「ああ」
燐音はぐぐぐ、と背伸びをした。窓から入る日差しは暖かく、今日が洗濯日和であることを教えてくれる。二月の冷たくも新しい風の中、今月末が締め切りの雑誌コラムの原稿に追われていた。
「休憩すっかな」
そう独り言ちながら、燐音はキッチンへと立った。戸棚に先週買ったはずのクッキーがあるはずだ、と見渡すがそれらしき影がどこにもなかった。はて、一彩が食べたのか。そう言ったことはきっちり報告するタイプだから、ないとは思うが。そう思いながら近くを探すが、やっぱりない。燐音はあきらめて、冷蔵庫を開けた。
「甘いものが食べたい…」
冷蔵庫の中身は食材とアルコールばかりである。ピンとくるものがなかった燐音は、うむむと唸った。甘いものが食べたいが、外には出たくない。そこまでして食べたいわけでもない。しかしなにか食べたい。そんな欲求にぐるぐるとして、ふと小麦粉が目についた。
「作れるかなぁ…」
ふと思い立ったアイディアに、燐音は首を振った。自分はニキほど料理上手ではないし、弟ほど天才的に器用でもない。お菓子作りは分量や温度管理が命なのだ、というのはニキからよくよく聞かされているから、燐音に作る自信はなかった。
しかし、脳みそは甘いものを欲している。燐音はスマートフォンで『初心者向けのお菓子』で検索した。結果を眺めながら、ふと一つのレシピが目に留まる。
「ホットケーキミックスのクッキーか」
それなら作れるかもしれない。材料も少ないし、レシピを見る限り、混ぜて焼くだけだ。それが難しいことは分かっているが、燐音は挑戦しようと思った。
戸棚をあさり、ホットケーキミックスを取り出す。砂糖とバターに卵。それに牛乳があるといいらしい。冷蔵庫からバターを取り出して、分量分切り分ける。オーブンを一八〇度に予熱して、オーブン用の天板を取り出した。普段はニキか一彩しか使わないそれを使う自分がなんだかおもしろく感じて、燐音はふふ、と笑った。
「クッキングシート…、たしかニキが置いて行ったはず」
ラップやアルミホイルをしまっている引き出しを開けて、目的のものを取り出した。とりあえずてんばんのサイズで敷いて、生地の用意をする。
「ボウルに、バター…」
切り分けたバターを泡だて器で混ぜる。室温じゃないから固かったが、なんとかクリーム状にまでなったところで、砂糖と卵黄。それからホットケーキミックス。ゴムベラでしっかりと混ぜた。
「それらしくなったじゃん」
よく見るクッキー生地になったことに満足しながら、燐音はそれをまな板へと移した。
「あ、確かニキはいつも粉ふってたな。麺棒は…まぁいいっしょ」
ニキのお菓子旁を思い出して、燐音は小麦粉をまな板へ振った。改めて生地を置いて、手のひらで伸ばす。薄くしてからクッキー型がないことを思い出した。思い立って包丁でそれらしく切ってみるが、それを天板へ移そうとしたところでちぎれてしまった。
「……」
まぁいいや、と気を取り直し、燐音はてきとうに生地をちぎって丸めた。それをつぶすようにして天板に押し付け、丸く成型する。そうして出来上がった大小さまざまなクッキーが約二十枚。余熱が終わったオーブンに入れて、十分ちょっと焼けば完成だ。
「なんだ、簡単じゃん」
燐音は鼻歌を歌いながら、オーブンの中を見守った。オレンジ色に光る中でクッキーがじりじりと焼けていく様は、今までで一番わくわくした。
ちん、という音とともに、オーブンの音が排熱に代わる。燐音は浮き立つ心のままオーブンを開けた。途端ぶわりと舞う熱い空気と甘い香りに、ニヤニヤが止まらなくなる。一つつまもうとして、その暑さに、「あちっ」と指を引っ込めた時だった。
「兄さんッ⁉」
「へっ⁉」
どたどたと玄関のほうから慌てた足音が近づいてきて、ばんとドアが開けられる。肩で息をした一彩が、ぎろりとこちらを睨んだ。
「大丈夫かい!?」
「えっ、あ、だ、大丈夫だけど…おかえり?」
「あ、ただいま」
一彩ははぁとため息をつくと、荷物をソファへ置きだした。その様子に、燐音は相変わらず地獄耳だなと思いながらオーブンを閉じる。熱いからあれが欲しい、ええと、あれだあれ、と思いながらキッチンを見渡していると、再びがばりと身を起こした一彩が、すごい形相でこちらを向いた。
「な、なんだよ」
「甘いにおいがする」
「そうだな」
「ほんのり暖かな空気があるよ、そして兄さんの前にはオーブンがある」
「そうだな」
ぱたぱたとキッチンに入ってきた一彩は、シンクにおいてあるまな板やボウルを見て目を丸くした。
「お菓子、つくったのかい…?」
「そうだよ」
「兄さんが?」
「そうだよ」
燐音の隣に立ち、一彩はオーブンの中を覗き込んだ。
「どうして取り出さないのかな」
「焼いたばっかだから熱くて。あれを探してた」
「鍋つかみのことかい? それなら、」
そう言って一彩はフライパンなどをしまっている引き出しを開けてお目当てのものを取り出した。燐音はそれを受け取り、オーブンを開ける。再び空中を舞う甘い香りが、燐音の食欲を誘った。
「いい香りだね、上手にできてる」
「初めてにしちゃいい出来じゃねぇの」
「ウム、その通りだ」
天板をテーブルにおいて、燐音は改めて一つ摘まんだ。あたたかいそれはしっとりとした食感で、ホットケーキミックス特有の甘さを伝える。
「あはは、ホットケーキミックスの味がする」
「小麦粉から作ったわけじゃないんだね」
「初心者にそんな求めんなよ。お前やニキじゃねぇんだから無理っしょ」
「兄さんならできると思うよ。…ふふ、びっくりした」
「何が」
「兄さんがお菓子を作っていると思わなかったから。玄関でびっくりしたんだよ、火傷したみたいな声出すから」
一彩はそう言いながら、兄の手を取った。すこし赤くなった指先を見て、ぱくりと口にくわえる。燐音はびっくりしてその手を引っ込めようとしたが、手首をつかむ力が強くて離れない。べろりと舌で舐められ、その舌遣いに燐音がびくりと班のする。
「ところで兄さん、今日が何の日か知ってる?」
「今日? ……あぁ、」
一彩に指摘されて、燐音は今日が何の日か思い出した。
「てっきり兄さんは知っていて作ってくれたのかなと期待してしまったのだけれど、違うみたいだね」
「おーおー、こんなんでよけりゃ期待してくれよ。ラッピングも何もないけどな」
「ふふ、ハッピーバレンタイン、兄さん」
「ハッピーバレンタイン、一彩」
燐音が差し出した出来立てのクッキーを、一彩は嬉しそうにほおばった。