しりたいふたり、するふたり - 四日目 士官学校に来たばかりのとき驚いたのだ。あんまり道行く人が自分を見るから。
歌姫マヌエラは初めての気疲れに肩を落としているベレスにあら、と遅咲きの花を見つけたときのように微笑んで、秘密を明かすようにこう言った。
「まなざしは愛よ、センセ。みんなあなたに興味があるの」
それは大観衆の眼差しを一手に集めていた彼女ならではの言葉で、だからそのとき、目立たないのが良しとされていたベレスには、彼女の言っていることが分からなかった。
4th days - Make out with you
ここ数週間というもの、ガルグ=マク大修道院は目に見えてざわついていた。
フォドラにおけるこの季節は基本的に冬ごもりの時期である。特に山の頂にあるガルグ=マクは雪に包まれる日も多く、自然、好き好んで外に出る者もないのだが、トマス、モニカと、立て続けに間者の存在が明らかになったとあってはそうも言えない。かくして、白銀の鎧を着けた騎士たちは、小雪が舞おうが日々足早に、己が職務を全うすることになっていたのだった。
そんな寒々しい金属音を、大修道院の二階の窓から聞いていたベレスは、もうそろそろいいかなと、一度騎士団長の部屋の室内を見渡してから、大きく開け放していた虹彩硝子の美しい窓を壊さぬようにゆっくりと閉じる。かたん、と二つの金属枠が触れ合ったあとには、室内は静寂の鎌に切り取られ、完全に動かなくなる。それが、彼女にふいの死を思わせた。
ここは、こんなにしんとしてたかな。
さっきまで埃の妖精がきらびやかに踊っていた室内は、ここ数節元の主が戻ってこないのも気にもしないで、清浄な冬の冷たさに清々しく洗われて、すっかり新たな主を待つ気になっているようだった。
ベレスの足元には木箱が一箱。まだ蓋の閉めやらぬままに置かれたその横には、酸化が見える武具が一竿投げ出されてる。両手で抱えられてしまう程度のそれが、いまや地下の住人となった彼女の父の全てだった。
ベレスはすっかり空になった書棚と、曇りなく磨かれた机をもう一度見て回る。
忘れ物はないか。置いていったらきっとなくなってしまうから、栞の一枚でも残すわけにはいかない。
そうしてぐるりと部屋を見回り終えると、やることのなくなってしまったベレスは最後に隠し棚に手をかける。
重い棚を動かすと、そこには一冊の本があった。
ジェラルトの日記。ベレスは最後に残していた本を取り上げて、抱きしめる。あとどれだけ待っても新たな言葉が記されることのないその黒く柔らかな革表紙は、もう二度と父の声を聞くことのできない、置き去りにされてしまった彼女とよく似ていた。
ベレスが無言でそれを抱きしめていると、頭上の方から鐘がからんと鳴った。
もうそろそろ退出しないと。
予定していた退出時刻までにはまだ余裕があるが、日当たりの悪い中央棟の内側の小部屋は、蝋燭を使い始める時刻が他より早いのだ。感傷のためだけに火を灯すのは、無駄を嫌う傭兵としての気質がひどく拒んだ。
ベレスは抱きしめていた日記を私物を詰めた木箱の一番上にそっと置き、よいしょとすべてを持ち上げる。しかしやっぱりもうすこしだけと、また日記を手に取った。
執務机のあたりはもう午後の光も届かなくなっていて、ベレスは石鹸玉を埋め込んだような虹色の窓の前でまで椅子を運んでそこに腰を下ろした。
ベレスのお気に入りはこの日記をつけ始めてから少しした頃。そこには父と母との思い出が、気恥ずかしくなるくらいの素直さで綴られている。
幻想的な光のなかで、ベレスの指がしゅる、しゅる、と、黄ばんだ羊皮紙の間を抜けていく。最後の方から前へと向かって。ベレスが生まれたときよりも、さらに前へと。
一度日記を通読して以来、ベレスは何度もそこを読んでいた。彼女は大修道院に来るまで父から母の存在すらも聞いたことがなかったけれど、日記に書いてある記録を読めば、その人柄はなんとなく分かった。二人がどれだけ真面目に愛情を育んで、レアにそれを許して貰ったものかも。
この父が珍しく腰を落ち着けて、いまでも鮮明にその姿を思い返せそうな場所で読んでおきたいと思ったのだ。
ほら、一枚ページをめくるたび、低く、のんきものじみていたゆったりとした声が耳に蘇る。ベレス、と上から覗き込んでくる薄い茶色の双眸も。
そのたびにベレスは顔を上げて部屋を見回すのだが、彼女を見守る目はやはりなく、肩を落として、またページをめくった。
ため息が落ちる。
なぜだろう、こうしていると胸がぎゅうと締め付けられてやまない。それはページをめくるごとにひどくなる。なのにベレスは途中でやめられなくて、次々とページをめくり続けてしまうのだ。
なぜだろう。
ベレスは何度も思うが、自身がやめない以上、それを遮る者はない。結果的に落ちる息はどんどん床に散らばって、ベレスの首までを埋め尽くす。
あぷ、と溺れそうになって上を向いて息をして、またそれに向かって。そうして、どれだけの時間が経ったのだろうか。ベレスはまた何かを聞いた気がして辺りを見回す。
どうやら今度は幻聴ではなかったらしい。
顔を上げた先には、細く開かれた扉があった。
「お休みの日にお邪魔します、先生。つぎの課題について確認したいことが……掃除でもしてたんですか?」
眉を上げて入ってきたシルヴァンは、すっかり物のなくなった室内をやはりぐるりと見回した。
「騎士団の再編に伴って、ジェラルトが借りていた部屋を返すことになってね。掃除自体はすぐに終わったんだけど、ついね。ずるずると残ってた日記を読んでしまった」
「ああ。そういうときありますよね。故人の物をじっと見ていたくなるような」
「君もある?」
「ときどきですね。実家のはぜんぶ廃棄されちまったんで、見るとすれば破裂の槍になるんですが、それはそれで厄介な色々を思い出しちまって……ま、そんな感じです」
シルヴァンはベレスの手元を覗き込む。
それがジェラルト殿の日記ですか、と呟く彼は、古びた革に目を細めた。
「まだ、君のところに遺体は戻ってきていない?」
「ええ。魔獣化の影響がどうだかで、生憎ですが」
彼は淡々と言ってはいるが、内心まで同じかはわからない。コナン塔で彼の兄と戦った後、彼はひどく塞いでいたから、まだその影響は残っているかも知れない。
いや、残っているだろうなとベレスは思う。
ジェラルトが亡くなったのはつい三節も前のことだが、彼女とて全く吹っ切れてなどいないのだ。それどころか、学級のみなを巻き込んで仇を討ちに行ったりして。
ベレスは翡翠色に変じてしまった自分の髪を見下ろした。
これは戒めだ。もうあんなことは二度としないし、する気もない。しかし親しい人の死がそこまで人の心に傷を作るのだと、あれでやっと分かったような気がした。無表情に悩んでいた彼女が、初めて涙の雫を落としたくらいには。
もうあんな気持ちはいやだな。
ベレスは思って、そのためにも彼女の生徒たちをもっと強く育てなければと決意する。どんな力も運命の前には無力なのだと思い知らされたが、それでも、いざというときに揮える力には意味があるはずだ。
そんなことを考えているうちに、気づけば、手元の日記は随分ページが進んでいた。無意識にめくっていたらしいそれは十数枚にも及んでいて、読みたい場所はとっくに通り過ぎていた。戻ろうとして、ページを戻す。
と、
「あ」
頭の上から思わずといった声が落ちてきた。
「……シルヴァン」
「あ、いえ。あんたいきなりぼうっとし始めたので、大丈夫かなって見てたんですが」
「それで日記も見てたの」
「すみません。うっかり目に入りました」
シルヴァンは彼女がめくり続けていたジェラルトの日記を見るともなく覗いていたことを白状した。
無作法だよ。ベレスはそう言うが、半分は気を散らしていた自分のせいであるとも分かっていた。
ここのところ集中力が切れがちで、今日だってそれでレアに何もせず安めと休暇を言い渡されてしまった。それで部屋の掃除に精を出しているのだから、叱られたシルヴァンの方がかわいそうというものだった。
まあ、無作法には変わらないし。次からはしないようにしてくれればいいか。
ベレスがそうことを収めようとしたとき、にしても、と彼女の思索を見下ろしていたシルヴァンが思い出したように呟いた。
