Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    amakasuS

    @amakasuS

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 7

    amakasuS

    ☆quiet follow

    しりたいふたり、するふたり - プロローグ&1日目 女性の口がへの字になって、その手が振り上げられるのをじっと見ていた。
     手のひら全体が肌にぴったり当たる音。短く発される捨て台詞。徐々に低く、かすかになっていく靴の音。ベレスがその全部を見届けたところで一連の騒動の渦中にいた彼はくるりと振り返り、「また見てたんです?」とこちらに言った。
    「見てたよ」
    「ですよねえ。気づいてましたよ」
     シルヴァンは薄く笑って、まるで汚れでも落とすみたいに張られたばかりの頬を拭く。彼はそれをくしゃりと握って、一瞬投げ込む場所を探すような仕草をしたが、結局乱雑にポケットに突っ込んでから「覗き趣味でも?」と胡乱な目を向けてきた。
    「違うよ。通り道に君がいただけだ」
    「それにしちゃ妙によく目撃されてる気がしますけど」
    「君の別れ話の頻度が高いからだよ。見ているのは私だけじゃなくて、他の人もおんなじだ」ベレスは思ったままを答えてから、もう一度思ったままを口にする。
    「……そう思うと、どうして君と交際したいと思う女性がいるのかな。何度も別れ話を見ていれば、君と付き合えば遠からずああなると警戒しそうなものなのに」
    「これが自分の運命だ……そう思い込んで何もかもをかなぐり捨てるのが恋愛の醍醐味ってもんじゃありません?」
     馴れ馴れしく覗き込んでくるシルヴァンは、もうさっきの修羅場を忘れたみたいに明るい笑みを見せている。
    「そもそも恋に落ちる要素がない」
     しょげてでもいれば可愛げがあるのだけど。胸の中で前置いてから言った答えに、彼は大げさに腕を広げた。
    「こんな色男を前にしてそれ言います?」
    「美味しそうなキノコには注意しろと父に言われている。特に赤くていかにも見目がいいのはよくないから、まず俺に見せろと」
     あっはっは、とシルヴァンは火炎茸そっくりの赤毛を振って長身を折る。笑い声が温室のガラスに何度も響く。
    「うっかり触ってやけどしたこともある。意外とそのへんのに生えていてね」
    「やめてくださいあんた俺を笑い殺すつもりです?」
     震える肩。目の高さにまで降りてきたそれは初対面のときに思ったより幾分も厚くて、震えていてなお重心はまっすぐ下に落ちている。それだけだって体幹の強さがわかるものだが、ベレスに向けてくる顔だって、目がふたつとも開いていて、肌はなめらかで死病を感じさせるところなく、歯並びだってきれいなものだ。
     ベレスとてわかっていた。彼の見目は本人の言う通り十二分に上等で、よく手入れされた口元でひとたびにっこりと愛嬌を振りまかれたなら、誰もが我がものにと望むほどのものだとは。
     しかし――とベレスは思う。思って、わざと思考を捻じ曲げていた。
     まるで祭り《ハレ》の大市で一番に輝く若駒のような。無意識に続けようとしていた言葉は、親しむべき生徒に向けていい評ではない。
    「あんたも冗談て言うんですねえ。それに案外おっちょこちょいだ。うっかり触らないでくださいよあんな派手なの」
    「……いや、それは」
    「いやあでも先生にもかわいいところがあるのが分かってよかったです。これで明日からの授業にも身が入るってもんで」
     ベレスはうつむいてつま先に視線を落とす。ひそやかな気遣いがばかみたいに思えるくらいに飛び交う放言にそっとため息を付いて、
    「じゃあ頑張って」
    「まってください先生。何か怒ってます?」
     べつに。いやいや。短い押し問答を繰り返した末に、存外素早い動きで立ちふさがったシルヴァンに業を煮やして、ベレスはくるりと彼に背を向ける。もともとは食堂に用があったのだ。彼に会ったのは偶然で、だから無理にこの壁を突破せずとも少し戻って別の道を行けばいいだけだ。
     そう思ったのに、
    「俺なんかしちゃいました?」
     まさか全力で走り出すわけにも行かず、結果的に早足で遠ざかろうとしたベレスの前に長い足ぬっと出た。
