心に仮面を被せて 魚を釣って戻ってきたシエルは、予想外の来客を前に棒立ちになった。
銀狼の許に押し掛け弟子入りを志願して数日、彼は眼前に業深き者を見出す。仮面Xを名乗るブレーダー――黒須エクスはこのとき、人目に触れる屋外にて素顔を晒していた。銀狼と何やら話し込んでいたところに出くわしシエルは呆然とする。来客はエクス以外にバードと侍姿の少女が居たが、少年は驚きのあまり二人を意識の外に追いやった。
シエルの脳にエクスのみが強烈に刻みつけられる。正体を隠しているはずの子供は理由は不明だが仮面を脱ぎ、眩い笑みを振り撒いていた。明るく無邪気な、悪意というものを持ち合わせていないと言いたげな表情だ。しかしシエルは黒須エクスが一人の人間を狂わせた事実を知っていた。
龍宮クロムはエクスによって壊された。
エクスを凝視するうちにシエルの胸にクロムの双眸が浮かぶ。喜びから一転奈落に叩き落とされたあの日、少年は青年の双眸に虚無と狂気が宿るのを目の当たりにした。高層マンションのクロムの自宅に呼び出され、悪夢のような再会を果たした。薄暗い部屋、青年の目はシエルを捉えていながら実際は何も映してはいなかった。憧れの青年は既に正気ではなかった――呪わしい過去を思い出し、
(黒須……エクス…)
シエルは胸の中に、憎悪をはじめとする負の感情がぶわりと広がったのを自覚した。
エクスを前に立ち尽くすシエルはそれでも数秒後に我に返り、狼狽を隠し食事の準備に取り掛かる。先ほど釣ってきた魚を焼く、屋外の調理は火の調整が困難だがシエルは器用なもので程よい加減に魚を焼き上げた。美味しそうに食す四人の姿を確認し、彼は胸中を誰にも悟られていないと安堵する。彼は内心ひどく動揺していたが感情を胸に押し込め平時と変わらぬ彼を演じ上げた。
「あのあとすぐ、銀狼師匠に弟子入りしたッス」
バードに何故ここに居るか問われた彼は、エクスへの複雑な感情を抱えながらも出来得る限り明るい顔で経緯を説く。万獣クインの紹介で銀狼を知った彼は、幾度弟子入りを拒まれようと構わず連日男の許を訪ねた。晴天の日も雨の日も諦めず通い詰める。男に挨拶を無視されようとシエルは退かなかった。
男も少年に思うところがあったのだろう、ある日熱意を認め滞在を許す。もっとも男はシエルの師匠になる気はなく、
「お前を弟子に取った覚えはねえ」
魚を食べながらにべもなく言った。
「そんな殺生ッスよ……」
シエルのぼやきに構わず銀狼は魚を口に入れる。男はかつて一度だけ弟子を取った。
素質のある子供を手許に置き修行を課す。男が見出した者こそ黒須エクスであり、当の弟子は魚を頬張りながら“美味しいね、師匠”などと口にした。シエルは愕然とし食い入るようにエクスを見つめる。己が幾度頼もうとも弟子になれない状況下で、さらりと事実を突きつけられるのはショックだった。
「最強を超える素質……まさか、師匠の弟子って……!」
エクスはにこにこと笑い、シエルの心中などお構いなしに能天気でいる。シエルがどれほど鍛錬に励もうと少年は容易く、無邪気に他者を超越した。努力とは無縁の才能を見せつける子供は自身には自覚はないだろうが残酷である。明るい笑顔、天衣無縫な性格、天賦の才がシエルの神経を逆撫でする。エクスは何も悪くない、だが悪意なくとも彼は他者を追い詰めた。
「お前、試しにエクスとやり合ってみるか?」
「えっ…」
「ボクはいつでもOKだよ!」
天才は何の邪気もなく事もなげに発言する。ベイを愛してやまない少年はクロムを、シエルが最強と認める青年を決戦にて1ポイントも取らせず破った。屈託のない笑顔が胸に苦しく、シエルは無意識に視線を反らす。同じペンドラゴンに属するとはいえシエルの実力はクロムには程遠い。ゆえに勝負したところで勝敗は火を見るよりも明らかだった。
「い、いや……今のオレじゃ…」
「話にならんな」
動揺するうちに成り行きで少女とバトルし、彼はろくに知らぬ相手――白星テンカに惨敗した。
「瞬…殺……」
