03【怖がりの夜】(了尊) 尊が目を覚ました時、部屋の中はひどく薄暗かった。小さな常夜灯の心許ない明かりだけでは、自分の腕の輪郭が薄ぼんやりと見える程度だ。
──今、何時だろう?
まだ眠気の残る頭で考えながら、尊は寝返りを打った。けれどもそのまま眠りに戻ることはできない。
(……トイレ)
尿意を感じながら、再び寝るのは難しい。ならばトイレに行けばいい。それはそう、ごく当たり前の話だ。しかし、尊にはその『当たり前』が、少々困難でもあった。
尊はロスト事件以降、――あるいはその以前から既に苦手だった可能性もあるが、記憶も曖昧であるため明確に自覚したのが事件以降のことだった――幽霊や妖怪などという、心霊現象的な存在に対する恐怖心を持っていた。
とはいえ16にもなれば、夜道で膝を抱えて動けなくなる程のものではなかったし、幼馴染である綺久の前では虚勢を張ればやり過ごせる程度の恐怖心だ。決して今は、夜に一人で用を足せないなんてことは、なかった。――なかったのだが。
白に囲まれた廊下の整然とした空間。家庭的でなく施設じみた作りの鴻上邸だからこその特徴的な廊下は普段であれば清潔感のある場所なのだが、この時の尊にとっては過去の記憶の中に押し込められていた事件の記憶が呼び起こされた。
暗闇の中に生まれ出し、蠢くモノ。克服したはずのそれらだが、人は時に肉体や精神の疲労によって弱る時もある。そんな偶に起こる一夜が、まさに今日だった。
(──う、……むり)
尊は布団の中で身を縮こまらせたまま首を振った。一度起き上がって、そしてトイレで用を足して戻ってくる。たったこれだけのことなのに、それがどうしてこうも難しいのか。情けないとは思うけれど、今の尊にはどうにもコントロールが利かない。
無理やり眠ってしまうこともできずに、尊は布団の中で丸くなって、モゾモゾと身動ぎするしかなかった。
「穂村……?」
不意に、隣から声がする。了見の声だ。起こしてしまったのだろうかと、尊はびくりと身体を跳ねさせた。
「どうした。眠れないのか?」
たった今まで眠っていたからだろう。普段はもっと芯の強さを持った声は、寝起き特有の、どこかふわふわとした響きを含んで尊の鼓膜を震わせる。
「……あ、と」
――どうしよう、素直に言うべきだろうか。
しかし、いくらなんでもいい歳をして、外聞が悪すぎる。そう思い、尊は言葉を濁す。けれども、了見はそれを許してくれなかった。彼はそっと尊の頭に手を置くと、そのままゆっくりと撫で始めたのだ。
まるで、尊の恐怖心を見透かしているかのように、優しい手つきだった。
「怖い夢でも見たのか?」
「ちがう……けど、そんなとこ」
曖昧に答えると、了見は違うのに肯定するのか、と小さく笑った。それから更に強く尊を抱きしめる。たしかに尊の方が体温は高いけれど、彼の少しだけ低い温度に包まれているのは不思議と心が安らぐ心地がする。
変なの、とは思うものの、嫌ではない。だからなのか、尊の強張っていた身体から、ふっと力が抜けていく。
「……その、トイレ行くの。……廊下、怖くて」
切れ切れの単語をぼそぼそと口にすると、了見はそれだけで理由までも察してくれたようだった。
「なるほど。そういうことか」
納得したように呟いてから、彼は小さく息を吐き出した。
「わかった、一緒に行ってやる」
だから安心しろと言われて、尊は少しばかり、ばつが悪いような心持ちになる。なぜならこれは、初めてのことではなかったからだ。
自分事なのだから仕方がないとはいえ、なんだかまるで子供扱いされているような気がして、どうにも居た堪れない。実際、了見はどう足掻いても尊より2つ歳上で、そこには絶対に覆せない年月の壁がある。尊がこの家の夜の廊下を恐れているのは年齢とは関係のない話だが、それでもそのことが、少しだけ悔しく思えた。
とはいえ、やはり困ってはいたので、ついてきてもらえるのは素直にありがたい。尊は小さく礼を言うと、そっとベッドを抜け出した。了見もそれに合わせて身体を起こす。そして二人は連れ立って、夜更けの廊下を歩き出した。
了見が先を歩いているため、尊はその手に引かれるようにして歩いていく。視界の端に映る暗闇に、時折身が強張るけれど、手を引かれているおかげか不安感はそれほど強くはなかった。
ただ用を足すだけの、なんということのない生理現象。あっという間に用が済むと、部屋に戻りながら湧き上がってくるのは、また彼の手を煩わせてしまったなという罪悪感だ。
そうして、無事に寝室へ戻ってきてから最初に発した言葉はやはり謝罪だった。
「……起こしてごめんな」
本当に、情けない。目も合わせられずにいる尊の様子に、了見は珍しいものでも眺めるようにきょとんと目を丸くさせた後、ふっと表情を和らげた。
そうして、繋がれたままの手に力が込められる。
「いいや? 頼られて悪い気はしない」
むしろ嬉しいな。
優しい声でそう言われて、尊は胸がきゅうっと締め付けられるような感覚を覚えた。――なんだそれは。ずるいだろう。
顔に熱が集まるのが分かる。心臓の鼓動が早くなって、なんだか急に、落ち着かない気持ちになった。
「ば、馬鹿だろあんた」
動揺を隠すように、尊は了見に悪態をついた。けれどそれは、言葉とは裏腹に随分と弱々しいものでしかない。そんなもので了見が気を悪くすることは当然なく、それどころかむしろ、嬉しそうにしてさていた。
「そうだな、お前が関わると馬鹿になるかもしれない」
戻ってきた寝室のベッドの、その縁に並んで腰掛けながら、相変わらず了見は穏やかに微笑んでいる。尊はその横顔をちらりと盗み見て、すぐに目を逸らす。
「……あ、そ」
(恥ずかしい奴!)
雑にあしらうふりをして布団を捲り上げると、尊はその中に潜り込んだ。実際には照れてしまった顔を見られるのが気恥ずかしくて、そのまま了見に背を向けるようにして横になる。
背後からくすくすと笑う声が聞こえてきた。ムカつく、と内心で毒づきながら、尊は頭の先まで布団を被ってしまう。
(なんなんだ一体)
尊に負い目を感じさせないように言っているのか、それとも本気でそう思っているのか。――鴻上了見という男の性格からして、おそらく後者なのだけれど。どちらにしろ気遣われているというのが癪に障る。
(けど一番ムカつくのは、そんな馬鹿っぽい答えに満更でもない気分になってる俺だよ!)
悔しいような。でも、嬉しいような。複雑な気持ちを持て余しながら、尊はすっかりどこかへ飛んでいってしまった眠気を呼び戻そうと、緩んで仕方ない口端をぐにぐにと揉みながら、再びきつく目を閉じた。