     邪魔さに眉をしかめようとして、ふと、ずいぶんと必死だとベレスは思った。ついさっき見た別れ話などでは、去りゆく恋人を止めもせずに見送っていたではないか。
     足を止めて、こちらの出方を伺っているシルヴァンを見る。
    「一応言っておくと、たとえ君が毒きのこだろうと士官学校の教師としては評価を下げるつもりはないから安心していい。ああ、いや、協調性の評価だけは下げざるを得ないけど……君は調整役に向いているのにいざこざを起こすのが玉に瑕だね」
    「なんでいま成績の話なんてしました?」
    「……じゃあ君はなんで追ってきているの」
    「そりゃあ」と口を開いて、シルヴァンは口元を片手で覆った。「いや、用は特にないんですが」
     なるほど。ベレスはうなずく。昔から別れ際に意味のない追尾を受けたことは何度かあって、シルヴァンの言い分はそんなときに言われる言葉とそっくりだった。彼女はそれ以上の興味を失って、遮るように片手を上げる。
    「じゃあ自分はこっちに用があるから」
    「あーはい……じゃなくてですねえ!」
     つられて片手を上げかけたシルヴァンはうっすら浮いた手をぶんと振って、ついでに首も横に振った。
    「あんたさっき急に機嫌悪くなったじゃないですか。俺一応これでも言動には気をつけてるつもりなんで、そういう態度取られると気になるんですよ」
    「気をつけてあれか」
    「そうですよ、ってか別れ話についてなら後腐れのないようわざとやってるんですよ。実際のところ俺ほど女の子に奉仕する野郎もいないと思いますよ? ……いや疑い深い目で見ないでくださいよ。本当ですから」
     言葉の滝に溺れてしまいそうだ。ベレスは水しぶきの侵入を防ぐように両目を細くしてシルヴァンの言い分を聞く。
     彼が言いたいのはこういうことだ。ベレスがいつも見ているのはシルヴァンの限られた一面であって、しかも未練を残さないようにと配慮した態度に過ぎない。いつもは違う。もっと思いやりがある。
    「でも君が女性を誘っているときの態度。あれも結構」
    「いやいやあれだって断った子が気まずくならないようにわざと軽くしてるんですよ。お付き合いしてる間はそりゃあもう大切に!」
    「どうかな。頭と尻尾は食べられないけど、お腹だけはすごく美味しいなんてのは魚くらいだよ」
    「なんでまた食事で例えました?」
    「どうにもこうにも君は食えない」
     ベレスはぴしゃりと言った。
    「個人的な見解を言うと、変に切り売りされるより丸ごと差し出されたほうがいい。魚だって丸揚げにすれば頭も尻尾も美味しく食べられるのに、相手がそうできないようにわざと見せるところを変えるのは誠実とは言えないよ」
     こんなところかなと、ベレスはいつの間にか色を変え始めていた空の雲と遠い夕日を眺める。地平線に近いあたりで横に広く揺蕩うトマトの海を見出すと、お腹がくうと鳴って、ぺたんこのお腹が更に凹んでいくようだ。
     色々聞いたけど結局与太話だったようだし、そろそろ話を打ち切ろう――そう思ってむき出しの腹にそっと手を置いたとき、めっきり言葉を発さなくなっていたシルヴァンが靴の裏で石畳をこすった。
    「……俺くらい誠実な男もありませんよ」
     ざらつく音にかすれたそれがどんな顔をして言われたものか。
     ベレスが視線を戻したときには、シルヴァンはやはりいつもの顔で笑っていた。
     冷たくなった内臓を温めるように臍周りのやわらかいあたりを手のひらで圧す。この生徒はいつでもこうなのだ。すこしでも内面に踏み込まれれば、お前にわかるかと言わんばかりに見えるか見えないかの一瞬だけ手の内をひらめかせてくる。
     問い返せばおそらく答えはあるだろう。ただしそれはゆで卵で言う殻と薄皮。たとえ殻が割れて見えようと、薄皮はぴったり中を覆い隠して――
     ベレスはうすっぺらい笑顔をひたりと見据える。考えるな。動揺を誘われたらまず静観すべきだ。どんなに盤外で揺さぶりをかけられようと、いずれは新たなカードが配られてくる。
     そしてそれはベレスの思ったとおりに。
    「ねえ先生。そんだけ言うなら一度試しちゃみませんか」
     そら、きた。
    「試すとは?」
     ベレスは慎重に耳を傾ける。
    「俺とのお付き合いを体験してみませんか、ってことです。要は交際の真似事ですね。いい加減あんたとこんな話するのも何度目かですし、そのくせ結論はいつも同じです。同じ情報を元にしていたらいつまで経っても状況が変わりませんので、こちらから新しい判断材料をお渡しできればと」