「随分と筆まめな人だったんですね。それに、とんでもなくロマンチストだ」
「……無作法だと言ったはずだけど」
「ええ。まあ、ほら。傭兵流の弔いにあるらしいじゃないですか。亡くなった故人を偲んで語るっていう」
昔そんな事を言ったかな。ベレスは首を傾げるが、シルヴァンはあんたから聞かなけりゃ知りませんよと主張するので、そんなこともあったのだろう。
それに、
「実は私も同じように思っていた」
「先生もです?」
ふ、ふ、とベレスの息が鼻から抜ける。
「ジェラルトはあまりそういうところを見せなかったからね。……人は見た目によらなかった」
「いやまったく、そのとおりで」
「君の誕生日の記録もあったよ。そっちも見ていく?」
「……いいんです?」
「いいよ。君が言ったんだろう。故人の武勇伝に花を咲かせるのも傭兵流の弔いだ」
「武勇伝……ははあ。そりゃ楽しみですねえ」
ベレスはぱらぱらと急いでページをめくる。
この日記の存在はレアやアロイスも知っているのだが、誰に渡しても深刻そうな顔をしてしまうので、ベレスはその内容について誰とも話すことはできなかった。
いままで誰とも共有できなかったものを話せるのが嬉しくて、もうすこし話していたい気持ちになっていた。
「ああ、ここ」
「どれです?」
覗き込むシルヴァンに該当の箇所を指し示す。
――1157年、花冠の節、五の日、晴れ。
今日はあいつのために花を摘んで帰った。
美しい花を抱えて喜ぶあいつの笑顔は、
どうかな、と見上げると、彼は今日は検定試験だと珍しく勇んで演習場に来たときに、試験官であるベレスが「猫の家族がいたから置いてくる。すこし待っていて」と頭に子猫を、両手に親猫を抱えているのを見たときのような顔をしていた。
「ははあ。はい、はい。たしかに……いや、たしかに、見事な武勇伝ですが! いや、え、俺これ読んでいいんです? 死んだときに殺されません?」
「ジェラルトと同じところに行けるつもりか」
「うわ」
「冗談だ。構わないよ、弔いなんだろう」
「あんたそれ口実にすればなんでもいいって思ってません? 俺も日記つけてますけど……万一があれば読まずに捨ててくださいね? 絶対ですよ?」
「わかった。部屋のどこにある?」
「ええと……いやいや、絶対読む気じゃないですか⁉」
しまった。言うんじゃなかった。口を滑らせたシルヴァンの声が締め切った部屋にわんわん響くが、何をいまさらとベレスは思う。彼の日記ならしょっちゅう部屋の机に出しっぱなしになっているから、入れる者なら読み放題だ。流石に読んだことはなかったが。
まあそれはそれとして。ベレスは騒ぐシルヴァンの目の前に指をすっと一本立てる。そして、
「実はまだ武勇伝はたくさんあるんだ」
シルヴァンと視線が絡む。
彼は一瞬、空の執務机に視線を送って。
「見ましょう」
「思ったよりも野次馬だった」
「誰のせいですか誰の」
自分だね、とベレスは次のページをひらりとめくる。
「まあほら、ここまで全力で幸せそうにやってくれてると、清々しいというか、あったかい気持ちになってくるじゃないですか。できれば最後まで見守りたいって野次馬根性もそりゃあ出てきます」
「ん……そうなのか」
「そうでもないです?」
「ああいや……そうだね。うん。たぶん……私もそう思っていたのだと思う」
読むだけで気持ちが温かくなる夫婦の記録。だから自分もそこを何度も読みたくなったのだ。
そうか。どこか嬉しくなったベレスは、ぺらぺらとページを繰っていく。
シルヴァンはそのひとつひとつに唸ったり、考え込んだり、詳細な感想を呟いていく。そのたびにベレスは、ああそういうのもあるんだなと思って、たしかにそう感じ取れるかも知れないと、新たな頷きを増やしていった。同じ本を二人で呼んだとき、そこに見る真新しい知見というのは、往々にしてあるものなのだ。
「いや、それにしても花の好きなご両親だ。贈るのも貰うのもどちらも笑顔。あんたの花好きも分かります。これは市場の花屋も腕が鳴ったでしょうねえ」
あるときそう納得顔で言ったシルヴァンに、ベレスは小さく肩をすくめた。
「私へのお土産は干し肉ばかりだったのにね」
シルヴァンは片眉をあげてそれを見下ろす。
「あんた絶対喜ぶじゃないですか。不満なんです?」
「花も好きだよ」
「ええまあ、それはもちろん。でもあんた目の前に花と肉並べられて花選びます?」
「選ぶ…………とは思うよ。種なら」
加えた補足に、シルヴァンはおかしそうに笑った。
「しっぶい顔して。まあ、あんたは同じ花でも、土から何が出てくるのかを睨めっこで楽しんでる感じはありますね。教師やってるときと同じで」
「失礼だな……似合わないのは分かってる」
「いやいやとんでもない。何でもお似合いですよ。ただまあ俺がいまあんたへの贈り物を選べって言われたら、まずは肉かなあって……ほら、昔イングリットのやつに花を贈ったら、『食べ物はないの』って言われちまいまして。それ以来、相手の欲しそうなもんを贈るようには……あれ、せんせ? どうしました?」
立て板に水で流れていた言い訳が乱れた。
彼は視線を外してしまったベレスを覗き込んで、ええと、と考え込んでから、
「そうですねえ。もしあんたに色気のある話でお渡しするなら、間を取って薔薇型の焼き菓子でもどうです。とっときの薔薇水を使ったのが今年の流行だとか」
「……焼き菓子ならフェリクスのところのもよかった」
「ははあ。いまのわざと言いましたね先生? 対抗させて美味いもの出させようって魂胆ですかね。いいですよ? うちの名産めいっぱい箱に詰めて贈らせましょうか」
「それもいいね。また演習のときに使える」
「いや実際そうなんですよ。いかんせんうちは寒いんで、そのまま食えるようなのが伝統食になるんです。その分硬かったり味気なかったり。もしご用意したとしても、あんたの好みに沿うかどうか」
「いいよ、そういうのも楽しみだ」
「はあ、あんたがそう言うなら構いませんが……」
シルヴァンは語尾を飲む。
その足は左右の体重の置き場所に迷うように何度も重心を入れ替えていたが、そのうち、
「大丈夫ですか」
と、言葉にした。
「何が」
「……日記、濡れちまいますよ」
彼は視線を床に向けたベレスの前に屈み込み、その顎に宿った雫を指で拭った。そしてその襲撃を受けそうだった日記に、ハンカチを乗せて立ち上がる。
「すみません。気に入らないこと言いましたかね。これ置いときますんで使ってください」
「いや、ちが、ちがうんだ。これはその……」
ベレスはいつのまにか涙を宿していた睫毛を瞬かせて、理由を胸に問いかける。
花が似合わないとされたのが癪だったのだろうか。しかしそれにしては湧いてくる怒りはないし、シルヴァンを睨みつけようという気にもならない。なのにベレスの喉は張り付いたように息を通さない。
「とにかく……君のせいじゃない。まだ情緒が安定しないんだろう。ほら、今日だってレアに休めと言われて週末演習に出ていないのだし」
「駄目じゃないですか。言ってくれりゃ俺も整理くらい手伝いましたよ」
シルヴァンはため息をつく。
ベレスは頭の上から落ちてきたそれにつむじを押されながらも、でも、自分でやりたかったんだと日記に視線を落とした。
開きっぱなしのそこはいまハンカチに隠れて見えないが、日記を託されて以来何度となく読んできたベレスには、そこに何が書かれているのかおおよそ分かる。
沈丁花の彩る春の邂逅。
梔子に染む夏の微笑。
金木犀に隠した秋の胸苦しさに、長い別離に耐える春待ちの臘月花。
ベレスは逃げ道を求めるように手元の文字を追いたいと思ったが、さっきまでは胸を温めていたはずのそれらを思うと、不思議と、喉がきつく絞まった。
おかしいな。ベレスが浅い息に唇をつぐむと、シルヴァンの嘆息が長く響いた。
「やっぱりお邪魔でしたかね……先生、一度失礼します」
そう言って、彼は黙り込むベレスから離れる。数歩分絨毯を踏む音がして、ぎい、と蝶番が軋んだ。
たぶん、一人にしてくれたんだろうな。
ベレスは日記を持ち上げて、愛おしむようにその表面をなぞってみる。触れるのはハンカチの涼しい手触り。なぜだかそれをめくってみる気にはなれなくて、ベレスは椅子の背もたれに身体を預けて、首を傾け、鉛づくりの窓に渡した。
