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    amakasuS

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    むそばんくんと先生が最後に会ったときのお話。

    #シルレス
    sirles.

    終わるむそばんくんと始まるベレス  1

     『北壁』の様子が思わしくない。聞いた足は自然と北へと向いた。
     数十年ぶりの北部であった。長く南方に親しんだ肉体はまだ麦も刈られぬ晩秋の風にふるえ上がった。旅の相棒を務める軍馬でさえも旧ガラテア領に入る頃には音を上げて、領境の宿に銀を置いて預けざるを得ないほどだった。
     ゴーティエ領に入ったところで、気温はさほど変わらなかった。しかしじきに重い雲が行く手を阻み始めた。夕暮れに藍色を見せる山脈を覆う氷の扉。荷を抱えて踏み出すたびに肌を撫でていく粉の雪。その優しげな儚さは、その実、知らぬうちに体温を奪っていく凍み雪であり、半日もその中を進んでいれば、身体は芯まで冷え切っていた。
     ああ、寒いな。頬の産毛は吐く息を瞬く間に結晶化させるが、当の睫毛には頑なに生を主張する体温で溶けた雪が宿った。しかしじきにそれも凍った。どこまでも白い世界に、高く天馬が飛んでいく。
     天馬を借りればよかったか。わずかにそう思ったが、軍馬よりも貴重な天馬種を一介の傭兵に貸し出そうという者はそういない。ガラテアの天馬生産頭数は随一ではあるものの、先代が他国に嫁いでからは領主が力を失って、飢饉に手を差し伸べたという商会がその流通を牛耳っている。
     時代だな、と早馬としてのみ輸出を許されている白い翼を見上げたまま、黙して懐の温石にのみ意識を委ねて歩き続けた。二日か三日。それとも一週間も歩いただろうか。温石がその慈悲を完全に失ったあとも、手足はそれでも動き続けた。零下に曝された指は腐れて、しかし痛みごと意識を閉ざして歩いていれば、いつの間にか輝く肌がそこを覆った。女神なる異物に侵食された手足は一切の障害を物ともせずに、やがて両目が北の国境を見据える高台を捉えた。一粒の灯火。辺境伯の別邸である。
     ようやく着いた。ほっと息をつくと顔の周りを初めて暖かな湿気が漂った。
     とはいえ、見上げる屋敷に住まうシルヴァン・ジョゼ・ゴーティエには特段親しみがあるわけでもなかった。事実、記憶に残っている最後の姿は青年を過ぎたばかりの若々しさで、老衰を取り沙汰される現状とはかけ離れている。ではなぜ今ごろ顔を見に来る気になったのかと言えば、単純に、自分の肉体がまだ年齢相応だった頃の知り合いが、片手の指にも不足するようになってきたからという、ごく消極的な理由に過ぎない。特に、消息が知れる範囲では。
     ゆえにこの道程はただの見舞いではなく、言ってしまえば、一つの区切りと言うか、自らの墓に刻印を穿つ作業に属した。時と共に失われていく己の人間性を見送る儀式。
     露悪的な物言いのつもりはない。たまたま余命いくばくもないと聞いて終の挨拶に訪れる行い自体は感傷を含むと認むるところではあるものの、特に諍いもなく音信を途切れさせていた以上、シルヴァンからも、自分からも、互いに顔見知り以上の情がある訳もない。因業な話ではあるが、この旅はかつての記憶を懐かしみ語る機会を望むようなものではなくて、これを限りに己が宿痾に諦めをつけようするだけの行為であった。
     死に臨む相手を利用するだけの浅ましさ。その天罰でもあるまいが、気づけば、雪はいよいよ粉とは呼べなくなっていた。鉄のおろし金を当ててくるような霙に見上げる窓という窓は堅く木板で閉ざされていて、ところが、強い風雪に警備の目も届かなくなっているようで一箇所つっかい棒の外れた木戸を見つけた。中へと入れば闇に銀屑のしずくが散らばって、しとしとと床を濡らした。仕方なく、雪まみれの外套をそのあたりの柱の陰に押し込んで、暖炉の匂いのする部屋へと訪った。
     
     2
     