    「結論が同じなのは君が毎回似たような別れ話をしてるからだよ」
    「ええと、はい。そうなんですけど。それで普段の態度まで決めつけられるもどうかと思うんですよねえ」
     眇められた目は笑みを含まない。心の底から現状を疎んじているらしいとベレスは見て取って、一応もう一つ確認することにする。
    「知ったところで言う内容が変わる保証もないけど」
    「ええ。その時は俺の負けでいいです。名実とともにクズの不名誉を受け入れます」
     下馬評を把握した上での提案か。
     さて、どうしたものかとベレスは内心眉をしかめる。ついこちらの決定待ちまで話を聞いてしまったが、本質的には彼との男女関係など提案を聞いた時点で断るべき話だったのだ。
     ベレスは教師で、シルヴァンは彼女の教え子の一人だ。そして二人が所属しているのは士官学校。それは取りも直さず、有事の際には彼女を長として学級が一つの軍隊として機能することを意味している。
     傭兵として幾多の戦場を渡り歩いてきたベレスは、男女関係が軍隊にどのような影響を与えるかをよく知っていた。規律の乱れに隊内不和、間者による将官籠絡。ゆえに国によっては軍人として相応しくないアンプロフェッショナルと軍規で規制されていることも。それら軍務上の不都合をベレスは重々承知していたから、上官としてはたとえお試しだろうと頷く選択肢は元からない。
     うん、そうだ。ベレスはここまで聞いておいて悪いけどと言いながら、聡い彼が理解できるだけの材料を胸のうちから拾い集めてそれを手渡そうとした。すこし手間取ってしまったが問題ない。これで今までの話はシルヴァンという子からの不道徳な誘いではなく、士官学校での学びと指導の一環となる。
     ところが、教師としてのうまい落とし所を見つけたとばかりに得意げに提案を棄却しようとした唇はひとりでに動きを止めていた。いままでベレスは自分の思考にばかり意識を割いていたから、頬に注がれるまなざしに気づいていなかった。
     ベレスを見るシルヴァンの薄い色の瞳は、夕日に色を消されて透明に見えた。
     ちかちかとはじける火の粉のような熾火が一瞬見えた気がして、瞬くと、刻一刻と空に広がる宵の消火布がそれを消してしまった。
     今のはなんだろう。苛立ちにしてはもっと静かで。
     ベレスは言葉を途切れさせたまま今しがたの記憶をたどる。なるほど断る方が気まずくならないための気遣いというのも、誘う方には必要なのかもしれない。いまの印象が残ってしまえば、断るのにも勢いが要る――そう頭の隅で考え始めたとき、
    「ははあ、なるほどねえ。教師ともあろうお人が、せっかくの学びの機会を見過ごそうってことですか」
    「……なに?」
    「いやいや、俺達学生は学ぶのが仕事なんでそのつもりで過ごしてますが、教師がその調子じゃあこれから学ぶことも期待できるかどうか」
     ただの挑発だ。ベレスはそれと冷静に承知しながら、しかし長い前髪に影の作られた教え子の深い眼窩を睨みつけていた。べつに彼がどんなつもりでいるかはどうでもいいが、いまのは異例を押して彼女を抜擢したレアとセテスはもちろん、お前ならやれると背を押してくれた父からの信頼に砂をかける言葉だ。
     ――そんなのは、とても。
    「わかった。その申し出受けて立つ」
     気づけばベレスは言っていた。シルヴァンがにっこり笑って、「それじゃあ」といろいろな条件を提示したが、右から左に抜けていく。
     大丈夫だ、どんな扱いを受けようとどうせ何も起こらない。自分も彼もただ真相や結果を知りたいだけなのだから、変な情を通わせて軍務や学業に支障が出るわけもない。
     ベレスは腕組みをして、それでいつからとシルヴァンに問えば、彼はなぜか呆れた顔で、明日からでいいのではないかと肩を落とした。
    「じゃあ明日から普通に恋人っぽいことをしていきます、と……しっかし先生、そこは申し出を受けるでいいんじゃないですかね。なんですか申し出を受けて立つって」
    「だって、君、言ったじゃないか。こちらの言い分が変わらなければ自分の負けだと」
     つまるところは勝負じゃないの。言うと、シルヴァンは眉を持ち上げて、
    「そうですね――たぶん、そうです」
     嬉しそうに細められたその双眸は、終わりの夕日にぎらりと光った。
     