丸硝子の冷たさが、額の熱を静かに奪う。硝子越しの太陽が、海底のような波模様を床に落とす中でぼうっとしていると、揺れも感じぬほどの穏やかな湖の上で船に揺られて、遠いどこかに運ばれてしまっている途中に感じる。
どこか、旅に出てしまおうか。
無論、教職を放り出したりはしないが、せっかく休めと言われたのだし、この二、三日、日記と一緒にどこかひとりで。
と、空の向こうに思いを馳せていたベレスの耳に、がたがたと、
「ほんと大丈夫ですか先生。飲み物でも持ってきます?」
椅子を動かしていたらしいシルヴァンが、彼女の隣まやってきていた。
「行ったんじゃなかったの」
「そっちの方がよかったですか? いやまあ、どうも話が込み入りそうだったんで、念の為、扉が開けっ放しにしてなかったか確認を。……どうせお邪魔しちまったんだし、最後までお付き合いしようかと」
「……べつに君に泣かされたわけではないから、何か責任を感じているならいらないよ」
「そうですか。まあ、べつに居ても構わないってことですね」
そう言って、シルヴァンは持ってきた椅子に腰を下ろした。
強引だ。ベレスがその横顔に不満を覚えると、彼は本気で邪魔なら行きますがと判断を委ねる。
そう言われると、断る必要もない。シルヴァンが日記を覆ってくれたハンカチの上には、またふた粒の雫が落ちていて、これだけでも、彼には感謝しなければならない。
「いいよ。いても」
「分かりました。で、あんたいきなりどうしたんです」
「私にも分からない」
「そこはなんとかしましょうよ……俺の話の適当さに腹が立ったってわけじゃないんですよね」
ベレスは頷く。
「じゃあ、他のことですね。日記のこと?」
どうだろう。しかし文字を見るのが怖いのも本当だ。
ベレスがそう言うと、シルヴァンは首をひねった。
「決めつけの話じゃない。日記のことかは分からない。……ああ、あんた贈りもので貰ってたって干し肉に不満そうな顔してましたけど、あれは?」
「残念だけど、不満はないよ」
「不満はないけど残念……何がです?」
「何って……いや、ちがうよ。今まで残念だなんて思ったこともなかったし、だからそれは関係ない」
「なるほど。それがどうして、ここに来て残念だなんて思っちまったんでしょうねえ」
それは、とベレスは今までと同じ調子で口を開こうとして、何も言えずに俯いた。
それは父の日記を読んだからだ。自分が生まれるよりも前からの、まばゆいと思うほどの母との日々から。
ベレスはそこを何度も読んで、いまは存在しない日々に没頭していた。そうした理由は。
「羨ましかった……のかな。ううん。悔しいという方が正しいのかも」
ぽつりと落としたつぶやきを、すかさずシルヴァンが拾い上げて埃を払う。
「嫉妬ですか?」
「妬ましくは、ない」
注意深そうな薄茶の瞳が、沈黙するベレスをじっと捉えた。ベレスはそれに気づいていたが、不快とは思わず、進路を任せているときのような広い視覚で全容を見下ろす。
そうだ、自分の胸はやっぱり悔しいと訴えている。
日記の文面で心が沈んでいたのは、自分と過ごした日々の記録が、母との鮮やかなそれに比べて心配ばかりで、あまりに灰色に見えたから。
だからこう思っていたのだ。
「……もし私が肉よりも摘まれた花を選べるような娘に育っていたら、ジェラルトは、こんな風に楽しそうな日記を付けることができていたのかな」
喉がそう震えたとたん、ベレスの目からまたぽとりと雫が一滴落ちた。
ああ。そうだ。そういうことだったのだ。ベレスは熱くなった目をぱしぱしと動かす。
「それが悔しい。……そうできるようなことをしてこなかったのが、とても」
自分はできたはずなのに。ベレスが項垂れて頭を振ると、それまで彼女に注視していたシルヴァンは椅子の正面を向いて、
「してあげられなかったこと、か」
と、それまでの平衡を取れていた口調を崩して、彼自身もまた胸の内を探るように天井を仰いだ。
「前、あんた顔のことで同じこと言ってましたよね。笑顔をお父上に見せてあげたいって。そのことです?」
うん。ベレスは頷く。
「それなら気にしなくてもいいんじゃないですか。あんたの顔がじっとしてるのは生得的なものらしいですし、お父上だってそこを問題視はしてる感じじゃないですよ」
「でも、私はできたはずだろう」
「いやまあ、最近はだいぶ感情も分かりやすくなったとは思います。でもそのくらいの変化は、あんたがわざわざ言わなくても、ひと目で分かる程度で」
「なら、日記にそのあたりのことが書いてあってもいいだろう。笑わない、泣かないだけ書いておいて、笑った日のことも書かないなんて無責任だ」
「お忙しかっただけってこともあるじゃないですか。大丈夫ですか先生、一度落ち着きましょう」
「私は」
「落ち着けてませんよ。なんです、気にしなくてもいいのが気に入らないんです? 変なこと言ってる自覚は……ありそうですねえその顔は! ああ、くそ」
こういうの本当はやりたかないんですがと、シルヴァンは眉をしかめて彼に食って掛かるベレスの両肩を引いて腕の内側に閉じ込めた。
「なにかあるんでしょう。聞きますよ。何でも」
そう囁いてベレスの頭を抱え込む彼の懐は、木枯らしに凍える冬に、燃えさしの暖炉だけを頼りにしていた彼女に温もりを与える。
「いちどだけ」
慣れた体温にまぶたを降ろして、ベレスは悔しさで大きな声では語れなかった、掠れる声で囁いた。
「いちどだけね、これは絶対に日記に残るだろうっていう顔をしていたときがあったんだ」
たぶんだけれど、と続けるベレスに、シルヴァンの戸惑った問いかけが投げられる。
もしかして、肝心な日にお忙しくて不在だったとか。
ベレスは彼の肩に乗せた顎先を横に振る。
「なのにそうしなかったんだ。私が。わざと。……その日のありさまなら、きっとジェラルトを楽しませてあげることもできたのに」
それは彼女の父の死の直前のこと。
星辰瞬く舞踏会の夜。
彼女を伴侶にと求めたシルヴァンをまだ早いと退けたベレスは、遠征から戻ってきていた父との二人きりで過ごせた最後の時間を、自分の意志で見送っていた。
その日、華やかな音曲の響く中、ベレスは冬枯れの遊歩道を彷徨っていた。
あてもなく。ひとりきり。美しい衣装と微笑みとが行き交う燭台きらめく大広間に戻りたくなくて。
いますこし考える時間が欲しかったのだ。
女神の塔でシルヴァンと別れたベレスは、時を追うごとに強くなる胸の違和感を言葉にすることができずに、そしてそれを無視することもできずにいた。
――もしかしたら。
そう仮定を何度も繰り返すうちに、いつも釣り糸を垂らしている溜池までやってきた。ところが真夜中の溜池には厚く氷が張っていたから、そこに腰を落ち着けるのも無理かと思い、他の場所に安らぎを求めた。
すると、正門のあたりで馬のいななきを聞いた。
ベレスはそちらに足を向けた。火急の報せを持った早馬かを確認するためにではなく。週末の演習に一緒に行くと言っていたはずのジェラルトが、まだ戻っていないのが気になっていたから。それに間に合わせるために早馬を駆って来たのだろうと。
足早に厩舎に向かうと、果たして、彼女の父はそこにいた。
やっと帰ってきた。喜びに包まれたベレスはいつものように近寄ろうとした。まずはおかえりと挨拶をして、次にお土産はないのと幼い子供みたいにせがんで。
馬の世話を手伝いながらどんな話をしよう。
今日はお祭りの日でね。こんな夜でもまだ向こうに行けばごちそうもあるから一緒に行こう。みんなきれいに着飾っているけど、私も平服だから大丈夫。そういえば女神の塔で祈れば何でも叶うそうだけど、ジェラルトは母と一緒に登ったりしたの――
喜びも、それを告げる言葉もたっぷりあった。
だのに、いざ厩舎の灯に父の姿を認めてみれば、ベレスの足は縫われたように止まってしまっていた。
ふいに、寒空にも凍てつくことのなかった頬の熱さが気になった。ここにきてなお弛みを見せない峻険な谷を作る眉間の歪みも。
いま、自分はどんな顔をしている。
ベレスは懐の鏡を思ったが、もしいまその銀色を目にしてしまえば、せっかく頭の隅に押し込もうとしていた赤毛の彼の姿を、思い出してしまうと分かってしまった。
そうしたら――そうしたら?
