指先は触れ合わず それは決まって、『あの日』の夜に起こる。
海に面したこの家、特に海側にあるこの部屋は、眠る時でも微かに波のさざなみが鼓膜を揺らす。尊も尊の隣で眠る男も鼾をかくタイプではないから、その寝息が波音を遮ることはない。しかし時折、それを遮る音がある。
「……」
尊はベッドの上で身じろぎをして寝返りを打った。枕元に置いてある目覚まし時計を見るまでもなく、まだ深夜であるのがわかる。カーテン越しに差し込む月明かりだけが部屋の中に射していた。尊は布団の中から緩やかに光を透過してくる不思議な窓ガラスを眺めた。ブラインド機能を有したその窓は日中は紫外線だけを遮り、夜になると海に反射して割と眩しい月明かりをほどほどに減光してくれる。真っ暗にすることも可能なのだそうだが、そこは暗闇を不得手とする尊にあわせて配慮されているのだろう。
たけが海側に背を向ける形で寝返りを打つと、視界に入り込んでくるのは彫像のような横顔だった。しかしその彫像、――隣で眠る男、了見は、夢の世界に意識を置いていながらにして、比喩した無機物にはあるまじき苦悶の表情を浮かべている。
そのせいか、尊は今にも彼が呼吸を止めてしまいそうな気がしてならなかった。
(……またうなされてんのか)
一度この瞼の下に隠れた、天色さえ覗けば。あの力強い光を帯びた瞳からはそんな不安など感じることもないのに、と思う。
尊が了見とこのように共寝――というより、既に同棲と言っていいのだろうか。それなりなやることはやっている――するようになったのは、まだほんのひと月程前のことだ。気まずいながらも報告しないわけにはいかず、了見の側近でもあるスペクターには事情を話す流れになったのだが、その折に隙を見て尊は釘を刺されていた。
『あの家で暮らすつもりでしたら、ひとつ忠告を』
仰々しい声色に、スペクターを恐れたことなどなかった尊が初めて彼の前で肩を強張らせたことを覚えている。
『――了見様に、夜起こることは伝えないように』
言われたときは一体なんの話なのかさっぱり分からなくて、尊は首を傾げたものだ。しかし、それから暫く経ってからその意味するところを理解するに至った。
了見は夜、度々今のようにうなされている。だというのに起きた当人はなんでもないような顔をして、平然と起床するのだった。
スペクターからの忠告されていたのも理由のひとつだが、尊は了見にその様子を指摘することはしなかった。了見自身が自分のこんな状態を認識していないとは到底思わなかったが、それでも釘を刺されたのは、きっと尊に知られることを了見が望んでいないから、なのだと思う。それから、尊が気付いていると知ればたちまち、彼は尊との共寝をやめるだろうことをわかっていたからでもある。
悩ましげに顰められた眉根、食いしばった歯の隙間から漏れ出る苦しそうな吐息。布団の上からでも分かるくらいに激しく上下する胸。そして、額にうっすらと浮かぶ汗の粒。
「う……」
――父さん、どうして。
うわ言で呟かれる言葉たちから連想できるのは、尊の記憶にもこびりついている白くて狭くて、暗くて痛いあの地獄の時間。直接的な苦痛を受けていた尊たちとは別の苦痛の記憶に苛まれる相手は、LVでの対峙を経て、確かにその呪縛が解けたように振る舞っていた。
(けど実際、あんたはまだこうして苦しんでる)
嘘をついたのか、などと安直な怒りはさすがに湧いてはこなかった。そもそも、尊自身でさえまだ克服したという表現には見合わない。
尊たちはまだ、解呪の道を歩き出したに過ぎないのだ。だから、この先にもきっと
こうした日々は続いていくし、それらを受け入れなければ決して進むことなどできないだろう。
尊は眉を顰める了見の顔に貼り付いた髪へ手を伸ばし、そっと払った。普段はひやりと感じるくらいの触れた肌はひどく熱くて、それが彼の感じている痛みをそのまま表しているかのようだった。
