ハイドアンドシーク【Eastern country】
東の国の首都、雨の街。法典によって定められたルールによって、ありとあらゆる不愉快なことから切り離された街の住人たちは、がんじがらめの日々を今日も慣れた素振りで過ごしている。
彼らはわかっていてルールを守らない者に対しては厳しいが、何も知らない余所者に対してはそう厳格なわけではなかった。
現に今、街の一角では、きょろきょろと困ったようにあたりを見回す青年を、住人の一人がそっとルール無用の店の中へと誘導している。
──ああ、急に連れてきてしまって申し訳ない。この街では初対面の相手に公共の場で話しかけるのは禁止されていてね。店の中は店主がルールを決めていいことになっているから、此処では私語が禁止されていないんだ。
あんた、見たところ旅人か何かだろう? 東の国の生まれじゃなさそうだ。なんでわかったかって? そりゃあ、東の国……特にうちの街じゃ、そんな派手な身なりをした奴は居ないからさ。
さっきはあたりを見回していたけど、何か探しているのかい? へえ、飯屋か。確かに首都と言うだけあって、ここらには結構沢山あるけど……青灰色の髪の店主? うーん、そこは俺は行ったことがないなあ。
私語が禁止されていないとあって、店内は外の静けさが嘘のように騒がしい。そんな中、男と旅人の隣のテーブルに居た老人が、二人の方へと身を乗り出してきた。
──青灰色の髪の店主のやってる飯屋なら、私が行ったことがあるよ。私はあそこのきのこたっぷりのキッシュが大好きでね。よく通ったもんだ。
あまりにも毎回私が美味しそうに食べていたからだろうね。店主さんが「内緒な?」って少し大きめに取り分けてくれたりもして……ん? どうしてお兄さんがちょっと嬉しそうなんだい? ああ、こんな話をしていたらまた食べたくなってきたよ。
いつの話だって? もう三十年以上は前になるかねえ。それが、閉店の知らせなんて全く聞いてなかったのに、昨日まで店があったところが突然売りに出てたんだ。顔見知りだった常連たちも驚いていたよ。私が店主さんを見かけたのもそれっきりだね。
……ただ、ここだけの話なんだが、最近聞いた噂があってね。常連だった客のうちの一人が、中央の国の市場で店主さんを見たって言うんだ。それが、あれから何十年も経っているのにあの頃のまま、何も見た目が変わっていなかったらしい。流石に息子とかじゃないかって話で落ち着いたけど……きっと皆思ってることは同じさ。もしかして魔法使いだったんじゃないか、って。
ええ、魔法使いだって? と旅人を連れてきた男が目を見開いている。東の国、その中でも特にこの雨の街では魔法使いは畏怖の対象、もっとくだいて言えば悪い存在とされている。街で起こる騒動は、大抵が『魔法使いのせい』で済まされるくらいだ。ていのいい悪役の存在で、この街の人間たちの平穏は守られているとも言えるだろう。
黙って老人の話を聞いていた旅人の青年は、急に店のウエイターを呼びつけた。ブラックコーヒーを二杯注文すると、不意に席を立ちあがる。
旅人はすらりと長い脚で二、三歩だけ歩を進めたかと思うと、すぐに男と老人の方を振り向いた。
「情報料だ。届いたら飲んでいいぜ」
旅人の着ていたモスグリーンのモッズコートの裾がふわりと揺れる。
残された二人が同時にぱちりと瞬きをした数秒にも満たない間。そんな短い時間のさなかに、旅人の男はまるで煙のようにその場から姿を消していた。
あまりのことに老人は腰をぬかしたように椅子に尻餅をつき、もう一人の男も開いた口を閉じられないまま固まっている。
ざわめく店内。しかし、すぐさま何事もなかったかのように元の賑やかさを取り戻した。
雨の街の住人たちは知っている。触らぬ神に祟りなし。この街で平和に過ごすためには、厄介事には首を突っ込まないのが吉なのだ。