     恋人ごっこのルールは次のとおりだ。
     シルヴァンはせっせとベレスにいつもの彼のお付き合いを体験させて、ベレスがそれを採点していく。途中、彼女がやはりこれはいかがなものかと赤点をつけた時点で終了だ。
     ベレスはシルヴァンにしては随分と分の悪い勝負を持ちかけたものだと思っていたが――逆に言えば、ベレスに許されるかぎりは何をしようと許されるのだと、そんな穴に彼女が気づくのは、まだ数節先のことだった。



    ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
    -----------------------------------------------------------------------------------


       1.First day - Double Hands

     尖塔の鐘が四つ時を告げたとき、かっこうが木を打つように、せわしなく働き続けていた蠟石はようやくその任を解かれてそっと木箱に返された。
     ベレスは教室の座席の方に向き直る。
    「……もう消してしまうけど、それで構わない?」
    「いいですよ。もともと写す必要があるもんでもないですし」
     黒い石版に浮かび上がっている金釘文字は、一刻ほど前であれば戦略について硬質な理論を描いていたものだが、生徒の多くが離れてしんと静まった教室にあっては、全体的に統一感のない言葉の羅列――例えば今日の食堂の予想だったり、週末の演習に向けての資産運用だったり、足りない備品の忘備録だったり――とりとめもない、親を探す小鳥のような文字たちが遠慮がちに散るばかりとなっていた。
     今日は教室に居残りますから、なにか適当な言いつけを作ってください。
     そうシルヴァンが言ってきたのは今朝のことで、突然そんなことを言われても困ると唸ったベレスは、悩んだ末に、朝礼のときに「今日はシルヴァンの素行について話があるから、授業の後に教室を使うよ」とまるでそのままをみんなに伝えた。
     そのときのシルヴァンは教壇に立つベレスから見ても果てなく遠い目をして空を仰いでいたものだが、何も知らないイングリットなどはむしろ前のめりによろしくお願いしますと明るい目を青空が恥じらうほどに輝かせていたし、級長であるディミトリもまた、任せてくれ先生と言わんばかりに彼女に視線を合わせてうなずいて、その力強い面持ちに違わず授業が終わればさっさと級友を撤収を徹底させていた。
     まったく思わぬ協力に、「だいぶ信用がないんじゃないか君」とベレスが他に誰もいなくなった教室で呟けば、彼は「あんたは随分信用されてるようで」と頬杖を突く。
     それから彼は「どうぞ」とベレスに自分の隣を勧めた。そのときにはもう不機嫌のかけらも見えなかったから、さっきのは戯れに態度を作ってみただけのようだった。
     ベレスは指し示された席を見やった。怒っていないのなら断る理由もないのだけど、どうにも気乗りがしなかった。空っぽのそこは普段は七割程度の確率で誰かが埋めていて、それはベレスが見る限りでは幼馴染のフェリクスだったり、イングリットであったりすることが多いのだが、時折、遠くに見るこんな放課後の時間であればベレスには家名しか認識できていない女生徒であることがほとんどだ。
     ベレスのまつげが二度はばたいた。
     付き合ってほしいという申し出は承知したのだ。だからそこに強い嫌悪感はない。しかしいざこうして向き合ってみると食堂でもないのに一席も空けずに彼の隣に座っている自分をうまく想像できなくて、彼女は一度は教壇から降ろした足を、まだ強い逆光を投げ込んでくる真鍮づくりの窓まで向けて、そのうえ外を見るふりまでもして、「誰か様子見してるかも」なんて、適当な理由を作って教壇に戻った。
     そうして蠟石を握ったベレスの心の動きを、たぶんシルヴァンは知っていたのだろう。
     彼は初めこそ無機質な黒板に描かれていく偽装の文字列に「そんな暇な連中もいませんて」と苦笑していたが、「でもまあ、あいつらならそういうのもあるかも知れませんね」と、中庭の喧騒が徐々に遠ざかっていくなかで、ベレスがぽつぽつと学級の資金運営問題について話すのをじっと聞いていた。学生席の最前列から動かないまま、「それはですね」とか「俺の考えとしましては」とかいちいち辛抱強く答えを返して。