     屋敷の奥は暖かかった。冷え切った肉体はみるみる緩み、心神もそれに伴った。放縦なことに、会うのは寸刻ばかりでよいとしていた気構えは体温が上がるに連れて様変わりして、もし枕が上がらないでいるのなら、多少の談話も悪くないのではないかと考えるようになってきた。なにぶん、幾度も越年を繰り返すような、小競り合いを超脱する長期の戦に参じたのは例の帝国攻めが初めてのことだった。あれほど長く同じ将校たちと飯を食ったこともなかったし、そう思えば、刹那の訪問にたまゆらを重ねても後悔には当たるまい。牛飲馬食に過ぎさせて、随想のうちに食傷で息絶えさせることにでもならなければ。
     そうだな。そうしよう。自分の時間はまだまだあるのだ。
     が、そんな間の抜けた思惑は、質の良い薪の燃える甘い匂いに誘われて、屋敷の奥の重苦しい扉を開いたときに紙屑よりも軽く飛び去っていた。
    「よう。やけに早い女神様からのお遣いかとも思ったが、君だったか」
     暖炉の灯に照らされた、寝台との同化を拒む見事な鼻筋、頬、顎の輪郭、くすんだ髪色、ゆったりと低い声音。
    「ジェラルト?」
     時の川に滲んだ心像が一瞬重なった。だがそんなはずもない。疑えば視程は内から抜けて出る。暖炉の灯。壁一面の金唐革。薄金茶の乗る世界が冷静さを思い出す。大きな寝台に横たわる老境の男の髪は、見直せばたしかにゴーティエの赤をしている。
    「久しぶりだね。まさか起きてるとは」
     乾いた瞼。自重で垂れる皮膚に寄る皺の数の多さは想像もしていなかったが、くぼんだ目元やその他の一切に面影を見いだせずとも大仰な反応からの笑みで誰かは分かる。そこばかりは若い頃と遜色のない、耳当たりのいい豊かな喉でも。
    「昼は余計な客ばかりでね、寝たふりでやり過ごすのが上策なのさ。夜もまあこんな日もあるし。何かと都合がいい」
    「他にも来るの?」
    「ああ」
     寝台に埋もれる手元から、チン、と硬い金属音が寂しげに響く。
     意地の悪い質問をした。ディミトリは三十年も前に亡くなっている。フェリクスもその後を追うように。イングリットは南方に嫁いで、ガラテア家はその生家を失った。あのときファーガスの駐屯地に居た顔ぶれのほとんどは、いまや大地の下にいる。
    「シェズはどう? 時々ファーガスに戻っているとは聞いていたけど」
    「ふられちまったよ。あいつにここで待ってると言ったのは俺なんだが、陛下の代替わりからは姿を見せなくなっちまって」
     シルヴァンは言葉を切って、嘆息に消えかけた音を再び紡ぐ。
    「恋仲だったとかじゃない。帰る場所になれたらいいとは思っていたが」
    「違うもの?」
    「あいつのざっくばらんな物言いに救われていた面はあるが、俺は君も気にしてた。俺の持たない翼を持つ君たちが、俺の守る場所をいつか選んでくれないか、とさ」
     軽やかな言葉に眉根が寄った。シルヴァン・ジョゼ・ゴーティエ前辺境伯の放埒ぶりは有名だ。戦後娶った従姉妹筋の妻には数年で三行半を突きつけられて、その後は王都に呼ばれもしなければ悠々自適に自領にこもり、夜会を開いては訪れた女優に声をかけて出資すらもしていたという。
    「ここまでは歩いて来たんだけど、随分、復興が進んだね」
     シルヴァンの視線が上がる。
    「帝国と戦っている最中や、スレンとの紛争が続いている時とは違って、外で身を震わせている人はいなかった。町の灯は明るくて、どこの酒場でも君の悪口を聞かなかった。南の方で聞いていた君とは随分違う」
    「ついぞ役目も果たさなかった出来損ない、ってな話でもされていたかい?」
    「茶化さないでいいよ。君はここでずっと領地を守り、同時に育てていたんだね。ならさっきの言葉も軽薄とは意味合いが異なる。ええと……流れ者の自分たちが思わず腰を落ち着けたくなるくらい、故郷を好い場所にしたかった?」
     シルヴァンはじっとこちらを静かに眺めて、ため息のような空気を漏らした。
    「雪はどうにもならなかったが」
    「さすがだね」
    「どうかな。近頃は足も悪くて、何をやろうと喜んでくれるやつの顔もろくに見えない。独りだと張り合いが出ないなんてさ、子供みたいで馬鹿らしい」
     部屋の壁には幾つもの肖像画が掛けられていた。見覚えのある歳経た顔ぶれたちと、見覚えのある画家の署名。その中には女優として脂の乗り切った頃のドロテアの姿もあったし、いまやどこの図書館にも一冊は置かれているベルナデッタの冒険物語ですら肖像代わりにか額の内側に収められている。やはり人の噂などあてにならない。戦後帝国の裏切り者として謗られることもあった彼女たちは、身の安全が確立するまでどこかの家に寄食していたとは聞いていた。
