おわかれにむけて 风息の力を借りた任務の帰り道だった。大抵风息は館への報告は无限に任せて、一人でさっさと帰ってしまう。その彼が館の入口であるビルまでついて来たので、珍しい事もあったものだと思っていたのだ。
別件で呼び出しを受けているのか、はたまた館にいる者に用事があるのか。近年は放浪の日々を送っていたとはいえ、彼は元々この土地の有力者だったのだ。実は龍游支部に関係する妖精に顔見知りが多いと知ったのは、つい最近の事である。
入口で风息と別れてから、无限は手短に報告を終えた。龍游の館には无限の古なじみもそれなりにいるが、何もこんな時間に顔を出してもらわなくても良いだろう。ビルの外はとっぷりと日が暮れて、半分くらいに欠けた月が顔を出しているようだった。
今日はさっさと宿でも取って、明日誰かに会えないか打診をしてみようかと思案しながらエレベーターでビルを降りる。まだこの時間なら裏口から出ずに済むだろうと正面玄関側に向かえば、待合のスペースに风息が座り込んでいた。こんな時間に館にも入らず誰を待っているのだろうかと訝しんだが、无限の靴底が床を鳴らしたのを切っ掛けに风息がぱっと顔を上げる。
それから彼は无限を呼んで、一杯引っかけに行かないかと誘ってきた。夕食がまだだったので一杯どころか食事もしたいと応じれば、飯も食べやすい飲み屋か、なんて思案し始める。どうやら风息が待っていたのは无限だったらしい。
最近そういう事がたまにある。最初こそ顔を合わせたところで会話もなかったが、无限が风息を訪ねるのはあくまで任務の一環で、自分から望んで风息に会いに来ているわけではないと気がついたらしい。
それから无限に向けられる感情に少し憐みが混ざって、彼から雑談を持ちかけてくるようになった。小黒がすぐに懐いただけあって、风息の気質は悪くないどころか好ましい。話せばすぐに彼の性質が窺えた。
风息から无限は及第点を貰ったらしく、ふらりと訪ねて来る无限を食事に誘うようになった。龍游の妖精絡みの話題だったり、時折彼も会うらしい小黒の話だったり、はたまた共通の知り合いの近状だったり。そんな話をいくらかして、時には日付が変わってから別れるのだ。
ほのかに耳が色づくまで杯を重ねてしまったとき、风息は目を細めて无限に笑いかけることがある。飲み屋特有の光量の低い部屋でも分かるくらいに優しく、噛み締めるような曲線を見て、彼の意図が分からないほど无限は鈍くはない。
风息が深酒を止められないくらいには、无限はその瞳が好きだった。確かに彼から伝わってくる愛着に触れると擽ったい気持ちになって、無遠慮に手を伸ばしたくなってしまう。もしも无限がそうしたら、彼はより一層笑みを深めてくれるだろうか。それとも。
その紫色のきらめきをどうしてやればいいのか分からないまま、その日も风息が殆ど手を付けなかった揚げ物を一人平らげていた。当の风息はといえば、无限の食べっぷりを肴に度数の高い酒をちびちびと飲んでいる。
妖精だって延々ときつい酒を飲むのは良くないだろうと思って水を頼んで风息に寄越すと、やっぱり风息は優しく柔らかく笑みを浮かべた。いいのにそんなの、と普段より少し崩れた丸い口調で风息が言う。その口元は笑みを残したままで、不快感を抱いていないのが見て取れた。
それから彼は小さく息を吐いて、好きだな、と口にした。ぱちくりと瞬きをすると、无限の反応が気に食わなかったのか风息が緩く眉間に皺を寄せる。俺が、あんたを好きなんだ。真意を問いただす前に、无限が疑いようのない精度で风息が再び告白した。
彼が无限に恋情めいた感情を抱いているのは理解していた。けれど、まさか告白されるとは思ってもみなかったのだ。彼と无限の立場の隔たりを乗り越えて、こんなに真っすぐに愛を告げられるなんて。思わず周囲の気配を探って、彼の囁きを拾っている者がいなかったか確認してしまう。
