スネイルとアキバ上級役員令嬢嫁の話 一体何がどうなっているんだ。
スネイルは困惑していた。
「この際だからはっきり言うけど、あなたを結婚相手に選んだのは、候補の中で一番若いからでも容姿がまあまあいいからでも、これから出世してくれそうだからでもなんでもなくて、あなたが前線に出るAC乗りで一番早く死んでくれそうだったからよ」
眼鏡をかけていなくても強化手術済みの目はあたりの光景をよく捉えた。
シミのある天井、白やアイボリーに青、清潔そうな色で統一された視界、消毒液とリネンの匂い、自分に繋がれたいくつものチューブと自分が横たわるベッド脇に置かれた点滴。
それから、ベッドの傍らで泣きながら話続ける妻の姿。
「死んだあなたを忘れられないふりをすればしばらくは再婚もさせられないだろうし、悠々自適な未亡人生活を送る予定だったの。子供ももちろんいらないわ。そのために若さと顔の良さしか取り柄がないくせにウザったくて面倒で煩わしいあの女をわざわざおじいさまに引き合わせて跡継ぎを生ませたんだから」
レイヴンが突如企業に立てつくと声を上げ、スネイルは怒り心頭であの害獣を処すために改造したバルデウスに乗り込んだ。
結果は無残な敗北だった。だがそれもそうだろう。あの時の自分は、あまりにも冷静さを欠いていた。
これまでたまりにたまったクソどもへのフラストレーションが爆発し、半ば発狂しながらレイヴンに向かっていったのだ。
自分でもどうにかしていたと思う。あんなに取り乱すなど、みっともない。
それは傍らで話し続ける妻にも言えた。
「でも、辺境惑星に行くって聞いてチャンスだと思ったわ。あなたが死んでくれる確率もぐんと上がるし、おじいさまの目が届かない辺境なら、どさくさに紛れて私自身を殺すことができると思ったの。そのための準備は楽しかったわ。大学に行っている時ぐらい楽しかった。あなたのこともおじいさまのこともどうでもよくて、これから私は別の私になって新しい人生を生きられるのだと思うとわくわくした」
頬の涙は乾き始め、やや白く跡が残っている。
その目は腫れ、心なしか少しやつれているように見えた。
いつもはきっちり整えた髪も今日は乱れがちだ。
体を動かそうとして——痛みが走る。
その痛みで、レイヴンと戦ったことは幻ではなかったのだと認識した。
だがやはり、なぜ自分が生きてここ——おそらく病院にいるのかがわからない。
染みのある天井からしてここは古い施設だ。
アーキバス基地の病院施設でないことは明らかだった。
「ここに来て何が変わったのかは知らないけれど、あなたはたびたび、普通の夫婦みたいに私に気を遣ってくれたわね。私はあなたに愛してほしいと思ったこともないしあなたのことはちょっと面倒な同居人ぐらいにしか思ってなかったのよ。私はただ、あなたが死ぬか、私が記録上死ぬか、どちらにせよ新しい人生を迎える瞬間を待っていただけで」
妻が自分に無関心なのはわかっていた。
体を重ねても、微笑みかけられても、贈り物をもらっても、それは形式的なものか、あるいは対外的に「夫婦である」ということを演じるためのものでしかなく、そこに気持ちはこもっていない。
それでもスネイルは、薄暗がりの中に艶めく妻の体に興奮したし、微笑みかけられると胸が高鳴り期待をして、贈り物の意味を探した。
全部無駄とわかっていたが、それでも本人の口から告げられるとさすがに辛い。
何も今、病床の時に言わなくてもと思ってしまうぐらいには。
「妙な兵器に乗り込んでいくあなたを止めなかったのもわざとよ。レイヴンにやられるところも見届けて、あとは脱出のどさくさに紛れて行方不明になったことにして、そのままこの星を出て違う人生を始めるはずだった。はずだったのに……」
ううう、と声を漏らして妻が泣く。
悔しそうに唇をかみしめ、眉間しわを寄せて、お世辞にもかわいいとは言えない顔でボロボロ泣く姿は、アーキバス上級役員のご令嬢とは思えない。
「なんであなたを助けちゃったのよ……! 私のバカ!」
みっともなく声を荒げ、ハンカチではなく服の袖で顔をぬぐい、ベッドの端に振り上げたこぶしを下す。
だがその力は貧弱なので、ベッドは「ぽす」と間抜けな音を立て、スネイルのケガに響きさえしない。
哀れでみっともなくて可哀そうで滑稽だ。
スネイルは嘲笑した。
「あなたを助けたせいで辺境からはしばらく出られなくなっちゃったし、お金も2億COAMも使っちゃったのよ! どうしてくれるのよ……! なんであなたなんか助けちゃったのよ……」
きっとバルデウスに乗る自分を見ていた技師やアーキバス社員たちも、こんな気持ちだったのだろう。
だが、相手は間抜けな上層部でもカビの生えた害獣でもなく愛おしい妻だ。
スネイルは妻が愛おしかった。
自分たちの関係が一生本当の夫婦になれないと知りつつも、もしいつかそうなれたらいいなどと夢想するぐらいには彼女を愛し、 愛されないことに失望していた。
でももしかしたら――妻自身が自分に憤るほど衝動的に理由もなく、愛していないうわべだけの夫を、自分の夢を後回しにして大金をつぎ込んでまで助けてしまったのなら、それはもしかしたら愛ではないだろうか。
自分は、愛されているのではないだろうか。
スネイルの胸が熱くなる。
まだうまく動かせない体を動かして、スネイルは妻の名を呼ぼうとした。が。
「私の資産、あと98億COAMしかなくなっちゃったじゃない……」
いや、それだけあればどこでも自由に生きていけるのでは?