     無意味とも言えるやりとりを投げては返す間に、ベレスは何がいま彼をそうさせているのか考えざるを得なくなっていた。彼は教室で授業を受けるよりもにぎやかなところにいるのが好きなのだろうと思っていたし、実際、遠く華やかな笑い声が聞こえてきたときなどに時折見せる、うっすらまぶたを下ろす仕草や、耳に集中する気配はその根拠となり得るものだ。
     だのに。
    「君はこんなので楽しいの?」
     蝋石の箱を閉じたベレスは一息ついてそう言った。
    「あんたがいつにない行動を取ってるのを見てるのは案外悪くないです」
    「趣味が悪い」
     誰のせいで無駄な時間を使ったと思っているのか。教壇を右に左に、すべての授業道具を片付け終えたベレスはやっと一段高いそこから降りて、シルヴァンの手が乗る長机に片方の腰をもたれさせる。それから腹立ちを抑え込むように腕組みをして、いや、と自分の考えを見つめ直す。今のは適切ではない。彼は初めから彼女を自分のところへと呼んでいて、それに応えなかったのはベレスの方だった。
    「慣れてないんだ。ごめんね」
     半ば背を向けたまま色のない声でぽつりと言う。妖精の羽のような窓から差す光がもう煙ほどにしか残っていないことには気づいてた。もうじき入浴の割当がはじまる。時間を取らせてしまったことに謝罪をすると、シルヴァンは、
    「たぶんこのまま逃げ切られるんだろうなあと思ってました」と、思ってもみなかったことを言ってきた。
    「逃げるつもりはなかったよ」
    「そうなんです? 俺はそれでもしょうがないだろうなと思ってましたけど。もともとあんたは乗り気じゃなかったのに、それを挑発して頷かせてみただけです。そしてあんたには嫌になったら終わりにする権利がある。そういう約束です。今日一日がこのまま終わって何もなければ、あとは誘わないつもりでしたよ」
    「でもまだ私は君の行動がどうだとか、そんなところまで見られていない。嫌とかそれ以前の問題だ」
    「それ以前の問題で見限られるなら、それまでです」
     ベレスは首を横に向けて振り向いた。それは誰に、あるいは何に対する最後通牒なのか。自身か、ベレスか。どちらの可能性もあるように思えたが、ベレスの方を見ていない遠い視線からするとそのどちらでもないようにも思えた。
     何を試すのか。見限るのか。わからない。難しい。それでも珍しくずっと静かな彼の語り口から、少なくとも彼がこの件については何らかの意味や意義を感じているのだろうことだけは、なんとなく理解した。
    「確認したいのだけど、君は私と何がしたいの?」
     単なる意地とか、ただの恋愛ごっこではないでしょう。そう横目で問いかければ、彼はいつものように笑って、
    「適当な話を作ってでも美人とお近づきになりたいだけですが? 無味乾燥な士官学校が終わった後に美人教師と秘密のお付き合い。いやあ正直たまりません」
    「そういうのは減点だ」
    「ええ、いやいやいや待ってくださいよ。やり直します、やり直しますから、いきなりの赤点だけはどうか……って何手帳に書きに行ってるんです『減点いち』ってそれ記録に残すんです⁉ まさか明日も累積します? 減点いくつで退場ですかっ⁉」
     どの口で言うのか。さっきまでは即時終了でも構わないと言っていたくせに。教卓のペン立てに羽ペンを戻したベレスは手帳をぱたんと閉じて、
    「それならちゃんとするんだね。今のは君の言っていた『そりゃあもう大切に』するひとに向けるもの?」
     諭すようにそう言えば、勢い席から立ち上がっていたシルヴァンの喉がごくりと動いた。彼は教卓に背を向ける、夜の始まりを予感させるミルクを薄く溶かしたような光のなかに佇むベレスに目を向けて、
    「いや、ほんとのところ……この手の話でまさかあんたに気圧されるなんて思ってもみなかったんですが」
    「腐っても虹魚メガミノツカイだよ。まあ男所帯に女傭兵というか、こういうやり合いだけなら必要もあってね」
    「だからなんでいちいち食事の話で喩えるんです……あー、いや、まあ……そうですね。あんた風に言うなら……俺としちゃあ、今すぐにでもうちの家令がとっておきの磨き粉で仕上げた銀食器でも渡したいとこです」
     机を離れたシルヴァンの靴音が石床に響く。
    「銀は毒を見破るから?」
    「いまのあんたがえらくいい顔で笑ってるからですよ」
     ベレスは目を丸くした。その間に、シルヴァンはいつもベレスがだらしないなと思っていた開けた制服の隠しから柔らかそうな布に包まれた何かを取り出した。