すぐに返事がないのが不満だったのか、风息がそろりと自身の靴を无限の靴に当ててきた。それからこつこつと突かれて、急かす振動が心の表面にまで伝わってくる。その擽ったい揺らぎに撫でられ、身の内に燻っていた思いが明確な形を持つのが分かった。
私も好きだよ。そう、密やかに告げると、风息は小さく相槌を打った。それから良かったと言ったかと思えば、皿を避けながら脱力してテーブルに頬を付ける。
緊張していたのかと尋ねると、そりゃあもちろんと风息が唸った。そうでなければ、こんな酒を延々飲むなんてなかっただろうさ。なんてことを言っていたように記憶している。
それが一昨日の出来事である。その日は无限が腹を満たしてからもう少しだけ飲んで、帰り道で明日も会えないかと无限から願い出た。明後日の用事は、と风息が食い気味に尋ねてくるので、任務が終わったのでしばらく暇なはずだと答える。
そんなに立て続けで会うなんて、何だか子供の恋愛みたいだと笑えば、风息が眉根を寄せて少し文句を言ったのを覚えている。今更年甲斐を気にする生き方をしているわけでもなかろうに、と言われてしまうとぐうの音も出ない。他の用事があるなら無理にとは言わないと引き下がられそうになったので、慌てて特に用事もないし、あったとしても风息を優先したいと告げた。
本当だろうか、ちょっと誇張しているようにも思える。そう疑う风息に、確かに動かせないものもあるにはあると降参すればやっぱりと彼は苦笑した。
分かってるよそれくらい。そういう奴だって分かってて好きになったんだ。そう、风息は街灯の下で苦さを抜かぬままやっぱり笑って无限に告げる。きっと、そういうあんただから好きなんだ。
そうやって白っぽい明かりに照らされながら告白を重ねる风息がいじらしく感じられて、街灯から離れた暗がりに引き寄せてから彼を抱き締める。抵抗しないまま抱き寄せられた风息が、こういうことをする奴とは思わなかったと照れくさそうに无限の肩口に零した。
彼の言う通り、人の目がない夜道とはいえ、外で恋人に性的な接触を求めるような人間として、风息の前では振舞ってこなかったはずである。恋人としての自分は結構つまらない男かもしれないよ、と囁きかければ、夜の色を弾く紫色の瞳が无限を捉えた。
それでも構わない。そう、密かに无限を受け入れる声を己の唇に当ててから、无限は风息の唇に声の余韻を返してやった。
翌日陽の下で待ち合わせた风息は、贈り物を売っている店に行きたいと言い出した。贈り物と一言で言っても色々あるだろうと返せば、风息は少し躊躇ってから謝罪をしに行く時に人間が持って行くだろうと続ける。风息はどうやら、彼の兄貴分に今回の件の報告をしに行きたいらしい。
吹聴するわけではないが、いつかは彼の耳にも届くはずで、それより前に自分から打ち明けに行きたいと彼は言う。何の相談も受けぬうちに、没交渉の関係としては最悪な相手と自分の弟分が恋仲になるのは正直複雑だろう。止めるほどではないかもしれないが、眉を潜められてもしかたがない。
虚淮が物で釣れるとも思ってはいないが、风息自身の精神上の問題で何かを持っていないと勇気が出ないらしい。そんなものに頼ろうとする自分が情けないと思っているのか、もにょもにょとした調子に自然と頬が綻んでしまう。
手土産があるからどうなるわけでもないものの、やっぱり持って行かなければ敷居を跨ぎ辛いということはままあるものだ。无限にも心当たりがある。
自分も挨拶に行くべきなんだろうか、なんて口にすると风息が目を真ん丸にした。いやそれは、いつかはいるんだろうけどまだそういうのじゃないだろ、そんな風に口早でありながらぼそぼそと风息が无限を制止する。
言われて見れば、最近の自由恋愛となると家族への挨拶は相当遅いのだった。生まれた時代の問題もあって、家が決めた婚姻やら交際関係が筒抜けになる小規模な集落の恋愛観が无限の根底に残っていたらしい。