訳も分からぬうちに敗れた彼はがっくりと肩を落とし、力なき瞳を地に伏した己のベイに向ける。ブラックシェルは持ち前の防御力を発揮する間もなく跳ね飛ばされ、放物線を描いて地面に落ちた。圧倒的な力の前に玄武の独楽は成す術もない。彼は真っ白になった頭でのろのろと愛機の許に歩み寄り、石山タクミ以来二度目となる敗北に打ちのめされた。
(そんな……)
彼の熱意が、長く険しくとも道を進もうと誓った意志が、無常に斬り捨てられた気がした。
(クロムさんがくれたベイで、負けた……)
彼はブラックシェルを拾い呆然とする。彼の頭は真っ白になり、四人がぱっくんに言及する中彼はほとんど反応を返せなかった。ぱっくんという名のインフルエンサーを、シエルもまた名前だけは聞いている。何千万ものフォロワーを持つ配信者は不正発覚後随分と叩かれたらしいが、ファンでもない彼は“天才ベイクラフター”の近況をまったく把握していなかった。
ぱっくんは何者かに襲われどこかに監禁されているらしく、銀狼が証拠を提示する。救出のために人手が要る、と、シエルが師と仰ぐ男は拳を固くしていた。
「お前も行くぜ」
「え…」
「お前のベイ魂はこんなもんじゃないだろう?」
「……」
銀狼に斯くの如く言われたところでシエルは茫洋に頷くのみである。玄武を初めて下されたシエルは大切な人がくれたベイを手に、曖昧に取り繕うのがやっとだった。
白星テンカは古風な外見の割に最新鋭の電子機器に精通し、ぱっくんの監禁場所の解析に着手する。光源や動画から聞こえてくる音声を基に、彼女はとある倉庫街に当たりをつけた。彼女が正確に位置を特定するまでにはしばらく時間が掛かる。彼女はノートパソコンと睨めっこしながら、確実にこの場所であると断言出来るよう情報を精査していた。
彼女が川辺でパソコンと向き合う時間は長く、既に昼食から数時間が経過している。空の上部に微かに茜色が広がり始め、ゆっくりとだが確実に空の青を侵食していった。ぱっくんの居場所が判明するまでエクスとバードはスパーリングを行い、銀狼は小屋へと戻った。一方シエルは彼等とは離れた場所に独り佇んでいる。彼は仮面を両手で持ち、Zの文字に険しい視線を注いでいた。
「……」
ぱっくんの囚われた場所はテンカの見立てでは倉庫街のどこかであり、一行は判明次第施設に潜入する予定である。相手は裏プロなる得体の知れない連中であり、こちらの正体を知られるのは危険を孕んでいた。シエルは仮面を被り救出に加わるつもりでいる。あの日青年に渡された仮面がこのような事態に役に立つなど、彼は予想だにしなかった。
たとえ忌まわしい記憶を呼び起こされようとも、シエルは慕わしい人がくれたそれをよすがとして手元に置いている。クロムが行方知れずとなって心が千々に乱れた彼にとっては、呪物さえ支えとなった。クインに鼓舞されて精神はかなり落ち着いたが時に不安に襲われもする。苦しい気持ちを抱え、そのたびに仮面の存在を強く意識した。青年が消息不明となった今では、仮面はブラックシェルと並んで彼と大切な人とをつなぐ絆だった。
“仮面Xになれ”
敬愛する青年はあの日既に壊れていて、困惑するシエルにエクスの代わりを要求した。薄闇の中で対面した青年の目は圧を感じさせる鋭さを持ちつつも、人形の眼窩に嵌められたガラス玉のように虚ろだった。異様な双眸を向けられ仮面を被せられ、シエルはあの日尊厳を踏みにじられた。己を否定されて絶望した、だが自身の感情以上に青年の感情に打ちのめされた。
クロムの中にあるのは寂しさ、怒り、悲しみ、そのどれとも違った。シエルは胸を焼く感情を我が事のように感じ胸を押さえ、憧れの人の胸中を悟った。青年が抱く想いは黒須エクスへの愛と呼べるものであった。純白に支配された、精神世界とも言える場所にシエルはエクスとクロムの姿を見出す。前者は後者を振り返りもせず駆け足で去っていった。
伸ばした腕を力なく下ろす青年の姿が、シエルの目に焼きついて離れなかった。
(クロムさん…)
頂上決戦で倒れた男はシエルに何も言わずに失踪した。