    「そういやずうっと前に訪ねてきたときに、ガルグ=マクで教職に就いたとか言っていたよな。あのときは青天の霹靂なんて思ったもんだが……なるほど、意外と天職だったのかもな。たった一年で辞めちまったとは聞いたが」
     そういえば以前そんな話をしたろうか。帝国との戦に決着がつくかつかないかの折に父ジェラルトが突然伏せって傭兵を続けるどころの話ではなくなった。傭兵団の指揮は父から委ねられたが、病床の父を放ってはいけないと王国軍を離れることを決めたとき、大司教レアから直々に連絡があったのだ。かつての掛け違いを一度忘れて、ぜひガルグ=マクでの療養をと。
     それから一年。千年祭の年にジェラルトは亡くなった。翌年、働かざるもの食うべからずと手伝っていた教職を辞し、契約の終了を待たずに軍を離れたことを詫びようと、年明けの祝賀にかこつけて一度王都に赴いたのだ。
     そのときはたしか傭兵の手が足りないのなら再び雇って欲しいと言いに行こうとして。でも。
    「勿体なかったな。もしあのとき君みたいな教師がいたのなら、俺だって士官学校の中断にもう少し感じるところがあっただろうに」
    「どうかな……そのままでも言いたいことはあったと思うよ。少しばかり漏らしたろう、自分に」
     ディミトリへの祝賀挨拶が途切れるのを待つ間、手持ち無沙汰を察したシルヴァンが雑談にやってきた。王に危害を加えないかの警戒の意味もあったのだろう。耳聡くもジェラルトのお悔やみを伝えてきた後は、その日の訪問理由を訪ねてきた。以前の詫びと今後の話を。そう伝えるとそれからは納得したように学園生活の事情を聞いてきた。
     かつての士官学校と同じところ。違う箇所。密やかながらも催された舞踏会とそこに広がる微笑みと。祝賀の列が切れるのを忘れるほどにこちらから言葉を引き出したシルヴァンは「へえ」と何とも言えない相槌を打った後、「楽しかったかい」と、丁寧に踏み固めた雪を確かめるように続けた。
     ああ、その時だ。この足が北に向かなくなったのは。
     彼は改めて「学生が安心して学べる時代になったんだな。よかった」と状況を伝えたことへの感謝を明るい調子で伝えてきたが、直前に感じた居心地の悪さはそのままだった。彼が体験できなかった士官学校での生活を謳歌したことに後ろめたさを感じたのではない。お前と自分たちは違うのだと、くっきりと彼我の線を引かれた気がしたのだ。
    「もう居場所はないんだなと感じた」
    「いや待ってくれ。まさかそれだけで陛下に雇用の話もしなかったのか? あのひとあの後、わざわざ自分が辛いときに謝らせてしまったなんて相当気にして」
    「悪いことをしたね」
    「ああいやそこを恨むようなお人じゃないが……というか俺こそ、俺たちの事情とは何の関係もない君に甘えて、君を追い出すような真似をしちまって」
    「いいよ。いずれは離れなければならなかったろうしね」
     こんな身体だから、と、自らの姿を示してみせる。瑞々しい肌。変わらない身体。たった二、三年でも時の流れを堰き止めた肉体を不思議に思わない者はいないが、
    「君、ここに姿を見せてから一度も見目への疑問を挟まなかっただろう。気遣ってくれていたことくらいは分かる」
    「いや、君も紋章を……それもこの年月見目を停めるほど源流に近しいものを持っていたのかと思ったら何も言えなかった。この歳になってもな」
     声が揺らいで、泰然としていた視線が痛みを滲ませる。
    「昔君がそれと知っていたなら、何としてでも君を引き止めただろうな……戦力としてじゃなく、個人的に。相談相手として」
    「相談?」
    「ファーガスに外からの視点が欲しかった……いや、違うな。君の運命を聞いてみたかった。それで未来に不都合が予見されるなら、俺は君に、何であれ手を貸した」
     寝台に沈む姿が、急に影に包まれたように感じた。運命。紋章。なぜ彼がそんな話をしだしたのか分からなかったけれど、自分の辿ってきた道のりに、何らかの責任を感じたことは分かった。