多分、风息も付き合う相手が无限でなければ、ある程度の付き合いになるまではおくびにも出す気もなかったのかもしれない。わざわざ自分なんて選んで好きにならなくても良かっただろうに、と告げると风息は途端に渋い顔をした。
そりゃ、俺だって相手が選べるならそうしたさ、と彼は言う。話が合って、会おうと思えばすぐ会える場所に住んでいる可愛らしい妖精を好きになれれば何にも問題なかった。そうしたらこんな手土産を探す必要だってどこにもない。そう、妖精の风息には无限は相応しくないのだと、遠慮なしにぐさぐさと刺してくる。
なら告白なんてしなければ良かったろうにと文句をつける前に、风息はでも、と口にして无限を封じた。でも、好きになってしまったものはしょうがない。ちょっと自分を持て余しているような、諦念を含む声音に无限はぱちりと目を瞬かせる。
業腹なのかと問いかけると、当然そういう部分もあると风息がむくれた声で応じた。どっちも本当で、消しきれない感情なのだ。こんな中途半端なのが嫌なら、なかったことにしてくれてもいい。そんなことを言いながら、风息は茶葉とセットになっている茶器の模様を観察している。
あまり品質の良いものでもなさそうだったので、无限はそれよりもと菓子の類を勧めることにした。なかったことにするつもりなんてないと言葉で否定するよりも、彼が兄貴分に報告に向かうのを支援した方がずっと受け入れられ易そうに思ったからだ。けれど、そんな无限の態度が気に食わなかったのか、风息は小さく鼻を鳴らしてその心は、なんて訊いてくる。
食べ物の方が趣味が分かりやすいかと思って、と回答すると风息はしばらく考えてから納得したようだった。だったらこれかな、と风息がいくつか菓子を見繕う。中国の伝統的な物から、西洋の物まで。あまりの取り留めのなさに困惑していると、风息が楽しそうに笑った。
霞でも食べてるみたいな顔してるけど、食べるのは好きなんだ。人間の集落にも全然顔を出さないのに、俺がお祭りとかであれこれ持って帰ると必ず食べてたくらいで。
再び龍游で暮らし始めてからも、目新しいものにちょくちょく手を出しているらしい。下手をすれば自分達よりも余程流行の味は知っているかもしれない、なんて风息は目を細める。
結局店員に手伝ってもらいながら、候補をある程度絞り込む。その中から食べ切りの小袋がある物をいくつか買って試してみることにした。
帰ったら二人で味見しよう、と何でもないように风息が口にしようとする。こちらを見ようともしない风息の声はいつも通りに響いたが、不思議と彼の奔放な髪の先まで緊張に満ちているのが分かってしまった。
歩幅を少し大きくして彼よりも少し前に出ると、风息の顔を覗き込む。そうすればどこを見ているのかも怪しいのに、大きく見開かれた眼が大きく揺らいだ。きゅっと瞳孔が縮まって、堪えかねたように风息がぴたりと足を止める。
无限も倣って歩みを止めてからあなたの家で良いのかと尋ねると、観念するように息を吐いてから风息がこくりと微かに頷いて見せた。
だってあんたの部屋って言ったって、ホテル住まいだろ。それなら俺の家の方がいくらか寛げる。そんなふうにやっぱり声だけはいつも通りなので、无限は口元をにやつかせてしまわないように必死だった。
洋菓子もあったので折角だからと外でコーヒーを買ってから、无限は初めて风息の部屋に上がった。彼の家はミニマリストのそれと称するには足りないが、必要最低限の物で構成されているらしい。一方で居間のテーブルは大きめで、食器も一人暮らしと思えないくらいに置いてある。部屋の整頓具合を見るに、無精して食器をシンクに溜め込むからではなく、兄弟を招く機会が多いのだろう。
たっぷりコーヒーの入ったやたら大きな紙コップと買い込んできた菓子を机に並べ、ああでもないこうでもないと批評しながら二人で食べる。そうするうちにあんたってちゃんとした舌持ってたんだな、と少し驚いたように风息が言うに飽き足らず、何だか生意気だなんて言い募ってきた。