彼は何を想い姿を消したのだろう――どこに行ったのか、青年の足取りは不明だった。沈思するシエルは仮面を穴が空くほど見つめている。真剣な眼差しが怖い程だ、その彼の許にエクスとのスパーリングを終えたバードがやって来た。
「シエル」
仮面を針の目で凝視するシエルはバードの声に“はっ”と振り返る。バードに向ける顔は切羽詰まり雰囲気も重く、拭いようのない影があった。彼のまとう空気がもう一方にも伝播したのか、二人はしばらくの間気まずい空気の中で見つめ合う。シエルがかすれた声を聞かせたのは数秒が経った後だった。
「――バードさん」
「やっぱり、緊張するよな。救出作戦」
シエルの表情はひどく強張っていて、バードはおのずと気遣う面持ちとなる。“大丈夫か?”と、褐色の双眸に憂いを宿し、羽根頭の子供はフォローするように言った。
彼は相手の胸中を知らず、シエルが作戦に対し張りつめているものとばかり考える。実際のところシエルの頭にはクロムしかないわけだがバードに相手の心が読めるはずもなかった。一人合点する少年はしみじみとした顔で言う。彼等ががまもなく踏み込むのは、現実とはかけ離れた世界だった。
「オレ、こんなの初めてだし」
「誰だってそうッスよ」
「実を言うと……情けないんだけどさ、オレ、びびっててさ」
自嘲気味に笑う少年の声は微かに芯がブレていた。
「助けに行ってオレ達まで捕まっちまったら、って……。ご、ごめんな! 不安にさせるコト言っちまって」
バードの振る舞いはごく平凡な少年のそれであり、頂点を目指すプロブレーダーとしては頼りない。だが己の心を偽りなく伝える姿は真摯であり、現在進行形で本心を隠すシエルにとっては非常に誠実に思えた。バードのひたむきさがベイファンから支持される理由なのだろう、シエルは改めてライバルと見なした少年を認めた。
「……。不安なのはバードさんだけじゃないッス。ありがとう、心配してくれて」
焦りつつ弁解するバードにシエルは硬い表情を和らげる。バードの発言は心許ないもののシエルは却って気が楽になった。もっとも穏やかな気持ちになったのはほんの数秒、シエルは先ほどまでの思考に再び浸る。あの日を反芻したところで精神は悪化の一途をたどるだけにもかかわらず、彼は考えずにはいられなかった。
精神を病んだ人の、荒れ果てた部屋を思い出す。黒須エクスがクロムの精神を破壊し、結果青年の部屋は破滅的なそれとなった。
(黒須……エクス)
青年の自室の床には仮面Xおよびエクスの写真が数多散らばっていて、その何枚かが青年とシエルの方を向いている。歯車を連想させるエクスの瞳に、シエルは己が見透かされ嘲笑されていると錯覚した。無論愚かな幻想であり、実際に写真の中の人物がシエルに良からぬ感情を持っているわけではない。だがエクスの無機質に思える瞳が、今思い返しても恐ろしいとシエルには感じられた。
愛らしい顔はただの仮面であり、本来のエクスは残酷で恐ろしいのかもしれない。写真の中でこちらを凝視する少年は、部屋が暗いのもあって莫迦に不気味に見えた。
歯車を目に宿す子供の笑みを記憶に蘇らせ、シエルはまずは恐れを覚える。エクスと己との圧倒的な実力差を痛感し、恐怖に続いて彼は自身の非力への怒りと悔しさが湧いた。数秒置いて自覚するのはエクスへの憎悪と憤怒と、クロムに対する悲しみだ――無垢を装う子供はクロムにひどい仕打ちをし、にもかかわらずのうのうとしていた。
クロムの並々ならぬ想いはエクスにはどうでもよかったのだ、と、シエルは拳を固く握った。
(あいつが……黒須エクスがクロムさんの想いに応えていれば)
人の感情など、特に恋愛絡みでは思い通りになるのは稀だ。だがシエルはエクスを憎まずにはいられない。
(クロムさんはああならなかった。あいつがクロムさんをおかしくしたんだ)
エクスがクロムと共に在ったならあの人は壊れず、自分も酷い仕打ちは受けなかった、と、シエルはどろりとした負の感情を全身に巡らせる。あの日仮面Xになれと命じられたのを思い出し、シエルの胸にコールタールの如きドス黒い感情が渦巻いた。
