最終戦後のガルグ=マク宴会大会からの 星の光もひときわ通る、秋の薫る夜だった。
帝都アンヴァルからの帰投より数日。王国軍の軍事拠点として存在していたガルグ=マク大修道院は永きに待った戦勝の報に、造酒場の蔵をすべて解放していた。宴にと提供されたぶどう酒の樽は戦櫓よりも高く積み上がり、煙とともに猫たちがそこに昇る暇もあらばこそ、頂きによじ登った兵士らはこぞって池に飛び込んで、たちまちに目を回して救助を求める。
馬鹿騒ぎに次ぐ馬鹿騒ぎ。無限にも繰り返される乾杯の熱気は当初天の女神にまで届かんという勢いだったが、生憎、戦乱に削られていた体力と気力は無限の遊興を許容するには能わず。勝利の旗が掲げられてより数日も過ぎれば、そこかしこに泥のように眠る兵士らが目立つようになっていた。
それはなにも一般兵に限るものではなく。
「……もうシルヴァンたら。今日という今日は部屋に戻りなさいよね。明日の会議の進行はあなたが担当で……」
「お前も寝ろイングリット。残りの書類仕事は俺がやっておく」
「いいえ問題ありません殿下っ。このためにしっかりお肉は摂っておきましたし……ふあ……」
「おっと……と……ああっ」
ごん。どん。ぱしゃん。
汗にもつれた金髪二つが揃いも揃って机に額を打ち付けて、手元のインク壺を転げさせていく。
いまなら帝国軍の残党が襲ってきても軽くひねられてしまいそうだな。生まれつきの酒豪が仇となり、ひとり冷静を保っていたベレスは改めて室内を眺め回してそう思う。
もっともその恐れは薄かった。壊滅寸前の首脳陣ではあるが、浮かれ気分への応対と戦後処理の二つの仕事を同時に進めた結果がこのありさまなのであって、国内に何か火の手でも上がれば、すぐに連絡が来るように取り計らってはいた――対応できるかはともかくとして。
ベレスは水の入ったグラスを置いて、そっと席を立ち上がる。
二人並んで机に倒れ、頬とにべっとりインクを付けているディミトリとイングリット。
互いの膝と膝とを枕にしあって部屋の隅で寝ているメルセデスとアネット。その二人を介抱しようとして、触れても良いか迷っているアッシュ。
酒盛りが始まって早々、椅子に深く腰掛けて船をこぎ始めていたフェリクス。その隣でぐったりと天を向いて目を閉じているシルヴァン。
傭兵になりたての悪ガキどもみたいだ。ベレスはちいさく喉で笑って、部屋の片隅にずっと立っていたもう一人の影を見る。
「みんなを部屋に帰さないとならないね」
じっとそこに控えていたドゥドゥーは、一歩進み出て己の主や級友たちの様子を診ていく。報告を受けたベレスは首をひねって、アッシュ、とまだ正気である生徒を招いた。
「メルセデスとアネットは深酒をしていなかったから、起こせば二人で戻れると思う。念のため寮まで護衛について貰っていいかな。その後は自分の部屋に戻って休んで」
「分かりました」
「ディミトリとシルヴァンとフェリクスはこのままでも仕方がないかな……。ドゥドゥー、自分がイングリットを連れていくから、あとの見張りは頼んでもいい?」
いやそれには及ばない、と机から顔を起こしたのはディミトリだった。
「先生が連れて行くのも大変だろう……力仕事なら俺に任せてくれ」
「殿下はお休みください。先生、俺が殿下の代わりに」
「いや。ドゥドゥーはシルヴァンを担いでやってくれ。フェリクスはじきに目を醒ますだろうし、そうすればみんなベッドで眠れるだろう?」
後は戴冠を待つのみという王位継承者はそう言って笑ったが、美しい白皙の頬に滲むインクを拭う様子もないあたり、ベレスとしてはじゃあよろしくと申し出を承諾する訳にもいかなかった。青い双眸の下には疲労に疲労を重ねた黒い隈がまた刻まれていて、無事に己の部屋に戻れるか、あの寮の階段を上がれるかは五分五分だろうと思ったのだ。
「なんなら布団を運んで来る」
「寮なら全員で行けばいいだろうが。頭の芯まで酒で鈍ったか?」
逡巡を見透かしたような声が部屋に響いた。
見れば、ずっと椅子で睡眠を取っていたフェリクスが片目を開けて俺を使えと訴えている。
思いのほかすっきりとしているその鋭い視線に、飲んでいなかったのかと問いかけてみれば、
「全員が潰れたら誰が賊を排除する」
と彼は剣の柄にかけていた片手を離すと、「ほら行くぞ」と赤毛の兄貴分を抱えて起こす。とはいえ二人の間にはそこそこの体格差が存在するので、