一体人をなんだと思っているのかと不満を表明すると、ろくに料理もできない人間とだけ返される。彼の前で料理を披露したことはなかったが、おそらく小黒辺りから悪評を耳にしていたのだろう。
おかしくないか、舌がまともなのにどうやったらそんな酷いものができるんだ。そうぼやく风息は心底理解ができないとばかりの表情だったが、无限にだって分からない。ならば工程を見せてやろうではないかと腰を上げると、无限の意図を察したらしい风息が慌てて立ち上がった。
思った以上に本気で止めたいらしく、真っ先に足を狙われた。元々冗談のつもりだったのだが、そこまでの反応をされると真剣にならねばならないように思えてくる。よろけた体勢を戻しながら反転すると、风息の肩に体重を乗せてたたらを踏ませた。
床下に響く、と文句を言われて、苦情を言われた事でもあるのかと思いつつ反射的に无限が手を緩めると、今度は反対に风息が无限の胴に潜り込んでくる。嘘を吐いてまで无限を止めたかったのか、この程度では无限が大きな音を出さないと思っているのか。少々気になりながらも无限が腰を落とすと、风息が无限に覆い被さる体勢になった。
片手でその腰を引き寄せて、首の後ろにも腕を回す。大人しく顔を寄せてくれた风息が探るような視線を寄せて、本当に自分を好いてくれているのかと无限に問いかけた。ちょうど良い遊び相手が現れたと思っているのではないかと続ける风息の声は、无限の答えを恐れているようにも響く。
何と答えるのが正解なのだろうと吟味しながら、无限は风息の紫色の奥にある瞳孔を覗き込んだ。かつてこの瞳が敵意を持って无限を射貫いた瞬間があった。苛立ちと痛烈な後悔でもって风息を睨んだことだってある。
それは極々個人的な感情によるものではあったが、无限が感情をかき乱されずとも自分と风息は対峙したのだろう。风息は无限ではなく、あくまでも館と戦っていたのだから。
そう、彼は館と対立した人物だ。そうして未だに恭順は示さぬまま、館の監視下で生活をしている。館も风息が館におもねる必要性は感じていないらしく、協力を仰ぐことはあれど、风息をどうこうするつもりはないらしい。ただ、彼の名を危険因子としてラベリングしている状況は変わらない。
遊び相手にするには、あなたは厄介すぎる。本当であれば手に入れるべきでないことくらい、自分にだって分かっていた。夢から醒めそうな言葉をわざと選んで、无限は风息に答える。思った以上に拗ねた声音になった无限の自白を聞いた风息は目を丸くして、それからすぐに満ち足りたように笑いながら无限を抱き締めた。
俺でいいの。因縁もあるし、また何かするかもしれないし、絶対館からいい顔されない、と风息がすり寄りながら柔らかな声で告げてくる。まるで、今から正気に戻っても咎めはしないと教えてくれるような声だった。
好きになる相手は選べない。そう囁きかけて、街中にはそぐわない风息の匂いを感じながら彼の身体を抱き締め返す。あなたと一緒だと告げれば、掠れた声でそう、と相槌があった。一体どんな表情をしているのか気になって、首を引いて彼を窺おうとした。
风息は虹彩の輪郭をぼやかせながら、目を細めてその大半を瞼の向こうに隠している。いつかの夜に見たそれを数倍甘やかにした表情を見てしまっては、堪えることなどできなかった。
风息の首筋に残していた手に力を込めれば、风息が躊躇うことなく背を丸めてくれる。肩から肩甲骨にかけての丸みを撫でて確認しながら、无限は少し背を伸ばして风息の唇に口づけた。
じっと見つめられているせいで、こちらも目を閉じる機会を失ったまま风息を見返す。唇を合わせているうちに风息がくすくすと笑って、无限の唇を擦りながらこれはいつ目を閉じるものなのかと問いかけてきた。どうやら风息もタイミングを逃してしまっていたらしい。