     どうぞ、と手渡されて開いた布の内側には薄い板。それは楕円の真鍮台に取り付けられた、ぴかぴかに磨かれたまっ平らな銀だった。
     似たようなものは見たことがある。戻ってこない傭兵仲間を引き取りに行ったときの娼館であるとか、護衛で訪れたことのある名のある調度品屋であるとか。でもベレスの記憶にあるそれらはどれもこれもぼってりとしていて、ずっしりと重く、大きくて。薄く軽やかな目の前のこれに最も近いとベレスが思ったのは、いつかの戦場で垣間見た、部隊をいくつも率いるような将官の隣でその副官が掲げていた、遠くの部隊に光の合図を送るための道具だ。
    「わ」
     物珍しさに銀の板を傾けたベレスはまばゆさに目を閉じた。
     もう太陽は力を失いかけているのに、それでも銀盤が反射した輝きは十分にベレスの目を眩ませるほどの力を持っている。その事実に驚いて、彼女は目を瞬かせながら反射的にすくめていた肩首を恐る恐る弛めていく。と、
    「大丈夫ですよ、ほら」
     シルヴァンの手がそれを支える。
     銀盤はたちまち両手を添えるだったベレスの手の中で安定し、そのなかに、触れられるほどにくっきりと、淡くけむる花色の瞳を瑞々しく映し出した。
     誰だ、とは言うまい。
     鏡なんて今までにも見たことはあるし、銅製のそれならガルグ=マクの大広間にも堂々と飾られてもいる。だからベレスは自分がおよそどんな顔立ちをしているのかは知っていたし――でも。
     こんなに表情がないとは思わなかったな。
     いつも朝早くに冷たい井戸で洗っている顔は幸い汚れたところはない。邪魔になるたびにナイフで削いでいる髪もそこまでおかしなところはなさそうだ。薄く紅色の差す頬も健康的に見えて何より。だけどその先は。今までに使ったことのある質の良くない鏡では手の中の銀盤のようにまつ毛一本までも見ることはできなくて。ごまかすことが叶わないほどにじっとベレスを睨み返してくる女の顔は。
    「ジェラルトが心配するはずだね」
     自分に向けられる柔和な父の顔を思い出して、なんだか胸が苦しくなったベレスはおそらくとても高価なのだろうそれに覆いを掛けようとした。シルヴァンが何を思ってこれを渡してきたのかは不明だが、たぶん自分は期待に応えられない。
    「いい顔なんて嘘はよくない」
    「は? いやいや待ってくださいよ。そりゃあ今はまた愛想ない感じですけど、あんだけ鏡の反射に警戒心丸出しで、じっくり矯めつ眇めつ見てりゃそうもなりますって。俺が見たときにはちゃんと笑ってましたよ。……それはもう腹が立つくらいに楽しそうに、こっちが度肝をぬかれたくらいに魅力的に……ってえ、だから手帳出そうとしないでくださいよ!」
    「軽口だ」
    「だから違いますって、そりゃあもう是非あんたにも見せてやりたいって思うくらいにですね……あー……はははー、いやあそれ返してくれるのは全然いいんですけど肋骨に押し込まないでくださいよー……って無理無理むりですそこ板状のものを差し込む隙間とかありませんから! ああくそ、はいわかりましたもう言いませんって!」
     きっちりと包み直した鏡を握るベレスの手。品は握りつぶさないようにしながらも女性としては類稀な剛力で押し込まれる、その力が緩んだところで、
    「あれは俺だけのものにしますから」
     とシルヴァンはにやりと笑った。
     ベレスは「え?」とだけつぶやいた。
    「知りません? 男には自分の恋人の可愛いところはずうっと自分のなかで咀嚼して味わっていいって規範ルールがあるんです。別にあんたがそんな事実はなかったって言うのは構いませんが、俺の方はしっかり覚えてますから」
    「そん――え? そ、そうなの? いやそんなはず。いや、いやいい。いい。なんでもいい。わすれていい」
     ひゅっと息が鳴ったあと、ぞわりと泡立つ肌に入れるべき力がいっそう抜ける。だめだ。実際の自分の顔がどんな表情をしていたのかはさておいても、謎の理論を強弁する彼の気魄からすると何かとてもろくでもないことになる気がしていた。
    「無理ですね。この記憶は一度付き合い始めたら別れるまで有効です。もちろんあんたが嫌だ、ここまでだってならそこまでですが」
    「そんな脅迫――」
    「忘れてません? 決定権やら立場はあんたのほうがずうっと強いですからね?」
    「う、うん。……え?」