気づいたときには、ベレスは厩舎の灯に背を向けて駆け出していた。あんなに帰りを待ち望んでいた父の姿を前にして。あれほど自然な表情を見せてやりたいと思っていたのに。
火照る頬。歪む眉。震えるまぶたと唇と。
こんな顔は見せられないと――そんな風に、思ってしまった。
「結局それきり……ジェラルトと二人で話す機会はなくなってしまったんだ」
長くため息をついたベレスは、そう話を結んだ。
「本当は君の言う通り、ジェラルトは私の表情がどうであろうと何でもよかったんだろうと思う。それでもあのとき、もしも最後に顔を見せてあげられていたらどんな反応をしたんだろうと……思ってしまって」
変なものでも食ったのかと心配するのか。
何があったのかと話を聞いてくれようとするのか。
すべてを聞き終えた彼がどんな顔をして、どんな風に日記に綴られていくのかも。
しかし何度考えても、もう、どうしようもないのだ。
彼女が自分で父との会話を諦めてしまったことも。そしてそうなってしまった原因が、誰に対しても説明できない、この恋の名ひとつ当てられない、どうしようもない関係であることも。
ベレスはからからになった喉に唾を落として、彼女を腕に抱き入れたままだったシルヴァンから距離を取る。
「うん。そういうことだった。私はあの日からずっとそれが喉のつかえになっていた。だから混乱もしたし、悔しくて泣いたし、君に聞いてもらって、整理もできた。ありがとう。助かった」
「そりゃ、構いませんが……せんせ」
うまく仮面を選べないでいるような、舞台裏の困惑顔で呼びかけるシルヴァンを遮るように、ベレスはああ、と懐に手を入れて、取り出したそれを彼に差し伸べる。
丁寧に折られた鏡の包み。
「返すよ。……もう借りている意味もないだろう」
どれだけ好ましい笑顔ができるようになろうと、意味がない。それを喜んでくれるはずの人は、深く、静かに、土の下で眠っているから。
ごめんね、ありがとう。たすかった。あらゆる感謝と謝罪とともに発された傲慢は、シルヴァンの表情を変えさせるのには十分だった。
すべての表情を失ったシルヴァンはベレスの震える手を見下ろして、無言で鏡を受け取った。
彼がはらりと布をほどいて矯めつ眇めつ見る紋章入りの銀盤は曇りひとつない。丹念に磨かれたその内側に映るシルヴァンは、笑みのかたちではいなかった。
「あんたがお父上の前に顔を出せなかったのは、あのとき独りだったあんたを呼び止めた俺のせいです」
と、鏡を懐に落としてそう言った。
「だからべつにあんたのせいじゃありません。あんたは自学級の問題児に扱いの難しい話を持ちかけられただけ。そうじゃありません?」
そんなはずがあるものか。
淡々と述べられる言葉は、あれほど頑なだったベレスの頬の熱を一息に冷ます。
「君のせいにしろというの」
「あのですねせんせ。考えてもみてください。そんな話聞かされた俺が取れる選択肢他にあります? ありませんよね。……なら、これは仕方ないんですよ」
これはベレス自身が望んだ話。そう一度はしっかりと断罪しておいて、それでもシルヴァンは自らに課された役目を負うという。
君がそんな殊勝なたまか。ベレスはそう返そうとしたが、 自分に苛立ちを押し付けてしまえと促してくる薄茶の瞳は、はかりごとの気配も見せない。学生服の肩がひょいと上がって、
「まあ、俺も本当にあんたがそれで救われるなんて思っちゃいませんよ。でも人には話を受け入れられる機会ってものがありますしね……だからいいんですよ。たまには。俺だって、あんたにはさんざ迷惑をかけましたからね」
意識に染み込んでいくような耳当たりのいい言葉。これは貸し借りの話なのだとうそぶいて両手を広げるそれに、ベレスの心は揺さぶられるが、
「君を、悪者にはしたくない」
彼女が言うと、彼は「そうですか」と、途方に暮れたように両手の親指を組んだ。
ふたり、横並びのまま沈黙が落ちるが、ベレスは拒絶できたことに安堵を覚えていた。
誰かに責任を押し付けてしまいたくないかと言われれば嘘になるが、今のベレスは憎しみの力を知っている。それがどれほど膝の支えになって、そして破滅への道を示すものかを。
もしいま彼にすべてを被らせてしまったならば、それを選んだ自分の不甲斐なさすらも重ねて、すべてを憎しみに塗りつぶしていたことだろう。
それだけはとても嫌だと思うのだ。ここまで胸にしまい込んできたすべての記憶。それが原因で今回の事態が引き起こされたのだと分かっていても。
ベレスは窓に頬杖をつく。
「君、絵描きにならない?」
「素描くらいならやらないこともないですがね……あんた、俺の記憶をどうにか吐き出させて墓前に供えようって考えてます?」
「あとはそれくらいしかないだろう」
「いまのあんたが考えられるのが、でしょう」
「えらく辛辣だ」
「そりゃあまあ。俺に言わせれば、なんで見せることばかりに拘って、伝わったかを考えないのかって話ですしね」
「……日記には書いてなかった」
「それです。そこで立ち止まっちまってますが、本質は書かれたかどうかじゃないはずです」
「分かっているよ、伝わっていたかどうかって話だろう。でも、そんなのいまさら確かめようがない」
どんなに遺品を探そうと、誰かに話を聞きにいこうと、ないものはないとベレスが言うと、
「そうですね」
とシルヴァンは肯定した。
あっさりとした声にベレスは意表を衝かれる。彼の主張は伝わったかを考えるべきということなのに、論拠なんてなくてもいいという、その態度。
「いいですか先生。書いた本人がいない状態でどんな文章を見つけたとしても、そこから得られるのは読む側の解釈だけです。真実じゃあありません。なら、何があってもなくても、同じってことになる」
「随分乱暴な意見に聞こえるよ」
「もちろん極論ではありますが。たとえば俺の日記に『女の子なんて好きじゃない』なーんて書いてあったとして、あんたそれ信じます?」
「……日記にも嘘を書くのかと思うかな」
「自分で聞いといて苦笑いしたくなりますがね。そういうことです。後は、自分がどう納得するかの話でしかない。俺はそう思いますね」
「君は、そんな風に『なにもない』を乗り切った?」
「今のは俺の話じゃないですが。ま、『なにもない』を抱えて生きてるやつは何人か知ってます」
ベレスは手の中の日記をハンカチごと握り込む。言いたいことは分かる。分かるけれど。
「ま、とはいえですね。あんたの言ってることにも俺は懐疑的です。誰に聞いても無駄って話ですが、一番お父上をご存知の方に話を聞いてないんじゃないですかね」
「たしかに昔の傭兵仲間とは会っていないけど……」
いいや、とシルヴァンは首を横にふる。
「あんたですよ」
シルヴァンは言った。
ベレスは日記に視線を落として、それから、そこから手を離して、自分の胸に。
「自分?」
「ええ。お二人は傭兵として各地を転々としてたんでしょう。なら、お父上のことを一番ご存知なのは先生です」
「でも、何度も思い出しはしている」
「俺が懐疑的なのはそこですよ。自分じゃ分からないなんてのは何だってあるもんです」
シルヴァンは立ち上がり、椅子を反転させて置き直した。
互い違いになった二つの椅子は、背もたれと肘置きが座面一つ分をずらしてそっぽを向いて、己の字を描いている。
「こうなったらとことんいきましょう。今からあんたは俺にお父上の話をしてください。……そうですねえ。あんたが俺と二人でいるときにちょいちょい挟んでくるお父上の小話。あんな感じでひとつ」
「……そんなのしてたかな」
「しーてーまーしーたー。前にお付き合いしている相手との時間に他の男の話は……とかって言いましたけど、お父上相手じゃあさすがに黙って聞きますよ」
「それは悪いことをした……のかな」
「おかげで今勘所を外さないでいられてるところはあるので構いませんが。それに免じて話してくれます?」
「いいけど……君になんの利点もなくないか」
「それであんたがどうにかなるならお安いもんです……と言ったところで、信じちゃくれませんかね」
シルヴァンは小さく笑った。
「正直言うと他の目論見もありますよ。うちはいま殿下がああでしょう。俺じゃあ何の相談にも乗ってやれないんで、あんたから話して貰えればな、と」
「ディミトリのため?」
「……、ええ。あんたのためだけじゃなくて悪いですが」
ベレスは首を横にふる。最近眠れていないとこぼしていたディミトリ。彼女自身もまたその様子を気にかけていたところであった。
そうだ、こんなところで落ち込んではいられない。
ベレスは背筋を伸ばして、ぱしんと自分の頬を叩く。
わかった、と頷いて、おかしな方向に向けられた椅子の座面を叩くと、シルヴァンは不甲斐なさを呆れてでもいるのか、苦笑を深くした。
「話すのはいいけど、どこから話そう」
「何だっていいですよ。お好きなように」
見上げる視界から赤毛が消える。隣から椅子が軋む音がするのをそのままに、さらに天井に視線を向ける。
思い出されるのは頭二つ以上も高い位置にある結び髪。目の前で揺れる剣の音。
ベレスはぽつぽつと話し出す。
