には好き勝手言われたリーダーと彼を気遣うメンバー二人が残される。シグルもまた青年の胸中を察し、
「クロム。大丈夫?」
彼を気遣う様子を見せる。シグルは他者に冷たい印象を与えるが、実際は心配りの出来る人物だった。平穏とは言い難い空気の中、慌ただしく廊下を歩く足音が近づいてくる。三人が意識を向ければ彼等の前方、マネージャーの男が冷や汗をかきながらこちらにやって来る姿が見えた。
「シグルさん!」
気弱そうな眼鏡の男が焦った声を聞かせる。シグルはこのとき初めてスケジュールが押している現実に気がついた。タイトルマッチから時間を置かずモデルの仕事が控えていた。クロムの記憶では今日だけでなく明日もモデルの仕事が入っている。クロムはもちろんだがシグルも慌ただしい日々を送っていた。彼女はマネージャーに促され、
「じゃあ私、仕事行ってくる」
クロムとシエルとは違う目的地へと歩いていく。遠ざかる彼女の背中を眺め、クロムはふと、遠くを見るぼんやりとした表情を浮かべた。
心ここにあらずといった、ひどく頼りなさげな雰囲気だった。
ファンに向ける爽やかな笑みとも、バトルでのそれも違う。まるでたった独り荒野に置き去りにされたかのような顔だった。斯様な表情を彼が見せるのは珍しく、シエルがはたと気づいて目を留めた。
(クロムさん…?)
少年が戸惑い、何かしら話さねばと口を開きかけたとき、
「――シエル」
青年が傍らの少年を呼ぶ。
「は、はいっ」
そのときにはクロムは先程とは打って変わった引き締まった顔となり、
「明日、付き合ってくれるか」
と言った。
翌日はクロムとシエルどちらも時間があり、二人はXシティの某所に足を運ぶ。そこは銅田産業の商品が多く納められている雑貨スペース広めの文房具店であり、お土産雑貨コーナーでは多種多様なキーホルダーが壁の一角を彩っていた。
「たくさんあるッスね~」
「ああ」
観光地でよく見かける龍や剣をかたどったキーホルダーが細長いフィルムに包まれ壁に吊るされている。商品は所狭しと並んでいて、クロムの目から見れば供給過剰に思われた。観光地でよく見かける品は小中学生の男子に人気があり、かなり昔から現在まで販売されるロングセラー商品である。もっともクロムはそういった品に関心はなく、プロデビュー前に専務から渡されるまで手に取ったことはなかった。
クロムはシエルに同行を頼み、承諾を得てこの場所に赴いた。
「この店に納品していると、前に聞いたことがあってな」
腹の底はどうあれ青年とスポンサー企業の関係は良好であり、クロムは世間話でそういった話を耳にしたりもする。愛想笑いで適当に聞くのも仕事のうちだ、彼はまだ年若いながら完全にわきまえやり過ごしていた。暑苦しい専務が以前口にした話をしっかりと憶えていた彼はシエルを連れて目当ての品を探す。専務に申し出ればすぐに品を受け取れるものの、クロムは気分的にそれを却下した。
クロムはシエルと並んで立って壁を眺め、意中の品を探している。雑貨コーナーには商品が数多展示されていたが、肝心の品は見当たらなかった。文房具コーナーか、と、クロムは別スペースに足を運ぶ。シエルは青年が何を探しているのかを知らず後をついていくのみだった。
「あ! これ、クロムさんがつけてた――」
探す場所を変えて直後、シエルが発見する。少年の声にクロムが少なからず驚き、短い吐息として表出させた。彼の胸に、あの日の記憶が鮮明に蘇る。筆記用具が置かれた場所のそばに“それ”はあった。
銀色の光沢が美しい、龍をかたどったペンホルダー。龍は包装用の透明のフィルムの中で螺旋を描き、銀色の光沢を放っていた。
(あった…)
クロムが髪飾りとして持っていたそれは、彼が身に着けていた以外に複数の同型があった。
「石の色が違うッスね」
「ああ。全部で五種類ある」
「ホントだ……!」