というかあなたいつその資産を形成したんですか?
スネイルは思った。話せていたならきっと思ったまま問いかけていただろう。
「起きてるんでしょ、スネイル。答えなさい、あなたを助けたこの借りをどう返すつもり?」
スネイルはどきりとした。
これまで一度もなかった、高圧的な態度。
アーキバス上級役員の令嬢らしい、高慢な口調だ。
早く回答しなければと、焦って口を開く。だが舌がもつれてうまく話せない。
だが妻は、涙で汚れた顔でスネイルを見下ろし、その瞳をにらみつけた。
スネイルの胸がきゅんとした。
「?」
「妻が夫を助けるのは当然、なんて思ってるんじゃないでしょうね。アーキバスから離れた以上、あなたは他人よ。私ももうすぐ死ぬの。もちろん書類上の話だけど。でもあなたはいっそ、死んだ方が良かったかもしれないわね」
侮蔑を隠しもしない冷ややかな目。
スネイルの全身が得も言われぬ興奮と快楽にぞくぞくと泡立つ。
「??」
「たった一人の独立傭兵ごときにしてやられて、せっかく手にしたコーラルを台無しにした無能だもの。もうアーキバスにあなたの居場所はないわ。ここまでやらかすと、おじいさまもかばってはくれないでしょうね。これまでさんざん威張り散らして、自分が企業だなんてわけわかんないこと言って、そんなあなたの末路がこれだなんて、笑えるわ」
嘲笑。哀れみ。
心臓が高鳴る。スネイルはまるで情事の時のような熱い吐息を漏らした。
だがそんな自分に戸惑う。
高圧的な態度も冷たい目線も嘲笑や哀れみも、これまでは自分が妻に向ける側だったはずだ。それが逆転し、なぜ怒りや悲しみではなく、興奮と快楽を覚えているのだろう。
「……」
「はぁ、話せもしないのね。何か言い返すぐらいしてみなさいよ」
「……あ、」
「みっともない声」
「……あなたを、」
「……」
「あい、し……」
絞りだした声で何を伝えたかったのか。
それはスネイルにもわからぬまま、ただナマエが不快そうに顔をしかめたので、口をつぐむ。
何度か意味のない音を出し、ゆっくりと口や舌を動かす。
スネイルは考えた。
確かにアーキバスに戻れない以上、死んだ方がマシかもしれない。
命を助けるために消費された2億COAMはもとより、これから強化した肉体を維持していくコストもかかる。
独立傭兵になるにしても、ACを購入するには金が必要だ。
もし独立傭兵になったとしても、アーキバスが命を狙ってくる可能性がある。そのうえ業界には一生「ルビコンでコーラルを奪われたあのスネイルだ」と揶揄され続けるのだ。
そもそもこの体がこれ以上回復するのかさえわからない。
ACにさえ乗れればそれなりに稼ぐ自身はあるが、プライドがそれを許すだろうか。
一生、元妻に罵倒されながら、彼女に金を返すためだけに働く日々など——
「悪く、ありません、ね」
「はぁ?」
「私の命を、救ったのは、あなたです」
「ええ、そうよ。不本意ながらね。私にも多少情はあったみたい。悔しいけれど、ぼろぼろになって打ち捨てられた知り合いを見捨てられるほど冷酷じゃあなかったわ」
「なら、私の命は、あなたのもの、です」
「なによ、じゃあ今度は、私の犬になってくれるの?」
「……犬?」
「そうよ。これまで企業の犬だったじゃない」
「……」
「ねえ、あなた、気持ち悪いから怒るぐらいしなさいよ。治療費が心配なんだったら、もう全額払ってあるし、拾っちゃった以上、退院までの面倒は見るわ。その先は知らないけど」
「なら、その先も、面倒を見てください」
「は?」
「拾うなら最後まで面倒を見る覚悟で、とホーキンスも言っていたじゃありませんか」
ようやく舌が慣れてきた。
声はまだしゃがれているが、いつもの調子を取り戻しつつある。
妻は忌々しいものでも見るような顔で、スネイルを見ていた。
そういう目線もいい、とスネイルは思う。
これまでの無関心に比べたら、嫌悪でも憎悪でもなんでも、とにかく彼女の感情を向けられるのがうれしいのだ。
罵倒されたり冷たくされたりすると特別興奮するが、いったんその事実は置いておくとして。
「知力体力には自信があります。AC操作技術の他、事務処理や管理職もそこそこ」
「……知ってるわ。でもあなたの人生のことはあなたが決めてちょうだい。他人に人生を決められるのも、他人の人生を決めるのももう二度とごめんよ」
「一生あなたのそばにいられれば、それで構いません」
「……」
「犬でも独立傭兵でもなんでも」
「ならあなたを売るわ。アーキバスの強化技術を知りたがる企業はごまんといるもの。研究所で実験体扱いかもしれないけれど、大丈夫、毎日会いに行ってあげるわ」