「……父の身長はファーガス人としては平均くらいだけど、子供目にはとても大きくてね。いつも背中を追いかけてはそれを見上げていた。
ずっと近くにいたとは言うけど、幼い頃は傭兵仕事もできなかったから、父の知り合いの宿に預けられていた。帰ってくるのが待ち遠しくてね。一週間、一ヶ月と、待っている間、宿を手伝いながら勉強したよ。文字でも計算でも、戻ってきたときに成果を見せると、とても嬉しそうにしてくれていたから」
がらんとした部屋は他に誰もいないようにベレスに感じさせた。息遣いすら逆向きになる互い違いの椅子は隣のシルヴァンの気配を消して、ただひとり、独白をしている気分になる。
けれど、斜め後ろから背を守るような相槌が来る。
「あんた、ひとの喜ぶ顔見るの好きですよね」
ベレスは語りかけるでもなく宙に囁く。
「自分のためだよ。私は単にジェラルトに撫でられるのが好きだった」
「あんたが褒められて伸びるタイプだったのは意外ですが、考えてみれば、あんた指導は厳しいですが、褒めるときはちゃんと褒めてましたね」
「一応意識している。褒めてもいいよ」
「いやあ、やめときます」
「そう」
いつの間にかシルヴァンに向けていた目を、また天井に置き直す。
「そんなだったからね、私はずっと大きくなったら剣を執るつもりでいたんだ。なのにある日そう言ってみたら気まずそうに、本気かと言われて……どうやら密かに私の持参金を稼いでいたらしい。子供心に、何をやっているんだと叱りつけていたよ」
「は? あのひとあんた手放すつもりだったんです?」
「信頼できる知り合いが、私を預かろうかと言ってくれていたらしい。そのときにはもう私は字の読み書きができるようになっていたから、あとはそこの家の養女にでもなれば、それなりのところと縁談が組めるだろうと」
それを聞かされたときの光景がまざまざと思い出されて、ベレスはとんと床を二度蹴った。
「自分はジェラルトのために勉強していたのに」
「親の心なんちゃらですねえ。まあ、子供からすると知ったこっちゃないんですが」
「だろう。あんまり腹が立ったから、翌日には貯金を全部武器と鎧に替えてもらったよ」
「心の整理がつかないうちに押し切られたんですね……」
む、と隣に視線を送るが、彼はどこか安堵した表情でいた。
「まあ、何とも言えませんけど、下手な家と縁談組まれなくてよかったですよ。養子縁組したあとにあんたの紋章の存在が露見したら、さらに上位の貴族に召し上げられて――なんてこともあったでしょうしね。そうなったら、あんたを安全な場所にってお父上の願いも無駄になる」
シルヴァンの声はさっきよりも幾分低くて、紋章の言葉が彼にとってどれだけ憎らしさを託す対象であるかを示している。ベレスは小首を傾げて、その顔を覗き込み、
「じゃあ、褒められてもいいところだ」
とわざと軽く返した。
「さっきからそればっかりですね」
「それとも、順繰りに上に送られて、君の姉になっていた方がよかった?」
「絶対ないとも言い切れねえのがなあ」シルヴァンは額に手を当てて、「だめです。どう考えてもあんたみたいな姉貴がやってきたら、即日首根っこ掴まれて、兄弟揃って頭かち割られて喧嘩両成敗になる未来が見えます」
「いいことじゃないか」
「そりゃあまあ……俺は助かったかもしれませんけど」
「けど?」
それは刃持つ者としての習性だったろうが、渋く歪む顔にベレスは踏み込む。するとシルヴァンは軽々に身を乗り出してきた彼女に横目を向けて、
「それなら普通に縁組されてた方がよかったなあ、と」
と、自らもまた片肘を後ろに引いて、ベレスの顔と真正面から相対した。それからうっすらとまぶたを細めて、ああ、でもそうなったら兄貴の方に行ってたかもな、それはちょっとな、と、聞かせるでもなく言葉を落としていく。
突然向けられた、薄茶の瞳の煙るような色めきに、ベレスはそんなつもりではなかったのだとひどく慌てた。
嘘も百回重ねれば真実になるとは、とある弁士が能した通り。幾度も重ねられてきた彼女を望む言葉は、ここに来て彼女の動揺を誘うほどになっていた。
いや、まってほしい。何の話をしていた。
「その……その仮定なら自分は傭兵でもないし、腕っぷしがなければ君のそばになんて寄らなかったと思うよ」
言って、ふいと顔を正面に戻す。
「あっはっは。ま、そうですね。親に娶されてたら、こんな風に話し合うこともできなかったでしょうし。あんたが今教師として来てくれてよかったですよ」
「それは、うん。教師の自分は悪くないと思う」
そして、沈黙。
ベレスは横に戻したくなる顎を叱咤して、また天井をにらみ直す。まだまだ語るべき言葉はあるはずなのに今度は隣の気配が気になってうまくできない。
これではあのときと同じじゃないか。
ベレスは泣きたいような気持ちで、そわそわと落ち着かない膝をぎゅっと合わせる。それで膝の動きは止まったが、代わりに、足首から先がとん、と床を蹴った。
と。そのとき、
「すみません、話の振りを間違えましたね」
ベレスはそこに路線の復旧の端緒を見て、ぱっと彼に視線を戻した。
「そうだよ。ジェラルトの話をしようと言っていたのに、君ときたら」
ベレスはそう大上段に口を開いた。多少大げさにあげつらってみせれば、シルヴァンもつきあってしょぼくれてくれて、そうしたら元の話に戻れるだろうと。
そして実際、彼はすみませんと言ってみせた。
けれど元には戻れなかった。
顔を向けたベレスを、すべてを受け止めるような柔和な眼差しが迎えて。
「……なんで笑ってるの」
「怒られるような顔でした? 分かりませんが、たぶんさっきまでのあんたと似たような顔してる思います」
「さっきって」
「お父上の話をしてたときですね」
そんなはずはないと思った。だってそんな金色の満ちる蜜そのものみたいな笑い方、彼はともかく、この自分ができるわけもない。
鏡は返してしまったから確かめられない。けれどベレスは、もし今それが手元にあったとしても必要なしと思って取り出さなかっただろうと考えた。
表情を作ることに長けた彼が合わせ鏡はここにあると言うのなら、たぶんそれは正しいのだ。
「君みたいに笑えてた?」
一歩踏み出す声は震えた。シルヴァンはそれに太鼓判を押すように、しっかりとした声で。
「話してる間中、ずっといい顔してました。……伝わっていましたよ、きっと」
「……そうだね」
シルヴァンの言葉が真実であるという保証はない。
けれどまた父の真実ももうどこにもないから、せめてそうであれと願おう。
ベレスはそっと目を閉じて、胸に結論を馴染ませるように息を細く吐き出す。
そんなベレスを慰めるように、横合いから伸びた手が彼女の髪に穏やかに触れた。さりり、さりりと表面だけを梳いていくそれは、記憶にある父の首も折れんばかりの容赦ない撫で方とは全く違う。
違うのに心地好いのが、なんだか苦しい。
「……平気です? まだ、何かありそうですか?」
「い、いいや。大丈夫。納得はしたし、頭も整理されたから雪解け水を浴びたみたいにすっきりしているよ」
「そうですか? ならいいですけど、また無理なんてしないでくださいね」
「うん。わかってる。わかってる……んだけど」
「なんです。やっぱり話を聞いてくれってことなら、もうしょうがないんで、とことんまでお付き合いしますけど。なんです?」
それは、と、ベレスはいままで逸していた目線を必死に引っ張った。さっきの息をするように切り替わった色目はともかく、いまの彼は純粋に心配をしてくれている。
応えなければならないとまぶたを上げる。視界に入った顔にたじろいだ。
「――あ」
そこにはまじろぎせず、ベレスだけを見ている秋空に似た穏やかな顔。
金木犀の薫るようなそれを見たとき、すとん、と頭の中で音がした。
噛み合っていなかったものが噛み合う感覚。とたんに頬に走る火が、呼吸のすべてを燃やし尽くしてしまった。
「あの、シルヴァン」
たったその一音だけで、ベレスの息は足りなくなった。喘ぐようにすうすうと息を吸うベレスに、シルヴァンの目が細められる。
「せんせ?」
「ん……」
髪にかかったままだったシルヴァンの右手が、こめかみから頬へと滑った。
手のひらから与えられる温もりに、ベレスは心地好さを感じてまぶたを下ろす。
シルヴァンの指先がベレスの髪を一房ねじって、解いてはまた同じことをする。髪のこすれる音が耳に響くだけの、子供がするような親愛の手遊び。けれどふたりの息は体温より熱くて、互いに身を寄せ合っていたならば、胸が早鐘を打っているのもわかっただろう。
せんせ。ベレスのものとはまったく違う硬い手のひらが、翡翠の髪をくしゃりと乱す。それを合図とするように、ふたりはどちらとからともなく顔を近づけて、細めた目尻を擦り合わせる。
肌を合わせる、たったそれだけで息があがって、ベレスの鼻が物欲しげにくうと鳴く。
甘くて、たりない。もっとほしい。
「――ところで先生、俺ずっと気になってたんですが、女神の塔で俺の求婚断っておいてお父上に顔向けできなかったって、どういうことですかね?」
ひゅっと、ベレスの喉が笛の悲鳴を上げた。
「わ、忘れた!」
