火花またたく 寮生の一人から聞いていたとおり、岩場の切れ目から上へ上へと、階段さながらに足場の続く登り坂があった。
幅も高さもまばらなステップは、あるいは石で、あるいは流木を埋め込むようにして作られている。右へうねり、左の木陰に隠れ、今度こそ見失うかと曲がってみればその先は必ず上へと伸びていた。
どこかの誰かが勝手な都合で作り上げた私道だろうか。
住民たちが自然発生的に生み出した、海への通い路かもしれない。
いずれにせよ、この幼馴染は踏んだことなどないだろう粗野な足場だ。「人間が育んだ獣道」そんな矛盾した表現を思い浮かべ、
「ぃっ、」
俺でなければ聞き逃しただろう小さな声に、握っていた手を引き寄せる。
足を滑らせたか、躓きでもしたかと目をやったカリムの靴はしっかりと砂を踏んでいて、
「大丈夫だ、このまま掴んでくれてていいぜ」
かけられた言葉の指した場所から、俺の握る手が痛んだのだと察した。
島の北端、それも高い崖上に立つ学園にはない熱気は、海岸からの湿った風も含んでいる。小さな孤島だということもあるのだろうか。より気温の高い熱砂の国にいるときよりも、まとわりつくような汗がじわりと湧いてとめどない。指や手のひらが汗に滑るのを感じるたび、強く握り直している自覚はあった。
私服の尻ポケットに入れたハンカチのことを思い出したが、
「あっ! 始まった!」
どん! と強く鳴り響いた音と、カリムのうわずった声がそれをかき消す。
あいつの背景に揺れる木々の向こう、暮れゆく空と瞬き出した星が、葉や枝の隙間からちらちらと覗いている。おそらく今のは、ただの開始の合図だ。もう一息駆け上がれば、間に合う。
「急ぐぞ」
「ああ!」
俺が握り直してやるよりも早く、カリムの指が俺の手を握りしめた。
「海岸祭り? ああ、寮生たちから外出願いがいくつか出ていたな」
明日あたり、学園に提出しようと考えていた書類の束を脳裏に描く俺を、いつも以上に光を増した瞳が、キラキラ赤く見つめてくる。
「オレも、行ってくるな! ヴィルとかリリアとか、アズールもジェイドもみんな一緒に!」
「は……? 聞いてないが……?」
聞いていない以上に、何故そのメンバーで? と、疑問符しか浮かばない名前が挙がる。週末のオクタヴィネルを、寮長、副寮長ともに空けるというのも腑に落ちない。偵察や出店が目的かと推量しかけたが、寂れた賢者の島のしけた海岸祭りが、モストロ・ラウンジの邪魔にも足しにもなるとは思えなかった。
どういった訳でと問い質せば、
「去年のハロウィンのとき商店街が賑わったお礼にって、実行委員たちを招待してくれたんだ」
アイツはグッと拳を握り固めて、鼻息も荒く答える。
「この週末に差し迫った行事にも関わらず、報告が今か。俺が予定を入れていたら、留守をどうするつもりだったんだ」
「いやあ、アズールたちやイデアが何時間も出られないって言うから、何時に行くか擦り合わせるのに手間どっちまって。花火大会を見がてら出かけようって、今さっき決まったんだ」
実行委員のグループトークに届いたメッセージを見せながら、カリムはもう一度「だから、行ってくるな!」と宣言する。
なるほど、麓の街の小さな夏祭りだと聞いてはいるし、寮長たちに囲まれての短時間なら心配はないだろう。熱砂の国のアリアーブ・ナーリヤに比べれば、花火も祭りも何千何百分の一の規模だろうが、だからこそ安心だとも言える。
手持ち花火みたいにチャチな火の粉を見てキャッキャと騒ぐカリムが目に浮かぶ。
下町の軒先に広げられたパラソルほどの小さな出店で、特段美味くもない菓子や氷菓を買って喜ぶ実行委員の面々も、それを横目に食べることのできない哀れなカリムの姿もだ。見てきたかのように想像に容易い光景は、思い描くだけでスッと胸がすいた。
いいだろう。そのあいだ、俺はひとり静かな時間を満喫するとしよう。カリムをよそに食べたいものを食べ、飲みたいものを好きなだけ飲んでやる。読みたかった本や映画を楽しむのもいい。