漆黒の粘性の強い液体が撹拌されてより黒みを強くする。シエルは煮えたぎった感情が気泡を上げたのを頭の片隅で認識した。もしこの場にエクスと二人きりで居たならば、シエルは相手を面罵していたに違いない。だが実際にはエクスは不在でバードのみがそばにいる。バードの手前衝動を押し殺し、シエルは何気なくといった仮面を心に被せ問い掛けた。
「黒須エクスって、どんな人なんスか」
人は誰であれ仮面を被るとシエルは思う。憎悪で胸を焼き焦がしながら、彼は手にしたZの仮面に視線を投じたまま訊く。
「あの人が物凄くベイが強いのは知ってるけど、どういう人なのか知らなくて」
傍から見ればシエルはエクスとの距離を縮めようとしているように見える。バードにとっても自身のチームメイトであり友人たる子供に興味を持ってもらえるのは嬉しかった。だが尋ねた当人は言葉の柔らかさとは裏腹に対象に強い憎しみを抱いている。精神的に仮面を被る少年の本心をバードは知る由もない。
「う~ん……」
ペルソナのリーダーはチームメイトの日常を首を傾げながら振り返る。ベイバトルでは凄まじい力を発揮する子供は、普段は甚だいい加減だった。バトルがない日は寝起きが悪く起きやしない、いつだったか身だしなみがなっていないとマルチから怒られもした。びっくりするほどマイペースな少年はバトルでは一転、皆が度肝を抜く働きをする。一方で狂気的な一面がありもする……だが普段は子供っぽく風のように自由だった。
「バトルは動画で見たッス。とても強くて……、あと、なんだか変わった人ッス」
「ははっ、シエルもそう思うだろ?」
シエルは後ろめたさを覚えていて、Zの仮面を手に目線を下に落としたまま会話する。バードは何も気づかぬままシエルの言葉に晴れやかに笑った。二人が話している間エクスはスタジアムの前に居て、独りでベイを回している。竜の独楽が蒼き光を弾けさせるのを前にはしゃぐ姿は明るく、少年を十に満たぬ子供のように見せた。
バードはシエルの許に来る直前に見た、ベイを楽しむ友の笑顔を振り返る。ベイが大好きな友の喜びを彼は我が事のように思った。
「あいつはベイと寿司に目がなくて、ベイを遊びって言って。シエルの言う通り変な奴だよ。けど」
バードは一呼吸置き、鳶色の目に確信に満ちた光を宿す。彼がまとう明るい雰囲気をシエルは察し、今まで直視しなかった少年に顔を向けた。雷の目が風の少年をまっすぐに捉える。シエルの双眸の中でバードは、
「あいつはきっと誰よりも。ベイが好きなんだ」
雲一つない青空を思わせる顔で笑った。
美しい。シエルは思う。無意識に息を止めて見入る、心惹かれる笑顔だった。
(ああ)
――綺麗だ。
シエルは一点の曇りなき笑みに憧憬と感傷という二つの感情を生じさせる。以前公園で再会し再戦を誓った相手は、シエルから見て眩しいほどにまっすぐだった。心惹かれると同時に自分にはとても彼のようにはなれないという痛みが胸を締めつける。頂上チームの一人でありクロムの不在を守る立場である彼は、バードのように純粋にベイバトルを出来はしなかった。
「……。そうッスか」
胸の疼きをこらえながら、シエルはかろうじてそれだけ答える。彼はバードを認め友人と見なしてはいるものの、完全に賛同するのは難しかった。
(好きなだけじゃ、憧れだけじゃダメなんだ)
挑んでくる相手をすべて叩き潰すのがペンドラゴンであり、常勝無敗を掲げるチームが負けるのは許されない。風と雷、二人は年齢が近く性格も似てはいたが完全に同質ではなかった。バードへの好意より痛みが勝り、シエルは胸を重くする。風の少年の言葉が、立場が。シエルには悔しかったのかもしれなかった。
“オレはあなたのようにはなれない。バードさん”
胸に湧いた言葉が、斯くの如きだった。
「――シエル」
シエルの心の仮面の下をついぞ知らず、バードはシエルに笑い掛ける。眼差しは先ほどの発言とは打って変わって頼もしく、シエルは目を見開いた。