龍の胴体に水晶を連想させる石が飾られていて、石の色はクロムの言う通り青と赤、黄、紫、緑がある。クロムが所持していたのは青の石をあしらったものであり、ペンホルダー売り場で同種のものがごく普通に並べられていた。クロムが髪飾りとして用いた文房具は何処でも手に入る、有体に言えばチャチな代物だ。彼ほどのブレーダーならばいくらでもブランド物で着飾れるだろう、だが彼は平々凡々な品に固執した。
(あいつがつけてくれた物と、同じ)
クロムが遠い目で昔を思い出す傍ら、シエルは無邪気に顔を明らめている。雷が宿る目を輝かせ少年は感嘆の声を上げた。
「赤いのもあるんスね。なんだかバードさんってカンジの色ッス」
少年は初対面こそ風見バードを侮っていたが、熾烈な戦いの末に相手の実力を認めた。最近ペルソナは70階まで上昇し、最近は運営の意向もあって中々試合が決まらずにいた。
「バードさん、よく公園に居るんスよ。子供達にベイを教えていて……」
彼は微笑みつつ、瞳に強い力を込めて宣言する。彼の手には無意識に力がこもっていた。
「今度はちゃんと勝つッス」
「……」
シエルの言葉にクロムの瞳が一瞬痛みを孕むも、彼は理性でもって感情の揺らぎを抑制する。“あいつと共に居られなかった”と苦しい気持ちが胸に湧いたが、その気持ちは即座に胸の奥にしまわれた。あの日の痛みをぶり返すも感情を押し込め、クロムはしばし黙考する。ややあって彼はペンホルダーの一つを素早く手に取った。
「クロムさん?」
まるでかっさらうような手の動きにシエルは目をまるくする。驚く少年をよそに青年は何も答えず、足早にレジに向かった。
「クロムさん、待ってくださいッス!」
ぽかんとその場に立ち尽くし数秒。慌てて後を追い青年の許に至ったとき、クロムは既に店員に品を渡し終えている。小さな紙袋にテープをつけて梱包されたそれは、間もなくクロムの手に預けられた。店員の動作は素早いものだ、たとえ有名人が目の前に居ようと業務に支障をきたさない。プロ意識が高いのかそれともクロムのまとう空気が有無を言わせなかったためか――シエルから見たクロムは唐突に物々しい空気を醸し、近寄りがたい雰囲気となった。何がきっかけだろう、青年の胸中を読めぬ少年は躊躇いがちに相手を見つめるのみであった。
「――……」
少年の動揺にクロムは気づいていたが、敢えて知らぬ振りをする。揺らぐ視線を受けながら彼は会計を済ませた。このとき時刻は11時20分、クロムは早足で歩きだす。彼の胸には“あの日”の思い出があって、その想いから来る衝動が彼を突き動かすのだった。
「少し早いが食事にしよう。行きたい場所が近くにある」
「は、はい!」
何事かわからず、だが青年の心が激しく動いたのを目の当たりにして。シエルはわからないながらも付き従う。二人の歪んだ関係は既に修復されたが、青年のためならば何でもするとの誓いは未だ少年の中に在った。
クロムがシエルを連れて向かったのはとある寿司屋であり、彼は以前ペンドラゴンの三人でここを訪ねている。まだ黒須エクスが在籍していた時代、今となっては遥か遠くとなった過去だ。寿司屋の佇まいはあの頃から寸分も違わず、まだクロムが心から幸せだった頃の外観を見せつけていた。
懐かしい。クロムは心の中でそう呟きシエルと共に入店する。彼の傍らで少年がひどく体を強張らせていたが、
「大丈夫だ」
と、背中を軽く叩き店内へと促す。
「は、はい…」
おどおどと返事するシエルを座らせ、クロムは二人分の寿司を注文した。
「上寿司二人前ください」
現在時刻は11時半を少し過ぎたところで、まだ開店して間もないこのとき彼等以外に客は居ない。店内は静寂に包まれ、シエルは無音の空間ゆえに一層体を固くしていた。それなりに広い店、しかもそれなりに高そうな寿司屋である。クロムは石のようになったシエルと向かい合って、
「緊張しなくていい」
低くよく通る声を聞かせる。少年はかろうじて聞き取れる声で答えるのがやっとだった。
「は、はい…」
「付き合わせてすまんな、シエル」
「そ、そんな! オレ、クロムさんと一緒に居られて嬉しいッス!」
「そうか……」