「……あなたがそう言うのなら」
「ちょっと! どういうつもり?! 気持ち悪いんだけど! いつもの調子はどうしたのよ!」
思わず立ち上がって、どこか怯えた様子さえ見せる妻に、スネイルは笑った。
なぜか涙が出る。
「会いに来てくれるのでしょう?」
「そ、そうだけど」
「形式のためでも対外的なアピールのためでもなく、私があなたのそばにいたいと言うから、毎日会いに来てくれるのでしょう?」
「まあ、そうね」
「ならそれ以上に嬉しいことなどありません」
「ちょっと、爆発でどこか頭でも打った? 検査結果は問題なかったはずなんだけれど……」
「あなたを、愛しているんです」
「……そうやって情に訴えようとしても駄目よ」
「ええ。あなたが私を愛していないどころか、興味もないことは知っていましたので」
「そう」
沈黙。
スネイルは目を閉じた。
心が穏やかだ。
今頃混乱に陥っているアーキバスのことも、苦心して集めたコーラルのことも、害獣のこともどうでもい。
「……ここを出たら、とある惑星で働くことになっているの。新しい身分も用意してあるわ」
「ならば私はその奴隷として——」
「奴隷? 冗談やめてちょうだい。一般人がそんなもの連れてたら怪しいじゃない」
「……」
再び目を開け、スネイルは妻を見た。
嫋やかな令嬢はもうそこにいない。
うんざりした顔でため息をつき、乱れた髪をして、けれどもその瞳に強い光を宿したたくましい女性がひとり、スネイルを見返す。
彼女は続けた。
「兄弟には無理があるし、夫婦ということにしておきましょう。あなたもそこで働くの。そして給与のうちのいくらかは、毎月私に返済してもらうわ。そして2億COAMを支払い終わったら、離婚しましょう。私の責任はそこまでよ。わかった?」
「……わかりました」
2億COAMを払い終えるまで猶予が与えられたのだと、スネイルは理解した。
それまで誠心誠意尽くし、これまでの態度やしでかしを謝罪し、それ以降も夫婦を続けていいと思ってもらえるよう行動する。
そう決めたとたん、急に世界が開けたような気がした。
わくわくというほどではないが、やる気が満ちてくる。
まるで春、冷たくも心地よい風と暖かな日差しに芽吹きを感じて希望をいだくような、あのすがすがしい気持ちを抱いていた。
「ところで、 就職先はどんなところなんです?」
「メガファームよ。あなたは知らないと思うけれど、私、大学で農業系の専攻をしていたの。ルビコンの基地でもファームの改良なんかをしてたし、その経験や知識を評価してくれたわ。あなたはMTに乗って現場だと思うけれど」
「あなたの趣味が土いじりなのは、知っていましたよ」
「あら、意外だわ。まあとにかく、MT操作が天才的にうまかった跡取り長男が跡を継がない宣言をした上に、昨今の食糧難のおかげで人手不足らしいのよ。聞いたことあるかしら、企業名は――」
妻がにやりと笑う。
だが続いたメガファーム運営企業の名前に、スネイルも思わずにやりとした。
さすがはアーキバス上級役員令嬢。抜け目がない。
まさかV.Ⅰフロイトを足掛かりに、その事業内容と規模の大きさがゆえに並みの企業が手出しできない超有名メガファームに就職――と言う名の保護を取り付けるとは。
「跡取り長男殿は、ちなみにどこへ? まさかレイヴンにやられて……」
「さぁ? 知らないけど、どっかで好きにやってるんじゃない?」
「まあ彼なら、そうでしょうね……」
***
スネイルが収容されていたのはルビコンの闇医者の元だった。
だがその割には腕もよく、スネイルは持ち前の体力や回復力もあってあっという間に回復し、妻とともに無事新天地にたどり着く。
そこでも夫婦をやりながら、スネイルは広大な畑をMTで耕し、ナマエは専攻するほど好きだった植物との触れ合いを研究と言う形で思う存分満喫していた。
時折二人の素性について知ろうとする人物が現れては消え、またスネイルはたびたび性能重視で一貫性のないACに乗ってどこかへ出かけた。
ともかく、共に働く人々の間で、若い夫婦は有名だった。
あれこれと言い合いをしていることも多いが、とにかく旦那がべたぼれで、妻のそっけなさがかわいそうなぐらいだという人もいれば、あれは照れ隠しで本当は妻だってそれなりだよと言う人もいる。
そんな彼らを遠目に眺めながら、久しぶりに実家に帰ってきたフロイト――所属が別の企業に移っても彼はそう名乗っていた——は笑う。
「あいつらやっと素直になれたんだなあ」