『暑い』
付き合っていた彼が亡くなった。
事故だった。トラックとの正面衝突。
2年と少しの付き合い。結婚の話も出ていた。
「死んじゃったんだなぁ」
口にすると、意外にもそれは心にストンと落ちて、恋人だったはずなのに、悲しくはなかった。
「後を追おうだなんてそんな馬鹿なこと考えないでくださいよ」
ふと、声が聞こえた。ここは公園。子供はいない。
振り返るとローズマダーが見えた。
「七種くん?なんで…」
「彼、自分のところでもスポンサーとしてお世話になっていたので」
「そう、なんだ。ありがとう」
「なんであなたが礼を言うんです?」
どうぞ、と何処からか買ってきた缶コーヒーを手渡され、どかりと私の座っている─あまり丈夫とは言えないベンチに座った。そのままカコっと缶を開けてゴクリと一口。
どうして七種くんはここに来たのだろう。
誰にも見つからないようにそっと会場を後にしたのに。人気の無い公園で1人になりたかったのに。
「大切なプロデューサーに廃人になられては困りますからね」
「私はそんなに弱くないよ」
「でも、1人になりたかったんですよね?」
「君が来たから、1人どころじゃないよ」
言って、驚いた。会話なんてまともに出来ると思っていなかったのに。
七種くん、だからだろうか。他のアイドルなら、TrickStarなら、私は笑顔を貼り付けて『大丈夫、心配してくれてありがとう』と返していただろう。
「あぁ、お悔やみ、申し上げます」
突然に、そんなことを言われた。正直、意味がわからない。聞き流そうと思えば出来るけれど、ここは人気の無い静かな冬の公園。雄蝉もいなければ小鳥もいない。あるとすれば、時折びゅうと吹く身体を突き刺すような鋭い風と、すっかり落ちてしまった枯れ葉だけだ。
無視は、できそうにない。
「私に言われても、どうしていいかわからないんだけど…私はあの家の家族じゃないし…」
「……………いやぁ!これは自分としたことが!申し訳ありません!もうとっくにご結婚されたものかと思っていましたので…」
「あぁ、うん、してないよ、話は出てたけど」
なんだ、勘違いしてただけか。びっくりした。
「あんずさん」
「何?」
「自分と、お付き合いしていただけませんか?」
「……え?」
「あなたは気付いていないようでしたが、これでも自分、あなたにアプローチしていましたよ?」
「えっと」
「こういうのはガラじゃないんですけれど、好きですよ」
「……そんなこと、今言わないでよ」
「今だからですよ」
自分はこういう時に、つけこむ男ですよ、とか何とか、そういうことを言っていたような気がする。 私はその場から逃げ出してしまったから、本当は何て言っていたかなんて、分からない。彼が亡くなった驚きと、虚無感と、七種くんからの告白と、混乱と謎の気はずかしさでいっぱいになって、怖くなってしまった。
一体どうやって家に帰ったかなんて覚えていない。喪服姿で走る女は、ひどく滑稽だっただろう。へたりとその場に座り込んだ。まだ心臓が鳴りやまない。ああそういえば、今日は彼の葬式だったなと、ぼんやりした頭で思いながら、よろよろとした足どりで、部屋の片付けにあたる。彼との思い出を一つにまとめるために。
「…ないなぁ」
くまなく探した。写真フォルダ、クローゼットの中、食器棚の中、洗濯物、冷蔵庫、靴箱、何一つなかった。
あれ、私、彼を家に招いたことなんてあったっけ。勿論、彼の家に行ったことはある。でも、私は彼の家に何かをのこして帰ったことなんてない。2年と少し、といっても、家に行ったのは数回、食事やデートに出かけたのは、片手で数えられる回数。
用意したダンボールには酸素と二酸化炭素と窒素しか入っていない、空気しかない。彼が私にのこしていったものは何もなかった。私も、何ものこそうとしなかった。 何が結婚だ、こんなに離れていたのに、恋人らしいことなんて、全然出来ていなかったくせに。というか何で結婚しようと思ったのだろう。そもそも私は本当にあの人のことが好きだったのだろうか。
私の心は、このダンボールみたいに空っぽだと思っていたのに、いざ何も入っていない箱を前にすると、同情の念すらわいてくる。同情をする余裕がある。どこか他人事のように思えてくる。ああなんか、気持ちが落ち着いてきた。
ピンポーンと、無機質な機械音がなって、私はようやくその場から動いた。
「はい…?」
