そして気が付くと、俺はこのクソ寒い星にいた「しばらくうちで暮らすことになったの。仲良くするのよ」
幼い彼のことを思い浮かべるとき、フロイトが思い出すのは初めて会った時のシーンだった。
言い聞かせるような母の言葉と「ずいぶんなまっちろいなあ」と笑う父の声。
母の少し後ろに立った彼は、父の言う通り美白を通り越して青白すぎる体をしていて、今にも倒れそうだと幼いフロイトは思う。
「同い年なのよ」
彼の背を押しながら、母が言う。
同い年にしてはずいぶん小さいし、細い。青白いのを考えると、何かの病気なのではと幼いフロイトは思ったものだ。
きっとここが空気のいい田舎だと思って、療養でもしに来たに違いない。
彼の父と自分の父が幼馴染で、その縁で来ることになるのは知っていたが、事情までは知らされていなかった。
だがフロイトが、はっきり言ってがっかりしたのは、彼が病弱そうな色白だからでも、周囲の反応をうかがってキョロキョロ眼を動かしているような臆病なやつだからでもない。
「お前じゃ手伝えそうにないな」
今となってはアーキバスの強化人間部隊、ヴェスパーの首席隊長だが、そうなる前の多くの時間を、フロイトは実家で、家業を手伝いながら過ごしてきた。
フロイトの実家は広大なメガファームを持ち、それを取り仕切る一大企業だったが、社長とその夫人であるはずの両親は堅苦しいスーツを着てどっしりとした椅子に座ったり、大きな宝石の指輪をはめてお食事会なんかに行くよりも、多くの職員とともに畑に出て労働に汗を流すことを好み、それゆえフロイトはーー最新の農業用MTとそれを扱える十分な社員がいるにも関わらず——繁忙期になると、畑に駆り出されていやいや仕事をさせられた。
居候が来るということは、つまり人手が生まれるということだ。
きっとそいつも手伝わされるに違いない。でも、そしたら自分が仕事をする時間が減って、その分、自由な時間ができる。
フロイトがする手伝いと言えば、ドローン飛ばしと運搬用MTの操作だったが、それが終わればご褒美として、最新MTに乗ってもいいと許可が出るのだ。
フロイトはMTが好きだった。
本当は、ACに乗りたかったが、さすがの実家にもそんなものはなく、まだACに乗れるような年じゃない自覚もあったので、いつかACに乗るときの練習として、社員たちが帰った夜、彼らが扱う最新MTに乗る。その特別な時間をこよなく愛していた。
だがこんな病弱そうなやつなら人手にならない。なんとなく、MTやACの話も出来たらいいなんて考えていたが、この調子ではそれもダメそうだ。
本当に期待外れだ。
フロイトはさっさと踵を返して家に戻ろうとした。先週買ってもらったACマガジンは、まだ隅々まで読みつくしていない。
だが。
「近々作業用ACを導入しようと思ってるんだが」
ささやく父の声。
「このぼっちゃんとうまくいったら、お前を乗せてやってもいい」
フロイトはうなづくより先に行動した。
顔を上げ、幼い彼を見つめ、少し近づいて、手を伸ばす。
「俺、フロイト。よろしくな」
彼は慌てて手を差し出した。フロイトは力強くつかみ——握り返す相手の力が思ったよりも強くて驚く。
これは化けるかもしれないぞ。
不満が期待に変わった瞬間だった。
そうしてフロイトと彼は出会ったのだ。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
幼い彼は病弱ではなかったが、これまでずっと家にこもって勉強ばかりしてきたのが原因で色白の細身になってしまったらしい。
父から聞いた話では、彼の父がなんだかたいそう優秀な医者で、彼の母は彼もそんな風になってほしいと思い、思いすぎて思いつめ、夫婦そろって出張のきっかけに、彼を預けたのだそうな。
確かにフロイトの実家は周囲こそ広大な農場に囲まれているし、自然豊かで間違いない土地だが、田舎というほどではない。
農場のせいで家々は遠いが人口はそれなりだし、車を走らせれば十分都会と言える場所にもすぐ行ける。
一方幼い彼は、森と言えば作られた公園、花と言えば道路ふちの花壇に咲いているものというように、完全な都会で暮らしてきた。
