今すぐいくね- 今すぐいくね -
真っ暗な場所は嫌いだけど、真っ暗な自室は、嫌いとは違う感覚がする。
配信を終えて電気を切った真夜中の部屋はしん、と静まり返っている。ベッドに転がって天井を眺めていると、カーテンの隙間から街頭や車のヘッドライトがちらちらと視界の端を照らしてくれた。ミスタはぼんやりとそれを見ていたが、やがて車の通りもなくなってしまうと、部屋は更に暗闇に包まれる。
静かな部屋では、自分だけが音源だ。
呼吸の音、寝返りのシーツの擦れる音、心臓の音
、頭の中をぐるぐると巡る自分や他人の声。横向きになって、枕をギュッと抱き締める。
暗い部屋は落ち着かない。落ち着かないから、ミスタはつい部屋の明かりをつけ直した。明るい場所で寝ることがあまり良くないことは勿論理解している。理解しているけれど、やっぱり嫌いなものは嫌いなのだ。明るくなったことで、心臓の音がほんの少しだけ小さくなった。頭にガンガンと響く心拍も、ミスタは嫌いだった。逸る心音を聞いていると、心が落ち着かない。ソワソワして、なんだかそこがなんともないのに怖い場所のように思えてたまらない。一人で部屋にいることを嫌でも理解出来て、どうしようも無い焦燥感に、ますます眠れなくなる。
「…………はぁ」
明るい部屋で、ため息をついた。今日はなんだかいつも以上に落ち着かない。電源を切ったパソコンでは、ついさっきまでヴォックスと一緒にゲームをしながら配信していたのもあって、急に声がしなくなるとちょっぴり不安な気持ちになる。
ヴォックスの声は、好きだ。ミスタにとってヴォックスの声は、真っ暗な部屋の対極に位置している。落ち着くし、安心する。
そっとスマホを手に取って、ディスコードにメッセージを打ち込みかけて、辞める。
ヴォックスだって寝てるに決まってるだろ。だって今夜中の二時だぜ?女々しすぎる俺!
最初の三文字くらいだけ打ったのを消して、そのままスマホを少し離れたクッションに向かって放り投げた。これでいい。これで。
はぁ、とまた大きく息を吐いた。明るさを少し落として、またぼんやりと天井を眺める。あーあ、また寝れねぇのか、しょーがないから薬飲もう。と、起き上がったその瞬間、クッションの上のスマホがけたたましく音を出した。
「ウワッ?!えっ、なに?!」
鳴り響く電話の着信音に慌てて画面も見ずに耳に当てた。
「あ、えっと、Hello?」
『やぁ、さっきぶりだなミスタ』
「……ヴォックス?」
慌てふためく自分とは裏腹に、落ち着き払った声に、ミスタは内心少しだけほっとした。したけれど、同時に心臓が飛び上がるかと思った。なんでピンポイントにヴォックス?天才探偵の頭脳は、本人の意識より随分早くおやすみしていたらしい。
「どしたの急に電話なんて。なんかあった?」
『ハハ、何、寂しがりの小狐がついさっき視界に過ぎってね。という訳で、今からそっちに行くから大人しく待っていなさい』
「…………は?え?今から来る?なんで?」
『あぁ、そうだ。私が着くまで、暖かい物でも飲んでなさいな。体を冷やしたら良くないからね。多分三十分くらいで着くから。良い子に待てるね?』
「う、ウン……って、質問に答えてよダディ!」
『ハハハ!』
ぷつん。
ヴォックスは笑って誤魔化して、通話を切った。ミスタは部屋の真ん中に立ち尽くしてポカン、と口を開けたまま突っ立っているしかなかった。
今から?ヴォックスが?来る?なんで?俺ちゃんとメッセージ消したから何にも送ってないよね?……うん、なんも送ってないワ。意味わからん。
呆然としていたが、とりあえずのろのろとリビングに足を向けた。冷蔵庫を開けて牛乳を出すと、洗ってあったマグカップにトポトポと注いで電子レンジへ。いくらミスタの料理が壊滅的とはいえ、電子レンジでホットミルクを作るくらいは出来る。一分くらいでピ、ピ、と音を鳴らした電子レンジからマグカップを取り出した。ズズズ。ウン、ただのあったけぇミルク。甘みとかそんなものは知らん。ただのホカホカのミルクを、ただ胃袋に流し込む。そうやってキッチンで突っ立ってミルクをチビチビ飲んでいると、今度は玄関のチャイムがけたたましく鳴った。
え、ほんとに来たんか。
玄関に向かって、もたつきながらもドアを開けると、そこにはラフな部屋着に上着を羽織っただけのヴォックスがちゃんと存在していた。
「Good night、坊や」
「あー……Good night、ダディ」
「いい子にしていたな?……ン、ミルクでも飲んでいたかい?いいね、とてもいいよ」
ぐし、と親指でミスタの口元を拭って、それから「入っても?」とお伺いを立ててきた。こくん、と頷くと、笑みを深めた。
ヴォックスが、俺の部屋にいる。なんでだ?