     だが自分の運命の不都合は紋章とは関係なく、『女神』にこの身を変えられてしまったことであり、いずれ奪われることである。長命はまだ良いが、安定しない意識では碌な交流は行えない。士官学校にいたときだって生徒に夢遊の癖を指摘されていたほどで、彼と交友を持ったからと言ってその終わりが変えられるものではなかったろう。
     そう納得はしながらも、胸にはため息の塊が詰まった。でも、もしかしたら変えられるものもあっただろうか。あのとき王国軍に雇われていたのなら。変わっていたのは自分の運命ではなく。
    「……いや、放浪も悪くはなかったよ」
     首を横に振って続ける。
    「知っているかな。地図からはみ出るほどに南の国の――帝国よりもずっと南の海の夕焼けは、果てが薔薇色に染まるんだ。そこにはぎょっとするほどに虹色の、おもちゃみたいな魚が住んでいて、ただ焼くだけならアミッドゴビーみたいな味がするんだけど、塩漬卵をブルゼンに挟むと甘く、香りも落ち着いて……」
     遠い空。遠い海。遠い大陸。北の大地に根を張った一人の知人に――もう北の地しか見えなくなってしまったかつての名将が見たことのない景色を贈る。
     今更もしもの話はすべきではない。ファーガスはじきに沈むのだ。
     
     一度はフォドラを安んじた国の斜陽は、今や確定した未来であった。
     ディミトリ王の亡くなった後、地方で武力蜂起が頻発した。旧帝国領の独立機運の高まりは勿論、旧帝国領への融和策に不遇を感じていた旧神聖王国西部諸侯がそれに結託。武勇に優れた王も盾も既に亡く、議会制に移行しようとしていた国政は二手も三手も遅れを取った。
     辛くも反乱は押さえたが、不安を感じた民は蜂起に加担した領からの軍事能力の剥奪を求め、そうでもない領からも複数の人質を求めた。王府は信頼回復の道を探ったが、地方政治は緊張し、とある村での駐屯軍の行いが決定打となり独立運動が再び活性化。現ファーガス王であるディミトリの長男は父譲りの優しさで動乱の治世に鉈を揮えず、ブリギット女王ペトラは西方から長くそれを支えようとしていたが、先日、新たにパルミラ王となったクロードの第二子が――。
     シルヴァンが何もしなかった訳がない。王の後ろ盾となっていた彼が国政の場からふらりと消えると、昨日まで独立を唱えていた地方が手のひらを返した。それでも一度燃え広がった火は容易に消えず、徐々に地方を焦がしていった。
     シルヴァンは何も言わなかったが、数年前から戦線は北上している。ゴーティエ正規軍は最新鋭の軍備で街道を守るようになっていて、南からの避難民を留めている。故郷を守るのだと言っていた彼はもう北部を生かすことだけに専心している。
     よくやった。よくやってきたのだ。もうそれでいいだろう。ゴーティエ領の発展した街並み。薪の絶えぬ明るい室内。それもじきに失われていくのだろうが、歴史を選んだ者に対するもしもは高みから垂らす後出しの講釈だ。
     だが、翻して自分はどうか。あのとき拒絶されたような気持ちにしっぽを巻かず、なぜそう感じたのか向き合っていれば、自分はもっと積極的に関われたのではないだろうか。いつでも、いくらでも、その動向だけは遠い地にあっても常に耳にしたのに。
    「……楽しかったかい?」
     はっとして顔を上げれば、シルヴァンは孫娘を見る好々爺の笑みを浮かべていた。
    「悪くはなかった」
    「そいつは、やっぱり、悪かったと言うべきかな」
     また首を横に振る。
    「……君のおかげで、想像していた以上に長く楽しめていたよ」
     シルヴァンは妙な顔をした。
     
     別れを告げて部屋の外に出ると、満足か、と胸のうちから声が響いた。
     どうかな、とそれに返した。何しろここまで長く放浪するのは想定外のことで、そのせいで今日は小さな後悔を抱いた。あのとき――それとも別のあのときか――北の動きを聞き知って、けれどどうせもうじき終わるからと諦めていなければ、もうすこしこの胸の重みも軽かったろう。
    『仕方あるまい。あの小僧がここまで生き延びるなどわしも考えてもおらなんだ。割に合わぬ約束をしたものよ』
     ガルグ=マクの教職に就いてしばらくして、地下神殿の玉座に座った。以降数日記憶を失うようなことが続いて、『女神』と一度話し合いをした。自分は自分でいたい。どうにか譲歩してくれないかと。
     ――おぬしの言うておる自分とは何じゃ? 灰色の悪魔であった頃のお主と今とは全く同じか?