そういうわけで、最初は何を見てもおそろしそうで、揺れる葉の音にさえ震えていたのだ。
だが父が「体はアレだが頭はいいぞ。お前の何百倍もな」という通り、話せば理解したし、たまに話さなくてもいろいろなことを理解していた。
それはある日の事。
夜の冷たい空気が太陽に温められて変わり始めた朝で、快晴だった。
雑草についた露がキラキラ光ってまぶしいぐらいだったのだ。
フロイトの背中から、彼もそれを見ていたのだろう。でもきっとなんで草が光っているかわからないに違いない。
わからないものを興味深そうに見ているときの彼の顔が、フロイトは好きだった。
だから今、彼の顔が見られないのを少し残念に思いながら、あちこちが光っている理由を説明しようとして——
「きれいだね、フロイト。垂れた草の頭に、小さい宝石がついて、揺れているみたいだ」
「……まあ、そうかもな」
先に種明かしをされて、フロイトはちょっとがっかりした。だがなんだか誇らしかった。
彼は頭がいい。だからわかったのだろう。
フロイトにとってはなんてことない日常の風景に、彼はこうして感動して、言葉にしてくれる。
いつしかフロイトは、うまくやったらACに乗せてやるという理由など必要ないほど自然に、彼と親しくなった。
もちろんACには乗ったが、できればそこには彼がいてほしかった。彼がいなくてもACに乗るのは楽しいが、少しつまらない。
そうして過ごしていくうちに、彼はすっかり大きくなって、フロイトを超えた。
細身の体は相変わらずだが、それでもずいぶんしっかりしたと兄のような気持ちでフロイトは思う。
そのころには親友、なんて言葉を出す必要もなく、ほとんど家族と同然ぐらいの仲になっていた。
いつかAC乗りになることを夢見ながら家業を手伝うフロイトに対し、彼も自分のやりたいことをやるために勉強を重ねる。でもそれが楽しいと彼は言った。強制されるのではなく、自分でやっているから、昔よりずっと楽しい、と。
フロイトもそうだと言うと、お前は一度も強制されたことないだろと彼は笑ったが、その話じゃないとはあえて言わず、フロイトも笑って流す。
お互い別々の大学に進んで、それぞれの夢を叶えるために本格的な独り立ちを果たしても、交流は途切れなかった。
そうして二人、夢を叶え、お互いの仕事が忙しくなっても、たびたび会っては笑い話に花を咲かせた。
とはいえ最近の彼は多忙を極めていて、フロイトが強引に押し掛けるのがほとんどだったが。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
草木が擦れる音とともに流れていく風が心地いい。
フロイトは風が揺らすまま髪を遊ばせ、ぼんやりとベンチに座っていた。
小さな砂場といくつかの遊具があるだけの、こじんまりとした公園だ。
ベンチは陽だまりになっていて、陽光が体を照らし、ぽかぽかと気持ちがいい。
今は昼寝の時間だが、もう少ししたら起きだした子供たちが遊びに来るだろう。
「病室から出ることを許可した覚えはないが?」
背後から聞こえた声に、フロイトは顔を上げた。
揺れる白衣。理知的な顔。イケメンと言うよりは冷たそうな印象だが、目の前の公園を私財で作るぐらいには子供好き。
そんなことを考えながら、フロイトは伸びをした。
入院着がずれて乳首がまろびでる。「インナーぐらい着てくれ」と彼がため息をつく。
「外に出たがるぐらいに回復したんだろうが、もう少しだけおとなしくしていてくれ」
「動かさないと訛る」
「今動かしたらACに乗れる時間が少なくなるぞ」
「……」
フロイトはため息をついた。
ACに乗れる時間ーー未強化のまま本来強化人間が乗りこなすように設計された最新ACに乗れば、体の負荷はそれなりになる。
それらをうまく緩和させつつ折り合いをつけるのは乗り手であるフロイトの役目だが、負荷が高まったときに頼れるのが彼だった。
自身の父と同じく、彼は医者になったが、父と同じ道には進まなかったらしい。
彼の父は強化人間手術の名手と名高いから、企業からも引く手あまただったろうに、それらを拒んで研修は過疎地の総合病院を選び、今は僻地の小さな診療所を転々としている。