自身の行動を顧み今更申し訳なさを感じたクロムであったが、さりとてシエルを連れ回すのを悔いはしない。クロムには相応の覚悟があってシエルと共にここに来た。シエルほどではないが脈を速めるのは彼も同じだ――あの日を胸に浮かべクロムは表情を引き締める。彼は当時と同じ場所に腰を下ろしていた。
あの日彼の相向かいには愛しい少年が居て、ペンホルダーを手に無邪気に笑っていた。今は袂を分かった人――黒須エクス。子供の歯車を連想させる瞳と魅力的な笑みは、クロムの胸で今なお鮮やかだった。あのときのやりとりがまるで昨日のことのように思い出される。最も幸せだった過去は美しく、同時に胸を締めつける痛みを有していた。
(エクス…)
去ってしまった人を鮮明に蘇らせる中、注文していた寿司が供された。
「へい、上寿司二人前お待ち!」
威勢のいい寿司職人の声に我に返り、クロムは平常心を心掛けて寿司を受け入れる。マグロをはじめとする上質なネタにシエルが目を輝かせ、食い入るように寿司を見つめた。“美味しそうッス!”とはしゃぐ姿は子供そのものであり、普段しっかりしている少年にしては幼く見えた。シエルは声を弾ませて直後、己の子供っぽさに赤面する。恐縮する彼にクロムはふっと微笑し食事を促す。少年の微笑ましい姿は過去に感傷を抱く青年の心を和ませた。
「いただきます」
柔らかな声で口にする青年に倣い、シエルもまた“いただきますッス!”と手を合わせて言う。子供は寿司を頬張り美味を堪能し、満面の笑みを答とした。
「美味しい。幸せッス……!」
「良かった」
恍惚の表情を浮かべる少年にクロムは顔をほころばせ、二人は幸せな時間を共有する。彼等の関係は良好そのものであり、シエルがペンドラゴンに加入した当時からは想像もつかぬほど穏やかだった。エクスの代用品として扱われた少年の過去は悲惨の一言と評しても大袈裟ではなく、シエルはエクスへの憎悪と嫉妬で胸を焦がした。だがあの頃は既に過去となっている――二人は真のチームメイトとして関係を深めていった。
最初はぎこちなかったやりとりも今では自然なものとなり、食事や買い物を通して距離を縮めていった。時間を共有し大切な人のそばに寄り添う、シエルは今ではとても幸せだった。
あの日憧れた人がそばに居て、同じチームで共に戦っている。黒須エクスへの執着を捨てた青年は優しく、温かく。初めて対面したあの日の彼がシエルの前に居た。
食事はさして時間が掛からずに終わる。寿司を食べ終えたシエルがぱあっと明るい笑みを見せた。
「ごちそうさまッス。すごく美味しかったッス!」
「そうか」
クロムは湯呑みを手に微笑んでいる。茶を啜ってしばし、
「シエル」
青年は懐から紙袋を――購入したペンホルダーを取り出した。
「オレは……前と同じに、これを着けようと思う」
テーブルに置かれたとき、ペンホルダーは透明なフィルムを取り払われて剥き出しの姿を晒している。テーブルの上で銀色の龍が、細長い体で螺旋を描いていた。
「賛成ッス。クロムさんには龍がいちばん似合うッス」
シエルはにっこり笑っている。彼は緊張のあまりすっかり忘れていたが、彼等は銅田産業のPRのための品を探しに来たのだった。
「もちろん、クロムさんなら何でも似合うんでしょうけど……オレはそれが一番好きッス」
「そうか」
無邪気に笑う少年を前に、青年は心に沁みるような微笑を浮かべ小さく相槌を打つ。嬉しい感情を抱く一方、胸に親指を上げて笑うエクスがさっとよぎり温もりと痛みをもたらした。あの日目の前に座っていた少年は別の人物となり、時は流れ。クロムは当たり前の事実を今更ながら再認し、ほろ苦さの滲む声で言った。
「そう、だな」
青年の胸に、最も大切だった少年に対する感情がわだかまる。シエルが何も知らず笑みを零す中、彼の内面は過去に想いを馳せていた。頂上決戦の日、彼は黒須エクスと雌雄を決するためすべてを懸けて戦った。
憎しみ、妄念、執念――胸を抉る言葉を放ち去っていった少年を超えるため、彼は強烈な感情を胸に戦った。全力を懸けて挑んだものの彼はエクスから1ポイントも取れず敗北し……戦いの果てに、彼はエクスの笑顔に胸を打たれた。