とベレスはとっさに顔を離そうとするが、くつくつと笑うシルヴァンに首の後を押さえられ、そして腰まで抱かれて身動きできない。
「それにしちゃあ、こっちが居た堪れなくなるくらいかなり詳細に話してくれてましたけど。あのとき俺さらっと袖にされたわけですが、後であわあわしてたってどういうことです? なんで俺にそういうの見せてくれないんですかねえ⁉」
「お、おちついて。だから慣れないって言ってるだろう、そんなこと言われても私はそういう機微はわからない。分かっていたら、今日のことだって君に話す前に解決していたわけだし……」
「ひとつじっくり考えてみません?」
「そういう笑い声をしてる時の君は信用ならないっ」
ベレスは身体を捩って、シルヴァンの腕から抜けて窓に張り付く。ぷいと横を向くベレスの耳に、勝利を確信したような笑い声が響いてくる。
せんせ、とにじり寄るように伸ばされた腕が、ベレスの髪を一筋掬う。
猫か犬かが爪で嬲るようなそのやり方に、追い詰められていくベレスの肩がじりじり上がる。絶対に口を割ってやるものか。
「話しちゃくれません?」
「だから言ったとおりだよ。私には説明のしようがない。求婚なんていつものことだし、まして冗談のきつい君のそれなら、言われたところでどうということもなかった」
「いやいや、ちょっと待ってください。最初から聞き捨てならないこと言いませんでした?」
「言われたところで何もなかったのは本当だよ」
「違いますそっちじゃないです、いやそっちはそっちで問題ですが、求婚がいつものことってどういうことです⁉」
ベレスを圧倒してくる色めいた眼差しも束の間のこと。きゃんきゃんと吠えんばかりのそれに、ああ、とベレスは目を開け締めする。
「傭兵は基本一期一会だからね。気に入ったら求婚なんてよくある話だ。私は表情に乏しいから敬遠されてはいたけど、それでも何度かは声がけられている。……まあ、そのたびにジェラルトがどこからか来るから、返事するところまで行ったことがなかったんだけど」
「……すみませんどっちに同情したらいい話ですこれ?」
「何に同情するの」
「ああいや、いいです……」
シルヴァンは深くため息をついて、ベレスと彼との間に横たわる肘掛けに、行儀悪く頬杖をついた。
「で、なんでそれでお父上の前に出られなかったんです。慣れてるうえどうも思わなかったなら、それこそ平気だったでしょうに」
「正確に言うなら平気だと思っていたというか……女神の塔を出た後は、どうにもお腹の据わりが悪くてね。舞踏会で変なものでも食べたかなとお腹を押さえていた」
「押さえるところ胸ですらないんですね」
「そう。でも舞踏会では大皿は誰かが食べたものしか取っていないし、飲み物だって未開封をそのまま貰った。あとは菓子に何かなかったかなと思っていたんだけど」
「まああんた腹出しっぱなしですし冷えそうですよね」
「うん。で、そんな感じでぐるぐると考えていたところ、そういえば君、普段は聞き分けがないくらい絡んでくるのに、今日はやけに引き際がよかったなと思い出したんだ」
「それで?」
「……もしかしたらと、思ってしまって」ベレスは床に視線を落とす。「あれは本気だったんだろうかと」
シルヴァンは頬杖をはずして、身を乗り出すように肘掛けに両腕を置く。
「俺はここにいますよ、せんせ。直接聞いてみちゃどうですか」
ベレスは顎を小さく横に振った。
「いいよ。君の答えは分かってる」
「『本気です』」
「うん。そう。君ならそう言うだろう」
「決定打はあったほうがよくありません?」
「君が言ったんだよ。どんな話が出てきても、そこから得られるのは解釈だけだって」
「たとえ本気だろうと信用ならない、と……なんだ、結論は同じじゃないですか」
そうだね。と言いながらベレスはまた視線を落とす。
彼の言う通り、あのとき彼が本気だったとしてもベレスが求婚を受けることはなかっただろう。そのくらいの弁えはあるつもりだ。
「でも、信じるにせよ、信じないにせよ、もしすこしでも本気かもしれないと思っていたら、君の言った通りに、慌てぶりを見せてあげられたかもしれない。そうできなかったのは、悪かった」
「いや待ってくれ、あんた何言ってるんです……俺は謝罪なんかが欲しいわけじゃ……いや、そうでなく。本気だったら慌てるくらいで、何だって断るんです」
「私は君の要請を受けて、君の誠実さを評価している。教師と生徒の立場の括りを外したら、こんな風に会話をするのもなくなるんだ。受けて何になるの」
シルヴァンの顔色がさっと変わった。
「それで構わないんですか、あんたは」
「何か問題あるの」
「問題ないって顔してないんですよ、騙すならもっとうまいことやってください!」
――そんな事を言われても、自分には君みたいな表情があるわけでもないし。
膝に置いていた手を持ち上げて、ベレスは両手で己の頬に触れる。大修道院に来てから温室で余った香草の煎じ水で手入れするようになったそれはもちもちとして、触れるだけでも心地好い。
指先で触れた口輪筋や眼筋の周りは、多少緊張していても普段どおり。これに表情があると見るなんて、どんな嘘つきなんだろう。
ベレスが非難するように視線を上げると、そこには表情を消し去ったシルヴァンの顔があった。
眉にも、目にも、口元にも、顔のどこにも力の入らない、切なそうな眼差しばかりが目立つ顔。その奥には、琥珀の色に透ける炎が、苛立つようにゆらゆらと揺れている。
「……先生。あんた前、俺に、好きにしていいってあんた言いましたよね」
「それは、言った」
「じゃ、一度だけ試してみません?」
何を。問いかけようとするベレスの耳元に片手が滑った。
また頬に当たる手は温かく、指に絡められてははらりと落ちる髪の音は耳をくすぐる。
せんせ、と切なそうな響きがそこに加わって、ため息の触れる場所から発火するように熱くなる。とろりとした眠気。のちに官能として意識されるその存在を、いまのベレスは未だ知らずに、身震いするような予感に肘掛けを握る。
「……わかった。君の好きにしていい」
ベレスにはそう言うしか道はなかった。嫌と言えばその場で終わってしまう関係は、ときどきこうして彼女を縛して、普段であれば選ばぬ方へと道を進めてしまう。
「――けど」
付け足された否定の言葉に、シルヴァンの動きが止まった。その色の濃さを増したように思える薄茶の瞳が、問いかけの視線を投げる。
見られている。ベレスはその熱さを頬に感じ取りながら、すこしまって、と椅子から立ち上がる。
膝に置かれていたままの日記を胸に抱き上げて、ジェラルトの私物の詰まった箱の上に置く。
開かれたページはそのまま、上にかけられたシルヴァンのハンカチもそのままに。
「ははあ……いい根性してますよねえ、あんた。嫌なら嫌って言ってくれません?」
椅子に戻ったベレスを迎えたシルヴァンは、まいった、と言わんばかりに額を押さえていた。
「違うよ。あのままにしてたら落としてしまいそうだったから。まあ、いいように扱うなという警告でもあるけど」
ベレスは力強く両手の拳を握る。シルヴァンはその両手を冷めた視線で眺めおろして、
「そういうとこですよね。何があってもなるべく自分のいいようになるように、多少ずれたことでもやっちまう」
「悪いこと?」
「いいえ?」
シルヴァンの片手がベレスの拳にかけられた。
「なら、なに」
視線が熱い。動揺しないよう、座面にへばりつけていた尻が落ち着かなくて、わずかに浮かせて椅子の奥へと送り込む。
「そうですね……」
シルヴァンのもう片方の手が持ち上げられて、伸ばされた手の指の背が、かすめるように頬を撫でていき、
「……ええ。そういう、潔いくせに諦めが悪くて、どうにか戦っちまおうとするあたりに」
「あ、あたりにっ!」
「大丈夫です先生? やめときます?」
「二言はない、だから……中途半端はやめて欲しい」
甘く細められていたシルヴァンの両目が丸くなる。彼はくつくつと喉の奥を慣らしてから、泣き出す寸前のような顔で「試しだってこと忘れてませんか、せんせ」となだめるように頭の後ろを撫でる。
おがくずに頭から突っ込んだときのようなむずがゆさに、落ち着かなさの詰まった喉が唸りを発する。
こちらはとうに観念しているというのに。きみは。この。まだ止めて良いなどと。
「……思い出したよ。そういえば、君が熱心に目で追っているのは、みんな物怖じしない子達だったね」
「え? は? せんせ?」
「わかった。だったら、そうしよう」
「何がです⁉ ああいや、もうすみません、俺さっき先生が諦めた目になった理由分かりました。完全に据わった目を前にすると怖いんですね!」
落ち着いてください頼みます。シルヴァンはベレスの両肩を押さえてその動きを制限するが、ベレスのはやけに間延びした息を、ふ、と落とす。
シルヴァンに奇襲を防ぐ術はない。当然、ベレスはそれを知っている。
「強気なのがいいんだろう。なら、堪能すればいい」
ベレスがずっと手持ち無沙汰だった両手で学生服の襟を引くと、視線の距離が縮まって、薄茶の瞳が大写しになる。