    「もちろん別れたあとに引きずるようなことはしません。何かを言いふらすこともです。好いてもいない相手から延々想われても迷惑なだけですし、まして交際中の話をネタにあることないこと言われるなんてのも冗談じゃない。そんな外道にはなりたかないです」
    「うん、それはいい。評価できる。けど……?」
    「付き合ってる間なら心は自由と主張します」
    「いやまっ……まって。なんなの。きみは私に何をさせたいの」
     ベレスが今度受けたのは揺さぶりどころの話ではなかった。頭の隙間に手を突っ込まれて揺らされているような、ひどい混乱に投げ込まれている。それはわかる。わかるのだ。だのにベレスの頭は一向にいつもの冷静さを取り戻さない。
     違う。だめだ。混乱するな。べつに大したことを言われているわけでもないのに、何が――どうして。
     ぱちぱちと目を瞬かせて、ベレスは肩で息を繰り返す。
    「……ジェラルト殿がどう心配するんです?」
     低く耳に忍び込んできた声は、逆立つ神経の海にとぽんと落ちた。落っこちたまま底の底まで沈んでいきそうなそれをベレスの意識は追いかけて、ひと掻きするごとに言葉の泡がこぽりと漏れる。いや、漏れ出しそうになった寸前に。
     親切そうに覗き込んでくる優しげな造りの瞳の奥に、つめたく光るうろを見つけた。
     ああ。どうやら私は試されている。
    「――大丈夫だよ。すこし混乱しただけだから」
    「本当ですか? 無理はしないでくださいよ。ほらあ俺一応あんたのお付き合い相手ってことになっていますし、辛いことがあったら頼ってもらっていいですからね」
     ベレスが自分の両足で身体を支えてみせると、シルヴァンは惜しむでもなくその両手をベレスから離した。そうされた途端、蟻地獄の上に立っているような気がした。
    「君……やっぱり私との――というか、『美人にお近づき』なんてどうでもいいだろう」
    「どうしてそう思います?」
    「いま、手を繋ぐのがどうでもよさそうだった。恋人らしい行動をするというのなら、ふつうまず真っ先にそこが挙がるだろう。もったいない」
    「いやそんなあんた年齢一桁のガキじゃあるまいし……」
    「それにね」
     シルヴァンの言葉を無視して、ベレスは彼の周りをぐるりと回る。
    「さっきから君は私にこんな茶番はやめろやめろと叫んでる。そのくせもっとと引き込んでくる。言葉ではなく態度の方でね。私は聞こえのいい言葉よりも態度を信じろと言われてきたから、態度との齟齬はどうにも気になる」
    「そりゃあいい。貴族の中でも通じそうですね」
    「……悪意はある。でもだからといって、そればかりでもない――……」
     シルヴァン。
     まともに名前を呼んで見据えれば、彼は燃える赤毛を掻いてベレスに向き合う。
    「君……かなりお節介だろう」
    「はい?」
     気の強そうな、神妙な真顔を作っていた眉が歪んだ。
    「だってそうだろう。君は私の何かを試してみたかったんだろうけど、そのわりに詰めが甘いと言うか、すこし弱いところを見たら動転しただろう。それで君の目的からすると多分意味がないのに、関係が終わってもいいくらいのことまで言って助け舟を出そうとして」
    「あー知りませんー俺はなんにも知りませんー!」
    「かと言って今度は思い出したみたいに猫なで声で何か企んで。いい、君は意外と情に篤いようだから、もうすこし主体性を持って目標に取り組まないと」
    「駄目出し⁉ 駄目出しですかこれ、しかも士官学校の方じゃないです? いま累計何点になってます⁉」
     シルヴァンは髪の色が移ったような赤い顔をして頭を抱える。そんな彼の横を通過したベレスは、懐から手帳を取り出してもう一度教卓からペンを取り上げた。
     減点一点。
     早くも燦然と輝いていたそれをベレスは――ぐしゃぐしゃ消した。
    「やめだ」
    「は……ああ、まあ。ですよねえ……まあ案の定ってとこですが」
    「うん。やっぱり私は細かい話はどうでもいいから、君の丸ごとを見せてほしい。全部見せてもらったあとに、煮て焼いて揚げて食べられるか考えてみたい」
     だから下手な隠し立てはしないようにと鼻先に指を向けると、まるでそれが合図になったみたいにシルヴァンの顎がすとんと落ちた。
    「……続けようっていうんです?」
    「そもそも始まってもないだろう。やっとルールが決まったところだ」
     何を早合点しているのか。とうに心を決めたベレスは崩れた男前の顔を横目に、用なしになった手帳を再び懐に突っ込む。