少年の至高の笑みに心の闇が晴れ、意識を失い目覚めたとき既に妄執は霧散して。クロムの中でエクスに対する執着は消え、それきり一度も会わなかった。あいつとはベイを通じて語ればいい、と考えたためだ。次に会うときは必ず勝つ、と――そしてエクスに関しては何もかもが終わった。
髪飾りを失った事実に気づいたのは目を覚まして間もなく、医務室のガラスに映る己に何気なく視線を遣ったときだ。彼は己の髪に違和感を覚え、直後呆然とした。失くした、いつの間にか失ってしまった。倒れた拍子に落ちたのだと漠然と悟ったが遺失物の届はなく、彼にはどうにも出来なかった。ぽっかりと胸に穴が空いた心境で彼はひと月を過ごした。
彼が片時も離さなかった髪飾りは容易に手に入るペンホルダーであり、クロムは購入しようと思えばいつでも可能だった。だが物理的に可能でも心情的にふんぎりがつかなかった。たとえ新たに手に入れようと、それは物質的に同じであろうがエクスがつけてくれたそれは違う。喪失感に胸に虚無を抱え、一ヶ月間。彼はずっと迷い、専務に指摘されて否応なしに現実に直面する羽目となった。
「――シエル」
クロムは話すべきか数秒逡巡する。だが意を決して口を開く。
「この飾りは昔、エクスがつけてくれたものだ」
明るく笑っていたシエルが瞬時に凍りついた。
“クロム、これ、つけてみたら?”
愕然とする少年の前、青年は無邪気な“あいつ”の言葉を振り返る。
「オレはあいつとシグルとここに来て、寿司を頼んで。あいつはペンホルダーを手にこう言った」
“これ新商品だって。かっこいいね”
“ペンとかにつけるんだって。社長が言ってたよ”
「あいつはオレの言葉も聞かず強引に……その日からオレはペンホルダーをアクセサリーにして身に着けたんだ」
突然の行動に驚くクロムに構わずエクスは親指を上げて白い歯を見せ、一方青年は呆気に取られつつも満更でもなく。彼はエクスに甘く、愛しい存在のためなら何でも受け入れた。自由奔放でベイと寿司にしか興味を持たない子供にクロムは虜になっていた。エクスさえ居れば彼は富も名声も要らなかった。エクス以外のすべてがどうでもよかった。
あの日奇妙な寿司を満面の笑みで食すエクスが居て、温かく幸せな時間が流れていた。愛しい日々があった。今となっては遥か遠くに行った思い出だ。
「とても大切なものだった。あいつとの戦いのあと失くしてしまったが」
「クロム……さん」
青年の告白にシエルの顔から血の気が引き、今にも倒れそうなほど真っ青になる。クロムと過ごした今が、眩い時間が、シエルの中で一瞬にして灰色と化した。Zの仮面を被るきっかけとなった少年の話にシエルの胸にあらゆる負の感情が吹き荒れる。嫉妬、憎しみ、悔しさ、悲しみが。何故このような無体な話をするのだ、と、少年の目が彼の胸中を雄弁に訴えた。
「なんで、こんな話、」
声の芯がブレて湿り気を帯びるのを、シエルは理性で必死に抑えんとする。しかし多感な少年の感情は激流となり、彼の胸は焼きごてを当てられたが如き熱と苦しみを覚えた。彼の目に映る青年は淡々として、唐突な告白の真意は読み取れない。唇を震わせたどたどしく尋ねる、その彼を青年は手を前に出して制した。
「色が、違うんだ」
青年の言葉にシエルは話の筋が見えず、狼狽の表情で相手を凝視するのみだ。意味がわからない、そう双眸で答える子供にクロムはペンホルダーにあしらわれた石に指先で触れて示した。
「あいつが持っていたのは青の石の龍で、こっちは緑だ」
「え……?」
ペンホルダーはよく見れば石の色がかつてクロムの身に着けていた物と違う。シエルは憧れの人の写真や動画をよく見ていて、それゆえ髪飾りの違いに気がついた。今テーブルに置かれている龍は緑の石を胴体部分に付けている。透き通った緑色だ。シエルは息を止めて以前とは異なる石に見入った。
「あのペンホルダーはオレの宝物だった。だが、もう……終わったことだ」