それは最初冗談じゃないと言わんばかりに目尻をひくつかせていたが、シルヴァン、と名を呼ぶと、喉からゴクリと唾を飲む音がした。
「ええ、はい……ほんと。そういうとこが」
「そういうところが?」
「憎かろうが。妬ましかろうが。……どうやったって惹かれちまうんです」
まつ毛が触れあうほどの距離に火の気配。そのくせ子守唄でも歌うようなゆっくりとした声が間近に響く。
糖蜜の雨だ。とベレスはそれを聞く。
黒、茶、透明と、あらゆるどろどろを混ぜ込んだみたいな色で告げられるそれは、ベレスの血管のいっぽんいっぽんをさざめかせるくらいに甘い音をしている。
真正面に結ぶ視線が、まるで鍵でもねじるみたいにぐるりと傾く。
「目は……閉じるの。開けてるの」
「どちらでも。俺は、ずっと見ています」
その後は、ひといきつく暇もなく。
まだベレスの目がどちらかを選びかねているうちに、シルヴァンは焦れたようにベレスのうなじを引き寄せた。
重ねられた唇は、前歯が当たらんほどの性急さにもかかわらず、草木を育む甘雨のような、しっとりとしたささやかさを持っていた。
身の内の火口を鎮めるような押印は、おそらく慣れぬベレスのための措置だった。甘く耳の軟骨を滑る指の角度も、不安定な首を支える手のひらの丸みも、ひとつひとつが幼子の手を引くような慎重さに満ちていている。
「っ……」
けれど、身の内に揺れる炎はまだ足りないと告げていた。
ベレスに男性経験はなかったが、宿の隅で二人並んで笑いさざめいていた恋人たちの、葡萄酒色の口づけは幾度も見ている。
自分は立派な大人なのだし、あれくらいされてもいいのに。触れる淡さに焦れれば焦れるほど、身体はみだらに熱を持ち、息もまた跳ねていく。
シルヴァンはそんな彼女を、彼が宣言したとおりにじっと見ている。
慎重に戯れの口づけを重ねていた彼は、ベレスの不満げな気配を察したのか、一度頬を擦り合わせたあと、ふたりの間に距離を作った。
「せんせ?」
突然彼の胸に顔を埋めるようにして俯いてしまったベレスに、怪訝そうな声をあげたシルヴァンは薬指と小指とで顎を持ち上げようとする。
ベレスはそれに抵抗をして、そこが鰐の顎であるかのように、顎下に指を挟んでかぶりをふった。
――こんな顔はとても見せられない。
どうしてだろう、悔しさが胸に満ちていた。
他の恋人たちと同じようにやってもらえないことに、ではなく。肌の一枚下に満ちる熱が、ここまで触れ合っても通じはしないのだという口惜しさに。
これではさっきの、微笑みで通じていたという話も疑わしくなってしまう。
ああ。いっそ交歓を阻む肌を裂いてしまえば、そこに収められているみごとな血の色をした内臓に、彼女も余人と変わらぬ血肉と欲があるのだと、報せることができるだろうか。
剣呑にもそう思ったあと、やるせなさに胸元に鼻を擦りつけてそこを吸う。
ベレスはそうやって微睡むのが好きだった。温もりに薫る涼しげなそれを吸うたびに、肩の力が抜ける気がして。
けれど夜も近くなったいまでは、心地好い柑橘も淡く、終わりが近くなっていて、まあ、そうだな、とベレスは抗うだけの力を抜いた。
求婚は受けないのに心地好さだけはもらいたい。そんな誠実さのなさは許されるものではない。それで、彼も試す以上のことはしてこないのではないか。そう思った。
ならここまでで十分だ。もっと、と望むのはやめにして。
――そうだ。だいたい先に進んでしまっては、それ以上恋人としてするべきことがなくなってしまう。
そうなってしまっては、ベレスの意向がどうだろうと、結局。
「苦しいんだ、シルヴァン……」
ベレスは言った。
「頭の中がぐちゃぐちゃで、さっきから息が苦しくて。とてもつらくて。シルヴァン、シルヴァン。きみ――」
うつむいたまま、溺れた者が水面を求めるように腕を伸ばした先は、まだ彼女を見下ろしているだろう男の背。
横並びの学生服に包まれながらも、若者特有のしなやかさを精悍さに変え始めている背中の筋が、深呼吸するように大きく膨らむ。
「……だから、なんでそういうの見せてくれないんです」
うつむく顎にシルヴァンの指がかかった。
持ち上げられて見たのは、真っ赤に染まった目元と耳と。肩はこらえる息の代わりをするように上下に動いて、それと思って意識を向ければ、ベレスの手の下にある心臓でさえも、嵐のような拍動を打っている。
「きみ、こんなの慣れてるはずじゃなかったの」
「そうですね。あんたの求婚話じゃありませんが、俺だってそれなりのつもりではいましたよ」
でも、それが、なんなんでしょうね。
低い声の響き一つで、シルヴァンはベレスがどれほどのんきに戦場のまんなかで寝転んでいたのかを如実に伝える。
「……せんせ」
ぽかんと開けられたベレスの唇に、シルヴァンの指が押し当てられた。ふにふにと動かされるそれは、やがて口づけの代わりのように下唇の中央に乗せられて、そこに加えられた薬指が、唇の下の窪みを引いて、わずかにベレスの顎を下げる。
暴かれた舌先に、空気の冷たさとシルヴァンの視線の熱とを感じた。
――どうする。逃げるか。いやだ。構わない。いいや、それも違って。
「まっ……待ってシルヴァン。鍵……そうだ、鍵をかけてない」
廊下を行く靴音を聞いた気がして、ベレスは駆け出そうとした。
膠着を解くたったひとつの救いの音。なにはともあれ、こんなところを他の人に見られるわけにはいかない。
ところが。彼女が身を捩って椅子から飛び降りようとしたとき、その腕がくんと強く引かれた。
シルヴァン。
「なに」
わけもわからず後ろを向くと、やはり相手も混乱しているように眉を顰めていた。
「何じゃありませんよ。何やってんです。あんた、鍵をかければ許す気ですか?」
ベレスはぴたりと動きを止めて、向かうつもりだった扉を見やる。
鍵を理由に中断をして、それでまた二人っきりになってどうする気だった。いや、やめたいのなら、そのまま扉を開け放って逃げてしまうこともできたはず。
自分は、どちらを考えていた。
「鍵ならかかってます」
「え?」
「かけました。いや、そりゃかけますよ。でなきゃ、あんたの弱音なんか落ち着いて聞いてられますか」
「あ、え、……あ……ありがと、う?」
逃げ道はどちらにしてもなかった。ベレスはそう理解しながらも、とんちんかんな感謝を伝える。
ところが、「どういたしまして」と向けられたその表情に、ベレスは言いようのない不安を抱いた。
強気な眉も溌剌とした、溶けるような微笑みと共に来るのは、たいてい。こちらの足元を読み切って、ぎりぎり断りきれないような注文だ。
シルヴァンはベレスを掴んだ腕を持ち上げ、
「じゃ、それに免じて。お礼の口づけいただけません?」
その指先に自分の唇を触れさせた。
ほら、といっそ清々しく思えてしまうほど、提案されたのは甘い言い訳。
関係など曖昧でいい。いっそただのお礼でいいのだと。彼女に婚姻を願ったその口で。
ここまできたらベレスにもおおかた分かった。その行動の是非はともかくとして。
「……なんというか。甘やかすの好きなんだろう、君」
責任はみんな自分のせいと言ってみて、相手に反論の余地を許さずに。その寛容さに傾いた相手の心をすかさず捕えて、その甘やかさを摂取する。たちの悪い捕食者だ。
自分の評価まで犠牲にしてよくやるものだと、ベレスは呆れ混じりに目の前の赤毛を梳いてやる。
「そうですね。あんたくらいの意地っ張りが相手だと、だいぶ甘やかしがいがありますね」
答えはおおよそ想像通りの得意げな顔。ベレスの思考を肯定するようにシルヴァンは小さく笑った。
そうか、とベレスは頷くと、偽悪的な表情を作るシルヴァンを正面において、
「好きだよ」
と一言告げた。
「は……? え?」
「……と。君いわく意地っ張りらしい私が直接好意を伝えたら、君はどう解釈するんだろうと、ふと気になって」
「鬼ですかあんた⁉ え、今の嘘です? 本当に?」
「どうかな。いい解釈があれば採択も検討する」
「いやいやいや、あんた確実にそこに生きてるんだから本当のところ聞かせてくださいよ⁉」
「もう言った」
「言ってないも同然じゃないですか!」
お互い様だ、とベレスは思う。君こそ言えることを全部言っているくせに、どうとでも解釈できるじゃないか。
さっき彼女がたちが悪いと考えたことだって、おそらく真実を衝いてはいないのだ。言葉を巧みに扱う彼のこと、どこからどこまでが誘導された思考か、疑えばきりがない。
だから、考えるのはやめたのだ。
それなら遠慮はいらないと思えるだけの、都合のいい想像で納得すると決めていた。
「それで、君はどう受け取った?」
ベレスがそう促すと、シルヴァンは赤毛をかき回して、本当のところは分かりませんが、少なくとも、と多くの前置きを積み重ねてから、
「なんだかんだで、あんたは俺からの口づけを拒まない」
「単なる事実だ。解釈じゃない」
「……その答え、迂闊って自覚はあります?」
至近距離で低い声が聞こえた直後、ベレスの唇は彼の口に飲み込まれていた。
背が震えるような気持ちよさにベレスは前のめりにそれに応える。しかし気丈でいられたのはそこまでで、さっきまでの穏やかな触れ方は、むしろ彼自身への枷であったのだと気づくのに、そう時間は必要なかった。