「ドゥドゥー、悪いけどディミトリの補助をするついでにフェリクスの手伝いもお願い。みんなが移動を始めたら私は別動で寮の部屋の鍵を取ってくるから、現地で落ち合おう」
言って、ベレスは一足先に輪郭のぼやけた囁きが行き交う会議室を抜け出した。
大司教の執務室の奧には、教会の管理者や教師のみが開ける棚がある。寮の部屋の鍵は基本本人に任せきりだが、ときおり、何らかの事情で本人不在で開けなくてはならないときがあり、そんな時のために使う鍵束を取り出していく。
前に使ったのはいつだったかな。
頭はふとそんなことを思い巡らすが、磨きの鈍い真鍮の鍵束を目にしたとたん、答えはあっけなく訪れた。何のことはない、ガルグ=マクに盗賊が住み着いていた五年の間で扉という扉の鍵は全て破壊し尽くされていて、王国軍の拠点として旗を立てたときに取り急ぎ鍵を付け替えたのだ。しかし時はすでに戦乱のさなかとなっていたから、みな泥酔に正体を失うようなこともなく、だから、万一のためにと用意されたこの鍵は一度も使わず仕舞いとなっていた。
ベレスは指先でひとつずつ、いま対応が必要な生徒の部屋の鍵を抜き出す。
メルセデスにアネット、イングリット、それからシルヴァン。みな戦中には自らの許容量を超えて乱れたことのない生徒たち。
まずはよかったなとベレスは思った。気を抜くことの許されなかった日々は終わって、やっと彼らがくだを巻けるときがやってきたのだ。宴が終わってから後はまた忙しい日々が続くのだろうが、いまはそれを喜ぼう。
持ち出し用の革紐に鍵をしゃらんと繫いで、三本の指でひっかけるようにして夜を歩いた。
向かう先に待っていたのは彼女の可愛い生徒たちで、早くしろ、全員寝るぞと急かすフェリクスにもいい気分で笑みを返して、まずはメルセデスとアネットの部屋の鍵を開放した。
メルセデスは香色の髪を揺らして、じゃあおやすみなさいと、ここまで支え合って歩いてきたアネットの額にキスをしたあと、自分の部屋の扉に手を掛けた。
かちん、と鍵が落とされるのを聞いたアネットも、自らの部屋に滑り込む。
ベレスは二つの扉の施錠を確認して、「行こう」と後ろに声がけた。
ドゥドゥーは一番最後に戻る予定だろうから、まずは寮の二階から。
イングリットを部屋に送り込んだところで、ベレスは他の皆を先に行かせた。そして部屋に備え付けの水差しを使って、インクの筋の残る真っ白な頬をきれいに拭ってやった。
きめの細かい、よくやけた卵焼きよりもふんわりとした優しい肌には、数日前に受けた矢傷がまだ赤く伸びていた。そこにインクの黒が入り込まないよう、撫でるように丁寧に布地をすべらせていくと、ほっとあたたかな息が唇から漏れ出した。
桜桃色の唇は、とくとくと鳴り続ける心臓を映すようにあたたかな色を乗せていて、やはりさっきまで優れなかった顔色が戻ったようで安堵する。
おやすみ。呟いて部屋を出ると、すでにアッシュは部屋に戻って、シルヴァンの部屋の前でみなが待っているところだった。
「お待たせ」
シルヴァンの部屋の鍵を開けると、シルヴァンを担いだドゥドゥーが――最終的に担ぐことにしたらしい――のっしのっしと部屋の中へと入ってその身体を床へと据えた。
「すみません殿下、少々時間がかかります」
一瞬疑問に思ったが、なんのことはない、シルヴァンはまだ鎧を外さないでいたものだから、それを脱がせるための時間が欲しいというだけのことだった。
「手伝うよ。ああ、ディミトリはもう大丈夫。先に休んでいるといい」
「俺は仲間はずれか、先生」
「君は明日も朝一番から書類仕事だろう」
眉を下げて名残惜しそうにするディミトリに、ベレスは隣の部屋の扉を叩く。さすがに鍵を持ってきてはいないから、ここは本人が開けてくれなければならない。
開けて欲しいと、ベレスは希望をもって彼を見上げる。ディミトリは「鍵をなくしたかもしれない」と微笑もうとしたが、ベレスには通用しない。厚い毛皮の外套に繫がれた物入れを叩いてみせると、彼はいかにも不本意だというように唇を歪めた。
「おやすみ陛下」
「止めてくれ先生。フェルディアに戻るまではまだ一兵卒でいたい」
「わがままが言えるようになったのはとてもよかった」
反抗する毛皮の塊を扉の内側に押し込めたあと、ベレスが改めて隣の部屋の様子を覗けば、シルヴァンの胴や肩の鎧がまさに今取り外されるところだった。