エクスは風見バードと共に居て、青年が腕を伸ばそうとも絶対に届かぬ場所に行ってしまった。“あいつの隣に居るのはオレじゃない”と、彼は胸を刺す痛みと共に思い知った。エクスと勝利の喜びを分かち合う風見バードに嫉妬の念は無論あった。エクスに対する未練も、また。髪飾りを喪失して早ひと月、彼は許されるならば髪飾りをつけた場所を空白のままにしたかった。今は、まだ。
だがスポンサーの意向もある。しかし一方で良い機会かもしれないと思う。弱い自分と決別するため彼は決意した。
(やっと、スタジアムに立てた)
一ヶ月の休養は観衆にとってはあっという間だが彼の中では決して短くない時間だ。消耗した体を休め、荒み切った部屋を整え己を見つめ返し。なまった体を鍛え元に戻すのもそれなりの時間を費やした。その果てに彼は戦場に帰還した。
マネージャーと共に廊下を歩いていくシグルを見、クロムは己が本来の居場所に戻ってこられたのだと実感する。彼女がその場を去り、シエルと二人で廊下に佇んだとき。彼は己のそばに居るのがエクスではなく、神成シエルであると意識した。
エクスと別れた日から月日は流れ、彼の隣には献身的な少年が――ひどい仕打ちを受けてなおクロムを慕い、気に掛けてくれた少年が居た。雷の目を持つ彼は復帰戦にて全幅の信頼を寄せ、青年の勝利を我が事のように喜んでくれた。
クロムの心は、まだ完全には吹っ切れていない。シグルを見送った昨日、彼はまるで荒野に独り取り残されたような心境で彼女とマネージャーの背に視線を投じていた。エクスとの別れは寂しく、苦しく。しかしいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。
(バトルに戻ってこれた。
ならば……気持ちの上でも、オレは、前に進まなければ)
シエルとの歪んだ関係を清算し新たな関係を築いた今、彼は更に前進したいと思う。たとえ苦しくともいつの日か、昔を温かな思い出として振り返れるように。そのためには今を――神成シエルと共有する日々を大切にしたい。己が狂気に呑まれていたとき、決して見捨てず寄り添ってくれた人に報いたい。
ゆえに彼は、己が身に着ける髪飾りに少年の色を取り入れた。
「シエル」
真心をこめて少年の名を呼ぶ。
「君の目は緑色だ」
シエルが息を止めてクロムを見つめる。雷を宿す瞳が見開かれる、その双眸には誠実な面持ちの青年が映っていた。シエルの目をまっすぐ見つめ返し、クロムは胸中を告白する。
「オレは……あいつを完全に忘れることは出来ないと思う。オレはあいつに必要とされたかった。その気持ちを、簡単には断ち切れない。
だが。いつまでも過去に囚われてはいけない、と……そう思って。新しく身に着けるそれを、君の色にした」
「クロム、さん」
新たなペンホルダーを手に取りシエルの前に差し出す。それは物質としてはただ文房具であり、稀少価値はない。だがクロムの精神からすればそれは唯一無二と断言出来る、非常に重い意味を持った。石の色を緑へと変えた髪飾りをシエルは恐る恐る受け取る。両手で大事そうに持ちうかがうように視線を投じるシエルに、クロムは、
「君がオレに、つけてくれないか?」
真剣な眼差しを注いだ。
「クロムさん……」
「頼む」
「……」
シエルはペンホルダーを手にしばし呆然としていたがやがて決心し深く頷く。少年は雷の目に眩い光を宿し、透き通った微笑をもって答とした。
「はい……クロムさん」
クロムの髪に新たな髪飾りが、黄金の美しい髪に添えられ光沢を放った。
一見すると以前と変わらないが目を凝らせば昔と異なる色が、彼の髪に煌めいている。クロムは一人のブレーダーとして昨日復活を遂げ、この日一人の青年としてまた一歩前に進んだ。ゆっくりと己の道を歩んでいく。一房の髪をとり髪飾りを見、クロムは晴れやかな笑みを浮かべた。
「ありがとう……シエル」
微笑む青年に心を打たれ、シエルは目に熱いものがこみ上げるのを自覚する。決して悲しみゆえではない涙を双眸にたたえ、シエルは木漏れ日の笑みを顔いっぱいに広げた。