じゃあせえので閉じようかと提案すれば、裏切られそうだと风息が重ねて笑った。別にあなたは開けていても構わないと告げて先に瞼を落としてしまうとえ、と声を上げたのを最後に风息も静かになったので、おそらく彼も目を閉じたのだろう。
唇を合わせているだけでは物足りなくなってしまって舌先で风息の唇を湿らせれば、手を添えている肩甲骨がびくりと跳ねた。ふ、と俄かに湧き上がった緊張を解すように息を吐いただけで、风息はそれ以上の反応を无限に寄越そうとはしない。それが答えだと判断して、柔らかな彼の唇を割ろうと舌先に力を入れる。
その瞬間、電子音が響き渡った。音に驚いたらしくかちんと歯が噛み合わされる音が风息の口に中から響いて、内心ひやりとする。胸元のポケットに入れたままだったスマートフォンは静かにしているので、おそらく风息の物だろう。
自身のズボンの尻ポケット辺りを风息がまさぐって、スマートフォンを取り出したらしく途端に音が大きくなる。小さく謝罪をした风息が无限の上から離れて行くのを邪魔するほど、无限は性格が悪くないつもりだ。
彼が掃き出しの窓を開けてベランダに出て行くのを見送って、口寂しくなった己の慰めるために食べかけだったクッキーを取りに行く。口の中でコーヒーと混ぜながら、期を逃してしまった気分になった。
こういうのはタイミングと勢いが大事で、それを覆してまでどうこうしたいほどに自分はもう若くはない。電話を終えた风息が部屋に戻ってきた後も、无限は彼に続きは求めなかった。
怖気づいたのかとからかう調子でなじられても、挑発に乗ってやる気持ちにもなれない。そうかもしれないなんて返しながら、内心でそう急ぐ必要はないと結論付ける。
自分達には時間があるのだし、ゆっくりと距離を詰めて行けばいい。风息は少し不満そうにも見えたけれど、また私に勇気が出た時にと続ければ諦めてくれたらしかった。
そんな話をしたのが昨日の事だった。来客用のエアーマットを使わせて貰って眠って、无限よりも後に起きた风息に朝食を用意してもらった。どこまでが駄目か分からないからという理由で台所には結局立ち入らせてもらえない。昨夜は結局随分夜更かししたこともあって、朝と昼を兼ねた量を腹に入れてから二人でしばらくとりとめのない話をしながら目覚め切らない思考を持て余していた。
昼を少し回った頃、风息がちょっと出かけてくると言い出した。買い物鞄らしきものを肩に掛けていたから何か足りない物を近所で調達してくるのだとばかり思っていた。部屋は好きに使っていていいよ。台所も火を使わないのであれば、と彼が渋々許可して玄関をくぐって、それから日が暮れても帰って来なかった。
风息は自由に暮らしているようでいて、館からはしっかり監視されている。だから、悪さをしている訳でもないだろうし、街を出たとも思えない。ひょっとしたら、昔の仲間と偶然出会って盛り上がってしまったのかもしれない。
実際そんな事が以前あって、面談が空ぶったことがあった。そもそも无限が偶然近くに来れたので連絡もなしに様子を見に行ったのが原因で、事前に連絡ぐらい入れろと怒られた記憶がある。そう説教を垂れた張本人が、无限に連絡を入れないのも不思議な話である。
騒動に巻き込まれた可能性もあるが、それならば館が把握しているだろう。夕食を食べ終わったくらいの時間になっても音沙汰がないので、无限は风息の番号に電話を掛ける。電波の通じる場所にはいるようだが、风息が通話に応じることはなかった。
何度かかけ直してから諦めて、館に連絡を入れることにした。一昨日成立した関係を即刻職場に暴露しなければならない状況はいささか抵抗があったが、この際仕方がないだろう。
どこに掛けるべきか少々考えて、監視や追跡を行っている部署を選んだ。居場所を尋ねるなら一番スムーズだし、面会が始まって日が浅い頃は风息からではなく館から彼の在宅を確認してもらっていた。もしかしたら、事情を言わずとも教えてくれるかもしれない。