尊にしてやれることは、なにもない。互いが互いのために起こせるアクションは既にこなしてしまったし、遊作のように幼い頃の了見と面識があるわけでもない尊には、かける言葉さえ持たない。
――そもそも、了見はそれを望まないだろう。
だから尊は黙って、素知らぬふりをして、ただ寄り添ってやる。
尊は、了見のことをよく知らない。遊作との間にある因縁も『ある』ということを知っているだけで、なぜ彼らがそんなことになってしまったのかまでは把握していない。
けれどこれだけは分かる。
了見にとっての罪の象徴が、遊作だった。だからこそ尊は側に置けても、遊作には同じことができない。特別であるが故に距離を掴みそこねたまま、──ほとんど
了見の一方的なものだが――二人は今でも奇妙な距離感を取り続けている。限りなく似た存在でありながら尊を側において置けるのは、少なくとも尊が自分のせいで攫われた子供ではないからだ。それがいいのか悪いのか、はっきりとした答えを尊は出せない。
(でも)
――この姿を知らないままなのは、嫌だなと感じた。
了見がどんな苦しみを抱えているのか、それを尊が正確に理解する日はこないとしても、せめて同じ事件の別の痛みを知る人間の苦しみの、その片鱗くらいは知っておきたかった。
了見の苦しみは、ただ闇の中で蹲っている者の怠惰な苦しみとは違う。闇の中から抜け出そうと足掻き藻掻き、光に手を伸ばさんとする者が負う抗いの証明だ。それは尊にしても同じで、だからこそ負けるんじゃないと激励する気持ちもあるし、この姿に負けられない、と励まされるような気持ちにもなる。
そうして、ささやかなエールを送りながらその痛ましい寝顔を眺めていると、不意に了見の瞼が開いた。
「……っ」
思わず息を呑み、尊は身を固くした。起こしてしまっただろうか、と咄嗟に身構えたが、どうやらそうではないらしい。
薄暗がりの中で、了見の瞳は焦点が合っていない。
「……」
小さく、唇が動く。
何か呟いているようだが、それは声にはなっていなかった。ただ、何かを探して虚空に手が伸びている。尊はその手を握らない。その役目はきっと、尊ではないからだ。代わりにその肩口に、そっと額を寄せた。
「――大丈夫。お前は大丈夫だよ」
囁く声は、届いているのだろうか。
聞こえていなくていいけれど、届いていてほしい。そんな矛盾したことを考えていると、胡乱な瞳が尊を捉えた。
「……たけ、る」
ぽつりと口をついたのは、普段呼ばれることのない下の名前だった。
了見はのろのろと身体を傾けると、隣の尊を腕の中に抱き込んだ。力加減が出来ていないせいで少々苦しいのだが、普段どれだけ加減されているのかが分かって、少しむず痒い。
「こんな時ばっか名前呼ばないでよ。……反応に困るだろ」
手は握らないのに抱き締めるのはいいだなんて奇妙な話だが、その不合理さこそが自分たちには似合いであるように思えて。尊は寝苦しいその腕を振りほどく気にはならなかった。
――背中に触れるぬくもりに、いつか尊の手が重なる日はくるだろうか。
(……でも、たぶん僕らはそういうんじゃないんだよなぁ)
友達でもない、家族でもない。仲間でも、遊作のように運命なんて呼べる特別なものもない。ましてや体を重ねてはいても、恋人なんて大層な関係でもなかった。
この関係はもっと淡白で、ドライで、脆くて、曖昧、恐らくは利己的なものだ。
それでも、尊はきっとこの先もずっと、それこそ不要だと言われるまで。了見がうなされていれば同じようにして朝を迎えるのだろう。そして、この夜がまたやってくるたび、こうして寄り添って眠る夜を繰り返すのだ。同じ夜を同じように、尊が乗り越えていくために。
「やっぱり、手を繋ぐなんて似合わないよね。僕らにはさ」
苦笑混じりの呟きは、誰に聞かれることもなく静かな夜に溶けて消えた。