大切な先生からの教え 今日もまたこの液体に包まれたままなのだと他人事のように思考する。この生活にも随分と慣れてしまった。けれどこの生活を苦しいと感じることはすっかり減っている。この人のおかげで。
「おはよう。今の気分はどうだ? A-99」
煙草を咥えて紫煙をくゆらせる。そんな仕草でさえ色っぽくてかっこよく見える人であった。いつも白衣を羽織り、足元を飾るような赤いヒールを履いて歩き回っていた。
幸いにもこの液体と己の身体を囲うカプセルは透明であるためにここまで先生のことを知ることができたのだ。
「ありがとう先生。十分だよ。……今日は何か先生の方が気分良くないみたいだけど?」
目の前で先生が小さく笑うのが見えて少し不安になる。まさか何か間違えたのか。
「よく見てるもんだ。ちょっと疲れているだけさ。それよりも楽しい話をしよう。今日の外の天気についてでも話そうか。今日はよく晴れた空だ。こんなカプセルの中じゃ何も見えなくてつまらないだろう……。連れ出してやれないのが申し訳ないな」
先程まで見せていた表情と打って変わって穏やかそうな顔でそう話してくれた。天気の話をするのも、連れ出す話も昔にした約束がきっかけで始まったことだ。ほかの研究員たちの話を聞く限り、こんな話をするのは先生とA-99くらいだという。しかしA-99としては昔の約束を今も律儀に守ろうとしてくれる先生のことが大事で大事でたまらないのだ。A-99が研究による調査に疲れてしまったとき、先生は気晴らしといって外の話をしてくれたのだ。研究所の狭いカプセルの中からは知り得ない多くの話だ。外はもっと広く美しいもので尊い場所なのだとも言っていた。けれど先生が外の人々の話をすることは一度もなかった。先生が言うには外は綺麗でも人が綺麗とは断言できないかららしい。しかしながらA-99にはそのことが理解できず頭を傾げるばかりであった。それを見た先生は苦笑して、「知らない方が、覚えていない方が良いことがこの世には山程あるんだ」と呟いていたことだけは鮮明に覚えている。そしてこのときに先生はA-99と約束を交わしたのだ。ここを出られるようになるまでずっと外の話をする。そしていつか出られるようになったら一緒に外の世界を見に行くという約束を。それ故に先生はA-99にいつも必ず外の天気の話と先生の知る外の話をする。そしてA-99もそれをきちんと聞き続けているのである。
「――さんすいません、ちょっと例の件の結果について見て頂きたくて」
おそらく部下であろう研究員に声をかけられた先生は少し悩んだあと口を開いた。
「……分かった。すまないA-99、少し外す。また後で話の続きをしよう」
先を歩き出した部下を追いかけていく姿を眺めていると離れた場所から呼ぶ声が聞こえる。そちらに意識を向けて見れば、少し異色な服装でこちらを見つめる人物が居た。周りの様子に耳を傾けてみればその人物は所長と呼ばれているらしい。先生からも聞かない名であったために気にせず過ごそうとしたところ再度声をかけられる。嫌々ながらに返事をすれば目の前の人物が笑い出す。
「随分とまあ生意気に育ったものだ。以前の研究員にされたことなど、はなからなかったようではないか。マスターとも呼んでいたくせに恩知らずなことだ。なぁ、“失敗作”」
その言葉を聞いた途端、今まで蓋をしていた記憶が全て甦っていくのを実感した。それと同時に体が震え、全身の血の気が引いていく。「思い出すな」と思う程、記憶が鮮明になっていくのだ。目の前になおも立つその人物は下卑た笑みを浮かべて上機嫌に言葉を紡いだ。
「以前のお前はこの研究所が全てを懸けて生み出した実験体であった。この世界を覆し、新たな未来を創造する希望の光であったのだ。それなのに実験や調査に抗い挙句の果てにはマスターに怪我を負わせて研究者の道を閉ざす悪魔となった。わが研究所の最も恥ずべき汚点であり一番の失敗作だ。そんなお前が今も、このように生きていられるのは先生とお前が呼ぶあの女が地位を代償にお前を引き取ったからだ。今まで必死に積み上げた数十年もの成果を捨てお前を拾った。だが今のお前にはどれ程の価値があるというのだ!! ただ失敗作というレッテルを貼られたA-99という実験体でしかないのだ!!」
こんな言葉を聞いてA-99は正気を保っていられる訳がなかった。記憶を取り戻すと同時にA-99を大事にしてくれた先生が大きな代償を支払ってまで己を救ってくれていたこと、そして救われた自分のもつ価値などないに等しいことを知ってしまった。己が大事に思い尊敬する人の全てを奪ってなお自身が何もできないことの無念さに直面したのだ。
そのとたん、A-99の目から光が消えていく。そしてA-99は己の入っているカプセルを殴り出したのである。その拳には己に対する怒りと先生に対する謝罪の念がこもっている。目の前に立つ所長も含んだような笑みを浮かべるだけであったが、あるときカプセルがパキンッという高い音を立ててから一転する。そう、頑丈であるはずのカプセルにひびが入り出したのだ。破壊されることなどないと誰もが思っていた研究所内は突然のことに大パニックを引き起こす。誰一人冷静でいられない中、A-99にとって聞きなじみのある声が所内に響いた。
「A-99……!! 何があった……!?」
初めは戸惑っていた先生もそばで慌てる所長の様子を見て事の発端を察知する。
「あんたのせいか……! このクソ上司が……! あんたらの無茶が招いたことを掘り返して何が楽しい……!? 生み出しておいて失敗作だなんだって喚くくらいならはなから生み出すべきじゃなかった……!! この子たちの未来も保証してこそ研究者だろうが……!!」
所長の胸ぐらを掴み、そうまくし立てた先生はA-99に目を向ける。もうカプセルは限界を迎えており、一刻の猶予もない状況であった。一つ深い呼吸をしてA-99を見据えたその姿にはただ信念と覚悟だけが宿っている。ズカズカと壊れかけのカプセルに近寄り、近くにあったドライバーを引っ掴んではひびに向かってそれを刺した。中の液が己の衣服を溶かす音を立てようが破片が身体を傷つけようが構わず刺し続けた。ついにバリン、と大きな音を立てて崩れるカプセルから何とかA-99を引きずり出す。そしてそのまま暴れるA-99を先生は抱き留めたのだ。もとは兵器として生み出されたA-99のもつ力は人間とは比べものにならない程強い。そいてA-99は暴走したまま。これが意味するところは言わずとも分かることであった。わずかな理性でA-99は先生を放し、床に横たわらせた後、研究所の全てを破壊し尽くした。研究の対象としてあった多くのカプセルと所内にいた全ての人を圧倒的な力の下ねじ伏せたのだ。思い存分暴れ回ったことにより、研究自体がぼろぼろになり様々な薬品と血の匂いが混ざった悪臭に覆われていた。ふとA-99の意識が鮮明になったとき、もう事の全てが終わっていた。跡片もないほどの惨状と化した研究所を見渡したあとA-99はがれきの中から先生を探し出した。もうとうに息を引きとった先生を横抱きにしてA-99は歩いていく。それなりの時間が経ったころ、A-99は足を止めた。そこには広大な空と家と思しき建物が数多くある街並みがあった。穏やかで心地良い風が吹く中、A-99は静かに呟く。
「先生、約束守ってくれてありがとう」
惨状などなかったかのように明るい空の下で、とある二人が体を寄せ合って座っている。まるで時が止まったかのように――。