フロイトは体の調子が悪くなるたびに彼の転勤先へ、有休を使うなりしては押しかけ、半ば強引に――自分の部下風に言うなら——メンテナンスを依頼するのだ。
「あと何年いけると思う?」
「さぁな。お前は昔から打たれ強いが、十年持てばいい方じゃあないか。ここのところ、ACの技術は格段に進歩している。時代遅れと言うくせに。お前の体がついていけなくなるのと、老いがくるのと、ほとんど同じタイミングだろうな」
「……」
そうなったら、強化手術を受ければいいとは思っている。
今、未強化なのは、強化手術をする必要性を感じていないからだ。
無茶をした後はガタつくが、それは強化人間も一緒だ。
だが、なんとなく、できるだけ今の体のままACに乗りたいと思っている。できるだけ、長く。
「未強化でACを乗りこなす人間なんか、企業の連中は調べたくてたまらないだろ。ここに来たってバレたら、またあのメガネのやつに怒られるんじゃないのか」
「いいんだよ。俺がここに来るのは、体を診てもらうためだけじゃないからな。心の休息ってやつが必要なんだ」
「……大企業でも好き勝手やってるやつが良く言うよ」
だが、実は今日は別の目的もある。
フロイトは体をひねって、後ろに立ったままの彼を見上げた。
思ったよりでかい。
思わず立ち上がる。
「おとなしく病室に戻る気になったか?」
「話がある」
「どした? まさかおばさんになにかあったか? おじさんのほうか? また自分でMT直そうとして関節部にハマって開放骨折とか言うんじゃないだろな」
気心知れた仲で、気を遣わずにいられるし、ACの話もある程度できて、医者としての腕もかなりいい。
彼がいれば、彼が診てくれれば、十年を過ぎてもACに乗り続けられる確信があった。
だがそれは「彼が診てくれれば」の話だ。
「任務で辺境に行くことになった。封鎖惑星だ。たぶんしばらくは、抜け出せない」
「……」
「待遇は悪くないと思う。お前が希望するなら企業ボランティアの一環として、現地住民、特に子供の診療も条件に入れる。もちろん報酬も、普通の医者より高いはずだ。というかそうさせた。俺が所属している部隊の名前を知ってるだろう? 強化人間部隊、だ。その主席が未強化なのは、あいつらも公にしたくないらしい。お前なら信頼できるし、俺のついでに強化人間の連中も診れるだろう?」
「……」
「詳細は病室に置いてある。実は初日からずっと渡そうと思ってたんだが、」
「フロイト」
「どうだ?」
頭上に雲が来て、陽光がさえぎられる。
彼の顔が見えない。なんだか怖いな、とフロイトは思った。
でも、彼の返事はイエスのはずだ。
僻地医療、特に小児科に手を尽くす彼の趣旨からも反れていない。
だが。
「フロイト、俺もずっと言おうと思っていたんだが、」
「?」
「結婚したんだ。秋に、子供も生まれる」
「え、」
「なあ、フロイト。お前のことは親友だと思ってるし、恩人だし、好きだよ。でも、昔からそういうところが、どうしても無理だ」
「なんだよ、無理って」
「俺は、お前のための道具じゃないんだ」
「えっ、」
フロイトの脳裏に、思春期の頃けんかしたときに、言われた言葉がよぎる。
『俺を、ACに乗る口実にするのはもうやめてくれ』
思春期の、夏休みのことだった。
初めて会ったころの病弱さなんてなくなって、フロイトより大きくなっていた彼を、両親は当然繁忙期のあてにした。
初めての手伝いで、彼はフロイトよりもずっとやる気を見せていた。フロイトも当初は、彼が手伝ってくれれば早く作業が終わってACに乗る時間が長くなる。計画通りだと思っていた。
だがふと思ったのだ。
夏休み、畑を手伝いながらも、彼は勉強を欠かさない。自分の夢のためなのだから、当然だろう。両親はあまり根を詰めすぎるなと言い、フロイトにもやらせすぎないようにとくぎを刺した。
それでひらめいた。
彼の分の作業も、自分がやる。
その代わり、社員たちが帰った夜の少しの時間ではなく、閑散期に好きなだけACに乗せてくれ。こんな提案をすればいいのでは、と。
案の定両親は承諾した。むしろ快諾だった。お前が他人を思いやれるようになるなんて、と驚きまでされた。