「风息なら、本日から生活拠点を館に移すとの事ですが」
无限の用件を聞いた電話の主は資料を捲りながら訝しげに回答する。寝耳に水の言葉に息を詰めて、无限は次の言葉を探そうとしたが、ついに見つけられなかった。
「ご存知ありませんでしたか? 大分急な申請だったみたいですね……ああでも、事前に面会相手には報告済みとのことだったので」
「聞いていない!」
おおよそ電話口の相手に上げて良いはずがない声量を発してしまい、无限は慌てて口を噤む。すぐに謝罪を続ければ、飲み込んだ息を吐き出すついでに電話相手がいえ、と応答する。
「とにかく、面会の準備をさせておいてほしい。今から向かう」
相手の了解を聞いて、二、三儀式めいたやり取りをしてから通話を切る。一刻も早くここを発たねばならないが、この部屋の合鍵がこの家の中にあるとも限らない。一瞬鍵を持っていそうな妖精の顔が脳裏を掠めたが、こんな不明瞭な状況で連絡を取るわけにも行かなかった。
それに多分、彼はここにはもう帰っては来ないのだろう。ならば物取りが入ったとしても、少しも不都合ないのかもしれない。行ってきますとも言わなかった場所に、风息にとって大切な物が残っているとは思えなかった。ここに残された己もそうなのではないかと思い至って、腹の底に冷たいものが入り込む感触がする。
結局金属性の力で強引に鍵を締めて、无限は館に向かうことにした。昨夜随分夜更かししたとはいえ、まだ早寝するにも早すぎる時間だ。起きて来なくて門前払いを食らうことはないだろうと思いながらも、腹にとぐろを巻く不安感からはどうしても逃れられない。
館の入口があるビルの正面口は既に閉鎖されていた。裏口から入り込み、受付まで向かうと少し上の階の一室を案内される。
会議室の類が多く設えられている階で、その中でも面談の用途で用いられる部屋だった。风息が通るには相応しくない無機質な廊下を彼はもう通り過ぎた後なのだろうか。告げられた部屋の番号を見て、无限は握り込んでいた指の力を緩めた。
戸を開けると、そこには风息が一人ソファに腰かけているだけだった。ゆったりとした薄手の上着と装飾の少ないシャツは彼が昼に出て行った時と同じ格好で、黒い皮張りのソファから少し浮いているように思える。
音に反応したらしく一瞬背を背もたれから離したようだったが、瞬きを一つするとすぐに风息は身体の力を抜く。それを合図に无限は部屋に立ち入って後ろ手に扉を閉めてから、风息の正面のソファに腰を落とした。
「风息」
じっと无限を見ている风息に呼びかけると、その視線が強まるのが分かった。相手の考えを見定めたいのは无限の方のはずなのに、まるで风息にこそその権利があるのだとでも言わんばかりである。
「前から決めていたのか」
「ああ」
思った以上に冷静な声が出せたと思う。問いかけに风息が頷いて、それから小さな声で謝罪した。きっと彼は、自分が館で暮らす事が无限にとってどういう意味を持つかを知っているのだろう。
无限は不用意に館の敷地内に立ち入れない。その気配で住人をざわつかせてしまう事になるからだ。一方で館に接続する建物には自由に入れるし、事前の準備があれば全くいられないということはない。だから、普段は特別不便を感じてはいなかった。
とはいえ、事前に明確な理由を申請しなければ无限は館の敷地内まで足を踏み入れられない。风息がその領域に引っ込むということは、无限から距離を置きたい意図があるとしか思えなかった。
「もうこのままで良いと思ったんだ。街で暮らして、みんなと会って。それで、あんたがたまに会いに来て。ずっとそんな日が続けばいいって、一瞬思った」
頷いた拍子に无限から視線を外した风息がそのまま目を伏せて、木目模様のローテーブルに視線を落とす。それから风息は自身が感じた幸せの手触りを吐露した。
