そういえば、と天幕の中、ランプの灯りで本を読んでいた隊長が呟いた。
「ナタに来て暫く……お前と出会った頃に始まったことだと記憶しているのだが。夜、横になっていると見知らぬ女性が現れることがある。」
曰く、隊長が横になっていると急に意識ははっきりしているのに身体が動かなくなるときがあり、そんな時にはいつの間にか見知らぬ女性が、仰向けで寝ている隊長の身体の上に座っているのだそうだ。
「いつも深々と頭を下げて、『どうぞ宜しくお願い致します』と言う。何度も。」
どうぞ宜しくお願い致します。どうぞ宜しくお願い致します。どうぞ宜しくお願い致します。
傷のついたレコードが同じ箇所を繰り返すように、全く同じ調子で同じ言葉が繰り返される。隊長の腹に額を擦り付けるような深い深い礼とは裏腹に、その声には感情というものが感じられない。そして、朝方になってふっと隊長が意識を逸らした瞬間に跡形も無く消えるのだそうだ。延々と続く懇願に、最初こそ不気味に思った隊長であったが、ふとオロルンが近くにいる夜にそれは現れないことに気がついたのだそうだ。そして思い返してみれば、顔こそ見えないものの病的なまでに白い肌や青みがかった暗い色の髪はオロルンによく似ているのではないか?と思い至った。もしやあれは、オロルンの母親なのではないか、と。
「耳はお前と違ってコウモリの形ではなかったがな。何処となく雰囲気は似ているように見えた。」
「うーん。父親の方がコウモリだったのかもしれないから、確かにそれで違うとは判断できないな。」
オロルンの実の親がどこの誰なのかは、今となっては誰にもわからない。もしも彼女がすでにこの世にいないのだとしたら、息子を手放したことへの後悔が彼女を縛り付ける未練となっているのかもしれない。
「最近はずっとオロルンが近くにいたせいか、暫く見ていなかった。だが、昨夜はお前が出かけていただろう。随分と久しぶりに現れた。」
隊長は本を閉じて、自分の顎を親指でなぞった。
「何と言えばいいか……。最初に現れた頃より存在が薄くなっているように見えた。それが、少し気の毒に思えた。息子の心配が未練なら、俺がお前を引き受けたと示してやれば安心するのではないかと思った。」
それで、無理矢理に動かない口を動かして返事をしたのだそうだ。『わかった』と。女が顔を上げたのはその日が初めてだった。顔にかかった長い髪の下で、暗闇の中でもやけに鮮やかな唇が微笑み、「ありがとうございます」とか細い声が一言告げた次の瞬間には、白粉の匂いだけを残して煙のように消えていた。
最後の言葉だけは、いつもの無機質な声とは違って明らかな喜びが感じられたそうだ。
「もし母さんが僕のことを心配してくれていたんなら、それは嬉しいことだ。君が僕を宜しくお願いされようと思ってくれたこともね。」
オロルンは隊長の膝に腰掛けるとその頬に口付けた。背中に回した左手が何かを摘み上げる。長い長い、青みがかった髪の毛だ。隊長の身体にしつこく絡みついたそれを引き剥がして、オロルンは立ち上がった。
「ちょっと外の空気を吸ってくるよ。」
少し残念そうに空中を彷徨った隊長の手に右手の指を絡ませて、すぐに戻るよ、と声をかける。
外に出れば月が煌々と輝き、昼間よりも涼しい風がオロルンのマントの間を吹き抜けていった。心地良い、良い夜だ。
「少し欲張り過ぎたんじゃないか?久しぶりに僕がいなくなって、チャンスだと思ったんだろう。」
オロルンは摘んだ髪の毛に息を吹きかけた。息のかかったところには青白い小さな炎が現れて、大きくなったり小さくなったりまるで何かが悶え苦しむかのように揺らめいた。髪の毛はあっという間にチリチリと燃え尽きて、後には髪の毛の焼ける、なんとも嫌な臭いが残るだけだった。風が吹くと、それもすぐに消えてしまったが。
「僕を出し抜けるなんて思わないことだ。黒曜石の老婆の弟子だぞ。」
オロルンは機嫌良く呟くと、一度大きく伸びをして、天幕の中に戻って行った。
女は、二度と現れることはなかったそうだ。