放蕩を冠する彼が気遣いを不要とされたのならば、彼女がどれだけ本能で熱を抱こうと、ここまで純粋培養で来た精神の方がとてももたない。何度も角度を変えながら重ねられる口づけと、執拗に歯列を叩く舌は獰猛で、ベレスは自分が獣の前に内臓をさらけ出している羊になったような錯覚すらをも抱き始める。
ある意味望み通りになったというのに、ベレスはそれを見せつけるような気概も抱けずに、シルヴァンはすっかり大人しくなってしまったベレスに、自らの戦果を勝ち誇るでもなく、ひたすらに甘い口づけを与えた。
奪うような荒々しさとは打って変わった、身も心も溶かすような糖蜜の味は、さっきベレスがまさに望んだものだった。
淹れたての紅茶をひとくち含んだような、ほっとする心地好さと舌を焼く熱とが交互にやってくるその感覚に、ベレスは頭から浸りこむ。
ところが自分と彼との間に設けられた紙一枚にも満たない隙間から、ぢゅくりと粘着質な水音が鳴るのはよくなかった。過剰に性的なものを思わせる響きに、ベレスの羞恥心は限界を迎える。
もうすこし手心をと訴えようとして、ベレスは自分を抱きすくめてくる胸をぐいっと押した。ぷあ、といきおい顎を上げて距離を取ってはみたが、ぐらぐらする頭と、はふはふと乱れる息に気勢は弱い。何とか態勢を立て直そうと、力の入らない指を彼の袖にかけて息を整えているその耳に、
「っは……、せんせ、すげえやらしい……」
整える気もなさそうな剥き出しの息遣い。
それが完全に駄目押しとなって、ベレスはあえなく白旗を揚げた。
もういい、考えない。いまはただ、二度あるかも分からない状況に大の字で流されよう。
ベレスはぼうっとシルヴァンを見上げて、制止の言葉を作るつもりだった唇を誘うように薄く開いた。シルヴァンの喉が勢いよく上下して、掠れた呼びかけがあったかと思うと、その舌はすぐさま彼女の腔内に侵入し、ぬめぬめと絡みついてはベレスの感覚のすべてを犯そうと行動を開始する。
やってきた交歓は、情熱と親愛のちょうどまんなかくらいの色をしていた。
ざらつく舌と響く水音。その二つを受け止めるベレスの耳は、いまや無防備にもシルヴァンの太い指に塞がれて、彼から与えられるもの以外を排除する。訪れるものの何もない、小さな世界のなかで育てられる官能は、甘美に意識をしびれさせ、指の先までを熱で満たす。
――きもちいい。
純粋にベレスがそう思ったとき、かくん、と身体を支えていた腰が砕けた。椅子の肘置きに突っ伏しそうになるベレスを支えたシルヴァンは、彼女のもはや甘い赤色を見せるだけの林檎と化した頬に何かを察したらしく、ぐにゃりとしたその身体を自分の胸に持ち上げた。
「……この後、どうします、せんせ」
そう囁くシルヴァンが、どんなどうを考えているのか。ベレスにはすぐ思い描けた。提案を口にした途端に一際跳ねた拍動を、重ねた頬が拾っていたから。
「部屋に行きたい?」
「ええまあ。あんた座ってるのも限界っぽいんで。続けるなら寝台を使ったほうが、あんたの負担は少ないはずです。ここにも長椅子はありますが……さすがにねえ」
「父の前ではと」
「そういうの言わないで貰えるとほんっと助かるんですけど。男はあんたが思ってるより繊細なんです」
「主語が大きい」
「いや、はい。すみません。なんかもうそういう空気じゃないのは分かりました」
シルヴァンは大きくため息を付いて、林檎の褪せぬベレスの頬に口づけた。
ベレスが目を細めて温もりを受けると、彼はそれで区切りがついたとでも言うように、普段と変わらぬ表情になる。
本当に毛並みがいいのだ。どこまで本当に納得しているのかはわからないけれど。
ベレスは内心嘆息しながら、戯言を叩くことでやっと動くようになってきた手を持ち上げて赤毛をわしわしと撫でてやる。
「食事にでも行こうか」
「……ああ。もし修道院内は嫌ってことなら、いまから下の街でとっときの宿を取るんで、そこで食事を摂ってからじっくり一晩」
「宿はなしだよ。何言ってるの」
ええ、とあからさまな不満が上がる。よほど睦み合いの続きがしたいのかとベレスがそれに眉を寄せると、彼はそりゃあそうだと頷いて、男の欲の在り方を説く。
曰く、あれだけ生殺しにされたら励むまできつい。
あまりにもあからさまな求めの言葉に、ベレスは半眼をより深く瞑目にまで近づけて、そうまで言うならと、一回部屋に戻るのを勧めた。
「あっはっは……手厳しいですねえ先生。いやまあ、たとえそういう話じゃなくてもさ、意中の相手には年中くっついていたくなるもんですよ」
じゃあ君がずっと抱きしめに来ていたのも同じなの。ベレスはそう訊きたくなったが、ここで肯定されても都合が悪い。
「いないから分からない」
「いるじゃないですか! 目の前に!」
「いない」
「そっぽ向いて言うのやめてくれません⁉」
「……でも君、私が君の捕食の方法に負けたら、次はもっと楽しめそうな遊び相手を探すだろう」
「はい?」
口の中だけで呟いた言葉は、幸いなことにシルヴァンには届いてないようだった。
強気なのがいい。戦っているのがいい。
彼はそう言ってベレスを好ましいと評したが、言ってみればそれは贔屓の剣闘士に向けるような眼差しだ。勝利し続ければ熱烈さを増す一方、一度でも折れたら興味を失う酷薄さも併せ持っていた。
だからこれはやっぱり勝負なのだと、ベレスは思いを新たにする。
ようやく真面目で通るようになった彼のためにも、自分の次の誰かの被害を防ぐためにも、できる限りこの関係を引き伸ばして、甘い誘惑には二度と乗らない。そしてそのまま卒業まで彼を導ければそれが最善。
ただ、一つだけ気にかかるのは。
「そうだね……もし君が嫌になったらやめてもいい」
「は? ええと、食事ですか? あんた飯食ってるときはかなりいい顔するんで、ザリガニのフルコースとかでもなきゃ歓迎ですが」
「違うよ。この後は君から終わりにしてもいいと言ったんだ」
一音ずつに重みを持たせて言うと、それだけで彼は言わんとする事を察したようだった。
「終わりに、したいんです?」
「いいや。……ただ今までは私だけが関係を終わりにする権利を持っていたけど、本来、恋人というのはそういうものではないだろう。どちらから止めてもいいし、続けてもいいはずだ」
懸念したのはそこだった。
引き伸ばしを選ぶ以上、これまでよりもベレスののらりくらりとした対応は増えていくことだろう。そうなれば、自分だけが終わりにする権利を持つのは不公平。嫌がるものを無理に縛り付けてもしょうがない。
「それに、こちらばかり苦渋の決断を迫られるるのもね。何度か追い詰められたこともあったし。あれは苦しい」
「……すみません」
いいよ。ベレスは首を横に振る。
「だからね、この先は嫌になったらいつでも終わりにしていいよ。私もそういうつもりで動くから。もしそのとき私が終わりたくなかったら一応それも言うけど、基本的には嫌と言われたらきれいに引くよ」
どこかで聞いた覚えのあるスタンスで言葉を締めれば、一瞬、シルヴァンの目が室内の暗がりに光った。
この女――と、好ましさの陰に追いやられていた憎らしさが見えるようだった。
これでいい。ベレスは椅子から立ち上がる。
長々と話したおかげで、砕けた腰もすっかり元の動きを取り戻していた。
「よし、じゃあ食事に行こうか。そういえば恋人らしいことをすべてやると言っていたわりに、それらしいことはまだ全然していなかった。どこか美味しいところがあるのなら、逢引代わりに行ってみようか」
「ええと……はい。それならですね。門前町の大通り入って三つ目の角にあんたが好きそうな料理屋が……ああ、でも今日は休みだったかな。だとほかは――」
「いいよ、わかった。なら今度にしよう」
別に自分は食堂でも構わないのだ。そう彼女が自分の教え子を見下ろすと、はああ、と椅子の肘置きに両手をかけて顔を伏せているシルヴァンは、何度目かのため息をついたあと、
「ねえせんせ……あんた猫はあんだけ可愛がるくせに、釣った魚には餌やらない感じでしたっけ」
ベレスは毛の跳ね散らかったつむじに答えを返す。
「釣った魚は食べるか、猫にあげるものだろう」
「飼うって発想がそもそもないわけだ……なるほどなあ、頭から尻尾まできれいに丸ごと、でしたっけ」
「そう、頭から尻尾の骨まで全部。まあ、私は美味しければなんでもいいけど」
「……全部さらけ出しちまったほうがいいです?」
見えないところで吐き出された言葉は低く、このときばかりは甘みよりも苦味の方が強かった。
ベレスは一度考えを整える。けれどどんな言葉も行動も、最後は受け取る側の問題でしかないと知ってしまったから。
「君の心に任せるよ」
と、肩をすくめて答えてやった。
それが、天馬の羽落ちる季節にあったできごと。
あくる週、新アドラステア皇帝エーデルガルトがセイロス教団との開戦を宣言。
大聖堂に迫り来る鉄の音に、勇猛にも生徒を率いていたひとりの教師は、戦いの混乱のうちに姿を消した。
薄氷の約束は果たされることなく、再び相まみえて決着を見るまでに、月日は五年の時を抱えて過ぎた。