     考えても答えられなかった。だからせめてジェラルトを看取るまではと期間を区切った。
     『女神』は『馬鹿じゃの』と憐れむように呟いた。
     ――よい。生きてみよ。おぬしが親しい者と自らの心を共にするというのなら、おぬしの知人縁人が、すべていのうなるまで待ってくれるわ。
     教会関係者は除外するとの条件には首を傾げたが、じゃあそれでいい、と頷いた。
     知り合いは櫛の歯が削れるようにほろほろ消えた。自分を慕ってくれた士官学校の生徒たちも婚後行方が分からなくなったり音信が途絶えた。
     残る知り合いはシルヴァンと、地方領主に収まった生徒たちだけ。それだって皆同年代で、じきに死の息に触れるだろう。
     誰かが生きていてくれたからこそ旅を続けて来られた。だが、その誰かのためになぜ動こうとしなかったのだろう。
    「っ――」
     考え込み過ぎていたのだ。曲がり角を過ぎた瞬間、目の前にあった人の顔に飛び退いた。
     驚いたのは相手も同じだったようだ。目深にかぶった街灯の下、見開かれた両目がきらきらと僅かな明かりを反射している。
     若そうだな、そう思って不思議に思う。この廊下の先は前ゴーティエ辺境伯の部屋しかない。
    「シルヴァンへのお客人?」
     相手はわずかに顔を上げ、それから警戒するように姿勢を下げた。
    「彼に、危害を加えるの?」
     もし刺客であれば行き掛けの駄賃に切っていこうとしたのだ。けれど相手は何度か唇をなめた末に、違う、と片言の言葉で喋った。
     迷ったが部屋の前まで送り届けた。相手は武器を携帯していたけれど、殺気は確かに感じなかったから。
    「なんだベレス、戻ってきたのか?」
     扉の隙間に訪問者を押し込んだ。後ろから扉を閉めようとした隙間から、最後の声が耳に届いた。
    「――っはは。お前か。待たせやがって、死ぬとこだった」
     音を立てないように扉から離れて、隠していた外套を拾った。雪まみれだったそれは屋内の暖気にすっかりぐしゃぐしゃになっていて、被り直せば皮膚をしとどに濡らす。寒くはなかった。壊れているはずの心臓が激しく動いていたから。分かってしまった。彼が夜更けを待っていたのはいつ訪れるとも知れぬ浮草の自分たちのためでなくて、さっきの相手のためだったのだと。
     曲がり角でぶつかりそうになったとき、フォドラの言葉ではない音で彼は驚いた。屋内の光で垣間見えた外套は、いつか見た北の戦士の縫い取りがあった。
     ねえ、ソティス。
     胸の奥に沈ませていた運命の女王に今度は自ら語りかける。もうすこし。誰がいなくなってももうしばらくは、この身を明け渡すのを待ってくれないだろうか。いままさに進みつつある、盤面をひっくり返すような一発逆転を狙っているだろうその行く先を、彼の遺したものを見ていたい。
     『女神』は何を言うておるのかとひとしきり高慢な笑いを立ててから、
    『仕方あるまい。おぬしはたったいま、新たな顔見知りを得てしもうたのじゃからな』
     と、優しげな声で囁いた。
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