「そんな顔するな。そりゃオレだって怖いけど、独りじゃないんだからさ。
エクスもテンカも、エクスの師匠も居る」
「バードさん…」
「そ、そりゃ、オレ独りじゃ返り討ちにされそうだけどな! ははは……」
バードは折角格好よく決めたものの、引きつった顔面でびびった言葉を吐いて台無しにする。彼は緊張しやすいタチであり、頂上決戦でのサードバトルでも同じく白目で全身をプルプル震わせていた。上ずった声で早口で言い、冷や汗を浮かべながら笑う。自虐の入った笑いはどうしようもない、だがひとしきり笑った後に見せた笑顔は真昼の太陽の如きだった。
「大丈夫。何とかなる――シエル」
空は夕暮れの気配を一層濃くし、はるか上空にあった薄紅色を徐々に全体に広げていく。薄っすらと暗くなりつつある空の下、バードの笑顔のみが明るかった。その顔が、快活な性格が他者を惹きつけるのだろう。
(バードさん……あなたが眩しく見えるッス)
感傷を強く意識しながら、彼はふっと、まだ影が拭い去れぬ微笑を浮かべた。
(あなたはどこまでもまっすぐだ)
似ているが決定的に違う相手にシエルはつくづく思う。彼はバードと比べると屈折していたし、何より黒須エクスを好意的には見られなかった。抑圧しようともどうしても負の感情が湧く。クロムに仮面を押しつけられて以降、彼の心には目を背けることの出来ない影があった。
(けど)
今は力を合わせる時だ、とシエルは思い直す。ぱっくんが攫われ監禁されている。脅されるなり殴られるなり、何らかの危害を加えられている恐れもある。最悪の場合生命が脅かされる――ならば放ってはおけない。
(そうだ。今は黒須エクスのことは置いておいて、あの人を助けないと)
“お前のベイ魂はこんなもんじゃないだろう?”
銀狼の言葉を脳内によぎらせ、気持ちを奮い立たせる。相手が何者であれ何を企もうと、彼がやるべきはただ一つだった。
(余計な事は考えるな。今だけを見据えるッス!)
堅く目を瞑り、大きく息を吸って。仮面を凝視してからバードの笑顔を受け止めるまでに湧いた念を、彼は体から一掃するかのように大きく息を吐いた。深呼吸を一つ、シエルはゆっくりと目を開く。雷の双眸には意志に由来する強い光が宿っていた。
「――よし」
変えられない過去とわかりようのない未来を意識から追い出し、今この瞬間のみ全力を注ごうと意気込む。心持ちで大きく実力を上下させる少年は、このとき自身のコンディションを一気に高めた。今の彼に迷いはない。シエルはバードに吹っ切れた笑みを向け、
「ありがとう、バードさん」
言葉少なだが感謝がはっきりと伝わる言葉を告げた。
シエルが心にケリをつけて数分後、テンカによる情報解析が終わった。
ぱっくんの監禁場所が判明し、救出作戦が開始される。男性陣が現地に到着した頃、空は夕焼けの紅と紫に染まり日没の気配を濃くしていた。ここから先は闇が、裏の人間が支配する領域だ。シエルは仮面の下で険しい顔をし、ぐっと口を真一文字にした。
男性陣は銀狼を除く三人がそれぞれ仮面を被っている。此度の作戦にてテンカは川辺で待機することとなり、バードはテンカの仮面を一時的に借り仮面Sとして現地に赴いた。物陰に身を潜め周囲の様子をうかがう。自分達以外に誰も居ないのを確認し、バードはテンカと連絡を取った。
「こちらバード。指示通り倉庫街に着いたぞ。どうぞ」
“動画の音声分析は完了だ”
通信機器を介したテンカのザラついた声が聞こえる。
“背景に聞こえる船の汽笛、車の通過音から割り出される橋との距離。更に窓の光源の角度から推測すると、撮影場所はこの廃倉庫で間違いない”
「了解。助かったよ」
通信を終えたバードをうかがい、銀狼は準備完了と認識する。あとはぱっくんの居場所に乗り込むだけだ。一行を率いる長として戦闘開始を宣言する。
「よし。来い!」
シエルは男の勇ましい声に覚悟を決めた。
(よし……行くぞ!)
夕空の下、男達は戦地へと向かう。
その場所でシエルが誰に出会うか、何に直面するかは神のみぞ知る話だった。