たとえ风息を取り巻く環境が彼の望むものではなかったとしても、小さな幸福が全て失われるわけではない。そういうものを拾い集めて、ひとは妥協していくものなのだ。全てが思いのままでなくとも、ひとは折り合いをつけて生きていく。
「でも、俺はあんたと一緒にいることを他の何よりも大切なものにしたくない。だから无限、あんたと離れたい」
风息もまた同じできらきらと光る宝物を拾い集めて納得しようとして、それでも妥協には至れなかった。彼が希求しているものを无限も知らないわけではない。それを軽んじようとした自身に、どれだけ风息は驚いただろうか。
「あんたにだってあるだろう。誰かを好きだと思う事以上に大事にしたいものが」
「それは」
ないとは嘘でも言えなかった。かつて連れ添った妻を家に置いて外に出ることを選んだように、自分には個人的な都合よりも優先するべき事が山ほどある。それは风息に対してもきっとそうで、軽々しく反論などできるはずがない。
「俺にだってある。俺はそれを大事にしたいんだ。どうか、そうすることを許してくれないか」
あんたとずっといたら、いつか全部忘れてしまうかもしれない。耳を塞いで目を伏せて、この日常が永遠に続くものだと思い込もうとしてしまう。そんな日が来るのがどうしようもなく恐ろしいのだと风息は告げた。
「ごめん。全部俺のわがままだ。あんたと距離を置くって決めたのも、それなのに告白なんかしたのも」
良い人の顔をして構わないと言ってやれたらどれだけよかっただろう。彼の切実で、どうしようもなく身勝手な行動を許したくないと思ってしまう。
どうしてかつて暮らした故郷の姿も、人間に侵食されることのない安寧の地のことも忘れて、共に未来を模索してくれないのか。そう問いかけてしまいたくなる自分を何とか抑え込む。そんな无限の願いは风息にとっては最も選び難い未来でしかない。
館の模索する未来に共鳴しない者が风息に縋り、风息は彼らの思いに応えようとしてきた。そうやって託されたものを捨て、彼が館と歩調を合わせることは风息の気質を思えばあり得ない。
「世界は、龍游は変わった。そんなことは分かってる。俺だって変わらないといけないのかもしれない」
そう、ぽつぽつと彼は言葉を木目に零していく。ころころと転がるそれは掠れて揺らいで、酷く心細そうに見えた。
「でも、俺はこのままでいたい。まだここにいたいんだ」
世界が风息に変化を要求しても、他ならぬ彼が良しとしない。変わり続ける世界と付き合うのを止めて小黒の手を振り解いたあの日のように、彼は彼であり続けるために今度は无限を手放そうとしているのだ。
きっと风息が无限を愛してしまったというのは偽りではないのだろう。復讐染みた行為のために自らを差し出すような真似ができるほど、彼は器用な性格をしていない。
无限を愛して、求めるが故に自身が変わるのを恐れながら、それでも何かよすがを得ようと无限に思いを伝えたのだろうか。无限がその思いに応えたのが彼にとって誤算だったかは分からない。
たった二日にも足りない時間を心の奥底に閉じ込めるために丁寧に封をしながら、彼は一分一秒を過ごしていたのだろうか。腹がくちくなって並んで座っていた時に、风息が髪束から浮いた无限の髪をついと掬って、くるくると指先で遊んでいた姿を思い出す。
結局彼があの髪をどうしたのか、无限はさっぱり覚えていない。けれど风息は覚えているのだろう。自分がどうやって无限に触れたのか、无限がどんな手つきで风息に触れたのか。そのすべてを彼はすでに失ってしまった宝物の名残として、その身に閉じ込めている。
だから、ごめん、と风息は声を絞り出した。风息の選択が苦痛に塗れているのに、その中に揺らぎようのない決心があることが分かってしまう。
あの日の夜明けのように彼は勝手に一人で決めて、たった一人で行ってしまうのだろう。
そして多分、それを押し止める手立てを无限は、いや无限だからこそ、何一つ持ち合わせてはいなかった。