降って湧いた週末の自由時間に思いを巡らせていたら、俺まで心躍るここちになってきた。ひとたび機嫌を持ち直すと、乾きや空腹でカリムが体調を崩す可能性もあることに思い至る余裕も出てきた。そんなこいつを憐れんで、マレウス先輩やリリア先輩が怪しげなものを食わせかねないような気もしてくる。
ディアソムニアの連中だけじゃない、オクタヴィネルの二人だって、面白がるなり利潤を狙うなりでカリムに何をしでかすかわかったもんじゃない。
「カリム」
「んん?」
「出店のものは口にできないだろう、お茶や軽食を用意してやるから持っていけ。前日までならリクエストを聞くが、嵩張るものはダメだ。みんなで分けるのもやめてくれ。どうせやつらは買い食いでもするんだろうから放っておけばいい。他にも必要なものはないか、祭りに行ったことがあるヤツに聞いておくから——」
「ジャミル、行きたいのか?」
「は?」
「ごめんなあ、気がつかなくて! お前が一緒なら買い食いだってできる、一石二鳥だな!」
「はああ? どうしてそうな——」
「もしもし、ヴィルか? 今度の祭り、ジャミルも一緒でいいかな。エッ、そうなる気がしてたって? さすがヴィルだな!」
勝手に参加を決められた時から嫌な予感はしていた。
案の定、海上の船から打ち上げられるという花火のために小さな海岸は人で溢れ、見る間に俺たちは皆とはぐれてしまった。
「ひどい人混みだな」
「こんなにギュウギュウになって見る花火なんて初めてだ! 楽しみだな!」
カリムの身を案じる気持ちと単純な不快感に苛まれている俺に気づきもせず、あいつは足元のおぼつかない砂浜で、つま先立ったり飛び上がってみたりして海を臨んでいる。割れた貝殻や、マナーの悪い客が捨てたのだろう買い食いの紙屑だってそこらに転がってるというのに!
「っひゃわあ⁉︎ ジャミル、どうした……」
「花火がよく見える穴場があるらしい。連れて行ってやる」
だから俺は、この手を掴んで駆け出したのだ。
視界を遮っていた木々を抜け、大きく左へとカーブを描きながら登り坂の傾斜は緩やかになっていく。
石や流木でできたステップはもうない。浜辺から吹き上げられたのだろう砂もいつしかなくなって、踏みしだかれた雑草がところどころに生えている。海辺にいた時よりも大きく聞こえる波音、人いきれに掻き消えていた潮の香りも強い。草でカリムの靴裏が滑らぬよう、足元を選びながら進んだ先。忽然と海が見えた。
続けて、光と、音。
あっ
と、カリムの唇が動いた気がした。声は出ていなかったのか、大きな音で聞こえなかったのかは、わからなかった。ただその赤い瞳と丸い頬が、眩い光に照らされるように輝いていた。
アリアーブ・ナーリヤだったら、いくつもまとめて上げられるような小ぶりな花が、一つ、一つ、とささやかに咲いていく。音も、彩りにも乏しく、一つ上がるたびに半端な間があく。
それが、やけに健気で儚いものに感じられるのは、ここに俺たちしかいないからだろうか。特等席でもない、来賓もご馳走もない暗闇の中だからだろうか。
それとも、この先の崖に向かってまばらに伸びる木々や雑草が、アーチ型の窓のように海と花火とを縁取っているからなのか。
弱々しい花がひとつ。また開き淡く散っていく。光を映し取った海は黒く色をなくし、花弁の落ちる音が遠くでぱちぱちとはぜている。
「ジャミル……」
あの中途半端な間のおかげで、今度はちゃんとカリムの声が聞こえた。その頬を切れ切れに照らしていた光が上がらない静寂のなか、赤い瞳だけが煌々と月明かりを映し返している。
ここへと駆け上がってきた足で確かな土を踏み、引いてきたままの手をもっと引き寄せて唇を重ねたのも、この場所のせいだったのだろうか。
どん、大きな音が潮風を震わせる。閉じることのできなかった瞳のすぐ先で、やはり閉じられなかった瞳が赤く花開いている。
——2022.8.14.ジャミカリ深夜の真剣一本勝負『花火』『祭』