彼には「なんでそんなことしたんだ」と言われた。「勉強できるし、いいだろ。俺も思いっきりAC乗れるし」と返したのだ。お前こそなんでそんなこと言うんだ、と思いながら。
そしたら帰ってきたのが——「俺を、ACに乗る口実にするのはやめてくれ」
「言ったよな。昔。俺を口実にしないでくれって。最初からわかってたよ。俺と仲良くしたらACに乗せてやるって言われたから、仲良くしてくれたんだろ?」
「……」
心臓が、どくどく嫌な鼓動を刻んでいる。
フロイトは影になって見えないままの彼の顔を、困惑したまま見つめるしかできなかった。
「でもそれはいいんだ。俺は嬉しかったし、救われたし、今でもお前のことは親友として好きだから。ほんと、お前のことは好きなんだよ。でも無理なんだよ」
「お、おれは、」
乾いた喉にひっついたような変な声が出た。声が出たけど、何を言おうとしたのか、言うべきなのか、フロイトにはわからない。
「お前、俺のためっていうか俺にもメリットあるような言い方するけど、本当は自分のことしか考えてないだろ。考えてないんだよ。そうじゃなかったら、俺に強化人間を診ろなんて言えないだろ。俺の両親は、強化人間に殺されてるんだぞ。誰が強化人間なんて……」
確かに彼の両親は、彼の父が施した強化人間手術の予後が悪く、それを恨んだ患者にめった刺しにされた。
彼の父の手術についてはミスはなく、むしろ完璧で、患者が訴える不良も客観的には認められなかったが、精神を病んでいたという理由で、患者はほとんど無罪になった。
だが彼が強化人間を恨んでいるなんて、一度も聞いたことはない。だから、だから——
「そんな話知らなかったって顔してるけど、知ってたってお前は理由つけて提案してきただろ。お前はそういうところがうまいんだよ。俺のことを思ってるみたいな言いぶりして、本当は自分とACのことしか考えてないんだ。お前はACのことになると、狡猾で浅ましくて、馬鹿になる。そういうところが大嫌いだ」
「……」
違う、とフロイトは言えなかった。ACのために、これから長くACに乗り続けるためには、そうでも言って彼をなだめて、辺境惑星についてきてもらわねばならない。
でも、言えなかった。
大嫌いと言われて、喉の奥が詰まって、何も言葉が出てこなくて。
「ついでにもう一つ、教えてやろうか。俺はACも大嫌いだ。ACなんかあるから、強化人間なんてもんが生まれるんだ。そんなもんを作り出した奴らを全員殺したいぐらいだ。俺の大好きな親友の命も、奪っちまいやがる」
「でも俺は、」
彼のことは、フロイトだって大好きだ。
結婚したと言われ、子供が生まれると聞いて、少しだけ裏切られたような気持ちにはなったが、それでもおめでとうと言いたかったし、生まれる子供はかわいいだろうなと思えるぐらいには好きだ。
でも、ACを捨てるほどじゃない。
「でも俺の夢は、AC乗りだ」
「ああ。だから俺たち、もう絶交だ」
彼は笑っていた。悲しそうに、でもずっと昔の幼いころに喧嘩してフロイトが思わず「お前なんか絶交だ!」と言った後、一時間もたたずに「なあ、」と話しかけて、二人大笑いした日のことを思い出したのだろう。
フロイトも思い出して少しだけ笑った。
「出歩きたいほど元気なら、明日退院でいいだろう。これまでのカルテのコピーと、今後気を付けて観察すべき点は、まとめて渡してやる」
「……今日でいい」
「そうか。じゃあ病室に戻って、支度をしてくれ。インナーは着てくれよ」
「わかってる」
「……元気でな」
去り際にそう言って、彼は背を向けた。
これから彼に代わってフロイトを診察する誰かのための資料をまとめるのだろう。
フロイトは元通りベンチに座りなおして、ため息をついた。
胸にぽっかり穴が開いたようだ。
泣きたい気分だという自覚もあるのに、泣けない。
それよりも頭を占めるのは、これから誰が自分をメンテナンスするのだろうということと、彼がいないでどれだけACに乗れるのだろうと、そればかりだ。
ああ、だから彼に大嫌いと言われるのだ。
泣けないが、フロイトは両手で顔を覆った。
それから深いため息をついた。