雲居の空:序章今年も穏やかな春の光が豊葦原を包み込む季節がやってきた。
たんぽぽの綿毛を飛ばしている千尋を見て、この平和がずっと続くことを風早は願わずにはいられない。
何度歴史を変えても起こる戦。
その運命がようやく変わり、今まで見たことない史実が生まれようとしている。
千尋の何気ない仕草はそんな平和の証のようにも思えた。
「何、見てるのよ、風早!」
「いえ、姫があまりにも可愛いもので」
「もう、そんなことばっかり」
相変わらず恥ずかしいことをしれっと口にする風早に対し、千尋は姉、一ノ姫の婚姻が近づいていることを思い出す。
以前から姉が懇意にしている羽張彦は優れた武官として名を馳せており、また家柄も申し分ない。
愛する人と国を守ることができるということで姉はかつてない美しい表情を見せていた。
だからこそ思ってしまう。
「風早と結婚できたらいいのに」
思わず飛び出してしまう本音。
「でも、身分違いの恋ですから」
風早はあっさりとそう笑う。
確かに自分は王族の姫。それに対して、風早は従者という立場を取っている。それに風早ははっきりとは語らないが、本当はもっと複雑な事情を抱えているらしいが、表向きは身分違いなことには変わりない。
「でも、魂の高貴さなら、他の誰にも負けないのにな……」
一緒にいる時間が長いから、風早の魂の気高さや崇高さを当たり前のように受け止めてしまうが、もし魂というものが形を示すことができるのであれば、風早の魂は自分たち王族に劣ることない、むしろ王族にも勝る高貴な色を放つに違いないだろう。
そんなことを考える千尋に対し、風早は満面の笑みを浮かべる。
「戦功を立てるしかないでしょうかね」
「え!?」
表情とは真逆の穏やかでない言葉が飛び出してきて、千尋は驚きの表情を隠せない。
戦功…… つまり、争いの中で手柄を立てる。
争いごとを好まなそうに見える容貌の風早から出た言葉とは思えない。
「冗談ですよ」
その言葉を聞いて千尋は安堵の溜め息を吐く。
確かに風早の武術の腕は立つだろう。
剣の稽古では将軍である忍人とも引けを取らないと聞いたことがあることもそれを示している。
ふと千尋は記憶の中にある、この世界ではない世界で過ごしたことがよみがえってきた。
風早いわく「本当は覚えているはずもない」記憶だそうだし、実際、自分は生まれてからずっとこの豊葦原でしか過ごしていない。だけど、どういうわけか別の世界でまったく異なる服装をし、建物の中で那岐と一緒に勉強していることが記憶に残っているのだ。
「あの世界はよかったな。身分とかそんなの気にしなくて」
風早と自分は学校の先生と生徒という立場はあったが、生徒たちはみな千尋の立場に気を遣うことなく気楽に接していた。
今では残念ながらそれはない。
采女たちは千尋に対してはよそよそしい態度を取り、また屋敷から一歩外に出れば人々がうやうやしく接してくる。
そんな千尋に対し、風早は苦笑いを浮かべる。
「ええ。でも、あのときはあのときで、俺は大変だったんですよ。あなたがあまりにも無垢で純粋でしたから」
風早の表情からは葛藤が見てとれる。
それが何から生まれるものかはわからない。
それを知らないことは幸せなことなのかもしれない。
だからこそ思わずにはいられない。
「この豊葦原も王族とか関係なく、恋をし、結婚ができればいいのに」
叶わない願いだとはわかっている。
せめて王族にさえ生まれなければ叶えられたこと。
姉はたまたま相手がよかったから結婚できた。
でも、やはり願わずにはいられなかった。
しかし、それから数日もたたないうちに、千尋のささやかな願いは破かれることになったのである。