2022.VDのシャイムル 思い出せば賢者のいた世界にも有名人の肖像画が描かれたチョコレートというのは存在した。それはお札に使われている偉人だったり、その時人気なアイドルだったりする。それがこの世界では賢者の知り合いであるというだけの事で何ら存在する事に不思議はないのだ。自分が食べなくても世界中で誰かがそのチョコレートを食べているのだから遠慮する必要なんて無い。
それなのに「さぁ賢者様もどうぞ」と差し出されたチョコレートを前に未だに手を伸ばせないでいるのは、差し出してくる相手がシャイロックだからなのかもしれないと思った。もしこれがリケやミチルだったらこんな葛藤しないのかもしれない。面白いと素直に思って口に出来たのかも。
けれどついさっき目の前でそのチョコレートが飲み込まれる瞬間を見てしまったから、食べられる気がもうしなかった。
食欲が湧かないとかそういう問題ではなくて、自分が食べるものではないような、そんな感覚。
いつもの如く穏やかにシャイロックは微笑んでいるのに、どうして。そんな自問を賢者がしている時、空気を切り裂くような声が飛び込んできた。
「あ、シャイロックと賢者様だ! 面白いチョコレートでも見つけた?」
明るいその声にホッとしたような、ギクリとしたような心地になって、賢者はシャイロックの手の中に視線を向ける。
「目新しいものではありませんが、これを賢者様に薦めていたんですよ」
「俺のチョコだね! 味はどうだった?」
「えっと……俺は未だ食べてなくて」
「なんで食べてないの? 俺のチョコ変な味がする? それとも……」
「ムル」
畳み掛けようとするムルの口に、シャイロックは持っていたムルの肖像画が描かれたチョコレートを突っ込んだ。「気になるならご自分で味を確かめてみては?」と言いながらニコニコと咀嚼する様子を眺めている。
「うん、普通。俺の顔を描くくらいだから、何か仕掛けがあるのかと思ったのに」
「まぁ、ムル本人が食べたのでは効能も何も無いかもしれませんね」
才能も知見も叡智も、ついでにイカれた恋心も持ち合わせたムル本人なのだから。
「うーん、それならもっと面白いチョコがあっちのテーブルにあったよ! どうせならそっちを食べた方が良いと思うな」
ムルが指差した方向には人が群がっているテーブルがあって、何かのショーを始めたようだった。実食を兼ねた見せ物で、通り掛かったアーサーとオズが立ち止まっているのが見える。
「確かに気になりますね、俺も混ざってきます」
そう言って駆けて行った賢者は、アーサー達に合流してすぐに人波の中に紛れてしまった。
それを見送ったシャイロックは、眉尻を下げて苦笑しながら溶けたチョコレートで汚れた指先を拭った。
「それはオモチャを取られたような顔?」
「どうして逃してしまったんです?」
「たまにシャイロックは意地が悪いから! ねぇシャイロックは俺のチョコ食べたんでしょ?」
「ええ、躊躇なくバリバリと」
一口で飲み込んでしまったと告げると、ムルもカラカラ笑った。
「所詮チョコレートだからね、一口サイズなんだから、それが一番美味しい食べ方だと思うよ! でも、シャイロックはそういう考え方はしないよね」
知った口ぶりで語られるのが不快でシャイロックは眉を顰めるが、そんな些末な事で言葉を撤回するムルでは無い。
クルリと宙を舞い、シャイロックの肩に手を掛けて耳元に唇を寄せた。
「……本当の俺を食べたい? それとももう
食べちゃってたりして」
「……さぁ、どうでしょうね」
とぼけたように流そうとするシャイロックを見て笑みを深めたムルは、小声で「エアニュー・ランブル」と呪文を唱えた。何をしたのか確認しようとしたシャイロックが周囲を見回そうとしたが、ムルが強引に顎を鷲掴んで引き戻す。そして批難を口にしようとした唇に、有無を言わさず口付けた。
その瞬間驚きよりも、ああ他人の視覚に影響を与える魔法だったのかと気付いて得心する。
「ごめんね、これが精一杯」
何に謝られているのか理解したくない気持ちで離れていくムルの顔を見つめていると、更に顰めっ面になっていった。
全く突拍子も無い。これだからこの男は。口に慣れた小言を吐き出そうとしたが、ムルは更に笑顔を深めていって口を挟む間も無く問いかけてくるのだ。
「美味しかった?」