    「君はどうも不安定なようだけど、それでいい。私の方もどうやら問題を抱えているようだし、精神面で偉そうなことを言える立場でもない。だから君のそのまま、ずるいところも小賢しさもまとめて見るよ」
     もちろん教師としてはいいところが沢山見られた方がいいのだが、悪いところを見たり何かを企まれたりしたところで、切り抜けられないようなベレスでもないのだ。
     君の方はそれでいい、とベレスがシルヴァンに視線を向けると、
    「ベレスさん」
     耳慣れない呼びかけとともに、目の前に現れたのはひらめく花色。
     シルヴァン、とベレスはもう一度その名を呼んで、呼びかけてきた彼を見上げる。
     銀盤の中央に映り込む女の顔はふいの呼びかけにあいにく疑問を呈していたものの、目の前にさっと出された、その一瞬だけはたしかに薄赤い唇が月の形をしていた。
    「間に合いました……かね?」
     とっさに鏡を差し出したらしいシルヴァンは、おっかなびっくりベレスを上から覗き込んでくる。それに瞬きを返したベレスは、思いの外がっしりとした顎の裏を眺め上げたまま、
    「ベレスさんってなに?」
    「今それ言いますか⁉」
    「いや今日はよくあんたと言われているなとは思っていたんだけど、さすがにこういう関係になるとなると、君も先生と呼ぶのは気が咎めるんだろうなと」
    「いや別にそういうのありませんし、今のだって練習とかしてませんからね⁉」
    「したの」
    「してませんて!」
     語るに落ちているような気もするが、いいですもう全部先生で行きます先生で、とぼやいている様子を見ると、たぶん明日以降はいつもどおりの呼び方になっていることだろう。
     それじゃあ、あの音は自分が覚えていよう。
     そう思ったとき、ベレスの腹にシルヴァンの強弁がすとんと落ちた。そうか、もったいないからこんなふうに覚えておくんだ。
    「ありがとう。とても貴重なものを見た」
     高価な品をシルヴァンの手の中に押して戻す。ところが彼はそれを引っ込める様子もなくて、ベレスがどうしたのだろうと不思議に思っていると、はあ、と短くも深い嘆息が落ちた。
     改めて彼に焦点をあわせると、彼はとても妙な顔をしてこちらを見ていた。何かに耐えるように口を一文字に結んで、いつも余裕を漂わせている目元を眇めて。
    「あげますよ。さっきのあんたはまだそんなもんじゃなかったんで、それで終わりだと思うのはもったいないです。俺がちゃんと合図しますからそれ見てください」
    「君の合図で鏡を見ればいい?」
    「ええ。あんたがもし持っててもいいってならですけど」
    「……演習にも持って行ってもいいかな」
    「は?」
     ベレスがぴかぴかの鏡の用途を説明すると、シルヴァンは半笑いになってまあいいんじゃないですかねと理解を示した。
     それじゃあ決まりだ。ベレスが両手を伸ばして見せると、その手の中に真鍮の楕円と銀とでできた小さな鏡が渡される。本当は驚くくらいに冷たいくせに、互いの体温で優しい肌触りになっているそれを布で包み直して、
    「そういえば、今日は結局恋人らしいことをしなかったように思うのだけど」
     外套の隠しにそれを収めきったとき、いまさら会合の目的を思い出したベレスは首を傾げた。そんな彼女をじっと眺めていたシルヴァンは肩をすくめて、
    「いいんじゃないですか。贈り物もしましたし、手も繋ぎましたし。一応恋人っぽいですよ」
    「判断基準はそれでいいの」
    「言葉よりも行動ってあんたが言ったんですよ」
     じゃあもう行くとしますか。
     シルヴァンの言葉にベレスが首をひねると、ちょうどいつの間にか赤から黒に変わりかけている外に夕暮れの聖句チャントが流れた。
     夕食の時間だ。途端に目を輝かせたベレスにシルヴァンは「せっかくなんでもう少しだけ続けますか」と折り曲げた肘を差し出すと、ベレスは分かったと頷いて、彼の腕の輪に自分の手をかけるでもなく、握り込まれたその手を取って駆け出した。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    👏👏👏☺☺👏👏👏👏😍☺👏🙏☺❤❤❤❤👏👏👏❤❤
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works