ミスタは未だにぐるぐると考えていた。ヴォックスの前を歩いてリビングに案内して、「適当に座っててよ、紅茶いれよっか?」と聞いたが、ヴォックスは軽く首を横に振って、それからまたミスタを見て甘く微笑んだ。
「ミスタ、こっちにおいで」
「……?」
訝しげな顔で近づいた。ソファに座ったヴォックスの前に立つと、「もっと、近寄って」と囁かれる。
「……あの、ヴォックス、」
「ン?どうしたMy boy」
「なんで急に来たの?」
「オヤ、言わなかったかい?寂しがりの小狐が視界の端に映ったものだからね。抱き締めてやろうと思ってな」
「……俺、何にもしてないよ?」
「……ハハ、そうだったか?」
困惑するミスタに、意味深に笑って見せて、ヴォックスは立ち上がった。そのままするりと手を頭に添えて、腰を抱き寄せた。
「大丈夫、ちゃんと伝わったから」
ミスタにはやっぱり意味がわからなかったけれど、一人きりじゃないことに安心して、ヴォックスが何で来たかなんてどうでも良くなってきた。誰かがそばに居てくれて、抱き締めてくれて、なにより暗い部屋じゃない。明るいリビングは、真っ暗な外とは違って安心できる場所だった。あったけぇな、ヴォックス。
そう思って、ミスタはゆるゆるとヴォックスの背に手を回した。
自分の心音は嫌いだけど、ヴォックスの心音は好きだ。
「良い子だね、ミスタ。このまま眠ってしまおうね」
「……ン」
ひょい、と持ち上げられたが、うとうとし始めたミスタには心地の良い振動だ。ゆらゆら、うとうと、とくとく。安心する音が沢山する。大きな手のひらが添えられている。囁くようなヴォックスの声が、ミスタをそっと寝かしつけようとしている。
「……だでぃ」
「どうした?」
「おきても、いてくれる?」
「勿論だよ、My boy」
よかったぁ。
すぅ、と眠った小狐に、ヴォックスはほっとした。
伝え忘れたことがあって、ヴォックスは配信後にミスタとのディスコード画面を見ていたのだが、二時頃に突然、ミスタが何かを書き込んでいるのが画面に映った。ハテ、向こうにもなにか伝え忘れがあったのだろうか、としばらく見ていたが、何も送られることはなく、ふっとその表示は消えてしまった。それを見て、ヴォックスはあぁ、と思い至った。
ミスタが、眠れなくて寂しがっている。
ミスタは誰かに甘える事が苦手で、人の好意を受け取るのも得意では無い。自己犠牲が優しさだと思っている子で、いつだって誰かの為に笑える優しい子だ。それ故に、SOSや寂しいという感情を表に出すのが兎に角苦手で、それはヴォックスが相手でも同じだった。さりげなく言葉をかけて、甘やかして、話を聞いて、促して。ようやくちょっとだけ、ミスタはヴォックスに甘えるようになってきた。ディスコードのメッセージも、その一端。多分、寝れない、とでも送ろうとしたんだろう。送ろうとして、悩んで辞めたから、何も送らずに消してしまったんだろう。
デスクの前から立ち上がって、上着を羽織る。玄関に向かいながら、ヴォックスはミスタにコールする。驚いた様子のミスタに、ヴォックスは軽快に笑った。
愛しい坊やを、今すぐ抱き締めてあげないと。
タクシーに乗り込んだ鬼は、随分と楽しげだった。