ギギとゆっくり扉を開けば、そこには彼の両親がいた。 「ど、どうかしたんですか?」
突然の来客に戸惑いを隠せない、変に緊張してしまう。 これを、と骨ばっていて血管の浮き出たしわくちゃな手が、大事に包んでいたのは小さな四角い箱だった。
嫌な予感がする。
「この、箱がどうかしましたか?」
声が変にうわずっていて、どうかバレませんようにと心の中で祈る。
「息子の部屋を整理していたら、出てきたんです。あんずさん、あなたの物だと思うわ」
嘘だ。私はあの家に、何ものこしていっていない。私のものなどあるはずがないのだ。
さあ、受け取って、と私の手にぽんと置かれたそれは、軽いはずなのに、撮影機材のように重い。開けてみて、 と言う彼の両親は、まるで子どもがクリスマスプレゼントを空けるのを心待ちにしているように、瞳に期待の色を浮かべている。肌触りのいいそれを、ゆっくりと、開ける。
(あぁ、やっぱり)
部屋にあるダンボールみたく空気だけ、とはいかない。中にあったのはやはり、指輪だった。
「あの子、プロポーズするつもりだったのよ。どうか、受け取ってあげてくれないかしら」
そんなこと言われても、困る。今しがた私は彼への恋心に疑問を持ってしまったのだから。結婚するほど好きだったのか、と言われれば、ノーだと言える自分がいることに気づいてしまったのだ。実際のところ、私は結婚することで、周りからの執拗な縁談話から逃げたかったのだ。ただの私のエゴだ。
私はこれを受け取る資格も、覚悟もない。
「すみません、私は、受け取れません」
「…どうして?」
「どうしても、です。ごめんなさい」
言えるわけがない。彼が本当に好きだったのかわからない、だなんて。彼が亡くなっても、涙のひと粒も出やしない。少しだけ、仕事のことも考えていたのだ。彼がいなくなったことで空いた穴を、どう埋めるか、とか。
彼と出会ったのは、蒸し暑い、雄蝉が必死に求愛行動をしている夏だった。スポンサーとしてESに来ていた彼に、所謂一目惚れをされて猛アタックを受けたのだ。その時私も、アイドルじゃないし、まぁいいかと思ってお付き合いを始めることにした。
結論、彼は優しい人だった。と思う。私のことも、好いてくれていたのだと、のこったものが証明している。
だが結局、私は利用していたのだ。彼からの好意を、恋人という肩書を理由にいろんなことから逃げた。
私は彼の愛に応えることが出来ない。
「そう…ごめんなさいね、こんな重たいもの、まだ若いあなたに押し付けるべきじゃなかったわ。あなたはあなたで、新しい道を進んでね」
「は、い…ありがとうございます」
「あぁそうそう、あなたのお部屋に息子のものがあったら郵送してくれると助かるわ」
「あ…えと、それは…まとめようと思ったんです、でも、一つも、ありませんでした」
言葉にするとやはり、心にストンと落ちたそれは、老夫婦には酷だっただろうか。こわごわと顔色をうかがってしまう自分に染み付いた習慣が今は憎い。他人の顔色をうかがったって、それは表面上のものでしかないのに。
「…そう、ならいいのよ、あんずさん、息子とお付き合いしてくれて、ありがとうね」
「いえ、私の方こそ、ありがとうございました」
小さい四角形の箱を大事そうに手のひらに収めて、老夫婦は私のマンションをあとにした。
扉を閉めた途端どっと押し寄せてくる疲れ。なんだか今日は感情の起伏が激しい。にしても。
「指輪…指輪かぁ」
まさか指輪が来るなんて思ってもみなかった。正直、結婚話が出ていたとはいえ実際私達の間にはそこまでに至る過程があまりにもなかった。
彼も、焦っていたのだろうか。アイドルではないとはいえ彼もまた業界人、スポンサーだ。縁談話は腐るほどあっただろう。お互いがお互いにとって都合のいい相手だったのだ。ただそれだけの関係。彼がもし今も生きていたのだとしたら、私はあの指輪を受け取っただろうか。受け取っただろうな。
私にとっての最優先事項はアイドル達のことで、おそらくこの先、私は恋愛なんてしないんだろう。あぁそういえば、七種くんから告白をされたんだった。あの七種くんが、告白。なんだか少し面白い。
「なんで私…」
正直、彼からのアプローチに心当たりが無いといえば嘘になる。でもそれは社交辞令だとか、いつもの彼の戦略なのかな〜と思っていたから本気で受け取ってなんていなかった。彼があの言葉を本気で言っていたのだとしたら、私は断らなければいけない。断らなければいけないのだ。